放課後になって、刀祢は直哉と心寧と共に武道場へ向かう。更衣室で道着の上に防具を身に着け、今日は完全に剣道着の恰好だ。
「いつも思うけど、結構、動きにくいな」
「それは慣れだよ刀祢。俺はもう慣れた」
直哉が体を動かしながら、身体の動きをチェックする。刀祢も感じたことだが、剣道着をきると、窮屈(キュウクツ)な感覚に身体が覆われる。
武道場で五月丘高校剣道部の男子達は練習を始める。ゆっくりと竹刀を振って、竹刀のブレを確かめて修正していく。それを何度も繰り返して、竹刀をブレなく真直ぐに振り下ろす感覚を体に馴染ませる。
竹刀を振りながらすり足の脚捌きで体を前後させ、正中線のブレを確かめる正中線を動かさないようにして体重移動させる。
「五月丘高校の奴等、踊りを踊ってるぞ」
「剣道は踊りと違うぞ。何を勘違いしてるんだ」
それを見た、県立第七高校の剣道部の男子達は口々に笑っている。
準備運動が終わり、組手の練習をする。刀祢の相手は五十嵐で、直哉の相手は新浜だ。 五十嵐は練習通りに腕を小さくたたんで、素早く剣を繰り出す。刀祢は五十嵐の剣を受け流していく。
直哉は鋭い剣を新浜に向けて放つ。新浜は必死に防御して、直哉の剣を受け流す。受け流し方がかなり様になっている。
(五十嵐と新浜は剣の受け流しはできそうだな。これで勝負はわからない)
県立第七高校は県内3位の強豪だけあって、練習風景も苛烈だ。上段からの打ち込みの練習。体をぶつけ合う激しい組手。激しい訓練をしているのに部員達は平然な顔をしている。相当、スタミナと体力に自信があるようだ。
今日は県立第七高校の監督が主審を務め、コーチ2名が副審を務める。1試合の制限時間は4分。相手から有効打を1本先取したほうが勝利者となる変則ルールだ。
試合形式は対勝負。五月丘高校が勝利するためには3回勝つ必要がある。
五月丘高校の先鋒は南、次鋒は新浜、中堅は五十嵐、副将は直哉、大将は刀祢の順で決まった。
県立第七高校の大将は倉木が務める。
「刀祢、剣道のルールを覚えているだろうな」
「一応は覚えてるさ。小学生の時は剣道もしていだんだからな」
「五十嵐、刀祢にもう一度、細かい剣道のルールを説明してやってくれ」
直哉は時々、剣道部へ稽古をつけにきているので、剣道部の細かいルールまで知っているが、あまり顔をださない刀祢は細かいルールを忘れてかけている。
剣道では1本を取った後に、打ち切ったことを姿勢で見せる必要がある。1本を取った後も相手の攻撃が続くので、すぐに竹刀を構え直して防御の姿勢に入る必要がある。
判定がでるまで、次の1本を打てる体制を取る必要がある。そこまでしないと1本、有効打の判定にならない。
五十嵐に細かにルールを教えてもらうが、上手く頭に入ってこない。基本的なルールだけ覚えて、後は試合を観戦して選手達の動きを覚えることに決める。刀祢はいつもと同じ平常運転だ。
試合が開始され、県立第七高校は異例な出来事に出会うことになる。先鋒戦の南が延長戦の末まで粘ったことだった。南は負けてしまったが良く健闘した。
次鋒戦でも新浜が延長戦まで粘り、相手の有効打をことごとく防ぐ。新浜は竹刀を受け流すことが上手い。相手選手は苦労したが、最後に有効打を取られて負けた。
中堅の五十嵐は、激しい攻防を繰り返す。そして相手の面をとらえて勝利した。五月丘高校の初勝利である。
「やったぞ―――!」
五十嵐が興奮して男子部員達の前でガッツポーズを取る。
直哉は試合開始の瞬間に相手の面を取りにいく。相手も体ごとぶつかって鍔迫り合いになるが、離れた一瞬をついて相手の面を捉えて1本勝ち。これで勝負は2対2となり、大将戦に持ち込まれた。
「俺は仕事を果たしたぞ。後は刀祢が決めるだけだ」
「ああ、後のことは任せろ! 決めてくる!」
大将の倉木は試合開始と同時に身体ごと飛び込んできて刀祢の面を狙う。刀祢は軽く頭を振って面を逸らす。そして鍔迫り合いにならないように、一歩後退する。
その離れ際を倉木が狙う。また体ごとぶつかるように面を狙ってくる。これが倉木の戦法らしい。
