三、女海賊アン・ケリー
赤ひげ軍団は、日を追うごとに勢力を拡大していた。チュニスの西に位置するブージ、更に西のアルジェにも足場を広げた。アルジェには、十五世末にスペインを追われたムーア人が大勢住んでいた。彼らは、イベリア半島を制圧したフェルディナンド国王を憎み、復讐の機会をねらっていた。ムーア人は七百年以上も、ヨーロッパで生活していたにも拘らずフェルディナンドは、ほとんどのムーア人をアフリカへ追い返してしまったからである。
貧しいアフリカの北岸に、数万人にものぼるムーア人が、難民としてやってきたのである。彼らは海賊になる以外に、生きる道がなかった。かれらは誇りたかく、洗練され、かつ好戦的であった。スペイン語を話し、スペイン人の貿易の慣習を熟知していた。憎むべきスペインの商船を襲って生活の糧を得ることは、彼らにとってもっとも良い生活法であった。赤ひげ軍団はアルジェに足場を置くことで、ムーア人を仲間にひき込むことを考え、大きく根を張りだしていた。
 この日、赤ひげは弟に留守を任せて、三隻のガレー船を率いて、シチリア島の近くへ出かけていた。軍団の猟場は、オスマン帝国の海軍との接触をさける意味でも、しだいに西地中海に移りつつあった。赤ひげは旗艦の甲板上で、おだやかな海を眺め渡していたが、ジェノバのガレー船が三隻、急ピッチで漕ぎ寄せてくることに気がついた。商船ではない。とすると、ジェノバの海賊か。漕ぎよせてくるということは、喧嘩を売りつけるつもりか。赤ひげ艦隊に緊張が走った。
海賊同士の戦いは、ない訳ではなかったが、普通はお互いに避けあうものである。商品を満載した商船を襲うことが、海賊の商売である。まして、赤ひげ軍団と知って襲いかかってくる海賊は皆無であった。しかし三隻のガレー船は、スピ―ドを落とさずにぐんぐんと接近してきた。
三隻の艦隊が迎撃体勢をとる間もなく、ジェノバ艦から大砲が撃ち始められた。大砲の撃ちあいがしばらく続くと、敵船は三隻とも、赤ひげの旗艦めがけて接舷してきた。弓矢と鉄砲の応酬のあと、斬り込み隊数十名が乗り込んできて、甲板上で斬り合いがはじまった。赤ひげは、先頭にたって迎え撃った。しかし、ジェノバ海賊の勢いはすさまじく、赤ひげ側が、守勢に立たされるほどであった。そのとき、斬りこみ隊の中から細身の男がとびだしてきた。
「赤ひげ、夫の仇、覚悟しろ!」
甲高い声であった。赤ひげは剣の動きをとめて、声の主を見つめた。
「何だ、女じゃないか」
若い女であった。黒い帽子をかぶり、白いシャツの上に真紅の上着をきて、黒いズボンをはいた女が、長剣を握りしめていた。赤ひげは目を丸くしたが、やがて、相手が女海賊アン・ケリーであることを悟った。一年ほど前から、アフリカの沿岸部に巣食う、バルバリア海賊だけを狙って、襲いかかる女海賊がいることは耳にしていた。彼女の夫は、ジェノバ商船の船長をしていたが、バルバリアの海賊と闘って戦死したため、夫の仇を求めて海賊になった、という噂であった。
バルバリアとは、アフリカ北岸部のベルベル族から派生した言葉で、地中海に面した北岸部一帯を指すようになった、と云われる。アン・ケリーはすらりと背が高く、均整のとれた体つきであった。怒気を含んだその表情は美しく、また妙に色気がある、と赤ひげは思った。しかし、彼女の夫の仇が自分だとは知らずにいたので、剣先が鈍った。そこへ、アンの長剣が切っ先鋭く、踏み込んできたので、後ろへ一歩飛び退いた。
「亭主の仇か・・・女だてらに海賊になって敵討ちとは、見上げた心がけだ。お前の亭主の面はおぼえていないが、仇だというんなら、相手になってやろう。皆の者下がれ。わしはこの女と一騎打ちをやる」
赤ひげの部下たちは一斉に下って、甲板に空き地をつくった。それを見ると、アンの部下たちもさがった。赤ひげは背丈こそ普通であったが、半そでシャツ一枚の上半身は、筋肉がもり上がって、毛むくじゃらの腕は、丸太ン棒を二本ならべたようであった。対するアンは、身長は赤ひげより少し低いくらいで、女性としては長身のほうであったが、赤ひげと比べると、あまりにも細く、華奢であった。気魄だけで勝てる、とは誰の目にも思えなかった。そのとき、アンの後ろにいた大男がつと前に出た。
