「疲れた」
「お前、本当スイッチ切れると声低くなるな。っていうか、テンションも低くねーか」
「当たり前でしょ。疲れるのよね、あのキャラ。だから、なるべく喋らないようにしてたんだけど、最後でやられたわ」
「あの、少しの会話でか!?」
「ええ」
「…………」
恐ろしい威力である。伊都は少し寒気がした。
「そう言えば、さっき研究者がどうとかって言ってたけど」
「ああ」
「たしか前にも言ってたわよね、お兄さんが研究者だって」
「言ったか?」
「ほら、女の先生が来た時に」
フーカは、伊都と彼女が揉めていた際、舞子が部屋に来た時のことを言っていた。
「お前、よく覚えてるな」
「ずっと気になっていたから」
「そんな気になるほどのことか?」
「気になるわよ」
「どの辺が?」
「なんで、研究者になろうと思ったんだろうって」
「……さあな。俺は今、兄貴がどこにいるのかも知らないし」
伊都のその言葉に、フーカは足を止めた。
「それ……前も言ってたわよね。なんで?」
「なんでって、俺は別に兄貴が何してようが興味ないし」
「どうしてそんなこと言うのよ。家族なのに」
「あんな奴、家族なんかじゃねぇよ」
「なんてこと言うのよ! あなたのお兄さんなんでしょ? その言い方はないわ!」
フーカは珍しく声を荒らげた。どうやら怒りのスイッチが入ってしまったようだ。それにつられたように伊都の怒りも爆発した。
「お前はなんも知らねぇからそういうこと言えるんだよ! 」
「なっ……私だって……!」
再び反論しようとしたフーカだったが、何故かぐっと言葉を飲み込んで、黙ってしまった。口論が成立しなくなったので、必然的に伊都も黙ることとなった。
爽風がさらさらと二人の髪を揺らす。昼間は暑い夏も、日が沈むにつれ、涼しくなる。もうすぐ夜だ。
セミの鳴き声は今日も変わらず聞こえる。地上に出てから約一週間の命。今日も一生懸命鳴いている。
「……兄貴はさ、俺が中一の時に、出ていったんだよ。研究者になりたいって。母さんが止めるのも聞かずに、出ていった。なんでなりたいなんて思ったのか、聞いたって答えてくれなかった。『お前には関係ない』ってさ」
実際そうであった。伊都がそのようなことを聞こうとすれば、「伊都には関係ない」「知らなくていい」と言われてしまう始末であった。
「俺だって、止めたんだよ。家族を捨てるのかよ、そんなのやめてくれって。そしたら兄貴、『家族なんてどうでもいい』って言ったんだ」
この一言は、伊都にとって衝撃的だった。五年間、ずっと忘れない言葉であった。
「本当、兄貴は、無口で、堅くて、真面目で、俺とは正反対で……合わないんだよなー、本当に。前はこんなんじゃなかったんだけどなー……」
「……なにが、あったの?」
「あー……父さんがね、死んじゃったんだ。とある事件の捜査中に、事故で。あ、警察官だったから殉職したって言うのか。まあいいや、同じ意味だし……。ま、そこから変わっちまったんだよ、兄貴は。俺は全然変わらなかったけど」
「………」
「あの頃の兄貴は、無邪気だったなー。まあ今の俺みたいな? 信じられないと思うけど」
ふと、今まで封じていた記憶が溢れ出す。亡き父の笑顔。兄の笑顔。家族団欒。旅行。数々の思い出が、脳裏に蘇ってくる。
「本当、楽しかったなー……」
今の方が楽しい。今の生活で満足している。そう思い込むことで、封じていた過去。だが、もう悟ってしまったのだ。「あの頃が楽しかった」と。「あの頃に戻りたい」と。
「ま、もう戻れないんだけどな!」
涙がこぼれそうだった。でも伊都は笑った。必死で笑った。できればこのまま笑い話にしたかった。
しかし、フーカは笑わない。大きな瞳でじっと伊都の事を見つめている。
「なんで笑うの?」
「え……?」
「つらかったら、泣けばいいじゃない。無理に笑う必要なんてないわ」
「お、俺は別に……」
