「……落ち着いたか?」
涙が枯れ果て、泣き止んだ頃、男に声をかけられた。
「……はい」
いったいいつぶりだろう。あんなに大きな声で泣いたのは。男にずっと見られていたかと思うと途端に恥ずかしくなった。
「あの、ごめんなさい。覚悟はしてたのに……泣き出したりして」
「謝ることはない。……少しは気持ちが楽になったか?」
「あ、はい……」
確かに、いくらか気持ちは楽になった気がした。すると、男は初めて微笑んだ。
「それでいい。自分の気持ちに正直になることは、大切なことだ」
久美子は、彼の顔を見た。黒髪に切れ長な目、笑うと左側に出来る片えくぼ。
「……どうした、人の顔をじっと見て」
「え! あ、ごめんなさい!」
そんなにまじまじと見つめていたのだろうか。恥ずかしくなって、あわてて目を逸らす。
「なぜ謝る。別に責めてはいないが」
「あ、そうじゃなくて……その、なんというか……」
ああ、自分はこんなに口下手だっただろうか。うまく言葉が出てこない。そう言えば、初対面の人には、大抵このような感じであったことを久美子は思い出した。彼はもう初対面では無いが。久美子は頭の中で必死に話題を探す。
「あ、あの!」
「なんだ?」
「な、名前……」
「名前?」
「名前、教えて……ください」
言ってから久美子は後悔した。何ともしょぼい話題だ。もう少しマシな話題はなかったものか。
「そういえば、会ってから二日も経つのに言っていなかったな。深瀬唯斗だ。よろしく」
在り来りな話題で心配だったが、唯斗は、嫌がる素振りも見せずさらりと答えた。
「あ……よろしくお願いします、フカセさん」
「名前でいい」
「あ、はい。それじゃあ……ユイト」
「……極端だな」
「え?」
「いや、なんでもない。それと、良かったら、お前の名前も教えて欲しいのだが」
「……あれ、私、言ってませんでしたっけ」
「聞いてないな。親友の名前は何度も聞いたが」
今度は自分に呆れた。助けてくれた命の恩人に名前を尋ねた挙句、まだ自分の名前も名乗っていなかったとは。
「立花久美子です。よろしくお願いします」
「よろしく。……それで、久美子はこれからどうするつもりだ?」
「……分からないです。何も考えないで逃げてきたから」
久美子はただ生き延びる為に、施設を脱出したのだ。これからのことなど、何一つ考えていなかった。
「それなら、これからどうしていきたい?」
「私は……幸せになれればそれでいいです」
「幸せか。お前にとっての幸せはなんだ?」
「私にとっての幸せは……普通に生活出来るようになること……です」
それは、久美子が不老者になった時から思っていたことだった。それまでは出来ていた当たり前の生活が突然出来なくなってしまったのだ。やっと気がついた。その生活こそが久美子の幸せだったのだと。
「普通に家族と一緒に暮らして、学校に行って、勉強して、友達と話して、遊んで。たまには家族で出かけたりして、写真撮って、それでまた日常が戻ってくるようなそんな生活……。今の私にとっては、全部普通の事じゃないけど、でも、いつかそれが普通のことになったら、私は幸せなんだと思います」
「なるほど。それならその家族の元に戻ることができたら、お前は幸せになれるか?」
「それは……多分無理です」
「なぜだ?」
「……家族は、私を、売ったから」
あの時、研究者たちが家に「プロジェクト」の話をしに来た時。それまで全く話に応じなかった両親が、多額の金が手に入ると知った瞬間、「プロジェクト」への参加を決めたことを、久美子は覚えていた。
「あの人たちは、もう私を子どもとは思ってない……。当たり前ですよね。だって私、不老者だから。私がいるだけで、家族は不幸にせなるから……」
「…………」
「私、あの場所に戻りたいとは思っていません。でも、いつか、あの時のような、平凡で穏やかな生活が出来るようになったらいいなって」
久美子は微笑んだ。悲劇のヒロインにはなりたくなかった。明るく話そうと努力した。
「だから、あなたに協力しようって思ったんです。元の身体に戻って、闇研究者がいなくなったら、きっとそれが叶うから」
唯斗はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……そうか。なら良かった」
「なんでこんなこと、聞いたんですか?」
「実は迷っていた。実際に久美子を目の前にして、私がやっていることが本当にお前が望むことなのかと」
唯斗は安堵の表情を浮かべた。
「だが、そう言ってもらえて安心した。これで私は心置き無く研究を進められる」
そして唯斗はパソコンの前の椅子に座り、作業をし始めた。久美子はそんな彼の後ろ姿を見ながら、ふと思った。
彼は、どうして不老者を救いたいと思ったのだろう。そもそもどうやって不老者の存在を知ったのだろう。家族や親戚、または友達にいたのだろうか。
でもたとえ居たとして、不老者を救いたいと思っている人間が存在したのが不思議だった。不老者は今のところ差別の対象だ。そのような者を守ってくれるというのだ。いったい何がきっかけでそう思ったのだろう。
謎だらけの彼に聞きたいことは山ほどあったが、久美子は聞くのを止めた。何となく、謎だらけの方が彼らしいと思ったからだった。