「姉さん、この相手じゃ無理だ。この勝負はぼくに任せてください」
 二十台の前半と見られる、弟らしき大男を見て、赤ひげの部下たちに緊張が走った。斬り込み隊の先頭に立って、乗り込んできた男であった。
「おれはケリー船長の弟だ、この勝負はおれが相手だ!」
アンは義弟の前にでて叫んだ。
「あなたは引っ込んでいて。まず私がやる。私の剣で、この憎っくき赤ひげを倒して見せる!」
赤ひげは、ちょっと戸惑ったように二人の顔を見比べた。
「姉さんだめだ、ぼくに任せてもらいたい」
弟がふたたび前にでた。赤ひげはそれを見ると、怒気をふくんで目を剥いた。
「ええい面倒だ、二人で一緒にかかって来い!」
姉弟は目を見交わして肯きあうと、左右に飛んで、赤ひげを挟撃する形で身構えた。赤ひげは口元だけで薄く笑って、右側の弟のほうへ一歩近寄った。
「青二才、死にたいらしいから、先に死なせてやろう」
 と言って、更に二歩近寄った。その隙を見つけて、アンが左側から跳躍して赤ひげに斬りかかった。が、それより一瞬速く、赤ひげは右側の弟に向かって、大きく跳躍して斬りかかったので、アンの剣は空を切った。赤ひげの剛剣を頭上で受けとめた弟は、その勢いの凄まじさに、のけぞる形になった。赤ひげの剛剣は、跳躍した姿勢から甲板に降り立つ前に、弟の胴を横に斬りはらっていた。 その見事な剣さばきに、アンを始めとして、その場に居合わせた誰もがみとれた。
弟はゆっくりと崩れるように倒れて、転がった。誰の目にも、即死であることがわかった。赤ひげはアンに向き直ると、血刀を縦にびゅうっと振った。剣についた血が飛んで、アンの頬にななめに降りかかった。アンは頬の血を拭おうともせずに、赤ひげを睨み返した。気息を整えると、気合もろとも跳躍して、真正面から斬りかかった。しかし、アンの剣ははじき返されて、三メートルほど後方に跳ね飛ばされて、尻餅をついた。それでもアンはすぐに飛び起きると、顔をゆがめて剣をかまえ直した。
「よく見ると、なかなかの美形じゃのう」
この場の緊張した空気にそぐわない、赤ひげの間延びのした声がひびいた。アンは日焼けこそしていたが、切れ長の大きな目と、形のいい口元が、女らしい色香を漂わせていた。
「赤ひげ、覚悟しろ!」
 アンの甲高い声がひびきわたると同時に、するどい跳躍とともに、ふたたび長剣が襲いかかったが、今度もはじき返されて、ふたたび尻餅をついた。
「なかなか魅力的な体をしておるのう」、
 赤ひげののんきそうな声が、上から降ってきた。アンの胸元のふくらみや、くびれた腰のあたりを眺め下ろしながら、赤ひげは、好色そうな表情を隠そうともしなかった。そのとき、アンの部下たちが喊声をあげて赤ひげに斬りかかった。それと同時に赤ひげ軍団も応戦して、ふたたび乱闘になったが、それも三十分ほどで終わった。アンの部下たちは、斬り死にした者や、海へ蹴落とされた者等が相次いで、一人もいなくなっていた。
アンは赤ひげの峰打ちで気絶していた。戦いが終わると、アンの率いてきた三隻のガレー船を伴って帰路についた。船長室のベッドの上で、アンはまもなく息を吹きかえしたが、目の前にすわっている赤ひげを発見して、腰に手をやった。しかし腰に短剣はなく、起き上がろうとすると首筋が激しく痛んだ。アンは、それが峰打ちのためであることを思い出して、赤ひげを睨みつけた。赤ひげは椅子にすわって酒を飲んでいたが、アンが蘇生したのを見ると、親しげな笑みをうかべて話しかけた。
「女にしてはするどい剣さばきだった。わしの部下たちだったら、斬られていたかもしれない。おまえの亭主をわしが殺したらしいが、正直のところ、顔も覚えておらんのだよ」
アンは首筋の激痛に顔を歪めながらも、ベッドの上で身構えた。目が室内をさ迷っている。武器を探していた。
「剣が欲しいか?しかし、何度やっても無理だ。どんなに強い男でも、一対一ではわしに勝てる奴はいないのだから。まあ、諦めることだな」
