ドスン!!
伊都の部屋に鈍い音が響いた。伊都がベッドから落ちた音であった。自分の身に起きたことがわかるまで、数秒はかかったのだが。
「いって………」
まさかこの歳でベッドから落ちるとは。腰のあたりに鈍い痛みが走る。
「……おはよう」
フーカの声が聞こえた。首を動かすと、勉強机の前に座っていたフーカが、呆れた顔で伊都を見ていた。
「……早くね?」
「あなたが遅いんでしょ。もう九時よ」
「いや、そうじゃなくて、お前が俺より早く起きてることが珍しいなってさ」
伊都は「よいしょ」と起き上がった。
「まあ、そうかもね」
素っ気ない返事をして、フーカは椅子から立ち上がり、部屋から出ていった。
「どこ行くんだよ」
ドア越しに聞くと、
「お手洗い」
面倒くさそうな声が返ってきた。
伊都はふと、壁に貼ってあるカレンダーを見た。今日は日曜日だ。
気がつけば夏休みはあと五日しかなかった。色々とあり過ぎて、ただでさえ短い夏休みが更に短く感じる。
学校が始まれば、フーカはこの家に一人でいることが多くなる。それはあまりにも不安だ。いつ闇研究者たちが襲ってくるか分からない。夏休みが終わるまでに、なんとかしなければ。
伊都がそう考えていた時、玄関のチャイムが鳴った。「はーい」と下の階にいる母の声が聞こえた。
同時に、フーカが部屋に戻ってきた。顔が真っ青で、酷く慌てている様子だった。
「どうしたんだよ」
「……研究者が……キノシタが、来た」
「木下……って、施設を建てたっていう……?」
「そう」
「何で家に?」
「私の存在に……気がついたのかもしれない」
「え!? 早すぎねぇか?」
「信じたくないけど、そうとしか考えられない。こんな……ピンポイントでやって来るなんて」
数人で階段を登ってくる音が聞こえた。伊都はあわてて、フーカをクローゼットに押し込んだ。
「ちょっと、え!?」
「いいからここにいろ。声出すなよ」
「でも!」
「大丈夫だ。なんとかなる。絶対、出てくんなよ」
不安げなフーカにそっと微笑み、伊都はクローゼットのドアを閉めた。ちょうどそのタイミングで、部屋のドアが開く。白衣を着た数人の男たちが入ってきた。その後ろで、母が必死に、
「だから、何なんですか、あなたたちは! 突然来たと思ったら、勝手に上がり込んで……」
と言っていたが、そんなことはお構い無しに、彼等はずかずかと部屋に入ってきた。
一人の男と目が合う。
「君が霧野くんか」
その端正な顔立ちで、伊都はピンと来た。そうだ、一昨日の講演会で話していたのは彼だ。名前は分からないが、名字は確か木下だったはずだ。
優しそうな彼が、あの施設を作った闇研究者であるなど信じられないが、人間見かけによらない。
「……木下、さん」
「お、僕を知っているんだね」
「………」
「もしかして、講演会に来てくれたのかな? なら話は早い」
当たりである。彼はやはり、木下 渡(わたる)であった。
「ここに、立花久美子がいるという情報があってね、ぜひとも引き渡して欲しいんだ。彼女は不老者で、とっても病弱だから、普通の環境じゃ生きていけない」
その言葉に、伊都は腸が煮えくり返りそうだった。違う。そんな理由で彼女を欲しているのでは無い。伊都はもう分かっていた。だってフーカは、立花久美子という人物は、デパートや遊園地に行っては、伊都のことなどお構い無しに、時には伊都を連れ回すような、底なしの体力を持つ「普通」の元気な女の子なのだから。
「……ここに、その立花久美子さんはいません」
お前らなんかに、渡すもんか。そんな意味を込めて放った言葉だった。
木下はため息をついて、ポケットから細長い紙を出して、伊都に渡した。
「……なんだ、これ」
「これはね、小切手だよ。彼女を渡してくれるなら、ここに書いてある金額を支払うことを約束する」
小切手には、一千万という数字が書かれていた。
「………」
伊都は、小切手を破った。怪訝そうな顔をした木下は、何を思ったのか、後ろにいる母にもう一枚、小切手を渡した。
「お母さんに渡すべきでしたね。では、どうぞ」
母は、しばらく小切手を眺め、唇をかみしめ、ビリビリに裂いてそばにあったゴミ箱に捨てた。
「………これでもダメか」
木下は大きなため息をついた。そして、伊都の方を向き、貼り付けたような笑顔を見せた。
「こんなことで諦めないよ。僕たちはどんな手を使ってでも、彼女を手に入れる」
「おじゃましました」と言い、彼等は部屋から出ていった。階段を降り、玄関が閉まる音がする。
「……出てきていいぞ」
伊都がそう言うと、クローゼットがそっと開き、フーカが出てくる。
「やっぱりあの人たち、普通じゃないわ。こんな強引なやり方……」
母が怒りに震えながら、下を向く。
「………ごめんなさい、私のせいで」
「フーカちゃんは、何も悪くないわ。私たちはあなたを守るって決めたんだもの。これくらいのこと、どうってことないわ」
「でも……」
「大丈夫。心配しないで」
母はフーカの頭を撫でた。だが、彼女の顔は晴れなかった。
