五、片腕の暴れ者
オールと帆の両方を備えた、当時としては最新型の大型快速船を建造した赤ひげは、得意満面であった。この快速船には、奴隷の中でもとくに体力のつよい者だけを選んで漕ぎ手とし、特に選ばれたものだけで斬り込み隊を組織した。この船を旗艦として地中海を荒らし回っていたが、ある日、この快速船一隻だけで、強風を頼りに猛スピードでエルバ島沖を通過していた。かねてから狙っていた、ローマ教皇ユリウス二世の派遣した超大型ガレー船が、ジェノバを出発してローマに向かっていることを、牒報員から知らされていたからであった。
 教皇の船は二隻で、ともに最大級の武装ガレー船だったので、艦隊をもって攻撃するより一隻だけで奇襲作戦を狙ったのである。二隻とも、貴重品を満載していたにもかかわらず、自らの武装体制に自信を持ち過ぎていたために、海賊に対する不安を忘れていた。二隻の船が十キロ以上も離れて航行していたことも、海賊にとっては幸運であった。赤ひげは快速船のスピードを落とさせて、敵に不安を抱かせないようにゆっくりと近づいて行った。  
案の定海賊船が一隻だけで、しかも自船に比べて半分にも満たないほどの小さな船で、襲撃してくるとは彼らは夢にも考えなかった。無造作に近づいた海賊船は、突如として大砲をぶっ放し、接舷すると矢を雨のように降らせ、アッという間に斬り込み隊がなだれ込んできた。斬りこみ隊の先頭は赤ひげ兄弟である。超大型ガレー船は赤ひげ軍団の二倍以上の兵を乗せていたが、何の準備もできていなかったため、赤ひげ軍団の前になす術もなく降伏した。海賊たちは兵士たちの武装を解除し、船蔵に追いたて数珠繋ぎにしておし込めた。
「船長、後続船もついでに頂こうではないか」
 ハイルッディンが突然言い出した。
「えっ?」
 と言ったきり、赤ひげは弟の顔を見つめた。
「続いてやってくる船は、十キロくらい遅れているはずだ。この船同様宝物を満載しているのだ、これを逃す手はないだろう」
「それはそうだが、もし気付かれたら元も子もなくしてしまうんだぞ」
 赤ひげは当惑していた。教皇の船は二隻ともおなじ大きさの巨大武装船である。まともに大砲の打ち合いをしたら共倒れの危険性が高い。この一隻を奪ったらすぐに逃走するつもりだった。周囲の声も皆反対であった。
「ここで欲張ることはないだろう」
「この船だけでも大戦果だ。滅多にない大収穫なのだから、すぐに引き上げたほうがいい」
 海賊たちは口々に反対の声をあげた。しかし、ハイルッディンは落ちついていた。
「これほどのチャンスは何年か、何十年に一度のことだ。この好機を逃す手はない。なーに、まともに戦う必要はない、今度はさらに騙しやすいのさ」
赤ひげは周囲の声をおさえて、弟に意見を言わせた。
「この船の乗組員の服をぬがせて、われわれが着るのだ。後続船が近づいてきたらみんなで手を振る。われわれの船をこの大型船に繋がせれば、前船が海賊船を捕獲したものと、思うかもしれない。まさか、海賊に乗っ取られたとは夢にも思うまい」
赤ひげは納得した。納得すれば、行動は速い。
「よーし、ハイルッディンの案で行こう。皆のもの、捕虜の服をぬがせて、すぐに着がえろ、後続船をお迎えするのだ」
またたく間に準備は完了した。待つほどもなく、後続船はなんの疑いも持たずに近づいてきた。充分に引きつけておいて、赤ひげは長剣を振り下ろした。大砲がいっせいに発射され、接舷すると矢が一斉に浴びせられ、再び赤ひげ兄弟を先頭に斬り込み隊がのりこんで、超大型武装船をあっさり占領してしまった。
両船とも、ムーア人が奴隷として繋がれていたが、鎖をとかれ、教皇の乗組員たちが、オールを握らされる羽目になった。海賊船は、二隻の超大型ガレー船と大勢の捕虜と財宝を満載して、アルジェに向かった。この事件は赤ひげを世界的に有名にしたが、同時に、アフリカ北岸一帯に巣喰う海賊たちの間に、一大センセーションをまき起こした。すなわち、大小の海賊たちがこぞって赤ひげの傘下に入るべく、続々と集まってきたのである。一五○四年のことであった。