そう云いながら、赤ひげはグラスの酒をひと息に飲み干した。アンは口惜しそうに赤ひげを睨みつけていたが、彼が右手にもった酒ビンから、左手のグラスに注ぎはじめた瞬間を逃さずに、飛びかかって赤ひげの腰から短剣を抜き取った。アンは短剣を握るとすぐに飛びのいた。そして、ベッドの脇でひくく身構えた。赤ひげに油断があった。彼は長剣を腰から外していたので、丸腰だった。せまい室内のことで逃げ場がなく、しかも、剣を立てかけてある壁までは手が届かなかった。
 アンの鋭い切っ先をかわせるかどうか、さすがの赤ひげも緊張せざるを得なかった。二人の距離があまりにも近すぎた。低く構えるアンに合わせて、自分もひくく身構えて彼女の攻撃を待った。アンは呼吸を測っていたが、ジャンプして顔面を襲うとみせて、次の瞬間、下腹部をめがけて短剣を突きだした。しかし、赤ひげはそれを正確に予測していた。
左手でアンの手首を素早くつかんだ。驚くほどの強い力で手首を掴まれて、アンは声にならない悲鳴をあげたが、あっという間もなく、短剣をたたき落とされていた。あわてて短剣を拾おうとしたところを、肩口を突き飛ばされて、アンはベッドの上に転がった。赤ひげは、その体をめがけて飛びかかった。ベッドの上で、赤ひげの巨大な筋肉が、アンの体を抑えつけていた。
「けだもの、海賊の風上にもおけない下司野郎め!」
 アンは組み敷かれながらわめいた。赤ひげは、押さえつけていたアンの腕を放した。
「わしは、女を力ずくで犯したことは、一度もない、見損なうな」
低い声で叫ぶと、ベッドからひらりと飛び降りた。しかし、アンは組み敷かれた姿勢のままじっとしていた。
「明日の朝まで寝てろ、わしは甲板で寝る。そこの戸棚に飲み物も食い物もある。遠慮しないで、ブドー酒でも飲むがいい」
 赤ひげは、それだけ言って部屋をでて行った。アルジェに向かって走りつづける船上で、アンは気の遠くなるような長い夜を過ごして、ようやく朝を迎えた。髪と襟元を整えると、船長室をそっと抜け出して甲板へでた。水平線から昇り始めたばかりの朝日を眺めながら、揺り椅子にすわっている赤ひげの後姿が目に入った。甲板に船員の姿はなく、奴隷たちのオールも止まっていた。
しのび寄って赤ひげの腰から長剣を抜きとれば、今度こそ殺せる、と思った。アンは靴を脱いで裸足になると、音を立てないように、そっと背後にしのび寄った。赤ひげが眠っていてくれることを、祈る気持ちであった。あと一歩というところで、赤ひげは揺り椅子ごと振りかえった。アンが、ハッとするほど親しげな、明るい目であった。彼女は不思議なものを見る目で、赤ひげの目を凝視した。
「その顔はあんまり眠れなかった顔だな、せっかくの別嬪さんも目が血走っていたんじゃ、恐ろしくていけねえ。一杯ひっかけて寝直したほうがいいな」
赤ひげはそれだけ言うと、何事もなかったように、椅子ごとくるりと背をむけて朝日を眺めた。水平線を離れてゆっくりと浮きあがった朝日は真っ赤で、驚くほど大きかった。アンは、呆然としてその背を見つめていたが、やがてガクッと膝を折って、甲板に座りこんだ。
「私の負けです。あなたには勝てません。あなたの気の済むようにしてください」
首をうなだれて、つぶやくアンに対して、赤ひげは
振り返ろうともせずに、椅子を立って、船の舳先のほうへ歩いて行った。アルジェの港に着くと、ハイルッディンが出迎えた。長身で均整のとれた偉丈夫であるが、顔立ちは兄とよく似ていて、髪とひげが真っ赤なところまで、そっくりであった。
「ハイルッディン、お前へのお土産だ。ジェノバの女海賊さ、イタリア女もたまにはいいだろう」
 赤ひげは、後について俯いて歩いてくるアンを、顎でさした。アンは驚いて顔を上げた。
「ほう、これだけの美人をおれにくれるのか?」
 弟は、まぶしそうな表情でアンを見た。
「この女の亭主を俺が殺したらしい。おれはその男のツラも覚えていないんだが、おれは仇ということだ。いくらなんでも、仇の女房と寝るのは、如何にこのおれでも怖いからな」
 赤ひげは大声で笑ってみせた。その時,アンが叫んだ。
「赤ひげ船長、あなたがどういう人間なのかよく分かりました。私をあなたの妻にしてください。夫の仇を討つのはもうやめました」
「えっ」
