六、地中海の紳士たち
この年、赤ひげはトルコ海軍の司令に任命された。スレイマン皇帝の段階作戦が大きな一歩を踏み出した。皇帝に招かれて伺候した彼は、イスタンブールのガラタ地区にある造船廠で一冬を過ごした。船を造る職人たちは、彼に言わせればみな素人であった。より早く、より操船のしやすい船を造るべく職人たちを指導して、一冬で六十隻もの大型ガレー船を造り上げた。
 トルコ半島は、森林資源に恵まれている上に、スレイマンとイブラーヒムのコンビがよく、オスマン帝国は経済運営に優れていたため、これからも大量に造ることが約束されていた。これによってトルコ海軍は、ようやく第一歩を踏み出したといえる。赤ひげが連合艦隊の司令という枢要な地位についたことは、世界中の海賊にとって衝撃的なニュースであった。
海賊行為をやり過ぎれば、必ず報復をうける。特にスペインが本気で怒れば、海賊はひとたまりもないことは、彼ら自身が一番よく分かっている。したがって赤ひげの傘下に入れば、より安全に仕事ができると考えられた。彼が司令長官に抜擢されるかもしれない、と期待する向きも当然あった。上げ潮に乗った赤ひげの下に、世界中の名だたる海賊たちがぞくぞくと集まってきた。主だった紳士たちを紹介しよう。
 最初にやってきたのは、ドラグートである。彼は、後に赤ひげの後継者になる男である。ドラグートはトルコ本土の農家の生まれで、十二歳のときに船乗りを志して家をでた。やがてトルコ海軍に志願し、操船技術と砲術の天才と詠われるようになる。まもなく独立した彼は、小さなギャリオット船一隻を手に入れて海賊となり、一躍名を上げることになる。彼の名は赤ひげの耳にも達するようになっていた。赤ひげはもちろん大歓迎した。
鋼を重ね合わせたような見事な体格と、射るようなするどい眼光、それに頭の回転の速さに、赤ひげは一目惚れしてしまった。早速彼に十二隻のガレー船団を与えて、仕事をさせることにした。ドラグートは勇躍してイタリア半島を目指し、ナポリやシチリア島の沿岸を荒らし、スペインとイタリアの間を航行するキリスト教国の船舶を見つけると残らず餌食にしたので、彼の名はスペイン国王の耳にまで達したといわれる。   
次にやってきたのはシナンである。彼はトルコのスミルナ生まれのユダヤ人で、航海術に長じていた。いついかなる時でも、船がどの位置にいるのかを、ぴたりと言い当てたので黒魔術師と呼ばれていた。シナンはもちろん魔術を使ったわけではなく、海洋学、天文学、地文学、数学などの知識をもって羅針盤を眺め、海図を駆使し、星座を眺め、測天儀を利用して、船の位置を数理的に割り出したのである。学問の好きな彼は、アラビア語、ギリシャ語、イタリア語、スペイン語、フランス語にまで堪能で、会話もうまかった。シナンはすぐ赤ひげにとって、なくてはならない有能な参謀となった。赤ひげはシナンに質問をした。
「わしは、スレイマンという皇帝がどういう人間なのか、いま一つ分からないのだが、お前はトルコ本土の生まれだからよく知っているだろう」
 彼は、赤ひげがどういう答えを求めているのかを、じっと考えてから口を開いた。
「私の見るところでは、スレイマンという人は、オスマントルコの歴史が始まって以来の傑物だと思います」
「ほう、それほどの人物か」
「スケールの大きさといい、英知の深さといい、気宇の広さといい、大変な人物だと思います。こういういう種類の人間はともすれば施政態度が大まかになって、独断専行型のワンマンになってしまい勝ちなものですが、それが実に公正なのです。世界の歴史を見渡してみても、あまり例を見ないすばらしい人物だと思います」
