お前は俺のこと嫌いだったよな?なぜ、いつも傍にいる!?

 道着に着替えて、道場へ向かう。道場に着くと既に由香、天音、秀樹の3人は道場で基礎練習を初めていた。刀祢は静かにその姿を見守る。3人共、基礎訓練をする姿は様になっている。


「こんばんわ」

「「「こんばんわ」」」


 3人から元気の良い声が返ってくる。刀祢は木刀を構えて、1人1人へ組手を相手をしていく。3人共、打ち込みの筋が良くなっている。打ち込む時に木刀のブレがない。

 良い打ち込みができるようになってきたと内心で刀祢は嬉しく思う。まだまだ教えることも多いが、基礎訓練が完全であれば、この3人なら稽古を楽しんでくれるだろうと思う。


「少し休憩にしましょう」


 3人に声をかけて、道場の隅に全員で座る。刀祢の隣は天音の定位置となっている。3人共、水筒を持参していて、天音は紙コップで水筒に入っている麦茶を刀祢に分けてくれた。

 麦茶を一気に飲むと、喉が潤って、火照った体に染み渡っていく。

 天音は気遣いのできるお姉さんだ。少しホワッとした雰囲気をもっていて、人を和ませる空気を醸し出している。落ち着いた黒い瞳、きれいな二重、少し低い鼻、ポッテリとした唇が大人びていて魅力的である。

 天音がこの道場に入門したキッカケは、朝の通勤電車で、毎日のように痴漢に遭うことで困っていたことだった。

 気が小さかった天音は痴漢に遭っても大きな声を出せずにいた。しかし、道場に通うようになって今では痴漢に遭っても、大きな声で叫べるようになったという。

 刀祢から見ても天音は、後数年もすれば妖艶な美女に変化すると思う。これからも天音は多くの男性達の視線を集め、多くの男性達から声をかけられることだろう。美女も大変だ。

 道場で天音に会っても緊張しないが、道場の外で天音と会えば、刀祢は必ず緊張してしまうだろう。

 天音は微笑んで麦茶を紙コップに注いでくれる。


「刀祢くんは、付き合っている女の子はいるの? 好きな女の子は?」

「好きな女の子も、付き合っている女の子もいません。俺はモテないですから」


 刀祢は笑って髪を指で軽く掻く。

 刀祢は自分が常に険しい顔をして、不機嫌な顔付きをしていることを知っている。そんな自分のことを好きになってくれる女子がいるとは思えない。


「男性は見た目も大事ですが、それよりも大事なのは中身です」

「俺には何も誇れる所はないですから」


 今まで両親に褒められたこともない。兄貴達からも褒められたことはない。褒められたことがあるとすれば、剣技のことだけだ。自分はつくづく剣技しか取り柄のない男だと刀祢は思う。


「刀祢くんは男性として誇れる部分が沢山あります。自分で自覚がないだけです」


 天音の真剣な眼差しを受けて、刀祢は冗談として受け流せなかった。


「褒めてくれてありがとうございます」

「道場が終わってから、私に少し時間をください」


 天音が突然、刀祢にお願いをしてくる。何か相談事でもあるのだろうか。


「わかりました。道場で待っています」


 刀祢は軽い気持ちで、天音のお願いを聞き入れた。



 道場に剣道部の練習を終えた心寧と直哉が入ってきた。2人が刀祢の元まで歩いてくる。


「刀祢、学校で話していたとおり、今日は私にも稽古をつけてね」


 元気よく心寧が言う。


「今は基本的なことしか教えていない。心寧は基本はできているから、教えることなんてないぞ」

「そうだぞ、心寧。刀祢は門下生を預かってるんだ。心寧と稽古をしている所を見られると、刀祢が館長に怒られる。ここは大人しく刀祢の言う通りにしよう」


 直哉は心寧の肩を優しく叩く。心寧は少し、ショゲていたが、小さく頷くと、直哉と一緒に自分達の定位置へと歩いていった。


「心寧さんと刀祢くんは仲良いですね」


 天音が微笑みながら聞いてくる。


「心寧とは小学校3年生からの付き合いですからね。大事な友達です」


 心寧がこの道場に来たのが小学校3年生。それからの付き合いだから幼馴染に近いかもしれない。


「すごく仲良く見えます」

「そんなことないですよ。顔を見合わせれば口喧嘩ばかりの時期もありましたし」


 心寧とは小学生の間は仲が良かったが、中学へ入学した頃から言い合いを始めるようになった。

 心寧は剣斗兄貴のことを信じていたので、ことごとく意見が合わなかった。剣斗兄貴を信じる心寧のことを刀祢は苦手だった。そのうち、心寧と口喧嘩していることが普通の状態になっていく。

 中学生のある日、心寧が3日ほど風邪をひき、熱をだして学校を休んだことがあった。寂しさを刀祢は感じた。

 風邪から復帰した心寧と口喧嘩をしている時、妙な安心感と安堵を感じたことを、今でも思い出すことができる。刀祢は心寧と口喧嘩している時、そのことを楽しんでいた。

 それから心寧と口喧嘩するのが楽しくなった。心寧と口喧嘩していないと妙に元気が出ない。それからは、刀祢から心寧に口喧嘩をふっかけるようになっていった。

 刀祢は考える気もなく、心寧との口喧嘩の日々を思い出していた。








 道場が終わりになり、先に直哉と心寧には帰ってもらう。

 天音が更衣室で着替えて来て、薄いベージュ色のツーピースのスーツを着て道場へ入ってくる。まるで別人のような大人の女性だ。刀祢の体が自然と緊張する。

 天音は真剣な顔付きで刀祢の前に立って会釈する。


「刀祢くんのことが好きです! 付き合ってください!」


 刀祢は天音の意表を突く告白に、一瞬、誰に言ってるのだろうと思う。しかし、道場には、今は刀祢と天音しかいない。自分が告白されている事実を理解して、内心で大いに焦るが、顔に出さないようにする。

 天音は答えを待っている。刀祢は考えるが、答えが出ない。しかし、心の奥にモヤモヤした気持ちがある。こんな状態で、真剣に告白してくれている天音に応じるのは失礼だと思った。


「ごめんなさい―――」

「理由を聞いてもいいですか? やっぱり誰か好きな人でもいるんですか?」

「好きな人はいない。天音さんに応えようとした時、モヤモヤした気持ちがあって、スッキリした気持ちになれなかった。こんな気持ちで天音さんに応えるのは、天音さんに失礼だと思う。だから、ごめんなさい」