同時に、赤ひげの真似をする俄か仕立ての海賊が溢れかえるほどに横行しはじめ、その結果保険料は跳ねあがり、交易は途絶え、ヨーロッパ世界は一時期恐慌を来たす有様となった。キリスト教圏の盟主と目され、世界最大の海運国であるスペインが最大の被害者であった。スペインのフェルディナンド国王は怒り狂って、みずから無敵艦隊を率いて海賊征伐に出発した。無敵艦隊はアルジェ、オラン、ブージの三港を攻め落とした。スペイン国王の怒りの前に、さすがの海賊たちも避難するほかに方法がなかった。
赤ひげ軍団はチュニスに逃れて、嵐の通過を待った。やがて講和条約が結ばれて、スペインはアルジェリアに対して、一定額の年貢をおさめる約束をさせ、アルジェ港の正面に位置するペニョン島に堅固な要塞を築いてしまった。赤ひげ軍団は、三年間に三度に亘ってブージの奪還を試みたが、いずれも撃退された。
しかも二度目の戦いで、赤ひげは火縄銃の弾丸をうけて左腕を失ってしまった。ハイルッディンは兄が倒れたのを見ると、全員に撤退を命じ、みずから血だるまの兄を担いで走った。船に収容すると、傷口につよい酒をかけ、布でかたく縛り上げた。赤ひげは気を失っていた。今は戦いの勝ち負けを考えている暇はなかった。赤ひげの命を取りとめたい一心で、艦隊は必死になって逃げた。追跡してくる敵艦との応酬は部下の艦に任せて、ハイルッディンはひたすら逃げた。
ジェルバ島に着いても、赤ひげは意識を取り戻さなかった。多量の出血で顔面は蒼白というより土気色に近く、命が危ぶまれた。出迎えた妻のアン・ケリーが、医師をよんで応急手当を施した。しかし助かるかどうかは、五分と五分という診断であった。夜中に意識を取り戻した赤ひげは、激痛にうめいた。高熱を発していた。
「酒をもってこい!」
 赤ひげはベッドの上で喚いた。ベッドの脇に座り込んでいたアンは、ハイルッディンの顔を見た。
「持ってきてやって下さい。普通の人間なら酒なんかとんでもない話だが、兄貴は並の人間じゃない。逆療法もいいかもしれない」
 ハイルッディンはワインをアンから受けとると、医師の置いていった鎮痛剤と一緒に飲ませた。全身に大汗をかいてうなりつづけていた赤ひげは、やがて眠りに就いた。朝までに何度か目を覚ましては、ワインと鎮痛剤をのんで眠った。夜が明けると、赤ひげの顔に血の気が戻ってきていた。ひじの少し上から、片腕がそっくりなくなってしまったのである。激痛に変わりはなかったが、どうやら一命は取りとめた様子が見られて、一同はホッと一息つくことができた。
「並の人間じゃないことはよく分かっていましたが、お酒を飲ませることは、殺すようなものじゃないか、と恐ろしかった」
 アンはつぶやくように言った。ハイルッディンはうなずいた。
「普通の人間なら死んでしまうだろうけど、兄貴は大丈夫だ。昔、海賊船に囚われていたときに、鎖を引きちぎって逃げてきた男だ。人間というよりライオンに近い生命力だ」
「昨夜の唸り声は、本物のライオンみたいだった」
 アンは含み笑いをしながら、赤ひげの寝顔に見入った。アンの表情も幾分穏やかになってきた。赤ひげは奇跡的に回復した。持ち前の腕力は片腕になっても、以前と同じ剛剣を振りまわし、闘志はいささかも衰えなかった。
 一五一六年、スペイン国王フェルディナンドが逝去すると、アルジェリアはムーア人を中心に決起して、スペインと戦うべくアラビア人のサリム・テウミを指導者として迎えた。テウミは、ただちにぺニョン島の要塞を封鎖した。しかし、全体として兵力が不足していたので、赤ひげに応援を求めた。要請をうけて、赤ひげは三千人の兵を率いて乗り込んできた。アルジェリアの国民は、赤ひげ軍団を歓呼の声をもって迎えた。