「ひどく惚れ込んだものだな。海賊ごときにそれ程惚れ込ませるなら、本物というべきだろう。しかしそんな出来物だと、わしとしてはつき合いにくいな。何か欠点はないのか?」
「情にもろいところでしょうか」
「女に弱いのか?」
「第一夫人のロクセラーヌという人は、すごい美人ではありますが、あまり性格のよくない人だと聞いております。ギュルバハルという女性が第一夫人だったのですが、策謀によって陥れて、自分が後釜にすわったという噂です」
「女に弱いところだけは、わしと共通している。皇帝と親しくつき合ってもらえることになったが、弱点くらい知っておかねば畏れ多くて傍へ寄れないからな」
 赤ひげはそういって笑った。シナンも白い歯を見せた。
「大宰相のイブラーヒムは、どういう人間かな?」
「皇帝の義兄弟になりますが、皇帝の右腕というより、もう分身のような存在になっています。皇帝は自分が決断すべきことは大宰相に相談しますが、大宰相の方は皇帝に相談することなしに決済することが多いと聞きます。ある意味では、皇帝より切れるかもしれませんが、それは役人としての有能さで、気宇の大きさや、人格面では皇帝の方が上でしょう」
「頭の固いところがあるのだな」
「一口に言えば、そういうことです」
「スレイマンという人とは、深くつき合ってみたくなったぞ」
「それは良いことです。船長が皇帝の懐に飛び込んでしまうことができたら、わが軍団は万々歳です。そうなれば、次は司令長官ですからな」
 二人は顔を見合わせて肯きあった。シナンは、アイダという美少女を伴っていた。娘ではなく姪だという。アイダは少女というより、美少年といったほうが似合うような、キリッと引きしまった容姿をしていて、剣が強いという話だった。赤ひげという大海賊の下で働きたい、とシナンに頼み込んでついて来たという。アイダは、自分が赤ひげにとって有用な人間であることを見せようとして、棒による試合を望んだので、赤ひげは十八歳になるキーホという青年と、立ち合わせることにした。キーホは、最近急に頭角を表してきた文武両道に秀いでた青年で、赤ひげは彼の将来性を見こんで可愛がっていた。アイダとの立会いを命じられて、彼は不服を唱えた。
「船長、いくらなんでもこんな女の子と立ち合わせるのは、私を馬鹿にしています。シナン殿と立ち会えというなら喜んでやりますが」
「シナンには、三人の男供が同時に撃ちかかったが、勝てなかった。お前ごときに歯が立つわけがない。しかし、女の子じゃいやか。それなら、素手でその棒を受けてみろ」
 赤ひげは、長身をクッションのよい椅子に埋めて、ニコニコしていた。そう言われてキーホは、アイダとその手にしている一メートル位の細い棒を見つめた。
「いいでしょう、やりましょう」
 と言って、その場で身構えた。アイダは、相手が素手であることに躊躇した。
「私とおなじ棒を持って、戦っていただきたいのですが」
 と怒ったような表情で言って、赤ひげを見た。赤ひげは
「キーホ、もしおまえが負けたら、つぎは棒を持って戦えばいいだろう」。
 と言って、少女が驚くほどの人懐っこい笑顔を見せた。アイダは、やむなく細い棒を握って身構えた。キーホは身を低くして身構えた。アイダの用意した棒は木製で細く脆そうに見えた。シナンが審判役を引き受けて、二人の間に立った。彼は、二人に目配せをしてから横に退いた。アイダは鋭い視線で、キーホの目を睨みつけていたが、読み切ったように一歩前に出た。
キーホは息を詰めて彼女の攻撃を待った。アイダはかけ声もろとも、上段から打って出た。キーホはそれを予期していたように、横にとんで最初の一撃をよけたが、つづけて横に払ってくる撃ちを、よけきれずに左腕で受けとめた。ピシッという音とともに、彼の腕が赤く腫れ上がった。顔をしかめて痛みを堪えたキーホは、片足を上げてアイダを蹴上げたが、彼女は軽々と逃れた。