伊都の部屋に鈍い音が響いた。伊都がベッドから落ちた音であった。自分の身に起きたことがわかるまで、数秒はかかったのだが。
「いって………」
まさかこの歳でベッドから落ちるとは。腰のあたりに鈍い痛みが走る。
「……おはよう」
フーカの声が聞こえた。首を動かすと、勉強机の前に座っていたフーカが、呆れた顔で伊都を見ていた。
「……早くね?」
「あなたが遅いんでしょ。もう九時よ」
「いや、そうじゃなくて、お前が俺より早く起きてることが珍しいなってさ」
伊都は「よいしょ」と起き上がった。
「まあ、そうかもね」
素っ気ない返事をして、フーカは椅子から立ち上がり、部屋から出ていった。
「どこ行くんだよ」
ドア越しに聞くと、
「お手洗い」
面倒くさそうな声が返ってきた。
伊都はふと、壁に貼ってあるカレンダーを見た。今日は日曜日だ。
気がつけば夏休みはあと五日しかなかった。色々とあり過ぎて、ただでさえ短い夏休みが更に短く感じる。
学校が始まれば、フーカはこの家に一人でいることが多くなる。それはあまりにも不安だ。いつ闇研究者たちが襲ってくるか分からない。夏休みが終わるまでに、なんとかしなければ。
伊都がそう考えていた時、玄関のチャイムが鳴った。「はーい」と下の階にいる母の声が聞こえた。
同時に、フーカが部屋に戻ってきた。顔が真っ青で、酷く慌てている様子だった。
「どうしたんだよ」
「……研究者が……キノシタが、来た」
「木下……って、施設を建てたっていう……?」
「そう」
「何で家に?」
「私の存在に……気がついたのかもしれない」
「え!? 早すぎねぇか?」
「信じたくないけど、そうとしか考えられない。こんな……ピンポイントでやって来るなんて」
数人で階段を登ってくる音が聞こえた。伊都はあわてて、フーカをクローゼットに押し込んだ。
「ちょっと、え!?」
「いいからここにいろ。声出すなよ」
「でも!」
「大丈夫だ。なんとかなる。絶対、出てくんなよ」
不安げなフーカにそっと微笑み、伊都はクローゼットのドアを閉めた。ちょうどそのタイミングで、部屋のドアが開く。白衣を着た数人の男たちが入ってきた。その後ろで、母が必死に、
「だから、何なんですか、あなたたちは! 突然来たと思ったら、勝手に上がり込んで……」
と言っていたが、そんなことはお構い無しに、彼等はずかずかと部屋に入ってきた。
一人の男と目が合う。
「君が霧野くんか」
その端正な顔立ちで、伊都はピンと来た。そうだ、一昨日の講演会で話していたのは彼だ。名前は分からないが、名字は確か木下だったはずだ。
優しそうな彼が、あの施設を作った闇研究者であるなど信じられないが、人間見かけによらない。
「……木下、さん」
「お、僕を知っているんだね」
「………」
「もしかして、講演会に来てくれたのかな? なら話は早い」
当たりである。彼はやはり、木下 渡(わたる)であった。
「ここに、立花久美子がいるという情報があってね、ぜひとも引き渡して欲しいんだ。彼女は不老者で、とっても病弱だから、普通の環境じゃ生きていけない」
その言葉に、伊都は腸が煮えくり返りそうだった。違う。そんな理由で彼女を欲しているのでは無い。伊都はもう分かっていた。だってフーカは、立花久美子という人物は、デパートや遊園地に行っては、伊都のことなどお構い無しに、時には伊都を連れ回すような、底なしの体力を持つ「普通」の元気な女の子なのだから。
「……ここに、その立花久美子さんはいません」
お前らなんかに、渡すもんか。そんな意味を込めて放った言葉だった。
木下はため息をついて、ポケットから細長い紙を出して、伊都に渡した。
「……なんだ、これ」
「これはね、小切手だよ。彼女を渡してくれるなら、ここに書いてある金額を支払うことを約束する」
小切手には、一千万という数字が書かれていた。
「………」
伊都は、小切手を破った。怪訝そうな顔をした木下は、何を思ったのか、後ろにいる母にもう一枚、小切手を渡した。
「お母さんに渡すべきでしたね。では、どうぞ」
母は、しばらく小切手を眺め、唇をかみしめ、ビリビリに裂いてそばにあったゴミ箱に捨てた。
「………これでもダメか」
木下は大きなため息をついた。そして、伊都の方を向き、貼り付けたような笑顔を見せた。
「こんなことで諦めないよ。僕たちはどんな手を使ってでも、彼女を手に入れる」
「おじゃましました」と言い、彼等は部屋から出ていった。階段を降り、玄関が閉まる音がする。
「……出てきていいぞ」
伊都がそう言うと、クローゼットがそっと開き、フーカが出てくる。
「やっぱりあの人たち、普通じゃないわ。こんな強引なやり方……」
母が怒りに震えながら、下を向く。
「………ごめんなさい、私のせいで」
「フーカちゃんは、何も悪くないわ。私たちはあなたを守るって決めたんだもの。これくらいのこと、どうってことないわ」
「でも……」
「大丈夫。心配しないで」
母はフーカの頭を撫でた。だが、彼女の顔は晴れなかった。