 天音は優しく微笑む。


「やっぱり、ダメだったかー!」


 刀祢は黙ったまま、何も答えずに立っていた。謝ると失礼だと思った。


「刀祢くん、早く自分の気持ちに気づいたほうがいいわよ」


 天音はそう言い残して道場から去っていった。


(自分の気持ち―――)
 どうして天音さんをフッてしまったんだろう。天音さんは気配りの利く年上の美女だ。

 刀祢には勿体ない話だと思う。

 天音さんは大学1年生の栗色のロングストレートがよく似合う美人だ。可愛くてきれいで童顔で。スタイルも良くて、自慢できる彼女になっていただろう。

 稽古をつけ始めてから、天音さんが一番、刀祢に懐いて努力してくれていた。努力家な面も刀祢は評価していた。なのに、あの場面で告白を断ってしまった。

 刀祢はベッドの上に横になって、天井を見つめながら考える。

 今まで刀祢は女子から告白されたことなどなかった。天音さんから告白されたことも今となってはドッキリではないかと疑ってしまう。それほど刀祢はモテたことがない。

 あの心のモヤモヤ感は何だったんだろう。あのモヤモヤ感がなかったら天音さんの告白にOKを出していた。妙に心の中に引っかかるものがあった。だから断ってしまった。

 惜しいことをしたと刀祢は後悔するが、心のどこかで、これで良かったんだという安心感もある。刀祢は今まで剣の修行ばかりに集中してきた。だから未だに初恋などしたことがない。

 だから恋の感覚がわからない。女性を好きになったこともない。近くにいる女性といえば母親だが、母親はあまり話さない人で、寡黙な父親とお似合の女性だ。

 刀祢のことを信頼しているのか、無関心なのか、全くの放任主義で、今まであまり拘わった記憶が刀祢にはない。

 直哉は小学校の時から女子にモテる。中学の時に直哉とは親友になったが、その時には直哉は女子に対して、興味を示さなくなっていた。

 中学時代の直哉は「女子って構わないとウルサイから困る」と口癖のように言っては、女子達の中に入って、爽やかな笑顔を振りまいていた。

 そう言えば直哉の初恋の話なんて聞いたことがないぞ。直哉も好きな女性がいるのかな。いつも多くの女性に囲まれて笑顔でいるので、直哉が誰が好きなのか、刀祢もわからない。

 杏里は中学の頃から知っているが、高校に入ってからギャル化して、天然ぶりを発揮している。中学の時から元気で明るい奴だった。

 中学の時は杏里が直哉のことを好きだとは知らなかったが、高校に入ってから杏里が直哉に猛アタックをかけている。

 しかし、直哉は上手く杏里をあしらって、相手にしていない。たぶん杏里は直哉のタイプではないように思う。


(今度、直哉にこっそりと、好きな女子がいるか聞いてみよう)


 友達と言えば、心寧と莉奈が今は一番近くにいる友達だ。しかし、心寧と莉奈では、心の距離が違う。

 莉奈は中学の時からの知り合いだが、いつもおっとりとしていて知的で、いつも刀祢を諭したり、叱ったりするお姉さん的存在だ。

 莉奈は、そのおっとりとした雰囲気と、知的な面を持ち合わせた美少女だ。刀祢も美少女だとは思う。胸もEカップあるし、男子生徒の中でも人気が高い。

 しかし、莉奈は刀祢にとっては怒ると怖いお姉さん的な存在で、恋愛対象として見ることはできない。絶対に無理といえる。

 心寧は小学校4年生から道場に通うようになり、その頃からの刀祢との知り合いだ。

 いつも道場で一緒に稽古をし、小学校も中学校も同じ学校で、いつも口喧嘩ばかりしている幼馴染だ。

 刀祢の小学校からのアルバムには心寧の小学校の頃の写真が多く載っている。いつも刀祢の傍にいて当たり前の存在だ。心寧のことを女性として意識したことがない。

 心寧は他校からも告白にくるほどの美少女だと莉奈はいうが、刀祢にとって心寧は、どこにでもいる女子高生と変らない存在で、美少女とは思えなかった。

 あんな怒りっぽくて、泣き虫で、感情的な心寧が、どうしてモテるの意味不明だ。

 刀祢はベッドに仰向けになったまま、まぶたを伏せる。すると、小学校からの心寧のことばかりが思い出として浮かんでくる。

 泣いている心寧。怒っている心寧。拗ねている心寧。喜んでいる心寧。笑っている心寧。


(ヤバい! 俺って女子といえば心寧しか知らないじゃん)


 今更ながらに、天音と付き合ったほうが良かったかもと思う。そうしなければ、心寧に侵食されてしまう。どうしてフッてしまったんだろうと今になって後悔する。

 すると頭の中で泣いて、服を掴む幼い心寧の顔が浮かぶ。

 刀祢は心寧を泣かせたくない自分に気づいて、驚く。今まで、そんなことを考えたこともなかった。確かに刀祢は心寧のことを妹のように思っている部分もあった。

 可愛い妹、口喧嘩をして口を尖らせている妹、ちょっと拗ねている妹、笑顔が可愛い妹。

 刀祢は小さい頃から道場で心寧と一緒の時、心寧に剣術を教えていた。その関係もあって、自然と心寧のことを妹のような存在にすり替えてしまっていたらしい。


(心寧のことは妹のようで放っておけないんだよな)


 刀祢が冗談で心寧を泣かせるのは構わない。しかり他の男子が心寧を泣かしたりすることは絶対に許せない。そんなことをした男子は絶対にギタギタにしてやる。

 どうして、心寧のことを、こんなに庇って、守ろうとしているのか、刀祢自身が理解することはなかった。

 ただ、刀祢は心寧の笑顔をずっと見ていたかった。それがモヤモヤの原因であることを理解
する。


(このままだと、心寧が早く彼氏を作らないと、俺は彼女を作れないじゃないか)


 刀祢は自分の心を、全く勘違いしていることに気づかず、そのまま目をつむって眠りにおちた。

 刀祢は心寧が初恋の相手であることに全く気づくことはなかった。
 刀祢にサンドイッチを渡してから5日が経った。

1人で家に居ると、同じことばかり考えてしまう。刀祢のことばかりを考えてしまう。そして思い悩んでしまう。だから今日は莉奈の家に泊まりに来た。


「最近の心寧は忙しそうね」


 莉奈はお風呂に入って、サッパリした後に、ジュースとポテチを用意してくれた。莉奈の部屋でパジャマに着替えて、2人でポテチを食べて、ジュースを飲む。


「今回は何の相談かな?」


 昼休憩にサンドイッチを作っていった日、刀祢の寝顔を見て、心寧は自分の心が安らぐのを感じる。とても落ち着く。

 細い眉、常に吊り上がった目元、切れ長の奥二重、シャープな鼻筋、薄い唇小顔、色白で、端正な顔立ち。刀祢がこんな格好いい容姿をしていると思わなかった。すごく恰好いいし、可愛い寝顔。思わず吸い込まれるように顔を近づけてしまう。