彼女はするどい視線を投げかけると、再び構えなおしてじりじりと近寄った。キーホの表情には、すでに余裕が消えていた。並の相手ではないことを悟って、唇を噛みしめていた。アイダは上段から打ちこむと見せて、いきなり向こう脛を打った。キーホはこの痛撃に前にのめって、両手を床についた。彼女は表情を消して、キーホを見下ろしていた。
「よーし、そこまでだ」
 シナンが声をかけた。赤ひげは大きくうなずいて言った。
「キーホ、棒を持ってもう一度戦ってみろ」
 彼は痛みをこらえて立ち上がった。おなじ長さの棒をアイダから渡されて、二人は睨みあった。キーホは立派な体格で、身長はアイダより三十センチも高かった。彼は棒を握ったことで、余裕を取り戻していた。呼吸を測っていた二人は、ほとんど同時に跳躍した。空中で棒と棒がぶつかり合う小気味のよい音がして、二人は飛び交った。反対側にひらりと降り立つアイダ。キーホはと見ると、床に転がっていた。額から血が流れていた。
「軽く撃っただけですから、大丈夫でしよう」
 それを聞いて、赤ひげは口を半開きにしたまま、美少女を見つめた。アイダは何事もなかったように表情を変えなかった。キーホは額の傷口を片手で押さえて、立ち上がった。傷口から血が流れ出して、頬をつたって床にしたたり落ちた。アイダの言うとおり傷は浅かったようで、キーホの足取りはしっかりしていた。首うなだれて部屋をでて行く彼を目だけで送って、赤ひげはアイダに声をかけた。
「お前は海賊になりたいのか?」
「赤ひげ船長の下で働かせていただきたくて、伯父についてきました」
「女海賊か・・・」
 赤ひげはアン・ケリーを思い出していた。アンは兄ウルージが戦死すると、傷心を抱いてジェノバに帰って行った。
「なぜ海賊になりたいのだ?」
赤ひげは少女の目を覗きこんだ。
「普通の女の子のような、平凡な暮らしはしたくありません。それに海が好きなんです」
「ふむ、シナンはこの娘を海賊にすることに、反対はしないのか?」
赤ひげは、シナンの方へ顔を向けた。シナンは叩頭しながら、照れ笑いを浮かべた。
「初めは反対しましたが、とうとう反対することを諦めました」
「そうか、それじゃシナンの部下として使うがいい。アイダ、ドラグートという剣の名人がいるから、彼について剣を学ぶといい」
 赤ひげの許可が下りて、アイダはこの日から海賊になった。服装も男のものにし、髪も短くして、少女から美少年に変身した。数日後、赤ひげはアイダを見かけて声をかけた。
「剣の稽古はやっているか?」
「はい、ドラグートさんに三十回くらい挑戦しましたが、一回も勝てませんでした」
「ほう、三十回もか、で、怪我はしなかったか?」
「ドラグートさんは優しい人で、怪我は一度もしませんでした。たいていは棒を叩き落されるか、背中を軽くたたかれる程度です」
「ほう、ドラグートが優しいのか・・・、あの男がのう」
 赤ひげは、信じられないといった表情で首を捻った。ドラグートの鷹のような鋭い目と、体自体が凶器ではないかと思われるほどに鍛えぬかれた筋骨を思い浮かべて、不思議な気がした。アイダの精進ぶりに触発されて、キーホもドラグートの門下生になった。二人はいつもドラグートの傍を離れず、ひまを見ては稽古をつけてもらった。
「夜中に眠っているとき以外は、いつでも撃ちかかってくるがいい」
 ドラグートは二人にそう言った。二人は、彼が背を向けている時を狙って同時に撃ちかかったが、簡単にかわされてしまった。棒の長さは一メートルあり、二人がジャンプして打ちかかるので、二メートルの範囲は届くはずなのに、ドラグートは一瞬にして、三メートルの距離を飛んでいた。