刀祢は倉木と体を離してから、素早い脚捌きで円を描くように右に動き、中段の竹刀の先で倉木の竹刀を軽く叩いて挑発する。倉木はやはり体当たりの面攻撃を繰り出してくる。
刀祢は華麗な脚捌きで体当たりを躱し、がら空きになっている胴へ横薙ぎの一閃を入れる。主審が有効打の赤旗を上げる。追撃されないようにすぐに構え直して右へと円を描く。主審が試合終了の旗を揚げる。
五月丘高校は刀祢、直哉、五十嵐が勝ち、練習試合は五月丘高校の勝利となった。練習試合とはいえ、五月丘高校剣道部男子部の初の勝利だ。初の快挙だ。
「「「「ヤッター! 県立第七高校に勝ったぞ!」」」」
五十嵐達男子部員達は抱き合って喜んでいる。刀祢と直哉は笑顔で拳と拳を合せる。
一方、負けた県立第七高校の雰囲気は暗い。県内3位の高校が弱小高校に負けたのだ、ショックも多きい。後から監督やコーチ陣から絞られることだろう。
刀祢は県立第七高校の監督に挨拶をし、倉木に話しかける。
「お前は負けた。約束は守ってもらう。2度と心寧の周りに現れるな!」
「ああ、わかった。約束は守る!」
倉木は悔しそうに、刀祢を睨んでいたが、刀祢から離れていった。
練習試合が終わり、県立第七高校の生徒が帰って行った、武道場の中で、男子部の初勝利を聞いた女子部員は、男子部に拍手して勝利を喜んでくれた。
刀祢と直哉の近くへ心寧が近寄ってくる。そして2人に深々と頭を下げる。
「2人のおかげで男子部が勝利することができた。本当にありがとう!」
「ああ、俺達も楽しかった!」
直哉はそう言って、爽やかに笑って、髪を掻く。
「もう倉木は心寧には近づかない。俺と約束したからな!」
刀祢がボソリと呟く。
「また刀祢に助けられたね。ありがとう」
心寧は照れて顔を赤くして微笑んでいる。
「心寧は大事な友達だからな!」
刀祢はそれだけ言うと、照れて顔を横を向いた。
心寧はそっと手を伸ばして、刀祢の手を優しく握った。
練習試合があった日から1週間が経った。五月丘高校剣道部男子の初勝利の噂は五月丘高校全体へと流れていった。
それ以降、刀祢の周りで微妙な変化が起こっている。
直哉は剣道も面白いと言って、頻繁に剣道部に顔を出すようになった。剣術道場も面白いが、剣道の激しいぶつかり合いも楽しいと言っている。
直哉が頻繁に剣道部に行くようになったことで、剣道部女子へ入部希望の女子が多くなったらしい。完全に直哉狙いだ。
刀祢は練習試合で剣道の難しさを知った。刀祢は自分が倉木に勝てたのはたまたまだと思っている。今まで剣術のほうが難しいと思っていたが、大きく認識を変えた。
ただの人斬りだった剣術がスポーツとなって、色々なルールが決められて複雑化している。スポーツとしての剣道は、剣術に慣れている刀祢とすれば、非常に難しい競技だった。
「そこが面白いんだよ。剣術ではできないことも剣道だとできるしな」
直哉はそう言って、爽やかに笑っていた。刀祢は直哉ほど前向きになれなかった。やはり刀祢は剣術を愛している。
最近では3年生達も刀祢の悪口や悪い噂を言わなくなったと杏里がいう。3年生の中では刀祢のことを褒めている3年生もいるそうだ。
剣道部勝利の情報はクラス内に流れた。クラス内にも微妙な変化が出ている。刀祢を遠巻きにして様子を見ているのは変わりはないが、以前ほど嫌な感じではない。
「やっと、クラスの皆が刀祢のことを認めてくれたのよ。本当はクラスの皆も刀祢に謝りたいと思っているの。でも恥ずかしくてできないみたい」
莉奈が嬉しそうに微笑んで、刀祢に教えてくれた。刀祢は以前の状態に慣れていたので、今の刀祢に優しいクラスの雰囲気に慣れなかった。
そして一番の変化が刀祢の目の前で、微笑んで座っている心寧だ。
心寧は練習試合が終わった翌日から、毎日、弁当を作ってくるようになった以前なら早弁をしていると、嫌そうに莉奈の近くの席に座っていたのに、今は嬉しそうに刀祢の前に座って、刀祢の早弁を食べている姿を見ている。
そんなにじっと見られると食べにくくて仕方がない。
「今日は美味しい?」
「ああ、いつもと変らないな」
「そ、それなら良かった!」
刀祢が口喧嘩を誘っているのに、心寧は乗ってこない。なぜか嬉しそうに微笑んでいる。この変化は何だ?