 刀祢が起きてきて、いつもの不機嫌な顔に戻った。もう少し寝顔を見ていたかった。刀祢に好きと伝えたかった。でも言葉に出して言う勇気がない。だからサンドイッチを心を込めて作った。少しでも自分の心を伝えたかった。

 刀祢はサンドイッチを美味しそうに食べてくれた。心寧は刀祢が早弁を食べている姿が好きだった。はじめは早弁なんてルールに反すると思って注意したけど、早弁のおかずやご飯を口いっぱいに頬張る刀祢を見ていると可愛いと思った。


「刀祢くんは本当は格好良くて、可愛い顔をしてるもんね。表情で損をしているけど」


 刀祢を好きと自分が理解してから世界が変わった。刀祢のことが全て恰好よく見えるし、可愛くみえるし、輝いて見える。自分は一体、今まで刀祢の何を見ていたんだろうと思う。

 道場で門下生達に稽古をつけている時の刀祢の横顔が素敵すぎる。刀祢は横顔のほうが格好いい。凛々しさが際立つ。自分の稽古をしながら、目で刀祢の姿を追ってしまう。刀祢の道着姿で木刀を振っている姿は、すごく凛々しい。


「はい、はい、そこまで刀祢くんに夢中になってるのね。もう心寧の心は刀祢くんでいっぱいね」


 こんなに恰好いい刀祢が、いままでモテなかったことが不思議。今までの心寧と同じで、皆も刀祢のことを、きちんと見ていないから、刀祢の魅力がわからないんだと心寧は思う。


「刀祢くんは魅力的な男の子よ。私は1学期の時から、そう思っていたわ。心寧が刀祢くんに惹かれる気持ちはすごくわかるよ。刀祢くんは心寧のことが大好きだから、自分に自信を持ちなさい!」


 莉奈はそう言って、心寧を優しい瞳を向けて、静かに微笑んだ。

 莉奈は刀祢は心寧のことが大好きだと言ってくれたが、心寧は自分に自信がない。今までの自分の行動を顧(カエリ)みると、刀祢にはずいぶんと迷惑をかけたと思う。刀祢に嫌われていたらと思うと足が竦む。

 刀祢は本当に自分のことを受け入れてくれるだろうか。心寧はそれが知りたかった。


「それを知るには心寧から告白するしかないわね。そうしないと刀祢くんは自分の気持ちを教えてくれないわ」


 告白するなんて恥ずかしいことは、今までしたことがない。告白されたことはいっぱいあったけど、自分が告白することになるなんて想像もしていなかった。でも刀祢とこのままの状態でいたなら、一生友達関係で終わってしまう。

 刀祢に自分以外の彼女ができたらどうしよう。そんなのは耐えられない。でも告白して刀祢に断られることが怖い。いつまでも大事な友達と言われることが怖い。


「大好きな人に告白するってことは怖いことよ。でも逃げるなんてことをしてはできないよ」


 直接、私の気持ちを刀祢に伝えないといけないことはわかっている。しかし、決心がつかない。


「心寧はきれいで可愛くて、放っておけない所があって、とてもチャーミングよ。私が男子で彼氏だったら、心寧を1人にすることなんてできない。可愛すぎるから」


 そう言って莉奈は私の体に抱き着いて、ギュッと抱きしめてくれる。


(莉奈は私のことをきれいと言うけれど、莉奈のほうが大人で魅力的だと私は思う)


 莉奈が私の髪を綺麗に梳いて、ドライヤーでブローしてくれる。そして洋服ダンスから新しい洋服を出してきた。可愛い靴まで揃っている。


「心寧が告白に行くときは私の家から行くと思ってた。だから、心寧の勝負服を選んでおいたの。この服を着て、今から刀祢くんに会いに行きなさい」


 いきなり莉奈に告げられて、心寧は戸惑うが、今を逃せば告白できないような気がして、大きく頷いて、自分のスマホを取り出して、刀祢に震える手で連絡する。

 刀祢の電話番号は中学の時から知っていたけど、今まで連絡をしたことはなかった。


《心寧か? どうした? 連絡してくるなんて初めてだな》

《刀祢とゆっくり話がしたいの》

《明日だとマズイのか?》

《うん。今日、会ってほしい》

《どこに行けばいいんだ?》

《私が道場の近くの公園まで行く。だから公園で待ってて!》

《よくわからないが、公園で待ってればいいんだな。わかった》


 スマホを切ると、莉奈が私の背中を優しくさすってくれる。すごく緊張した。少しずつ緊張がほぐれて落ち着いてくる。


 出かける用意ができた心寧を見て、莉奈が優しく微笑む。心寧は莉奈の家を出て、刀祢が待っている公園へ向かった。
 道場の近くの公園で刀祢は心寧が来るのを待っている。ほどなくすると、黒髪のロングストレートの女子が公園の中に入ってきた。一瞬で心寧だとわかるが、いつもと雰囲気が違う。

 心寧がゆっくりと外灯の下まで歩いてくる。心寧の姿が良く見えるようになった。

 白のニットワンピースを着て、フレアーなスカートを履いて、少し化粧もしている。いつもよりも大人びて、上品で清楚に見える。

 そのまま心寧は刀祢の近くまで歩いてくる。その可憐さと美しさに刀祢は言葉を失う。今まで学校で元気よく、刀祢と口喧嘩をしていた心寧の姿はどこにもない。ここにいるのは上品で清楚な美少女だ。


「誰だ? 本物の心寧か?」

「何言ってるの? 心寧よ」


 心寧は不思議そうな顔で刀祢の顔を、優しい眼差しで見つめてくる。

 心寧相手なのに刀祢は自分の体が自然と緊張していくのがわかる。

 黒いまつ毛が濡れている。漆黒の瞳がとてもきれいだ。唇がグロスで濡れて光っている。頬がほんのりとピンク色に染まっている。どこから見ても完璧な美少女だ。


「今日は、化粧をしてきたんだな」

「似合ってるかな?」

「ああ」


 刀祢はなるべく平静を装うが、声が妙に高くなってしまう自分を自覚する。心寧が刀祢の目の前で立ち止まって、刀祢を見上げる。瞳がウルウルと潤んでいて、瞳に吸い込まれそうだ。


「刀祢、突然だけど、私、刀祢のことが好き! 付き合ってほしいの!」

「え!」


 突然の心寧の告白に頭が真っ白になる。全てのことが頭から吹き飛んで消え去る。心寧が何を言っているのか理解できない。

 心寧は世話好きなので、刀祢のことを面倒みていると思っていた。中学生の頃は刀祢のことを心寧は嫌っていたはずだ。どこで変わった。心寧に何があったんだ?