「後ろに目があるのだろうか?」
 キーホは舌を巻いた。アイダは
「われわれが、二メートル以上飛べばいいと思うんだけど」
 と云って、諦めない様子だった。
「われわれが走って行って、飛びかかったのでは悟られてしまうから、高いところで待っていて、上から飛びかかれば、三メートル離れていても捉えられると思う」
 キーホが知恵を出した。ある日、二人が上甲板に身を潜めていると、下をドラグートが通りかかった。
「今だ」
 二人は、目と目で合図しあって跳躍した。しかし、ドラグートは一瞬早く空転をして逃れていた。
「どうしてわれわれが飛びかかるのが、わかるのでしょうか?」
 キーホが脱帽して尋ねた。
「お前たちも、いずれできるようになる」
「こつだけでも、教えてください」
 アイダも一歩つめ寄った。
「敵と向き合ったときだけが、勝負だと思っているから隙ができる。わしはベッドから一歩でも外へ出たら寝るまでの間、いつでも敵に囲まれていると考えている」
「はあ、そういうものですか」
 キーホは呆れた。
「でもそれじゃ、毎日疲れ切ってしまいませんか?」
 アイダは不服そうな顔をした。
「疲れるより、殺されるほうがいいのか!」
 ドラグートの鷹のような目が光った。
「わかりました」
 二人は同時に答えて、頭を下げていた。稲光りのようなその眼光が恐ろしくて、首をすくめたといった方が正しかった。ドラグートは、何事もなかったように歩き出した。翌日、ドラグートは二人に真剣を持たせて、自分は素手で立ち合った。
「本気でわしを殺そうと思え!」
 二人は、はい、と答えて前後に分かれた。前にキーホ、後ろにアイダが、日の光にぎらぎらと光る真剣を上段に構えた。ドラグートは特別に身構える様子もなく、ごく自然体で二人と相対した。二人にはさすがに躊躇するものがあった。丸腰の人間を前後から挟み撃ちで斬ることなど、考えたこともなかったからである。
「いいか、大事なことは敵を憎むことだ。ドラグートという敵は、お前たちが斬り損ねたら、お前たちの剣を奪って、まずキーホを斬り殺し、次にアイダを裸にして、犯すことを考えている凶悪な男だと思え。それがいやなら、二人で息を合せて同時に斬りかかることだ、わかったか!」
 ドラグートの気魄はすでに二人を飲んでいた。催眠術にかかったように、二人は息を合わせて同時に斬りかかったが、彼の姿はそこになかった。二人はすんでのところでたがいに斬り合ってしまうところであったが、やっと踏みとどまった。ドラグートは、後ろのアイダの頭上を跳び越していた。跳び越すと同時に、アイダの首筋を両手でぎゅつと押さえつけていた。万力のような彼の握力に押さえつけられて、アイダは動くことはおろか、息をすることさえ難しかった。
「恐れ入りました」
 キーホが剣を投げ出して、頭を下げた。アイダは腕の力がぬけて、自然に剣をとり落としていた。
「次は弓矢でわしを射てみろ」
 ドラグートは、途方もないことを言い出した。十五メートルほど離れて、キーホが弓に矢をつがえて彼の胸板に狙いをつけた。ドラグートは素手で突っ立っていた。キーホの背中には矢が四本入った矢筒がある。合計五本の矢で倒してみよというのである。キーホは手にした短弓を、きりきりと引きしぼって強敵を狙った。傍で見ているアイダの心臓がはげしく鼓動を打った。ビューッという音とともに、矢はまっすぐ彼の胸板をめがけて飛んだ。アイダは目をつぶった。