「そうやって、無理に笑ってたら、きっといつか笑えなくなる。私は、イトにそうなって欲しくない」
フーカは必死に訴えた。
「だから、我慢なんてしないで。お願い」
フーカの懇願する目は、伊都の涙腺を更に刺激した。
「で、でも、こんな所で」
「もう日が陰ってるんだから、誰も来ないわよ」
「で、でも、俺、男だし……泣いたらかっこ悪……」
「ああ、もう! 男も女も関係あるか! 泣きたければ泣けばいいでしょ! 」
フーカは顔を真っ赤にして叫ぶ。これには伊都も萎縮してしまった。
「……大体、自分の気持ちに正直になることの、なにがかっこ悪いのよ。バカじゃないの?」
と、呆れたようにそっぽを向く。その姿に伊都はなんだか可笑しくなってしまって、思わず吹き出した。
「ちょっと、なんで笑うのよ。涙はどこいったの?」
「お前のせいでどっかいった」
「はあ? なんなのよ、もう」
口とは裏腹に、フーカは安堵の表情を浮かべた。
「フーカ。その……さっきはごめんな。怒鳴ったりして……」
「私こそ、ごめんなさい。つい熱くなりすぎたわ」
お互い謝罪をし合って、顔を見合わせ、笑った。

しばらくして、二人はまた歩き出した。
「まあ、兄貴云々はそういうことだよ。はぐらかされたんだ」
「言いたくない理由でもあったのかしらね」
「さあな。ま、俺たちには関係ないみたいだからさ」
「……『家族なんてどうでもいい』、ね。なんだか、私には本心じゃないように聞こえる」
「え?」
「きっと、咄嗟に出てしまっただけよ。喧嘩してるときって、思いもよらない言葉を言ってしまったりするから。本当は、『家族のために』研究者になったんだと思うわ」
「いやそんな、極度のツンデレみたいな」
「まあ、分からないけど」
フーカはツッコミをすることもなく、バッサリと切り捨てる。だが、彼女の言っていることは、的を得ている気がする。もし、そうだったのだとしたら……。伊都はなんだか急に、兄に申し訳なくなってきた。
「あ」
フーカが、街灯に照らされている掲示板の前で立ち止まる。
「花火大会だって」
「花火大会?」
掲示板に、地区の花火大会のお知らせが無造作に貼られていた。
「いいわね、行きたい」
「えー、面倒だな」
「なんでよ、このごろ出かけてないんだから、いいでしょ」
「いや、最後の十日間くらいゆっくりさせてくれよ……」
「えーと、日にちは……」
「人の話を聞け」
「あら、夏休み最終日じゃない? この日って」
「え?」
伊都はもう一度、ポスターを見る。確かに、最終日だ。
「本当だ」
「行きましょう」
「俺、次の日学校なんだけど……」
「構わないわ」
「いやお前はいいだろうけど、俺は?」
「何とかなるわ。とにかく私は行きたいの」
「なんでそこまで行きたがるんだよ……」
「なんでもいいでしょ! 行きたいの!」
伊都は、フーカがこれまでの中で、一番行きたがっている気がした。そこまで行きたい理由を、どうしても知りたくなった。
「理由教えてくんなきゃ、行かねーぞ」
「は!? なんでよ!」
「知りたい」
「嫌よ、なんで言わなきゃいけないの!」
「じゃあ、行かねぇぞ」
「……うう」
フーカは、恥ずかしそうに下を向きながら、
「花火……誰かと一緒になんて見たことないから……。だから、イトと見たいの……ダメ?」
と言った。その姿のなんと可愛らしいことだろう。伊都は開いた口が塞がらなかった。
「もう! こんなこと言わせないでよ、恥ずかしい!」
フーカの顔は真っ赤である。
「絶対行こう」
「……本当に?」
「なんで疑うんだよ」
「だって、さっきとあまりにも態度が」
「お前の一言で変わったんだよ」
「気持ち悪」
「おい」
「でも良かった。約束だからね」
フーカは小指を差し出した。伊都は、その指に自分の小指を絡める。
「おう、約束だ」
夏の夜、街頭が照らす掲示板の前で、二人は約束を交わした。「必ず、花火大会に行こう」と。