 心寧に何か変化がなければ、刀祢のことを好きになることなんてあり得ないと、刀祢は思った。


「心寧、何かあったのか? 相談になら乗るぞ」

「もう1回言うね。私は刀祢のことを本気で大好き。だからお付き合いしてください」


 悩み事ではなかった。本気で心寧は刀祢と付き合いたいと言っている。少し時間が欲しい。理解がついていかない。心の準備が全くできていない。

 今まで心寧のことは大事な友達だと思ってきた。これは本当だ。でも恋愛対象として女性扱いしていなかった。


「ちょっと待ってくれないか。頭を整理する時間がほしい」

「いつまででも待つわ」


 こんな美少女を彼女にしていいのか?刀祢は心寧の顔を見つめ続ける。心寧が微笑んで1歩前に身体を寄せる。

 心寧の可憐で美しい顔が目の前に迫る。心臓がドキドキと鼓動が激しい。これ以上、緊張すると、身体が硬直してしまいそうだ。


「刀祢は私のこと嫌い?」


 刀祢にとって心寧は安定剤である。嫌いなはずがない。友達の中でも一番信頼できるのは心寧だ。家族よりも一番信頼も信用している。


「心寧のことは好きだ」


 心寧は嬉しそうに顔をピンク色に染めて恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべる。そんな可愛い表情と仕草をされると視線を合わせていることができない。刀祢は照れて心寧から視線を逸らした。


「刀祢に好きって言ってもらえて、すごく嬉しい。胸がドキドキする」


 既に刀祢の胸は高鳴り過ぎて爆発寸前だ。体中から汗が噴き出してくる。体が熱くて、喉が渇いて仕方がない。


「ちょっとジュースを買ってくるから、待ってろ」

「うん」


 刀祢は緊張感に耐えられずジュースを買いに自販機へ走る。ジュースを2本買って、すぐにジュースのプルトップを空けて一気に飲み干す。ジュースが体に染み渡って、少しは頭が回転するようになった。

 刀祢は歩いて戻ってくるとジュースを心寧に渡す。心寧は嬉しそうにジュースを飲んでいる。その姿もきれいだ。


「こんな俺のどこがいいんだ?」

「全部よ。 全部、大好き!」


 心寧は深く頷く。そして嬉しそうに微笑む。


「付き合おう。しかし、男女の付き合いなんて俺にはわからないからな」

「刀祢は私の傍にいてくれるだけで十分に幸せ」


 心寧は嬉しくて、刀祢の胸に飛びこんで、刀祢に抱き着くと、刀祢の胸の中で涙を浮かべている。刀祢は心寧の体を受け止めて、心寧が倒れないように背中に手を回した。
 道場が終わった後に直哉に頼んで、刀祢の部屋に泊まってもらった。


「刀祢、今日は稽古中も真剣な顔をしていたが、何かあったのか? 心寧も顔を真っ赤にしたまま、刀祢のほうへ顔を向けないし、喧嘩でもしたのか?」

「―――――付き合うことになった―――」

「はあ?キチンと聞こえなかった。もう1度、大きな声で言ってくれ」

「俺と心寧は付き合うことになった!」

「な!」


 直哉は刀祢の声を聞いて、爽やかな笑顔のまま固まっている。直哉の気持ちはわかる。刀祢自身も、心寧と付き合うことになったことが、未だに信じられない。

 引きつった笑顔のまま、直哉が刀祢の両肩を鷲掴みにする。


「一体、どういうことなんだ? 詳しく聞かせろ!」

「俺だって、どうなってるのか、未だにわかんないんだよ。昨日、心寧に突然、告白されたんだ」


 直哉に昨日の告白の出来事の全てを刀祢が説明する。始め緊張していた直哉だったが、段々と意味を理解してきたらしく、刀祢の顔を見てニヤニヤと笑っている。

 直哉からすれば、刀祢も心寧も幼すぎというか、自分の気持ちに気づくのが遅すぎると思っていたので、とうとう心寧が自分の心を理解したかと、大きく頷いた。


「それで心寧からの告白にOKを出したんだろう」

「ああ、心寧を泣かせたくないと思ったからな。俺は心寧には笑顔でいてほしいからな」

「はあ? 理由はそれだけか?」

「それだけだが、変か?」


 直哉は大きくため息をついて、首を横へ振った。


「お前は心寧のことをどう思ってるんだ?」

「最近、気づいたんだが、俺は心寧のことを妹のように思ってるんだと思う!」

「はあ? 妹? お前、何を言ってんだ?」


 刀祢と心寧は小学校4年からの付き合いだ。道場の中でも2人は仲良く、一緒に稽古に励み、中学の時には良きライバルとなっていた。

 それまでの間、刀祢が兄のように心寧のことを可愛がっていたと、刀祢が説明する。

 中学へ入学した頃から心寧は剣斗を尊敬し始め、刀祢とは距離を離れていくことになるが、刀祢は剣斗を尊敬する心寧のことが気に入らなかった。

 なんだか妹を取られたような気がしたと今、刀祢は当時を振り返って、直哉に説明する。


「だめだ。これは俺が思っていたよりも重症だ」

「誰か、重症患者でもいるのか?」

「お前のことだよ。この鈍感!」


 直哉は刀祢の肩を握ったまま、ベッドに座らせる。そして刀祢の前に仁王立ちで立った。


「刀祢、お前はすごい勘違いをしている。自分自身のことで勘違いをしている。良く聞け。お前は昔から心寧のことが好きなんだ。心寧が初恋の女性なんだ」

「はあ? 直哉、一体、何を言い出すんだ?」

「刀祢、鈍感にもほどがあるぞ。刀祢は心寧のことを妹としてなんて見てない。初恋の女友達として、今まで友達でいたんだ。妹の部分を初恋の女子に変えて考えてみろ」


 刀祢は軽いパニックを起こして、頭を抱える。


(今まで俺が思っていたのは勘違いだったのか!)