そして心寧が一番変わったことは、クラスの皆の輪に、刀祢を引き入れようとしなくなったことだ。一切、そのことは言わなくなった。
「刀祢は刀祢だからね。刀祢の好きにすればいいよ」
こんな言葉が心寧の口から出てくる日がくるとは思ってもみなかった。実に居心地が悪く、やりにくい。
クラス内では、刀祢と心寧が急接近しているという噂が流れている。普通なら必死で違うと言うはずの心寧が何も言わずに噂を無視している。
確かに刀祢にとって心寧は大事な友達である。しかし、今まで心寧を女子として、あまり意識したことがない。
刀祢としては男友達の延長、口喧嘩友達といった感じだ。
噂を否定したいが、朝から刀祢が早弁している姿を、前に座って微笑んでいる心寧。2人の姿を見れば誤解する者達もでてくるだろう。
「心寧もやっと素直になったのね。良かったわ。これで刀祢君が素直になってくれれば良いのだけど」
莉奈はそんなことを言っていたが、刀祢としては今まで素直に生きてきたつもりだ。莉奈の言っている意味が全くわからない。
そんなことを考えながら刀祢が早弁を食べていると、少し心配そうな顔をして心寧が口を開いた。
「刀祢、毎日、授業中は寝てばかりしているけど、テスト対策はできてるの?」
刀祢は毎日、授業中は眠っている。調子の良い時は昼休憩も寝ている。こんな状態なので、授業中に授業のノートを取っているはずがない。
そういえばもうすぐ中間考査だ。心寧が心配するのも無理はない。
莉奈は学年5位、心寧は学年で38位の成績を誇っている。直哉は平均ぐらいの成績だ。刀祢と杏里は赤点よりギリギリ上といった感じで、刀祢の成績は決して良くない。はっきり言って悪い。
「今日は刀祢にこれを貸してあげようと思って持ってきたの。要点はまとめておいたから。刀祢にあげるわ。役に立てて」
心寧が2冊のノートを刀祢にくれる。中を見ると、きれいな字で、2年生になってからの授業内容が整理されて書かれている。そして要点は端的にまとめられている。
「お前、こんなの作って、勉強家だな」
「ううん。刀祢のために作ったんだよ」
「はあ――――?」
なんだろう?このサービスは?心寧の気遣いだと思いたいが、何が裏があるのではないかと、刀祢の警戒心が跳ね上がる。
「今度、道場の稽古が終わった後、一緒に勉強しよ。私が教えてあげるから。剣道の次は勉強を頑張ろうね」
刀祢の体が自然に震える。こんなに穏やかで優しい心寧を見たことがない。こんなのは心寧ではない。頼むから、いつものように絡んでほしいと、いつもの心寧に戻ってほしいと刀祢は心の中で願った。
「稽古が終わったら、ファミレスで勉強ね。約束だからね」
(なんだ?この変わりようは?変化についていけない)
心寧は嬉しそうに微笑みを深めて、刀祢が早弁をしている姿を見てる。
莉奈の家に泊まりに来て、今は莉奈のベッドで、莉奈に抱き枕状態にされている。
莉奈がにっこりと笑って、悪戯する時の子猫のような顔をする。
「最近、刀祢君と口喧嘩もしないで、仲良くしてるわね。心寧の心中で何か変化でもあったのかな? 莉奈はすごく興味あるんだけど!」
「最近の刀祢は私のことを庇ってくれる。何回も助けてくれた。それなのに口喧嘩するのはおかしいと思って」
「それで最近、心寧は刀祢くんに優しいのね。刀祢くんの言葉に過剰に反応していなもそのせいね」
刀祢とは小学校3年生に道場に入門したからの付き合いだ。小学校の頃は道場に行くと、刀祢が色々な剣術を教えてくれた。
館長の大輝おじさんも師範代の公輝兄さんも寡黙だけど温かくて優しい人だった。誰も見ていない所でよくキャンディーを貰ったことを覚えている。
剣斗兄さんはいつも凛々しくて、規律正しくて、正義で、いつの間にか剣斗兄さんを目標にするようになっていた。
しかし、中学生になった頃ぐらいから、刀祢が両親や兄達に反発するようになった。今でも心寧はその原因をハッキリと知らない。