スペインはカール五世があとを継いだ。彼はみずから艦隊を率いることはせず、提督ドン・デベロに命じてアルジェリアの鎮圧に向かわせた 無敵艦隊は百五十隻のガレー船に、三十隻のギャリオット船という編成で、兵員は一万五千人であった。これに対して、テウミを首領と仰ぐムーア人は、陸上で迎え撃つ準備をしていた。
赤ひげ艦隊はムーア海賊を統合して、アルジェの港にむかう無敵艦隊の背後を襲うべく、近くの港に潜んで時を待った。無敵艦隊が全艦アルジェ港に入るのを待って、赤ひげ艦隊は出発した。赤ひげ艦隊の出航直後に、暴風が襲来したのを察知したハイルッディンは、港へ引き返すことを赤ひげに献言した。
「この波の大きさは、ただ事じゃない、すぐ港へ引き返そう」
 赤ひげは大きくゆれる甲板を両足で踏みしめたまま、すぐには返事をしなかった。アルジェの町は砲撃で、壊滅的な打撃を受けているに違いないことを察していたから、引き返すことに躊躇したのである。住民は先に避難させてある。ムーア人の守備兵は数の上でもスペイン軍に敵し得ないことは明白であったから、内陸深く引き込んでゲリラ戦をするよう、テウミと打ち合わせてあった。長期戦になることは分かっていたが、暴風に尻尾を巻いて引き下がることは、赤ひげのプライドが許さない一面もあった。ハイルッディンは兄を宥めるように言った。
「この暴風はとてつもない大きさだ、われわれがやらなくとも、暴風がスペイン艦隊をやっつけてくれるよ。ムーア人たちは、上陸したスペイン軍の補給が途絶えたところをたたけば、わけなく勝てるだろうよ。われわれは、暴風が収まりはじめたところへ出向いて、よれよれの無敵艦隊を叩けばいいのさ」
「うん、そうするか。テウミひとりに苦労させて、すまないような気もするが、今出て行けばこっちもお陀仏だろうからな」
 ハイルッディンの予想通り、スペイン軍はムーア人を組みしやすしとみて、充分な補給を考えずに上陸した。そのため、暴風の中でたがいに衝突しあうことを避けるために、沖合いにでた艦隊から補給を受けられなかった。十一月の寒さと飢えで兵は立ち往生してしまった。そこをムーア人の逆襲にあって、大損害を蒙った。スペインに復讐を誓うムーア人たちは、テウミの下で結束して懸命に戦った。
 暴風は三日間つづいたが、静まるとみるや赤ひげ艦隊は、アルジェ港の沖合いを漂流している無敵艦隊に襲いかかった。ちりぢりになって逃げまわる敵艦を追いまわして、数十隻にものぼる艦船を捕獲して、意気揚々とアルジェ港に入港した。ムーア人たちは歓呼の声をあげて、赤ひげ兄弟を称えた。
提督ドン・デヴェラは命からがら母国に逃げ帰ったが、兵員の損害は七千人にものぼった。一方、迎え撃った側も暴風の中での戦闘で、テウミが戦死するという悲劇があった。アルジェリア中に悲しみが拡がったが、赤ひげを新指導者に担ぐことで、その悲しみを忘れようとした。赤ひげはオスマン帝国の臣下、という名目で単独の指導者となり、以後着々と支配地域を拡大して行き、やがてアルジェリア全域を支配下に治めることができた。
 しかし、スペインは赤ひげの跳梁を許さなかった。一五一八年、一万人の兵をのせた無敵艦隊を出撃させた。提督はオラン総督のコマレスであった。赤ひげはアルジェに近いティリムサーンという町に、千五百人の兵を率いて駐屯していた。それを聞き込んだコマレスは、アルジェ行きを変更してこの町を急襲した。赤ひげは不意を襲われて、船を出すことができなかったので、やむなく陸路アルジェに向かって逃走を図った。
アルジェにはハイルッディンと多くの仲間がいる。アルジェに逃げ込めば何とかなる。ゲリラ戦を戦うことも、船で逃げだすことも、反撃することも可能だ。赤ひげは千五百人の兵を率いて、必死の思いで砂漠や山道を走った。けわしい山岳地帯を登る時に、スペイン軍が急追してきていることに気がついて、彼は部下に命じて宝石や金貨を道に撒かせた。