 小学校で心寧に出会った時、既に刀祢は心寧に初恋をしていた。恋人としての付き合い方がわらかなかったので、心寧を妹扱いしていた。妹扱いをしなければ心寧に近づくことができなかった。

 中学になってから心寧が剣斗を尊敬し始めた時、刀祢は嫌な気持ちになった。それは妹を取られた気持ちではなく、初恋の好きな女子を剣斗に取られたと勘違いしたためだ。だからこそ剣斗と異常なほど険悪な仲になった。

 そして心寧に口喧嘩を吹っかけて楽しむのは、可愛い妹に対して、意地悪をして楽しむ兄の気持ちではなかった。好きな初恋の女の子に振り向いて欲しくて、意地悪をする男子の行動といえる。

 そして、常に心寧のことが頭から離れないのは、妹のことを心配する兄の気持ちではない。初恋の女子である心寧のことで頭がいっぱいだったのだ。

 刀祢は段々と、そのことを自分で理解しはじめる。すると体が緊張して、動きが固まる。


「俺の初恋は心寧だったのか―――知らなかった!」

「そうだ。知らなかったのは刀祢だけだ。俺や莉奈はそのことに気づいていたぞ」

「心寧は俺の大事な妹代りではなかったのか?」

「誰が幼馴染を妹と勘違いするんだ。妹のはずないだろう。お前は小さい頃から心寧のことを大好きだったんだ。お前が好きな女性は心寧だ」


 刀祢は直哉にズバリと本当のことを言われて顔色を無くして狼狽する。


(俺が心寧を守りたいと思っていたのは、心寧のことを妹だと思って、守りたいと思っていたわけではなく、心寧に惚れていたからなのか)


 刀祢はベッドの上にゴロンと寝転がる。ベッドの端に直哉が座った。

 心寧が刀祢のことを好きでいてくれたこと、両想いであったことを、今更ながらに安堵する。心寧が他の男に奪われる前で良かった。


「これで自分の心を理解したか? まだ言い訳があるか?」

「いや、自分の心を理解した。直哉の言っている通りだ。俺が勝手に勘違いをしていただけだ。俺は小学校の頃から、心寧に惚れていたんだな」

「やっとわかったか。鈍感!」


 直哉にそう言われても仕方がないと思った。自分で考えても鈍すぎる。刀祢の心の中にあったモヤモヤが一気に解消されていく。

 そして小学校4年生の剣道大会の時、満面の笑顔で心寧が刀祢に贈った言葉を思い出す。


「刀祢、恰好いい! 大好きよ!」


 あの瞬間から刀祢は心寧に初恋していたことを素直に理解した。
 心寧の告白で、2人が付き合い始めてから1週間が経った。

 なぜか、心寧と刀祢が付き合っていることは五月丘高校の生徒達に噂として広まった。

 心寧は五月丘高校でも美少女として有名である。そして刀祢は、険しい顔と不機嫌な態度で有名だ。その2人が付き合ったのだから、噂にならないはずがない。心寧と刀祢は美女と野獣に例えられて噂が広まった。

 心寧を狙っていた男子生徒達は、なぜ心寧の相手が刀祢なのかと不満をもらし、納得する者はいなかった。男子生徒達は心寧が思い直すように説得することに決めた。

 刀祢と付き合ってから心寧に告白する男子生徒達の数が増えた。


「心寧さんは、絶対に騙されている。目を覚ましてほしい」

「刀祢は良い人です。皆が誤解しているだけです。私が好きになった人です。刀祢を信じてあげてください」

「あんな野獣のような男はやめておいたほうがいい」

「私はそんな刀祢が好きなの! だから諦めてね!」


 心寧は告白される度に丁寧に断って、刀祢が良い人であり、皆が誤解していることを丁寧に説明していった。

 心寧の刀祢を想う、献身的な説得で、男子生徒達は心寧に惚れ直し、涙に暮れる日々を送った。刀祢のことが怖いのか、誰も直接的に刀祢に心寧のことで文句を言ってくる男子生徒はいなかった。

 昼休憩、刀祢はいつものように、机に顔を伏せて眠っている。刀祢の席の近くでは、心寧と莉奈が椅子に座ってお弁当を食べている。

 昼休憩に刀祢が寝ていても心寧が刀祢を起こすことはない。刀祢の寝顔を見て、安心したように微笑んでいるだけだ。莉奈はそんな2人を見て、ニコニコと笑顔でお弁当を食べている。


「刀祢くんって、起きてる時は不機嫌な顔をしているのに、寝ている顔は可愛いよね」

「莉奈、そのことは言ってはいけないの。刀祢が照れて寝顔を見せてくれなくなるから。刀祢は警戒心が強いから、静かに見ないとバレちゃう」

「心寧が黙って、いつも刀祢くんの寝顔を見て、満足しているのね。もう何だか聞いてるほうが照れるわよ」

「だって可愛い寝顔をみたいもの! だから黙って傍にいるの!」


 実は刀祢は熟睡している訳ではない。寝ていても耳だけは聞こえている。いつもの通りにしていたいので、寝ているだけだ。

 心寧と付き合い始めたが、男女の付き合いというものがわからない。心寧と顔を合わせるのが照れくさく、気恥ずかしい。


「刀祢くんは心寧と付き合って、照れてるんだと思うわ」

「莉奈、そのことも言ってはダメなの。刀祢の前でそれを言うと、もっと照れて、恥ずかしがって、私の顔を見てくれなくなるから」

「心寧は刀祢くんの性格をよく知ってるわね。熱い、熱い」


 寝てはいるが莉奈と心寧の会話は全て聞こえている。だから余計に顔をあげられない。刀祢はいつもの通りに眠りにつく。

 心寧は刀祢と付き合ってから少し変化している。まず髪をポニーテールからロングストレートに変った。これからは剣道の時だけ髪を結えばいいという。

 髪を下ろしている心寧を見ると、刀祢は未だに胸がドキドキする。まだ心寧が髪を下ろしている姿になれない。こんな美少女が自分と付き合って良いのか、自問自答してしまう。以前に刀祢は心寧にお願いしたことがある。


「心寧、普段からポニーテールにしてくれないか」

「髪を下ろしているほうが、刀祢が気に入ってくれてるから、下ろしておくね」

「――――――!」


 刀祢が密かに心寧のロングストレートを気に入っていることを心寧に見透かされていた。そのことが恥ずかしくて照れくさかった。

 心寧は毎日、お弁当を作ってくれるようになった。刀祢が早弁をしても以前のように文句を言ってこない。嬉しそうに刀祢が食べている姿を見て微笑んでいる。


「美味しい?」

「今日は美味しい」

「よかった。味がおかしかったら、いつでも言ってね。練習するから」


(そんなこと言えるはずないじゃないか!)


 そんなことを言われると緊張する。照れる。

 この1週間の間、心寧を見ては刀祢は照れている。そんな刀祢の姿を見て直哉がニコニコと爽やかに笑う。


「心寧と付き合って良かったな。2人が仲良さそうで見ていて嬉しいよ」

「直哉まで俺を冷やかすなよ!」


 直哉に言い返したいが、言い返す言葉が見つからない。刀祢は直哉から顔を逸らす。顔が真っ赤である。

 杏里は心寧の元に走って来ては、心寧に彼氏ができたことを羨ましがる。


「心寧が刀祢のどこが良かった――教えてよ!