心寧の目からは刀祢のワガママに映った。その頃から刀祢は眉間に皺を寄せて険しい顔をするようになった。刀祢は長身だから中学校の皆は刀祢のことを怖がった。
公輝兄さんや剣斗兄さんを見習うように刀祢に注意すると、すぐ口喧嘩になった。その頃から心寧を見ると刀祢は口喧嘩を吹っかけるようになる。
中学校の中でも刀祢は1人だけで浮いていた。その頃に直哉と仲良くなっていつも学校では直哉とだけ話していた。心寧が他の皆とも仲良くするようにいうと、口喧嘩になるか、無視されるようになった。心寧は辛かった。
いつも自分勝手な行動をしている刀祢のことが我慢できなかった。剣斗兄さんに怒られている刀祢を見て、当然だと思った。刀祢が心寧と道場で組手をする時に本気をださないのも心寧の不満の1つだった。
「中学の時、心寧はいつも刀祢くんの愚痴ばっかり言ってたものね」
「うん、あの頃は私は剣斗兄さんのことを信じていたし、剣斗兄さんの言葉は全て合ってると思っていたから」
「今は違うのね?」
「館長のいう通り、刀祢は優しいと思うの。自分なりにペースで人に気遣いしているとってわかったから」
莉奈は心寧の小学校からの親友だ。だから小学校からの刀祢と心寧のことを知っている。
高校2年生になって刀祢と一緒のクラスと知った時、心寧はため息が出た。心配していた通り、刀祢はクラスの皆から浮いていった。刀祢のほうもまったくクラスの皆を気にせず、仲良くしようともしなかった。
そのことが心寧には刀祢のいつものワガママに映った。いつも道場でも1人で黙々と稽古をして、組手を誰ともしようとしない姿もワガママに思った。でも、1人で稽古している刀祢の姿が格好良く見えて、悔しかった。
「心寧は高校で刀祢くんと一緒のクラスになった時、そんなことを思っていたんだね。それがどうして変わったの?キッカケは何?」
「刀祢は本気で組手をすれば、私が怪我することを理解していた。だから、手加減してくれていた。そこを段々と理解できてきたの?」
「以前、それが心寧は嫌だって言っていたじゃない?それがどうして変わったの?」
「刀祢の本気の実力を見たから。今まで私は刀祢と実力は僅差だと思っていた。それは間違いだった。刀祢は遥か上を歩いていることがわかったの」
道場で心寧と刀祢が組手して、刀祢が負けた時、剣斗兄さんが刀祢を罵倒した。それに怒った館長の大輝おじさんが2人に本気の試合を命じた。心寧は刀祢の本気の試合を初めて見た。結果は刀祢が勝ち、剣斗兄さんは負けて、救急車で運ばれていった。
試合の時の刀祢の剣技を見て、体に電流が流れるような衝撃を受けた。今まで心寧は刀祢と互角に戦えると思っていた。それは心寧の傲慢だった。
刀祢の剣技は心寧の遥かに上を行くものだった。不覚にも心寧は刀祢の剣技に見惚れた。
館長の大輝おじさんは剣斗兄さんの考え方を間違っていると言った。そして刀祢のことを優しすぎると評価する。
剣斗を目標としていた心寧にとって館長の大輝おじさんからの一言はショックな出来事だった。心寧が信じていた目標がガラガラと崩れていく。
はじめは刀祢が優しいということがわからなかった。でも刀祢は道場でも木刀で女性の顔を狙おうとしない。女性と組手をしたがらない。
刀祢は心寧以外の女子とは口喧嘩をしない。心寧と口喧嘩はするが、いつも刀祢のほうが心寧のいうことを聞いてくれる。よく考えると刀祢が優しいという意味が段々とわかってきた。見えてきた。
館長の大輝おじさんが、刀祢のことを優しすぎると言ったことは正しい。剣道部の男子部のことも、面倒そうにしていたが、きちんと稽古をつけてくれる。道場でも担当している門下生3人に基礎から優しく教えている。
ハイキングに行った時は心寧が怪我をしたのに、文句も言わずに傷の手当をしてくれて、おんぶまでしてくれた。あの時はすごく恥ずかしかったし、嬉しかった。