ぬかるんでいる所や崖下にも撒いて、スペイン軍の追跡を遅らせるように図った。スペイン兵たちは争ってそれらを拾い集めたために、赤ひげ軍団は無事にサラド川まで辿り着くことができた。しかし、この頃になって部下たちに疲労の色が濃くなってきた。赤ひげは部下を叱咤激励しながら、川を歩いて渡り始めた。川幅は広く、中央部は深かったので泳いだ。流れは見た目よりかなり速く、みな難渋した。
彼は泳ぎながら考えた。敵も相当に難渋することは間違いないから、岸に兵をあつめて反撃しよう。逃げるにしても、敵に相当な損傷を与えてから逃げることが得策と考えられた。川を渡り終えてから振り返ると、向こう岸で疲れ果てた部下の最後尾が、スペイン軍に捕捉されていることに気がついた。百人前後の兵が、追いすがるスペイン兵たちと斬り合いを始めていた。参謀たちは
「この機会に逃げましょう。仲間達にはすまないけど、救う事はできません。さあ急いで!」
 と赤ひげを急かせたが、彼は首を横に振った。
「長年ともに戦ってきた戦友を、見殺しにはできない、お前たちは逃げろ、わしは行く」
 そう言い残して、彼は今渡ってきたばかりのサラド川に再び入って行った。後につづく者は一人もいなかった。やがて川を渡り終えると、赤ひげは単騎敵陣に斬りこんで行った。片腕ながら、向かうところ敵なしの暴れぶりであった。対岸から手を拱いて見守る味方は、目を覆いたくなる思いであった。
斬りつけられても怯むことなく、仲間を助けに走りまわる赤ひげの姿が見え隠れしていた。 だが、次第に数を増してくる敵兵の中に呑み込まれて行き、ついにその姿は見えなくなった。赤ひげの勇姿は長い間、人々の目に焼きついて離れなかったと言われる。赤ひげは死んだが、その名は残った。ハイルッディンが兄のあとを継いで首領におさまると、仲間たちは同じく赤ひげ船長、と呼ぶことになった。
赤ひげの名は、元はヨーロッパの人々が彼を恐れて名づけたものであった。原名はバルバロッサである。二代目赤ひげは兄と同様に体力、胆力に優れ、さらに、兄にはなかった政治的な思慮分別があったため、勢力は格段の差で拡大した。二代目が最初に行ったことは、イスタンブールに出向き、スレイマン皇帝に拝謁することであった。
 一五二〇年、セリム一世の跡を継いだスレイマンは、二十五歳の青年皇帝であった。赤ひげは皇帝に拝謁した後、イスタンブールにとどまって宮廷の様子を観察していた。 大宰相イブラーヒム以下の高官たちと、どう付き合えばいいのか。イエニチェリと呼ばれる特殊親衛隊とはどのような存在なのか。さらに、ハーレム内部の人間関係など知りたいことは山ほどあった。
 スレイマン皇帝は、就任した翌年二月にハンガリー征服のための軍を起こした。赤ひげは群集に混じって、その出発を見送りにでかけた。イスタンブールを出発してハンガリーに向かう皇帝の進軍は、目を見張らせるほどの素晴らしい光景であった。まず先頭は、近衛兵六千騎の行進であった。彼らはキラキラときらめく鞍と、馬具をつけた逞しい馬にのり、ビロードや絹の衣装を纏い、肩には弓、右手に短い剣、左手には矢と盾をもち、鞍には槌矛をさげ、胸には宝石で飾られた三日月刀を帯びていた。
青い色のうすい木綿の被り物の上には、黒い飾り羽をはためかせていた。彼らは不思議なことに、兜も鎧も身につけてはいなかった。近衛兵のあとには、イエニチェリとよばれる特殊親衛隊がつづいた。彼らは服装はごく簡素であったが、一本の羽のついた先端が背中にまで垂れているフェルトの高い帽子を被っていることが、ひときわ目をひいた。その後には宮廷の高官たちと、弓を手にした歩兵の集団がつづいた。 