「そうね。刀祢の優しい所かな。後、色々あって、全部言えないよ」

「刀祢は心寧のどこが良かったの? 女性のどこを好きになると付き合いたいと思うの?

「――――――!」


 刀祢は顔を真っ赤しに俯いて、無言のまま椅子に座っている。


「いいなー! 心寧は彼氏ができて! 早く直哉も私に振り向いてくれないかな! ねー直哉!」


 そして心寧に、刀祢のどこが良かったのか、色々なことを聞きたがる。心寧は杏里に問われても微笑むだけで答えない。

 杏里は噂好きで、聞いた噂を流す癖がある。だから、心寧は杏里には何も言わない。心寧は杏里の扱いに慣れている。


「心寧と刀祢のことをもっと聞きたいな。私も彼氏がほしいから。参考にしたい」

「杏里、直哉は直哉だよ。刀祢とは違うから参考にならないわ」

「そっかー! そうだよね!」


 刀祢は付き合うという意味がまだわからない。心寧は一緒に傍に居てくれるだけでいいという。だから、刀祢はいつもの自分のペースで暮らすことに決めた。わからないことで悩んでも仕方がない。


「刀祢は刀祢らしくしていればいいからね。そういう刀祢が好きなんだから」

「ああ、そうさせてもらう。 俺はやっぱり、俺らしくしかできない!」


 付き合い始めてからも、刀祢と心寧の暮らしには大きな変化はない。変化したことは、刀祢の近くには心寧が黙って一緒にいることだ。

 最近の心寧は以前より口数は減った。刀祢が心寧を見ると優しく微笑んでいることが多い。心寧の微笑みを見ると刀祢は安心する。

 心寧と口喧嘩ができないので少し寂しく思うが、常に一緒にいるので嬉しい。こんな繋がりが、付き合うということかもしれないと刀祢は思う。こういう付き合いも良い。
 中間考査が終わって、学校の廊下に50位までの成績上位者の成績が張り出された。莉奈は今回は4位の成績だった。心寧は34位と健闘している。

 刀祢は自分の成績を思い出してため息をつく。とうとう国語で欠点を取ってしまった。

 中学生の頃は授業中に寝ていても、それなりの成績を維持できた。

 しかし、高校生になってからは、道場での稽古が終わった後に、勉強をしないと授業の勉強に追いつけなくなっていた。刀祢は夜にこっそりと勉強していた。

 このままだとマズイという感覚は持っていたが、とうとう現実となった。

 心寧には刀祢は自分の成績を言っていない。心寧からも聞いて来ない。昔の心寧なら、執拗に成績を聞かれ、勉強しなさいと言ってきたことだろう。

 これからの勉強はコツコツと積み重ねが必要になってくる。公輝兄貴も剣斗兄貴も大学へ進学している。両親は当然、刀祢も大学へ進学すると思っている。

 刀祢だけ大学に進学しないのは色々と対面が悪い。

 刀祢は自分の机に座って、両腕を組んで考える。心寧も成績の悪い彼氏よりも、成績の良い彼氏のほうが良いはずだ。なんとか成績を良くしなければならない。刀祢は目を伏せて考え込む。


「どうしたの刀祢、すごく難しい顔をして考え事なんてして」


 心寧が心配そうに刀祢の顔を覗き込む。

 成績が悪くなったからといって、急に刀祢が真面目に授業を受けだしたらクラスの皆が驚く。そのことで刀祢が目立つのは確実だ。

 刀祢としてはなるべくクラスでは目立ちたくない。しかし、これからは授業を聞いていないと勉強についていけなくなる。


「自分が思っていたより、成績が落ちた。なんとかしたいけど、良い案が見当たらない」

「道場で稽古がない日は、全て勉強に当てたらどうかしら」


 なるほど、道場で稽古をしない日に集中して勉強すれば良いのか。なかなか良い提案だと思う。

 しかし、果たして毎日、授業中に居眠りしている刀祢が、1人で勉強して、今の授業に追いつけるだろうか。今までも夜の時間は勉強に当ててきた。それでも、この成績だ。


「自分1人では勉強が追いつかない」

「私が教えてもいいよ?」


 心寧に勉強を教えてもらうのは、自分の欠点を見せるようで恥ずかしい。しかし、頼りになるのは心寧しかいない。直哉ではあてにならない。

 そういえば、直哉はなぜ成績が平均なのだろう。以前は刀祢と同じくらいの成績だったのに、高校2年生になってから成績が安定した。


「申し訳ないけど、心寧、俺に勉強を教えてくれるかな?」

「もちろん、喜んで大丈夫だよ。勉強する場所は刀祢の家でいいの?」


 刀祢の家は道場と隣接している。心寧も小さい頃、刀祢の家に遊びに来たことがあり、道場にも通いやすい。自分の部屋へ心寧を入れるのは恥ずかしいが、今はそんなことを言っている場合ではない。


「ああ、俺の部屋で勉強を教えてくれ」

「任されました」


 公輝兄貴も剣斗兄貴も進学塾に通っていた。刀祢も高校3年生になったら、進学塾に通う予定をしていた。

 進学塾は高校の授業よりも高度な勉強を教えてくれる。進学塾へ通う前に下準備をしておく必要がある。今の刀祢の成績では進学塾から断られる可能性が高い。


「心寧、俺、3年生になったら進学塾に通いたいんだ」

「いいことだね。私も刀祢と一緒の進学塾に通いたいな」


 大学に進学するなら、できることなら心寧と同じ大学を受験したい。しかし、今の成績では無理だ。相当の努力が必要だ。刀祢は今から勉強に打ち込むことにした。時期を延ばしたら、それだけ不利になる。


「今日は丁度、道場の稽古は休みだ。今日からでも頼めるかな?」

「うん、大丈夫」


 心寧はとても嬉しそうに微笑んでいる。なぜ、心寧が浮かれているのか、理由がわからない。学校が終わってから、刀祢の部屋で勉強を教えてもらうことになった。1つだけ心寧に重要なお願いをする。


「心寧、勉強している時は髪型をポニーテールにしてほしい」

「刀祢がそういうなら、ポニーテールにするね。でも変なお願い」


 勉強している間、ロングストレートの心寧を見ていると、美少女すぎて緊張して勉強が手につかない。

 今日は学校帰りに一緒に刀祢の家へ一緒に行くことになった。初めて心寧と一緒に下校することになる。照れる。

 田園地帯を抜けて旧市街地へと2人で自転車を押しながら歩いていく。心寧は何も言わずに刀祢の隣を歩いているだけだが、とても嬉しそうだ。刀祢の家は旧市街地にあり、心寧の家は市街地にある。