 と言ったきり、赤ひげはその目を見つめた。アンは真情を澄んだ目に表して、赤ひげをまともに見つめた。
「ふーむ、おいハイルッディン、妙な雲行きになってきちまったぞ」
「よしわかった、兄貴のお土産は、気持ちだけいただいておこう」
 弟は豪快に笑ってみせた。鋭い目が明敏な頭脳を物語っていた。 

四,島の女
早春のさわやかな日ざしを浴びて、ハイルッディンは三隻のガレー船を率いて、コルシカ島のはるか南を航行していた。小石をばら撒いたように、数多くの小島が点在している。島と島の間を縫うように航行している時、突然の強風と高波で、近くの小島に吹き寄せられた。幸い砂浜が見えてきたので、風に押されるままに海岸に近寄ったが、どうやら、遠浅の海岸らしいことを悟って、ハイルッディンは船を止めさせた。
「これ以上近寄ると、砂洲にのりあげて、動けなくなってしまう」
そうつぶやきながら島の景色を眺めた。初めてみる島であった。さして広くもない海浜は、周囲を緑に囲まれていて美しい景色だったが、人の気配はなかった。
「人が住んでいるかどうか、ひとつ探検してみようか」
ハイルッディンは、近くにいた部下に話しかけた。
「行ってみたいですね」
と勢い込んで言ったのは、十八歳になるゼンキンだった。
「おれも行きます」
と、続いたのは二十歳のレイテルである。
「よし、それじゃ二人でボートを漕いでくれ、後のものは留守をたのむぞ」
浜辺に着くと、ボートを砂浜に引きあげて岩陰に隠した。三人は砂浜を百メートルほど歩いて、海岸をとりまく森の中へ入って行った。森をぬけると野菜畑が拡がり、丘の中腹にはオリーブの林が見えた。
「人が住んでいるようだな」
「だけど、どうして人の気配がないんでしょうね?」
「海賊に襲われて、みんな連れて行かれたのでしょうか?」
「うむ、そうかもしれないな」
ハイルッディンは二人の若者を伴って、小高い丘に登っていった。丘の上から見下ろすと、人家が密集している風景に出会った。
「女の人が歩いていますよ」
「あつ、あっちにも、こっちにも、女ばっかりだ」
ハイルッディンは小手をかざして、日の光を避けながら眺めわたして
「男の姿が見えないな」
と、つぶやいた。
「あんまり変わり映えのしない島だな、戻ろう」
と二人に言って、丘を降りはじめた。森をぬけて海岸に出たとき、白いワンピースを着た女がひとり、水辺に立っているのが目に入った。女は三人の男たちが、背後から見つめていることに気がつかないらしく、海に向かって立ち尽くしていた。
二百メートルほど沖合いに停泊している、三隻のガレー船をながめている様子であった。ハイルッディンはふと、その女に興味をもった。何の変哲もない白のワンピースであったが、後姿が一幅の絵のように美しくみえた。二人の若者に、口に手を当てて、しゃべらないように指示すると、彼は足音を立てないように、ゆっくりと女の背後に迫った。二人の若者も心得顔に左右に散開して、そっとしのび寄った。人の気配を感じて振りかえった女は、三人の男に囲まれていることに気がついて、とっさに逃げようとしたが、ハイルッディンは大きく両手をひろげて、逃がさない姿勢を示すと同時に、笑顔をつくって見せた。
「危害は加えない、ちょっと話をしたいだけだ」
 彼はスペイン語で話しかけた。
「バルバリア海賊か?」
 女が低く叫んだ。
「われわれは海賊だが、女には手出しはしない」
女は油断なく身構えて、目のまえの髭面の大男を見あげた。彼は精一杯の笑顔をつくって、やさしく話しかけた。
「俺の名はハイルッディン。風に吹き寄せられて、ちょっと立ち寄っただけだ。何もしないから安心していい」
 女は背後の若者を振り返った。二人ともニコニコ笑っていた。その幼さの残る笑顔に、女の表情が少し柔らかくなった。
「この島はなんという島だ?」
「ヒーヨ島」
「はじめて聞く名だ。男が見当たらないが、海賊に襲われたのか?」
「漁に出ていた男たちが、バルバリア海賊に連れて行かれた」
「大勢か?」
「百人以上」
「そうか、それは気の毒だった。女や財産に被害はなかったか?」
「島には上陸して来なかった。あの船はあなた方のものか?」
