月日は流れ、気がつけば久美子が唯斗の家に来てから一年が経っていた。
冬のある日、唯斗にこんなことを聞かれた。
「思ったんだが、一年中着ているそのパーカーは、いったいいつから着ているんだ?」
「これは、十二歳の時から着てます」
「どうりでボロボロなわけだ。新しいものは買わないのか?」
確かに、十二歳の頃から六年間ほど着ているので、あちこちがほつれていたり、ボロボロであった。
「……でも、これはすごくお気に入りで、手離したくないんです」
「どうしてそこまで、それにこだわるんだ」
「母が裁縫が得意で、昔これを作ってくれたんです。だから、同じようなパーカーはあっても、私が着ているものは、世界で一着だけなんです」
「なるほど。だから着続けると」
唯斗は納得した表情を見せた。その時、付いていたテレビのニュースから、とんでもないことが聞こえてきた。何と、施設から逃げ出した久美子のことがニュースになっていたのだ。
「……ついにマスコミと手を組んだか」
厳しい表情を浮かべながら、唯斗は呟いた。
「おそらく、この家にも来る。お前を追ってきた闇研究者たちが見失ったのが、この森だとすればきっとすぐに来るだろう。今度来れば二回目だ。さすがにうまくやり過ごすことは出来ない」
「そんな……じゃあ、どうすれば」
「決まっているだろう。ここから離れるしかない。そして誰にも見つからないように生きるしかない」
「!!」
ここから離れ、一人で生きる。それはすなわち、命の保証が無くなるということ。闇研究者たちに追われていても、もう誰も守ってはくれない。たった一人で生きていかなければならないのだ。
「私、どうしたら……」
毎日追われる中で、どうやって一人で生きろというのだろう。不安で仕方なかった。
「……気配を消せ。それしかない」
「そんな無茶な! 私、顔知られてるんですよ? どうしろって言うんですか!」
「知らん。私に聞くな」
「あなたが言い出したんでしょ!?」
駄目だ。彼は参考にならない。いや、彼に頼る癖をそろそろ辞めた方がいいと思った。もう出来なくなるからだ。
「……あ」
「なんだ」
「出来るかも、気配消すの」
久美子はパーカーのチャックを閉め、フードを被ってみせた。
「これで下向いて歩いていれば、消せる気がします。気配」
闇研究者たちが久美子について覚えているのは、おそらく顔のみである。つまり顔さえ隠せれば、何とかなると久美子は気がついたのだ。
「しかも、このパーカー、明るい色じゃないから、簡単に闇に溶け込めます。出歩くのは夜だけにすれば、見つかる可能性も少なくなるかも」
「……悪くないかもしれないな、その案」
唯斗は真剣に頷いた。そんな彼を見て、久美子は少し嬉しかった。
「……あの、ユイト。ひとつお願いをしてもいいですか?」
「なんだ?」
久美子は、ポケットから小さく折りたたまれた紙を出した。
「これ、預かっていてもらってもいいですか?」
「これは?」
「……理恵からもらった歌詞カードです」
それは、脱出成功したら見てね、と理恵が言いながら渡してくれた、歌詞だった。
「そんな大切なもの、預けてもいいのか?」
「あなただから、持っていて欲しいんです。今の私には、この紙を見ることは出来ません。見たら、理恵のことを思い出してしまうから……。でも、いつか私が理恵の死から立ち直ったら見られる気がするんです。だからその時まで、持っていてくれませんか……?」
勝手な願いだと思った。これをすることで唯斗にはなんのメリットもない。ただ面倒な事柄が増えるだけだ。だが、唯斗は嫌な顔一つせず、その紙を受け取った。
「分かった。そういうことなら預かっておく」
「ありがとうございます」
久美子は安堵の表情でお礼を言った。
「私、がんばります。がんばって、生き抜いてみせます。そしていつか……幸せになります」
唯斗の目を見て、久美子はしっかりと言った。
「久美子なら、きっと大丈夫だ。だから……生きろよ、必ず」

三日後、闇研究者たちが家に来たのを見計らって、久美子は裏口から家を出た。そうしたのには理由があった。もし、適当な時間に、家を出たりして、ばったりと森の中で彼らと会ったりでもしたら大変だと思ったからだ。その可能性はなしになったわけではないが、少しは低くなったであろう。そう信じて、家を出た。
その日から、野宿の生活が始まった。どうしようもない嵐の日は、一瞬で病気になりそうだったので、駅のホームで過ごしたり、幼さを武器に一人暮らしの男性の家に泊まらせてもらったりしていた。
金は、たまに通っていた漫画喫茶のパソコンを使って、様々なバイトをして稼いだ。その内、闇バイトと呼ばれるものにも手を出し始めた。悪い事だとは分かっていた。危険だし、辞めたいと何度も思った。だが、そうでもしないと生きてはいかれなかった。
気弱で臆病だった自分を押さえ込み、強い自分を演じていれば、何とか生きてこられた。その内、以前の自分などどこかに行ってしまった。
幸いにも二年間ほど、闇研究者たちと出くわすことはなかった。しかし、二十歳になったある日。久しぶりに昼間に出歩き、見つけた公園でぼーっとしていたら、なんと闇研究者たちに見つかってしまった。
助けを求めても、誰も来ない。もはやここまでか……。諦めたその時、
「おまわりさーん! ここでーす!」
男の声がした。闇研究者たちはギョッとして一目散にかけて行った。確かに警察が来たら、捕まるのはどう考えても自分に銃を突きつけている彼らの方だったからだ。
すぐさま、公園に先程の声の主がやって来た。久美子は安心して、ふっと意識を失ってしまった。その後家に運んでもらってからは、まあ色々とあったが、結果的にこの家に匿ってもらうことになった。
始めは、すぐにでもこの家を出ていこうと思っていた。だが、ここでの生活は、今までよりも数倍楽しかった。これこそが自分の望んでいた、「普通の生活」だと思った。久美子は幸せだった。この幸せを失いたくなかった。
だから、自分の本当の名前や正体を、彼らにどうしても話せなかった。いつか言おうと思っていた。だが、これまでのことを考えると、不老者だということを言えば、追い出されるに違いない。追い出されれば、また孤独な生活に逆戻りだ。それは嫌だ。そう思って言えなかった。
でも、こんな形でバレるくらいなら、最初から話していればよかった。そして、早々にこの家を出て、一人の生活に戻るべきだった。
「騙していて、ごめんなさい」
ここに留まるのは、危険だ。自分にとっても、彼にとっても。一刻も早く出ていかなければならない。
もうこれ以上、大切な人を失わないように。

「さようなら、イト」