県立第七高校の倉木に絡まれた時は、倉木と勝負して勝ってくれた。おかげで心寧は倉木につきまとわれることはなくなった。刀祢のおかげで剣道部の男子部が初めて練習試合で勝つことができた。
「刀祢は剣斗兄さんのように実力を振りかざさない。刀祢はいつも組手をする時、私に怪我をさせないように気遣ってくれる」
「刀祢くんは心寧の実力が発揮できるように組手をしれくていたんだね」
「刀祢はいつも口喧嘩を吹っかけてくるけど、口喧嘩で勝とうしとしない。結局、私のいうことを聞いてくれる」
「最近、心寧は刀祢くんに、いっぱい優しさをもらってるね。だから心寧も変わろうと思ったのかな?」
「少しは恩返しをしたいと思っただけよ!」
今まで心寧が刀祢を見ていたのは態度だけだった。きちんと全てを見ていなかった。きちんと刀祢のことを理解しようとしていなかった。ずっと心寧は自分の気持ちばかりを刀祢にぶつけていた。
これからは刀祢のことは刀祢に任せようと思う。心寧は黙って刀祢を見守っていこう。刀祢は大事な友達と言ってくれた。だから刀祢を大事にしようと思う。
「心寧は刀祢君を理解することに決めたのね。やっとそこまで気づいたんだ。少しは進歩したかなか?まだ自分の気持ちに気づいていないみたいだけど」
「私が自分の気持ちに気づいていない? 刀祢への気持ちに気づいていない?」
「小さい頃から一緒だから、それが当たり前になっていて気づかないのね。でも段々と理解するようになるから大丈夫だよ」
莉奈が意味のわからない謎の言葉をいう。
「心寧はまだまだ成長しないとね。どうして刀祢くんのことが、そんなに気になるのか、心寧も少しは自分の気持ちに気づいたほうがいいよ」
「どうして、私が、刀祢のことをそれほど気にするのか? 私、そんなに刀祢のこと気にしていないよ!」
「そう? 今日の心寧も刀祢くんの話ばっかりしてるよ。心寧も自分の気持ちに、もう少しだけ素直になったほうが良いかもね!」
(私の気持ちは刀祢のことを――――)
昼休憩が時間がやってきた。刀祢は授業中も机に伏せているが、薄くは意識がある。刀祢は熟睡する体制に入り、夢の中へと入っていく。
刀祢が熟睡していると肩をポンポンと叩かれた。顔を上げると、鼻がつきそうなほどの至近距離で心寧が刀祢の顔を見ていた。
思わず焦った刀祢は椅子をずらして、心寧から距離を取る。
「ビックリさせるなよ。昼休憩に何しに来たんだ?」
「ごめんなさい。刀祢に渡したいものがあって―――」
おかしい。いつもの心寧なら、昼休憩ぐらいは起きていなさいと言って、怒ってくるはずなのに、いつもと反応が違う。
「渡したいモノって何だ?」
「これ、ボストンバック!」
心寧は手に持っていた布鞄の中からボストンバックを取り出して、刀祢の机の上に置く。刀祢は不思議に思ったが、とりあえずボストンバックを手に取ってフタを開けると、きれいに並んだサンドイッチが入っている。
心寧は刀祢が昼食を食べない主義であることを知っている。渡す相手を誰かと間違えているのではないかと刀祢は考える。
「誰かと間違ってないか?」
「ううん。それは刀祢のために作ってきたの。たまには軽食を食べてもいいでしょう。お腹空いてない?」
お腹が空いていないかと聞かれれば、小腹は空いている。サンドイッチぐらいなら丁度良い感じだ。
「サンドイッチなら食べられるな」
「一緒に食べましょう!」
「ああ、いいぞ! 一緒に食べよう!」
いつも昼休憩の時は心寧は莉奈と一緒にお弁当を食べているはずだ。今まで心寧とは一緒に昼休憩を過ごしたことはない。
「こんなことすると、変な噂がたつぞ!」
「噂なんて放っておけば、忘れるわよ」
「今まで、変な噂を嫌っていたのは心寧だろう!」
「刀祢と噂になるのは、別に構わないわよ。すぐに消えるし」
何時もなら周りへの体裁を一番に気にする心寧の言葉とは思えない。一体どういう心境の変化があったのか?