「そうだ、ボートに乗ってすぐ帰るが、われわれは漁師をさらって奴隷にするような悪さはしない」
 女は疑わしそうに、大男の目をじっと見つめた。
「われわれは赤ひげ軍団と呼ばれる海賊だ。おれはその弟。われわれは高価な商品をつんだ商船だけを襲う海賊で、抵抗するものは殺すが、無抵抗なものには危害をくわえない」
 女は二十台の前半であろうか、目は青く澄んで、肌は抜けるほど白かった。彼は、エーゲ海のような深い青をたたえた女の目に見入った。
「バルバリアの海賊に、私の夫がさらわれた」
「お前の夫は漁師だったのか?」
「夫はこの島の領主の息子で、漁師だ」
「居所はわかったのか」
「父が、海賊から買い戻す交渉をしている」
「それはよかった。しかし、お前のような美しい女には初めて出会った。夫が戻ってくる前に、もう一度会いたい」
 彼は首から吊るしていた、金の鎖を引きちぎって、特大のダイヤモンドを女にさし出した。女はそれをじっと見ていたが、手を出そうとはしなかった。しかし、見事なカットの施してある、大きなダイヤモンドに見とれていた。彼は女の手をつかんで、すばやくダイヤを握らせると、岩陰に隠したボートの方へ向かって歩き出した。二人の若者もだまって従った。女は彼の後姿と、掌のダイヤモンドを交互に見比べていたが、何も言わなかった。ハイルッディンは突然立ち止まると、振りかえって叫んだ。
「お前の名を聞くのを忘れていた、なんという名だ?」
女はしばらく黙っていたが、意を決したように叫び返した。
「アンナ」
「分かった、三日後の午後にまた来る」
 三日後、彼は一人でボートを漕いでやってきた。空は晴れわたって波は静かであったが、海岸に人影は見あたらなかった。ボートを浜に引き上げて、あたりを見回していると、近くの岩陰からアンナが顔を覗かせた。岩陰から動こうとせずに、じっとこちらを見つめていた。彼は、女を怖がらせないために、自分から女の方へ行こうとせずに、海に向かって砂浜に腰を下ろした。だまって海を眺めていると、アンナは忍び寄るように、静かに近づいてきた。彼がすわるように目で合図をすると、アンナは少し離れて腰を下ろした。
「アンナの夫はどうした?」
「まだ交渉中だ。値段が合わないらしい」
「島の領主の息子だとわかって、敵が値段を吹っかけてきたのだろう」
 アンナはだまって肯いた。
「金になる男はけっして殺さないから、安心していい。夫はどんな男だ?」
「体格がよくて、牛を素手で殺したことがある」
「ほう、それはすごい、赤ひげといい勝負だな」
「赤ひげ兄弟の噂は聞いた」
「どんな噂だ?」
「バルバリアでは一番つよい海賊だという噂」
「他には?」
「漁師をさらったりしないことと、女をさらったりしないことも聞いた」
 彼はにっこり笑ってうなずいた。
「どうして」
 それまで、海を向いてしゃべっていたアンナが、彼の方に顔をむけた。
「あんな高価なダイヤをくれたの?」
「お前にまた会いたかったからさ。あれは買ったものじゃないから、心配することはない」
「人を殺して奪ったのか」
「商船の船長が、首から吊るしていたのを取り上げたが、殺して奪ったものじゃないから安心しろ。ところで、アンナはスペイン人か?」
「私はスペインとイタリアの混血」
「両親はこのヒーヨ島の人か?」
「両親はシチリア島にいる。私は奴隷として買われてきた」
「領主が買ったのか?」
「でも、その息子に見初められて、三番目の妻になった、運が良い方だと思う」
 受け答えに無駄がないので、アンナの知能が高いことを、彼は悟った。それにしても、なんと魅力的な女だろう。エーゲ海の深い青をたたえた目に、吸い込まれそうな気がした。すその長い白のワンピースに包まれた、胸や腰が弾力に満ちあふれていて、全身から精気がほとばしり出てくるように感じられた。だが、横顔にかすかな翳りがあることを、ハイルッディンは見逃さなかった。
「アンナは今の生活に満足しているのか?」
 彼女は海を見つめたまま、その問いには答えなかった。
「俺は、アンナのことを三日間考えていた。亭主がいることを、承知のうえで頼むのだが、俺の妻になってくれないか。必ず幸せにする」
 アンナはそれを聞いて怒った。