やがて、皇帝が見事な駿馬にうち跨って登場した。スレイマンは刺繍のついた絹の衣服をまとい、頭にはダイヤモンドと、宝石の飾りピンをつけた丈の高いターバンを被っていた。三人の小姓がおのおの水差し、外套、手箱を捧げて従った。最後に、皇帝の身辺につかえる宦官と親衛隊がつづいた。親衛隊は二百名位であった。戦いへのパレードは、大使たちから報告を受けるにちがいない各国の皇帝や王に向けられた、デモンストレーションであった。
赤ひげはその威容に打たれた。皇帝はきっとハンガリーとの戦いに勝つにちがいない、と信じた。ベオグラードを占領したという戦勝の知らせが、まもなくイスタンブールに届いた。オスマントルコの勝利は全世界にひろまり、最初にロシアとヴェネツィアの使節が、皇帝に祝意を表明しにおとずれた。
赤ひげは感激して、イスタンブールを離れた。スレイマン皇帝の人柄、手腕、公正さなどを人からも聞き、自分の目でも確かめて、充分に納得がいった。翌年六月スレイマンは、トルコ半島の南に位置するロードス島の、聖ヨハネ騎士団に対する攻撃に進発したことを、赤ひげはアルジェで知った。
 皇帝は、このキリスト教徒たちの海賊行為に少なからず腹を立てていた。エーゲ海を荒らしまわる彼らは、オスマン帝国にとって目の上の瘤であった。皇帝の軍隊はウスキュダルから陸路を通って、ロードス島に向き合うマルマリスに到着し、そこから船に乗った。
このときから以後、陸戦隊が進発するのは、すべてウスキュダルからと定められた。二ケ月間に渡る激しい攻防の末、騎士団はついに降伏した。鉄の規律と最大の防塁とを誇った騎士団も、キリスト教各国からの救援がなく、弾薬も食料も尽きてしまった結果だった。
生き残りの二百人の騎士と千六百人の兵はロードス島を退去したが、落ち着くべき先もなく、キリスト教各国も引き取らなかったので、以後八年もの間各地を流浪することになった。八年後、騎士団はローマ教皇からシチリア島の南に位置する、マルタ島というごく小さな島をあたえられ、そこに堅固な要塞を築きあげる。ロードス島攻略の報せをきいて、赤ひげはスレイマン皇帝に対する尊敬の念を一層深めた。
 皇帝はキリスト教徒やギリシャ正教徒、ユダヤ教徒らに対して寛容で、自身は敬虔なイスラム教徒でありながら、他教徒を差別せずに国内に住まわせ、それぞれの宗教活動に対して干渉することは一切なかった。しかし、騎士団の海賊行為だけはあまりにも目に余ったのである。
 赤ひげは、騎士団の退去には心底ホッとしていた。彼らがあまりにも強力で、まともに戦ったのでは、損害が大きくなりすぎる恐れがあるため、戦いを避けていたからである。オスマン帝国は、その後も順調に拡大をつづけていた。オーストリアの征服を目指したときは、寒気と大雨に阻まれて、あと一歩のところでウイーンを落とすことができなかったが、東はイランを圧迫して、イラクのバグダッドを征服し、南はエジプトを完全に掌握していた。
 ドイツは、オスマン帝国の拡大路線に対して重大な懸念を示したが、勃興期のプロテスタント勢力を懐柔して国内を一致団結させる必要から、カール五世はそのエネルギーの大半を割かねばならず、動きがままならなかった。ドイツにおける神聖ローマ帝国の皇帝は、スペインとフランスによって争われたが、ヨーロッパ各国による選挙で、スペインが勝った。そのため、カール五世はドイツ皇帝を兼任することになったのである。
 彼は、オスマントルコの拡大路線を封じるために、無敵艦隊をもって海上からトルコを牽制する意図をもっていた。赤ひげは、なみなみならぬ頭脳と諜報網とによってこの政治機運を掴んだ。すなわち、アルジェリアの領土をスレイマン皇帝に献上し、自らはオスマン帝国の領臣になる、と申し出たのである。