こわごわ目を開けると、彼は何事もなかったように、平然と立っていた。足元には、真っ二つに折れた矢が落ちていた。キーホは、二の矢を間を置かずに放った。狙い違わず矢は、彼の上半身にむかって吸い込まれていったが、またもや手刀でたたき落とされた。キーホの顔が上気して、三本目、四本目と、つづけざまに放ったが的が外れた。しかし、五本目は下半身に向かってまっすぐに飛んだ。彼は両足を広げて、大きくジャンプしてその矢を避けた。
「どうやっても敵いません」
 キーホはその場にくず折れるように膝をついた。アイダが、ドラグートに歩み寄った。
「先生は火縄銃を向けられたら、どうなさいますか?」
「ふむ、そのときは撃たれる前に、手裏剣を投げるさ」
「間に合いますか?」
「間に合わなければ死ぬまでだが」
彼はそう言った瞬間、地面に向かって一回転して転がると、同時に小刀を投げた。小刀は直径三十センチほどの樹の幹に突き刺さった。人間の胸の高さであった。アイダとキーホは深い溜息をつくばかりであった。この日から二人の練習は真剣さを一段と増した。キーホは初めのうちこそアイダに敵わなかったが、次第に腕を上げてアイダに追いつき、追いこす勢いになってきた。ある日、練習のあとで彼は彼女を誘って海岸へ行った。丁度夕日が西の彼方の水平線にしずむ直前であった。キーホは彼女の肩をそっと抱いてささやいた。
「おれと結婚してくれないか。きっと、立派な海賊になって見せるから」
 アイダは驚いて、彼を振り返った。
「あなたはまだ、一人前の海賊になっていないわ。」
「だから、きっと一人前の海賊になるから」
「・・・・」
「おれじゃ、だめかい?」
 アイダは彼から目を離して、海の彼方の夕日に目を転じた。
「私には好きな人がいるの」
「・・・・」
 キーホは当惑したように、悲しげな目で彼女の横顔を見つめた。
「ドラグートさんかい?」
 アイダは海に目を向けたまま、かすかに肯いた。キーホはそれを見ると、少し後ずさりしてアイダから離れた。何か言いかけたが、思い直して更に後ずさりして遠のいた。涙を浮かべた目で、彼女の後姿をじっと見つめていた。やがて、彼はくるりと背を向けると走り出した。アイダはその気配に振りかえったが、彼の後姿を目で追うだけでその場に立ち尽くした。彼女は再び夕日に目を転じたが、夕日が海に沈みきるのを見届けると海岸を離れた。
 その夜、彼女はドラグートの寝室を訪れた。普段は髪の毛を束ねて、帽子の中に包み込んで、男の服装とあわせて男になりきっていたが、帽子をとって髪を垂らし、女の服に着がえて、今夜ばかりは女らしい格好になっていた。アイダは、シナンに連れられてきた時とおなじ美少女に戻った。しかし、三年の歳月は彼女を大人にしていた。かたい蕾のようだった胸の膨らみは、いつの間にか張りをみせていて、隠しようのない大きさになっていたし、腰も一回り大きくなっていた。
 ドアをノックすると、ドラグートの大きな声が響いた。そっと開けると、彼が半裸の女をひざに乗せて、酒を飲んでいる情景が目に飛び込んできた。彼はそのままの姿勢で、怪訝そうにアイダを見た。彼女はその光景を見ると、ハッとして凍りついたようになり、つぎの瞬間ドアをバタンと閉めて走りだした。百メートルほど走ってから、止まって後ろを振り返った。しかし、彼が追いかけてくる気配はなかった。
諦めて歩き出すと、涙が溢れだしてきて、前が見えなくなってしまった。半裸の女は、後ろ向きだったために顔が見えなかった。しかし、日ごろからドラグートに近づいている、ハンミという女であることは想像がついた。ハンミは、イタリアから奴隷として連れてこられて、食事や洗濯の係りを命じられていたが、魅力的な体をしていたので海賊たちの人気の的であった。
「あんなに魅力的な女がついていたのでは,自分なんか振り向いてももらえないだろう」