「あなたは、私のことを何も知らないのに、わたしも、あなたの事を何も知らないのに、どうして幸せにするなんて、気安く言うのか!」
「いや、済まなかった。これからアンナのすべてを知りたいし、おれのことも、すべてを知ってもらいたい。それから結婚を申し込むよ」
ハイルッディンはあわてて謝った。アンナは、くすっと笑って話題を変えた。
「イスラムの人は、奥さんをたくさん持っているんでしょ?」
「ミドルリ島に妻がいる。われわれ兄弟と、一組の姉妹の四人で結婚した。共同結婚というのかな、あんまり聞いたことがないだろう?」
「はじめて聞いたわ。夜寝るときは、兄弟、姉妹で争いにならないの?」
アンナは、急に打ち解けた様子になって、尋ねた。
「お互い兄弟姉妹の仲がいいので、争ったことは一度もない。アルジェに本拠を置くようになってから、たまにしか帰れないので、もう一人妻が欲しい、と思っていた処なんだ」
「私と結婚すると、女房をお兄さんと共有するの?」
アンナはからかうように彼の横顔を覗きこんだ。
「兄弟姉妹がうまく結びつかなかったので、やむなく共有にしたけれど、これは特殊なケースで、後は別々にしたいと思っている。最近、兄貴は女海賊と結婚したけれど、俺は関係ない」
「そうでなくちゃ可笑しいわよ。それにしても、同業者同士の結婚も、珍しいわね」
「同業者か・・・」
ハイルッディンは思わず笑い出した。
「何がおかしいの?」
「同業者には違いないんだけど、あれは同業者といえるのか、どうか。本当は、彼女にとって兄貴は仇だったのだ。ミイラ取りがミイラになる、という話はある。しかしまさか、亭主の仇の女房になろうとは、彼女も思わなかっただろう。男と女の間というものは、本当に分からないものだな」
「本当ね」
 いつの間にか、二人の間の垣根がなくなっていた。
「アンナの旦那って、どういうタイプの人間なのだ?」
「どういうって?」
「親父の後を継いで、この島の領主になることは、決まっているだろうけど、家族や領民に優しいとか、島民を団結させて、海賊に対抗しようとか・・・」
「そうねえ、家族や領民に対しては乱暴で、少しも優しいところがない人。自分の武勇を磨くことにだけ熱心で、領民を海賊から守るための組織をつくるとか、訓練をするようなことは一切考えない人。だから、海賊に捕まったのよ。あなたはどういう人?」
「われわれは兄弟で地中海を制覇したい、と思っている」
「赤ひげ軍団は、海賊としては強いでしょうけど、スペインの無敵艦隊が出てきたら、逃げるだけでしょ?」
「その通りだ。しかし、いずれ対抗できるようなりたい、と考えている」
「本気でそう思っているの?」
「もちろん本気さ」
「あなたは誇大妄想狂じゃないの?」
「そうかもしれない、笑われてもいい。でも、志だけは高く持たなくちゃ、生きている甲斐がない」
「人間の価値は志の高さで決るというけど、誇大妄想狂と志の高さは、区別がつかないわ」
「天才と狂人は紙一重というからな、人間の見きわめは難しいものだ」
「夫とあなたは正反対の人間みたいね」
「旦那は現実主義かね」
「理想とか未来とかには、まるで興味のない人で、お金を貯めることには熱心だけど、使うことを知らない人で、だから潤いというものがなくて、心がかさかさしている感じね」
「おれは今日のことより、明日のことを考える癖がある」
「本当は私もそうなの。明日があると思うから、今日の苦労に耐えられるのよね」
「本当は、旦那に惚れていないのだな」
「本当は、憎んでいるのかも」
 ハッとして、彼はアンナの横顔を見つめた。アンナは遠くを見ていた。
「私の名前は、本当はソフィアというのよ。夫はこの名前が気に入らなくて、アンナという名に変えさせられたの」
「ソフィアか、俺はソフィアの方が好きだな」
「私だって本当の名が好きだわ」
「そうだ、本名に戻って、新しい生活を始めることを、考えたらいいじゃないか」
「そんなに簡単には行かないわ」
「むずかしいことを簡単にしてしまうのが、海賊流なのだが」
「船に乗せてさらってしまえばいい、って言うのでしょう」