 スレイマン皇帝はエジプトに拠点をもっていたが、トルコからは遠く、またスペインとは目と鼻の近さにあるアルジェリアという重要な地域を、領土に加えられることを大いによろこんだ。皇帝は大宰相イブラーヒムを呼んだ。
「赤ひげにはアルジェの総督という身分を与え、親衛隊員を二千名程与えようと思うが、いかがじゃ」
 イブラーヒムは皇帝の言葉を聞くと、しぶい表情をつくって見せた。
「お言葉ですが、赤ひげという男は海賊でございます。いかにわが国にとって有用な人間とは申しましても、陛下が海賊行為をお認めになった、と国民が誤解しかねません」
「それはわしも考えたのだが、将来スペインの無敵艦隊と、全面的に戦わねばならぬ時が来るであろうことを考えると、ああいう男が必要になるはずなのだ」
「と申されますと、赤ひげをわが帝国海軍に登用されるお考えでございましょうか?」
「一口に言えば、わが連合艦隊の指揮を執らせることになるであろう。アルジェの総督に据えるのは、そのための布石と考えているのだ」
「陛下、お待ちください。いくらなんでも、それは暴論と申すものです。海賊といえば強盗、追い剥ぎと同様でございます。そのようなものを陛下の臣下とするだけでも、国民の批判を浴びる恐れがあるというのに、わが海軍の指揮を執らせるとは、それはあまりな暴論、と申すものではありませんか」
「ハツハツハツ・・・、そちは相変わらずもの堅いのう。まあ、国家の経綸を司る大宰相はそのくらい堅い方がいいかもしれぬが。のうイブラーヒム、わが国とキリスト教国の連合体との対立は、ごく近い将来極点に達するであろうことを考えよ。陸上における戦いは、わしが直接指揮を執ることができるから良いのだが、海戦となると、わが国は歴史が浅い。スペインの海軍は永い歴史をもっているのに対して、わが海軍は艦船も少ないし、技術的にもほとんど素人に近い。海戦にもっとも手馴れたプロは海賊なのだ。現在のわが海軍に、赤ひげほどの経験を積んだ有能な者がいるだろうか?」
「赤ひげは、それほど優秀でございましょうか?」
「うむ、すばらしい男だと思う。考えても見よ。小さなギャリオット船一隻から海賊業を始めて、アルジェリア一国を切り取るまでになったのだ。わが国民の中に、これほどの男が一人でもいるだろうか」
「それはそうでありますが、腕力にまかせて非合法な商売をやったのですから、天下の大泥棒ではあっても、天下一の才能と申せるかどうか」
「海賊という商売に成功するためには、戦いに強いことは勿論であるが、航海術や砲術にも長じていなくてはならず、さらに品物を売り捌く才から、ならず者揃いの部下を操縦し、金銭欲に目のくらんだ各地の総統どもと、渡り合わねばならないのだ。その上、ムーア人たちの信望を得たのは、無敵艦隊を恐れずにスペインと戦ったからこそだと思う。これほどの才能と勇気を持ち合わせたものは、国家を治めることができる、と考えられるのだ」
「そういうものでございましょうか」
「許されるものなら、赤ひげを大宰相に登用したい位だが、そう言ったのではそちの立場がないであろうから、連合艦隊の司令長官止まり、ということにしたいと考えたのじゃ」
「そこまでお考えでございましたか、恐れ入りました」
「もっとも、今すぐに長官に任命することは、多くの人びとの批判があることは承知しておるから、段々にそうしてゆく事にしたい、と考えておるのだが」
「段々がよろしゅうございます」
「そちが承知しておいてくれれば、わしもやり易い。では、赤ひげをアルジェの総督に任命し、親衛隊二千名をあたえるよう指示してもらいたい」
「かしこまりました」
 イブラーヒムは皇帝の妹を妻とし、権勢並ぶ者なしと豪語していたが、この皇帝の頭脳にはついて行けないものを感じていた。一方赤ひげは、スペインが地中海を制圧すべく、大きく動き出す時が近づいていることを、ひしひしと肌に感じていたから、皇帝の厚遇を素直によろこんだ。