 そう思うと絶望感が胸の上にずっしりと重くのし掛かってきて、眠れない夜を明かした。翌朝ドラグートに出会うと、彼は屈託のない表情で声をかけてきた。
「高いところから飛び降りて、怪我をしない方法をよく練習しておけよ」
 アイダは軽く頭を下げてから、通りすぎて行く彼の後姿をぼんやり見ていた。その後姿は、いつもと変わらない精気に満ちた逞しさを見せて、女を抱いて寝た疲れを感じさせなかった。
「あの女とは何にもなかったのだろうか。でも、あの男好きのする女が、何もせずに帰るわけがない。きっと泊まっていったに違いない。悔しいけれど、そうだろう。でも女に毒されないで、精気にあふれて颯爽としている姿はさすがだ」
 と思った。男女の営みを未だ知らない彼女は、深く想像することができなかった。その夜、再びアイダはドラグートの部屋のドアをノックしていた。中から眠そうな彼の声が聞こえた。恐る恐るドアを開けると、彼がベッドの中で半身を起こしてこちらを見ている姿が目に入った。どうやら女はいないようだった。
「何の用だ?」
 何の用だと聞かれても、アイダには返事のしようがなかった。入り口でもじもじしていると
「用があるなら入れ」
 ドラグートらしい大声が飛んできた。アイダはそれでももじもじしていたが、気の短い彼が怒りだすことを恐れて、そっと部屋の中へ足を踏みいれた。アルコールの匂いが鼻をついたが、女の匂いがないことに安堵した。彼は上半身裸で、ズボンをはいて寝ていたが、起きあがってベッドに腰かけると、アイダが入ってくるのを待った。彼女は物珍しそうに、飾り気のない男の部屋を見まわしていた。
「この夜中に、女の子が男の部屋を訪ねてきたのに、なんの用だ、は無粋だったか」
彼は自嘲の笑みを見せて
立ちあがると、アイダに近寄った。アイダは下を向いた。
「大人の男であるおれとしては、お前を受け入れてやることが正しいのだろうが、キーホのことを思うと、そうも行かんでのう」
「キーホが何か言っていましたか?」
 アイダが顔をあげて、長身のドラグートを見上げた。
「キーホは何も言ってはおらんが、彼がお前に惚れていること位、とっくに知っているよ。あいつはいい奴だ。まだ青臭いから、お前はあまり魅力を感じないのだろうが、いずれいい男になる。あと二、三年すればな」
 アイダは、視線を落として床を見つめた。
「キーホが一丁前のいい男になるまで、待っていてやれ」
「じっと待っているのですか?」
「そうだ、女は辛抱が大切だ。好きな男がほかの女に手を出しても、辛抱せにゃいかんし、亭主が殺されても、子供のために我慢しなくてはならんこともある。一辺に赤ん坊が三人も生まれて、おっぱいが二つしかないのに、三人が声をそろえて泣き出しても、辛抱するのが女というものだ、わかったか」
 アイダは返事の代わりに、彼の顔を見上げた。
「分かったら、帰って寝ろ」
 アイダはふたたび床に視線をおとした。彼はそっと彼女の肩を抱くと、額に軽く口づけをしてから、静かにドアの外に押しだした。アイダはがっかりしたが、ドラグートの愛情を感じて、昨夜ほど辛くはなかった。ドラグートが、スペイン海軍に捕えられたのは、プレヴェザ沖の大海戦のあとであったが、その後開放されて戻ってきたとき、アイダはキーホと所帯をもって双子の女の子の母親になっていた。
 その次にやってきたのは、アイディンであった。膂力と胆力にすぐれた豪傑で、キリスト教国側にもっとも恐れられた男である。赤ひげより背が高く、兄のウルージより、筋肉が発達していた。百人近くの敵に囲まれながら斬りぬけて生還した、という伝説の持ち主である。血にまみれたその姿を見た人は、人間というより雄ライオンのようだった、と伝えている。頭のてっぺんから足のさきまで数十箇所に傷を負いながら、危地を切りぬけた生命力の凄まじさに、人々は目を見張ったことであろう。