「男女の仲は、納得づくでなくちや長つづきしない。倦怠期がきたら、必ず壊れてしまうものだ」
「海賊にしてはずいぶん紳士的なのね」
「貴族や大商人の方が、女に対して強引らしいな。やつらは自分たちの方が、女よりえらいと思っているからだが、自分が女の腹から生まれてきて、おっぱいで育てられたことを、忘れちまっているからにすぎない、馬鹿な奴らさ」
「海賊にしては、あなたは少し頭がよすぎるわね」
「どうして?」
「だって、おっぱいを飲んでいたころの記憶が、残っているんですもの」
 二人は顔を見合わせて、初めて笑った。ハイルッディンは、懐から特大のルビーを取り出して、アンナの手に握らせた。
「三日後の午後にまた来る」
 三日後に現れた彼に、アンナがそっと近寄ってきた。
「夫が今朝戻ってきたの!今夜は祝賀会をやることになって、屋敷の中は大忙しなので、抜け出すことが難しかったのだけど・・・」
「よく来てくれた、このまま船で逃げよう」
「でも、夫が追いかけてきたら、あなたは殺されるわ」
「牛殺しの旦那か。腕力較べじゃ敵わないかもしれないけど、闘いは腕力だけじゃない。まして剣をとれば、負ける気づかいはない」
「夫は剣も強いのよ。相手が五人位なら負ける気がしないって、いつも言っているくらいだから」
「おれも大丈夫だ。化け物みたいな奴とは何回も戦ってきている」
「あつ、来た!」
 ハイルッディンが振り返ると、森の中から巨漢が従者を二人従えて、急ぎ足でこちらへ向かって来るのが見えた。
「あれが牛殺しか?」
 蒼白に変わった表情で、アンナがかすかにうなずいた。
「アンナ、お前がついているのだから、おれは決して負けないよ」
 巨漢は足を速めて近づいてきた。
「アンナ、その男は何者だ?」
 アンナは覚悟を決めて、ハイルッディンの後ろに隠れた。巨漢が数メートルの近さまで来ると、ハイルッディンが先に名乗りをあげた。
「俺は赤ひげ船長の弟で、ハイルッディン。お前の名は?」
「おれか、おれはこの島の領主の総領で、ビカリオと言う。俺の女房をかどわかそうとする海賊がいる、と聞いてかけつけた。さあ、返してもらおうか」
「アンナは、おれについて来たいと言っている。だから返すわけには行かない」
「なんだと!アンナ、許してやるから、こっちへ来い!」
 アンナは一言も発せずに、ハイルッディンの後ろから、夫をじっと見据えていた。
「ほう、海賊め、おれの女房をうまいことたらし込みやがったな。許せねえ、二人ともひねりつぶしてくれる」
 ハイルッディンは考えた。ビカリオを斬ることはた易いが、血しぶきを見れば、アンナがショックを受ける可能性がある。それより多少危険ではあるが、素手の闘いで組み伏せる方が良さそうだ。
「捻りつぶしてもらうには、素手の闘いがいいな。どうだ、一対一で堂々とやろうではないか」
「よかろう、お前たち、この剣を持っていろ」
ビカリオは腰の剣をはずして従者にあずけると、シャツをぬいで上半身裸になった。牛を素手で殺したというだけあって、見事な体格をしていた。身長はハイルッディンよりわずかに低いものの、筋肉の盛り上がりがすごいので、体重は彼を十キロ以上も上回る感じであった。ハイルッディンは剣をアンナに預けた。
シャツはぬがずに、無造作にビカリオに近寄った。ビカリオは、自分に素手の闘いを挑んでくるほど無謀な男に、出会ったことがなくて多少の戸惑いを覚えたが、一歩踏みだして身構えた。二人は互いの力量をみとめ合って、なかなか組もうとしなかった。アンナも二人の従者たちも、息を殺して二人の闘士を見守った。やがて、隙を見出したビカリオが拳を固めてなぐりかかった。ハイルッディンはそれを待っていて、彼の右腕を両手でつかむと背中に背負って、勢いよく投げ飛ばした。
地響きをたてて背中から落ちたビカリオは、しかし、驚くほどの敏捷さで飛び起きると、左肩から体当たりをするように、組みついてきた。ハイルッディンはこの筋肉の塊を受けとめ切れずに、組んだまま砂浜を転がった。二人は上になったり下になったりを数回くり返したとき、波打ち際にまで来ていて、ザブンと大波を被った。この波の一撃で二人は離れた。離れて立ち上がると同時に、ハイルッディンが足を上げてビカリオの顎を蹴上げた。ビカリオは声も立てずに転がった。