「わが海軍は、やがて赤ひげを必要とする時がくるであろう」
 スレイマンは含みのある言葉をかけてくれた。皇帝の腹の内は読み切れなかったが、漠然とした期待感は残った。
 オスマン帝国という国は、オスマン族を中心とする中央アジアの遊牧民がトルコ半島に流入してできあがった国である。十五世紀のなかばに、スレイマンの曽祖父にあたるメフメット二世が、コンスタンチノープル(イスタンブール)を征服して以来、ヨーロッパと対等に向き合う国家となった。その歴史を考えるまでもなく、海軍の歴史は浅く、艦船の質量も人材も共に不足していることは自明の理であった。
「トルコ海軍を指揮するのは、自分が最適任のはずだ」
 と赤ひげは思う。とはいっても、海賊の親分が連合艦隊の司令長官になる、などという夢のようなことを本気で考えたわけではない。
「しかし、夢の実現のために、第一歩をふみだしたのだ」
 かすかに円みを帯びた、水平線に沈み行く夕日を眺めながら、赤ひげの胸は大きく膨らんでいた。アルジェの総督の辞令が下りると、赤ひげはさらに活発な活動を開始した。近隣を征服したり、隣国と同盟を結んだりして、アルジェリアの基盤を固めることに腐心した。スペインが苦労して奪い返した沿岸の町を、ひとつずつ取り返して行き、アルジェの港口にあるぺニョン島の砦だけが残った。
 この事態を憂慮したスペイン国王は、アルジェを奪還すべく五十隻の艦隊を派遣した。提督はドン・ウーゴ・デ・モンカーダである。わずか五十隻とはいえ、全船完全武装した超大型ガレー船である。数のうえではほぼ同数を有している赤ひげ軍団も、質においては問題にならない。戦力を一口に言い表すならば、約半分位ということになろう。モンカーダ来襲の報せに、アルジェ中が緊張した。
「とうとう、スペインを本気で怒らせちまったな」
 赤ひげは、苦笑しながら座り直した。緊張感に震える部下たちを、落ち着かせるために、彼はゆったりした口調で話しはじめた。
「モンカーダにしてみれば、アルジェに巣食う海賊ごとき、やっつけるのは朝飯前だくらいに考えているだろう。しかしだ、なめてかかって来るなら、こちらにもやりようはあるぞ」
 にやり、と笑ってみせる赤ひげの表情をうかがって、海賊たちはやや安堵した。
「どういう作戦を取りますか?」
「いくつかあるが、おまえたちは渡り蟹を捕える話を聞いたことがあるか?」
 部下たちは皆顔を見合わせた。
「わしも見たことはないのだが、何万匹という集団で渡る習慣をもった蟹がいるそうだ。この蟹の群れにはかならず斥候がいて、一匹だけが先行している。この斥候が捕まると、それを見た群は迂回して逃げてしまう。そこで漁師はこの斥候をやり過ごしておいて、大群がやってくるところへ網を仕掛ける、というのだ。わしもこの知恵を借りようと思う」
「ということは、スペイン艦隊を、渡り蟹に例えているのですか?」
「そういうことだ。やつらを港の中へ目一杯引きつけておいて、網を仕掛ける」
「そうはいっても、超大型ガレー船じゃ、網で捕まえることは無理でしょう」
「ハツハツハ・・・、網とはいっても魚網じゃない。ま、わしのやることを見ればわかるさ」
 赤ひげは自信ありげに髭の中で鼻をうごめかせたが、幹部たちは不安げに顔を見合せた。謀報員の活躍で、モンカーダ軍の襲来が早くから掴めていた。赤ひげ艦隊は敵が襲来するであろう予定日の、一週間前に港外にでて姿を隠した。
一週間が過ぎたころ、モンカーダ艦隊がアルジェ郊外にその勇姿を現わした。完全武装した超大型ガレー船は、合計七千人の兵を乗せていた。モンカーダ提督は、港の手前で充分な偵察をしたあと、ぺニョン島の守備隊の先導で堂々と港内へ入ってきた。アルジェの市民は、砲撃戦に備えて内陸深く避難していて、まったく人の気配が感じられなかった。丘の上の要塞目がけて大砲を数十発撃ったが、なんの応答もなかった。