 赤ひげの部下たちは早速、アイディンの膂力を見たがった。馬と力比べをさせたらどうだろうという案がでて、アイディンに打診すると、彼は簡単に承諾した。赤ひげ軍団で最も逞しい馬が選ばれ、彼と綱引きをさせることになった。大勢の部下たちの騒ぎに、赤ひげもドラグートとシナンを伴って見物に現れた。
 海賊の一人が、栗毛の牡馬の轡をとり、馬の胴に巻きつけたロープをアイディンが腹に巻き、その先端を肩から胸にたらし両手で握った。観衆の大声援の中、馬と人間の力比べが始まった。アイディンの巨体も、馬の三分の一くらいに見えたので。ほとんどの見物人はかれが馬に引きずられる姿を想像したが、実際はそうはならなかった。初めは互角にみえた綱引きも、彼が腰を落として一声咆えると屈強な牡馬がじりじりと引きずられはじめた。馬の轡をとった男は懸命に馬をまえへ進めようとしたが、彼は馬を引きずってゆっくりと歩きはじめていた。観衆の声援は拍手と歓声に変わった。わずか数分の勝負であった。
 次に海賊たちは、かれと十人が素手で闘うことを提案した。力自慢の者十人を選んで、アイディン一人と戦わせようというのである。彼はこれもあっさり承諾した。十人の海賊が選ばれ、みな上半身裸になって彼を円く取り囲んだ。アイディンも上半身裸になった。彼の肉体にみなが見とれた。彼の上半身はギリシャ彫刻のような引きしまった、巨大な筋肉でできあがっていた。円陣を作って彼を取り囲んだ命知らず達も、さすがに顔を見合わせた。
うかつに仕掛ければ腕をたたき折られるか、肋骨の四五本も折られるか、あるいは蛙のように叩きつけられるか、しだいに恐怖感が高まってきた。彼はよほど余裕があると見えて、悠然とつっ立っていた。やがて、二人の男が目配せをかわして、前と後ろから同時に飛びかかった。アイディンは、前からきた男を左足で蹴とばし、後ろから組みついてきた男を、大きく体をふって抛り飛ばした。
二人の男が同時に倒されたのをみて、のこりの八人は飛びかかることを躊躇って、周囲を回り始めた。そして、示し合わせたように姿勢を低くして、取りまいた輪をじりじりと縮めていった。緊張が高まって、やがてそれが頂点に達した時、全員がいっぺんに飛びかかった。アイディンの手足が激しく動いて、数名がなぐられ、蹴飛ばされ、組みついた二人が投げ飛ばされ、さらに足に取りついた二人が順にほうり飛ばされた。
その後は乱戦になって、殴りかかったり、飛び蹴りに行ったものもあったが、数分の後には全員が倒れていた。アイディンは無傷で、悠然と倒れた男たちを見回していた。鼻血で顔面を血だらけにしている者、腰をおさえて立ち上がれない者、股間をおさえてもだえ苦しんでいる者などに混じって、失神している者もあった。誰も立ちむかう者がいないのを確認すると、彼はゆっくり歩きはじめた。観衆は畏敬の念をこめて、拍手と声援をおくった。
 彼はスペイン沿岸と、沿岸近くのバレアレス諸島沖の水路がお気に入りの猟場で、春になるとアルジェを出帆して行った。このときも、スペインのガレー船を数隻と、多数の捕虜を捕えてご機嫌であったが、さらに面白い情報を聞きこんだ。それは、バレンシア沿岸の小港オリヴァに、スペインから逃れるためなら多額の金を支払う気でいる、モリスコと呼ばれるムーア人の奴隷が大勢いる、という情報であった。 
そこで彼は夜陰に紛れてオリヴァの港に入り、モリスコの二百家族を無事に収容してフォルメンタラ島に向かった。スペインのポルトウンド提督率いる八隻のガレー艦隊がそれを知って、アイディンを追跡した。追跡されていることを知った彼は、フォルメンタラ島にモリスコ達を下ろして、迎撃態勢に入った。このとき不思議なことが起こった。スペイン艦隊は接近してきたのに、一発の大砲も撃たずに通過してしまったのである。