そこへ大波が被さって、一瞬彼の全身が水に隠れた。ハイルッディンは波を避けて陸地に二、三歩下がった。波が引くと、ビカリオは何事もなかったように起き上がりざま、手にもったこぶし大の貝を投げつけた。貝はハイルッディンの顔面に向かって飛んだが、とっさに首を捻ってかわしたので、その貝がうしろで見守っていた従者のひとりの額にあたって、額から血がふき出した。貝は特大のサザエであった。
ビカリオはウオーッ、という野獣のような叫び声をあげて、突進してきた。ハイルッディンは、今度は余裕があった。右に体をひらいて同時に左足を上げた。その足につっかえて、ビカリオが一回転して倒れた。間髪を入れずにハイルッディンが上からとびかかって押さえつけると、ビカリオの丸太ン棒のような太い左腕をねじり上げていた。
「どうだ、参ったか!」
ビカリオは苦痛に顔を歪めて耐えた。
「参ったといわないと、この腕をたたき折るぞ!」
「うーむ、参った」
「アンナをもらって行くが、いいのだな?」
「くそつ、勝手にしろ!」
「剣を持った従者に、森の中まで立ち去るように言え!」
「分かった、おい、剣をもって森の方へ行け」
 従者は二人とも
もじもじしていたが、ハイルッディンに怒鳴られると、後ずさりして森の方へ歩き出した。それを確認して、ハイルッディンは腕を放して飛びのくと、アンナから剣を受けとって鞘を払った。
「アンナとは愛し合っている、悪く思うなよ。こちらを向いたままゆっくりと森の方へ行け。後ろを向いて走ったら、短剣がお前の背中に食い込むものと覚悟しろ」
 ビカリオは唇を噛みしめて立ち上がると、アンナを恐ろしい目で睨みつけてから、ゆっくりと後ずさりし始めた。
「アンナ、急いでボートに乗れ」
アンナをボートにせきたてたハイルッディンは、腰の短剣に手をあてて、ビカリオが背中を見せたら短剣を投げつける構えを見せてけん制した。ビカリオも彼から目を放さずに後ずさりを続けていた。しかし二十メートルくらい離れると、短剣が飛んでくる恐れがないと判断して、後ろを向くと背をまるめて走りだした。走りだす前に
「畜生、おぼえてろ!」
 と、叫んだ。それを聞くとハイルッディンも、ボートに向かって全力で走った。アンナはすでにボートを水に浮かべていた。走り寄った彼は、ボートを押しながら飛び乗った。そのとき、一本の矢が頭上を掠めて飛んだ。
「伏せろ!」
 と、アンナに声をかけて、ハイルッディンもボートの底に伏せた。長剣を抜き放つとそっと身を起こして身構えた。立ち上がると同時に、次の矢が飛んできた。長剣が一閃して、矢を真っ二つにした。ビカリオが走りながら矢を放ってきていた。波打ち際までかけよって次々と矢を放ってきた。
「オールを漕げ」
 と、アンナに命じて、彼は矢をすべて叩き落した。二人の従者がボートを引きずってきているのが見えたが、まだ矢が飛んでくるので、ハイルッディンは自分で漕ぐことができなかった。ビカリオのボートは従者が二人で漕ぐため、見る間に追いついてきた、沖合いで待っているガレー船まであと百メートル位という所で、ビカリオに追いつかれてしまった。ビカリオはボートを横にならべると、ものも言わずに斬りつけてきた。二人の剣がぶつかり合って火花が散った。
 アンナはオールから手を放して、ボートの底に身を沈めていた。不安定なボートの上に立って斬り合ううちに、ハイルッディンはふと思いついて、アンナにオールの留め金を外すように命じた。ボートとボートが横波で少しはなれた隙に、ハイルッディンはすばやくオールを一本取り上げると、アンナに身を低くするように言ってから、大きく横に薙いだ。
剣の三倍も長いオールは、はなれて剣のとどかない位置に立つビカリオを見事に捕えていた。彼は胴を払われて、海に落ちた。二人の従者は海に飛び込んで救助に向かった。その隙にアンナは必死にボートを漕いで、ガレー船に辿り着くことができた。甲板に上がると、二人は初めて抱き合った。
「今からソフィアに戻れ。新しい人生を始めるのだ」
 ハイルッディンの力強い言葉に、ソフィアは満面の笑みで応えた。