 家に戻った刀祢は何も言わずに部屋へ向かおうとする。すると母親の由香里(ユカリ)に見つかってしまった。


「今日は心寧に勉強を教えてもらう」

「心寧ちゃんなの。すごくきれいなお嬢さんになったわね。刀祢がお世話をかけてゴメンなさいね」

「お久しぶりです。由香里小母様。今日はお邪魔させていただきます」


 母の由香里に知られたということは、父の大輝の耳にも入る。父の大輝は何も言わないと思うが、両親に心寧のことを知られたことが恥ずかしい。


「心寧、早く行こうぜ」


 刀祢は急いで心寧を部屋へと案内した。
 階段を上って2階の刀祢への部屋へ向かう。扉を開けて刀祢の部屋へ入る。

 刀祢の部屋は純和風で、机、洋服ダンス本棚ぐらいしか置いていない素っ気ないシンプルな部屋だ。洋服ダンスの上には道着が置かれ、部屋の隅には木刀が3本置かれている。

 刀祢はどこかの部屋から座卓を持ってきて、部屋の中央に座卓を置く。刀祢の左隣りに心寧が座る。刀祢は鞄の中から国語、古典の教科書を座卓の上に置いて、ノートを用意する。


「今回、欠点を取ってしまったのは国語なんだ。5教科の中でも国語は苦手な教科の1つなんだ。特に古典が苦手でさ」

「うん、わかった。古典からやっていこうか」


 心寧は深く頷くと上品に微笑む。

 心寧の説明では、国語は積み重ねの勉強が重要な教科だという。確かに刀祢は中学生の頃は国語は悪い点数ではなかった。 

 段々と下降線を辿り、高校2年生になって欠点を取ってしまった。積み重ねを疎かにした結果だという。


「国語は積み重ねの教科なの。その点では他の教科と違うのよ。中学の時から、授業中に居眠りしているから、こうなるのよ」

「俺も失敗したと思ってる。そこを心寧の力で、なんとかしてほしいんだ! 頼むよ。協力してくれ!

「仕方ないわね。いいわよ。任せて! 何とかしてみせるから!」


 心寧は頬をピンク色に染めて、恥ずかしそうに刀祢を見つめる。

 刀祢なりに国語の勉強を夜にしていたが、心寧の指摘では基礎ができていないから、きちんと理解していないらしい。

 特に古典は苦手で、同じ日本語だとは思えなかった。どこか違う国の言葉のように受け捉えてしまう。


「古典は現代語の延長線上にあると思ってね。別に考えると余計にわからなくなるから。古典も日本語の一部よ」

「国語の一部と言われてもピンとこないんだ。どうしても別の言語に見える」

「そうよね。刀祢から見れば別の言語にみえるよね。その気持ちは理解できるわ」


 古典は、一旦、現代語訳に変換して、物語全体を把握した後に、それを基にして、1行1行の文章を理解していくことが大事と心寧は優しく教えてくれる。

 心寧は刀祢のノートに古典の現代語訳をきれいな文字でサラサラと書いていく。その真剣な横顔はとても美しく、刀祢の目を惹きつける。時々見せる悩んでいる表情も可愛らしい。


「刀祢、あまり見つめないで。恥ずかしくなっちゃう」

「―――ゴメン。つい見惚れた」

「そんなこと言わないで、勉強ができなくなっちゃう」


 慌てて刀祢が自分のノートへ目を移すと、古典の現代語訳が完成していた。これなら刀祢も読めるし、理解することも覚えることもできる。

 ノートと教科書を照らし合わせて、古典文を理解していく。

 心寧が身を乗り出して、指でノートの現代語訳と古典分の同じ箇所をきれいな指でなぞって教えてくれる。

 心寧の手は肌が絹のようにツルツルしていて、指は長く、手が細長くて形が良い。そしてとても柔らかそうだ。剣術をしている手とは思えない。刀祢は心寧の美しい手に見入ってしまう。


「そんなに手を見ないで。私、手は自信がないの。恥ずかしいよ」

「そんなことないよ。心寧の手はとてもきれいだ」


 心寧は手を隠して、恥ずかしそうに頬をピンク色に染めて口を少し尖らせる。その表情がとても可愛い。今まで心寧を見ても、こんな気持ちは湧いてこなかった。刀祢は自分自身の変化に驚く。

 刀祢は心寧を真似て、古典文を現代文に訳してノートへ書いていく。段々と古典文の難しい言葉も理解でき、語訳できるようになってきた。

 現代語訳と古典文を照らし合わせて、自分で同じ箇所を確かめていく。

 刀祢が少し悩んでいると、心寧が身を乗り出して、指でなぞって教えてくれる。きめ細かい肌がきれいだ。思わず吸い寄せられるように心寧の手を取って両手で握る。

心寧の手は柔らかくてツルツルしている。剣術している手とは思えなかった。


「剣術をしていると、何度も手のマメが潰れたの。その時は手全体が硬くなっていたんだけど、今まで稽古しているうちに段々とマメができなくなって手が元通りに戻ったの」

「そうなのか? 心寧の手も指も剣を握ったことがあるように見えない。とてもきれいだ」

「へんな所を褒めないでよ。恥ずかしいでしょ」


 心寧はそう言って、ゆっくりと刀祢の両手から自分の手を抜いて、隠してしまった。恥ずかしそうに刀祢から視線を逸らす。

 心寧をあまり困らせてもいけない。刀祢は気分を切り替えて、国語へと教科を移す。

 心寧の説明では、国語は全ての回答が教科書の中に載っているという。その答えを見つけ出す感覚を磨くことが大事だという。刀祢は初めて、そんな説明を聞いた。

 心寧は刀祢のノートに地の文1つ1つの要点を書いてくれる。真剣に取り組んでいる横顔はスマートでとても美しい。

 心寧の顔のきれいな造形がよく見える。刀祢は心寧の顔に見惚れて、視線を外せない。

 心寧が刀祢のほうへ顔を向ける。その顔は目が潤んでいて、頬が上気している。さっきよりも顔と顔の距離が近い。

 心寧の甘い吐息が刀祢の顔にかかる。刀祢の胸がドキドキと高鳴る。刀祢も吸い込まれるように顔を近づけていく。


「刀祢、どうしたの? 顔が近いよ! 恥ずかしいよ!」

「あ―――心寧の顔を見ている間に、段々と顔を近づけてしまった。すまない」

「キスするのかと、ドキドキした」

(キス――――! 俺はもう少しで、心寧にキスしようとしていたのいか!)