 この時、ポルトウンド提督は奴隷を無傷で取り戻して、持ち主から一万デュカトの報奨金をせしめることが出来るかどうか、を思案していたらしい。海賊船に一斉射撃を浴びせて、奴隷たちが海の藻屑になってしまったら元も子もなくなってしまう、と考えた。
 一方海賊の方は、敵が臆病風に吹かれたのだろうと考えて、すぐに攻撃に移った。帆とオールの両方を使って、猛烈な速さで漕ぎ進んだ。さながら、大きな獲物におそいかかるライオンの群れのように、自分たちよりはるかに大きいガレー船を取り囲んだ。その結果、ポルトウンド提督は戦死し、一隻は逃走したが、残りの七隻は投降した。戦いが終わると、捕獲したガレー船に繋がれていたムーア人を解放し、代わりにスペイン人の乗員を漕ぎ手にし、モリスコ二百家族を伴って意気揚々とアルジェに凱旋した。
ある日ドラグート艦隊の一隻が、突然の暴風のために艦隊にはぐれて一隻だけで航行していた。その時、黒ひげと呼ばれるスペイン海賊の十隻の艦隊に囲まれて、拿捕されてしまった。黒ひげ船長は、無抵抗の乗組員三十数名を帆柱に吊るしたり、舳先に縛りつけておいて弓矢や槍や剣で虐殺した。隙を見て、後ろ手に縛られていた乗組員二人が、海に転がり落ちるようにして飛び込んで泳いでいた。そこへ、運よく通りかかった漁船に拾われて生還してきた。二人の話を総合すると、まだ人を殺したことのない若い乗組員を、訓練するために虐殺を命じたらしい。
「黒ひげは酒を飲みながら、部下に好きなように殺せと命じました。命じられた連中はみな若くて、武器の扱いが下手で、仲間はみな苦しんで死んで行きました」
「黒ひげは部下がやりそこなうと、へたくそとか、しっかりやれ、などと叫んでは大きな声で笑っていました。これほど残酷な人間がこの世にいるとは、想像すらしたことがありませんでした」
 二人の話をじっと聞いていた赤ひげの表情が、驚きから怒りへと変わっていった。そばに立ったまま、無言でいるドラグートの目が燃えていた。
「ドラグート、スペイン領の島を徹底的に洗って、黒ひげとやらをひっ捕らえてくれ」
赤ひげの言葉に、彼は無言でうなずいた。真一文字にむすんだ唇が彼の決意を物語っていた。
「俺も手伝うぞ」
 横からアイディンが、うなり声を上げた。赤ひげは大きく肯いて
「二人で三十隻ずつ、率いて行ってもらおう」
と,言った。
「できれば、黒ひげを生きたまま捕えて極刑にしてやりたいものだ。まったく、海賊の風上にもおけない野郎だ」
 赤ひげの言葉は、全員の気持ちを代弁していた。ドラグートとアイディンの艦隊はただちに出航した。目指したのは、スペイン沿岸のバレアレス諸島である。三週間後、両艦隊は戻ってきた。
「黒ひげは部下の反乱で殺されました。酔って眠りこんだところを、めった斬りにされて死んだそうです。捕えた部下が白状しました」
 ドラグートの報告であった。
「部下に対しても、ひどい仕打ちをしていたようです、自業自得ですな」
 つづいて戻ってきたアイディンが、一通り報告したあとで、言った。
「黒ひげの野郎を生きたまま捕らえて、髪の毛を引きむしって、耳をちぎり取って、目玉を殴り潰してやりたかったのですがね、部下どもに先にやられちまって、まだ腹の虫が収まっていないんですよ」
「なぶり殺しにあった仲間たちの恨みは、一応晴らせたのだ。みんなで仲間たちの霊を弔おうではないか」
と赤ひげが云った。ドラグートとアイディンは、うなずきながらも悔しそうに唇を噛みしめていた。