「全員逃げてしまったのだろう。たかの知れた海賊どものことだ、これなら無血上陸できそうだな」 
モンカーダ提督以下全員が、すでに勝ったような気分になっていた。先導船が岸に近づいて、安全を確かめた上で全艦隊が港内に入ってきた。その時、先導船をやり過ごした後に、艦隊の正面を横切る船が現れた。ギャリオット船が二隻並んでゆっくりと現れたが、うしろに小さな箱船を何百隻も曳航している。
「なんだ、あれは?」
 モンカーダ提督は、そばにいる副官に向かって叫んだ。副官たちも目をこすった。何百隻もの箱船は砕石を積んでいて、船の真ん中に鉄柱が何本か立っているだけで、人の気配はなかった。箱舟はすべて鎖で連結されていた。無敵艦隊の堂々たるパレードを遮る艦船などあろうはずはない。なにごとか、とみんなが見とれている間に箱船の列は艦隊の針路を塞いで止まった。曳航してきたギャリオット船は、ロープを外してアッという間に姿を消してしまった。モンカーダ提督はいらだたしそうに叫んだ。
「こんな邪魔物は沈めてしまえ!」
 その一声で、前列のガレー船から一斉に砲撃が始まった。箱舟はまたたく間に全船沈められた。しかし、砲煙が静まって初めて気がついた。太い鉄柱が海面から数メートルの高さで林立して、大型ガレー船が通り抜けられない程の幅に立ちはだかっていたのである。
「われわれを、上陸させないための手段でしょうか?」
 副官の一人が、提督の横顔を見た。
「こんな程度のもの、何とかならぬか!」
 モンカーダはいらだっていた。
「おそらくあの鉄棒は、石で固定されているでしょうから、船が体当たりしても、こちらのほうが傷つくだろうと思われます」
 べつの副官が言った。ほかの副官たちもみな悲観的な意見を述べ立てた。モンカーダは唇をかみしめて、鉄棒の林を睨みつけていた。その時、
「港口をふさがれました」
 という伝令の声がきこえた。伝令によると、全艦隊が港口に入ったと同時に、前方を塞いだのとおなじ方法で箱舟が並んだということであった。その言葉が終らないうちに、アルジェの要塞から砲撃が始まった。しかしその砲撃は、艦隊に向かってではなく、すべて箱船に向かってであった。アッという間に箱舟はすべて沈められた。
「しまった、われわれを、港の中に閉じこめようというのか」
 モンカーダが天を仰いだ時であった。港の入り口ちかくに姿を現した赤ひげ艦隊が、縦一列にならんで、いきなり大砲を撃ちかけてきた。先頭の一隻が大砲を撃ちつくすと、全力でUターンして逃げだし、その後をつぎの船が引きうけて砲撃し、撃ちつくすと後続船に交代した。要塞からの砲撃も同時に開始された。無敵艦隊もすぐに応戦体勢に入ったが、せまい範囲に閉じ込められてしまったため、のろのろと動きまわるだけで海戦に必要なスピーディな進退ができない。
超大型ガレー船の砲撃力は凄まじい威力があるのだが、縦一列に並んで一隻ずつしかやってこない赤ひげ艦隊を、正確に捕えることは至難の業であった。おまけに、要塞からの砲撃は高い所から狙って撃ってくるだけに、精度が高く、二、三の砲台が吹っ飛ばされたものの、猛烈な攻撃がつづいた。
 やがて無敵艦隊五十隻のうちの、二十隻以上が炎を上げ始めた。それに対して赤ひげ艦隊は、ほとんど無傷であることに気がついたモンカーダ提督は、降伏を決意せざるを得なかった。赤ひげの鮮やかな勝利であった。生き残ったスペイン兵は捕虜となり、ガレー船を漕がされてきたムーア人の奴隷は解放された。
のちにモンカーダ提督以下、司令、船長たちはスペイン海軍が大金を支払って釈放された。アルジェリア中が沸き返った。ことにムーア人たちにとって、赤ひげは神のような存在となった。赤ひげ軍団は、アルジェの東西にわたる沿岸全域を支配下に治め、勢いをかって船舶だけでなく、ヨーロッパの沿岸都市に対する略奪までやり始めた。