心寧は顔を赤らめて照れている。そんな心寧を見て、刀祢も顔を赤くして、照れる。


「ごめん。今度から気を付ける」

「私も、刀祢とは――― でもまだ、恥ずかしい」

「俺も照れる。恥ずかしい。」

お互いに見つめ合ったまま、顔を赤らめた。

「勉強の続きを始めるよ」

「ああ、頼む。俺も冷静に勉強に集中する」


 そして国語の勉強の続きを始める。


「では、この会話文の「これ」とはどれを指しているでしょうか?」


 心寧が即興で問題を出してくる。心寧が書いてくれたノートに地の文の要点が書かれている。心寧の問題の答えを探す。要点の中に書かれていた。刀祢は心寧に答えをいう。


「正解」


 心寧が次々と質問を出してくる。刀祢はノートに書かれている地の文の要点を探して、次々と正解を言い当てていく。

 確かに心寧の言った通り、国語の答えは全て教科書に書いてあった。そのことがわかっただけでも刀祢にとって進歩だ。思わず、刀祢は心寧の手を両手で優しく握りしめる。

 心寧が傍にいてくれると安心した気持ちになる。刀祢が心寧の手を握り続けていると、心寧は頬を赤らめて顔を上気させる。その顔がとても愛おしかった。
 直哉に誘われて久しぶりに剣道部へ行く。直哉は武道場へ着くと、更衣室で剣道着に着替えて、すっかり剣道部の仲間入りをしている。

 刀祢は剣道よりも風月流剣術のほうが好きである。

 剣道は竹刀の先端から約4分の1の部分までを刃部とする。弦は背の部分なので常に竹刀の上になければならない。

 有効打突にするには、相手より声をあげて、気迫、気力でも優っており、竹刀で相手を打った時、自分の体制が崩れてはいけない。

 有効打突を打ち終わった後も常に警戒して、防御姿勢を取り続ける必要がある。そうしなければ有効打突は取り消しとなってしまうルールである。

 風月流の剣術は木刀を使用し、鍔の部分より上部は全て刃とみなす。よって鍔の近くであっても刃なので、木刀全体が刃といってもいい。木刀の刃の部分であれば、どこで相手を打っても有効なのだ。

 もちろん、寸止めがルールで決められているので、木刀で相手を打てば危険反則とみなして、負けとなる。

 木刀で打つの時に気合の入った声などわざわざ発する必要はない。審判に対して、気迫や気合を見せる必要はない。

 剣道と風月流剣術ではこのような違いがあり、刀祢は風月流剣術を選んだ。小学校の頃から剣道も嗜んではいたが、ずいぶんと剣道からは足が遠のいていた。

 直哉は風月流剣術よりも、相手に体当たりもでき、相手を叩くことができる剣道のほうが今はお気に入りのようだ。直哉は五十嵐達に混じって、竹刀で入念に素振りをしている。

 刀祢は入念に剣の軌道を確認するように竹刀をゆっくり振って、体の微調整を行う。竹刀を振る時、少しでもブレると気持ちが悪い。

 段々と竹刀の振る早さを早くしていき、身体と竹刀を一体化させていく。入念に準備運動ができた所で、直哉が刀祢の元へやって来た。


「刀祢、剣道で俺と正式に試合をしようぜ。道場では刀祢に勝てないからな」


 直哉は風月流剣術に入門してから1度も刀祢に勝てたことがないが、刀祢よりも長身で体格の良い直哉なら、剣道では分があるかもしれない。


「直哉との勝負を受けてもいいぞ」

「本当か。それなら賭けをしようぜ」


 直哉は試合を本気で楽しむつもりらしい。爽やかな顔で笑っている。


「刀祢が勝負に負けたら、もっと剣道部へ参加すること。五十嵐達とも、もっと仲良くなること。俺が負けたら、俺の奢りで焼肉食べ放題だ」


 正式な試合形式ということで主審は五十嵐が行い、副審は新浜と南が行うことになった。直哉と刀祢と開始線にしゃがんで竹刀を構える。五十嵐の合図で試合は開始される。


「キィィェエ―――!」


「セリャァア―――!」


 お互いに気合の入った気勢を発する。刀祢は中段に構える。お互いに気合の入った気勢を発する。刀祢は中段に構える。直哉は上段に竹刀を構える。

 刀祢はすり足で直哉の左側へ回り込むように円を描いていく。直哉は中央に立って、刀祢と真正面を向き合うようにすり足で刀祢を追う。

 剣道では打ち込んだ時の姿勢が万全でないと有効打突にならない。よって、刀祢は円を描くように動きながら直哉に万全な体制を取らせないようにしているのである。


「キィィェエ―――!」


 直哉は強引に刀祢の真正面に立つと、身体ごとぶつかるように飛びこみ面を決めにくる。

 刀祢は直哉が飛び込み面で先手を取ろうとしていることを予測していた。だから円を描くように動いて、直哉の心を焦らす作戦にでた。

 やはり直哉は焦って、強引に体制を立て直して、飛び込んできた。今の直哉の胴はがら空きだ。


「セリャァア―――!」


 刀祢は飛び込んでくる直哉の左側へ抜けるように足を捌きながら、上半身と腕を回転させて、直哉の胴へ一閃する。

 そしてお互いが交差した後に、2人共、身体を回転させて、体制を整えて体ごとぶつかり合う。

 その時、主審、副審2人の赤旗が上がる。「胴あり」と宣言が告げられる。そして赤旗を下げて「勝負あり」と五十嵐が大きな声を出す。お互いに開始線まで戻って竹刀を収めて試合を終了。

 道場の隅まで歩いて、刀祢も直哉も面を外す。数分の戦いなのに息があがる。


「刀祢はやっぱり強いな。剣道でもやられたか」

「直哉、風月流剣術の基本を忘れてるぞ」


 直哉は少し悩むとハッとした顔になり、恥ずかしそうに髪を掻く。

 風月流剣術は実戦剣術道場である。そのため木刀でどこを狙ってもいい。剣道のように面を狙う必要はない。一番大きな体の中心を狙うか、足を封鎖するため下段を狙うことが基本となっている。

 刀祢にとって2番目に得意なのは胴薙ぎなのだ。そのことを直哉はすっかりと忘れていた。


「俺も、もう少し道場で基本を覚え直したほうがいいな」


 直哉は刀祢に向かって爽やかに笑った。


「俺達も焼き肉食べ放題へ一緒に連れて行ってくれよ」


 五十嵐達が駆け寄ってきて、直哉に自分達も誘えと言ってくる。


「わかった! 皆で割り勘な!」


 焼肉は大勢で食べたほうが楽しいだろうと刀祢は思う。

 剣道部が終わった時、男子部員達は集まって、焼肉食べ放題へ行き、楽しく親睦を深めた。