「何かすごい悩み事でもかかえてんのか? 俺で良かったら相談にのるぞ」
「悩み事は解決したの」
「そうか! 良かったな!」
刀祢は心寧の言っている意味がわからなかった。悩みが解決したのなら、いつも通りに莉奈とお弁当を食べたらいいだろう。わざわざ刀祢を起こして一緒にサンドイッチを食べる必要はない。
「なぜサンドイッチを作ってくれたんだ?」
「気分が良くって、刀祢の分も作ったの、食べてね」
「ああ、ありがとう。ありがたくいただくよ」
悩み事が解決して、気分が良くなって刀祢の昼食を作ってくれたということらしい。しかし、なぜ、刀祢に昼食を作ってくれたのか。
「一生懸命に作ったんだから、早く一緒に食べようよ」
「―――おう、そうするか!」
刀祢はツナサンドを手に取って口の中へ入れる。味は美味しいが、玉ねぎが大きくて口の中でシャキシャキする。
「美味しい?」
「味は美味しいが、玉ねぎが少し大きいな。口の中でシャキシャキする」
「今度から玉ねぎは、もっと細かく切ってくることにするわ。今回はこれで我慢してね」
「これはこれ、美味ししいって言ってるじゃないか!」
「うん、嬉しい!」
それを聞いた心寧が俯いて、両手を前にして恥ずかしそうに顔を下に向けている。
いつもの心寧なら、せっかく作ってきたんだから、美味しいなら文句を言わずに食べなさいと言ってくるはずなのに、様子が違う。
「心寧、そこまで深く考えることじゃない。味はすごく美味しいんだし、そんなに気にすることはないぞ。次に細かくすればいだけだから。俺が言い過ぎた」
「大丈夫。刀祢が美味しいって言ってくれたから! 嬉しい!」
刀祢がそう言うと、心寧は美味しいと言ってくれたことが嬉しいらしく、刀祢を見て笑顔になる。今日の心寧はいつもと違う。心寧の扱いに注意が必要だ。
刀祢は卵サンド、ハムサンドとサンドイッチを食べていく。その度に、心寧にきちんと美味しいことを伝え、心寧が落ち込まないようにする。
こんなに神経を使いながら食べたサンドイッチは初めてだ。サンドイッチを全て食べ終わって、ホッと安堵する。心寧は布袋から水筒を出してコップに麦茶を注いで刀祢に渡す。
いつもの心寧なら机にコップを置くはずだ。手渡しなんてしてこない。心寧は刀祢のことを面倒に思っていたはずなのに、今日のサービスは過剰だ。
そう思いながら心寧の手からコップを取って麦茶を一気に飲み干す。
「ごちそうさま!心寧、美味かったぞ。また作ってきてくれ!」
「お粗末様でした。また作ってくるね」
刀祢に対して心寧がお粗末様などと言うとは思わなかった。心寧は刀祢の声を聞いたはずなのに、そのままスルーした。いつもなら口喧嘩が始まるはずなのに。
サンドイッチも食べ終わったはずなのに、心寧は椅子から動こうとしない。刀祢が困って周りを見回すと、莉奈と目が合った。莉奈は悪戯っ子のような輝く目で刀祢と心寧を見て手を振って微笑んでいる。
「これは莉奈の悪戯か?」
「何のこと言ってるの? 意味わからないよ」
「今回のサンドイッチは莉奈に手伝ってもらってないからね」
「ああ、心寧の手作りということだな。ありがとう」
心寧は嘘を言わない。人を騙すこともしない。では莉奈の悪戯ではない。では、どうして心寧は刀祢の傍から離れない。
心寧が優しい澄んだ声で刀祢に聞いてくる。その声を聞いて、刀祢は即決する。今日の心寧はいつもと違う。
「今日は道場に行くの? それとも剣道部に寄っていく?」
「今日は道場に真直ぐ行くわ」
「私も剣道部が終わったら道場に行くわね。門下生と一緒に教えてよ」
心寧は今まで剣術では刀祢より強いと思っていたはずだ。まさか心寧から剣術を教わりたいという言葉が出て来るとは思わなかった。
「心寧に教えることなんてねーよ。心寧のほうが俺より強いだろ」
「そんなことない。刀祢のほうが強いってわかったから。お願いね」
そう言って、心寧が手を合わせて頼む。心寧は道場に行っても今と同じ調子なのだろうか。早く元の心寧に戻ってくれと刀祢は思う。
「仕方ないな。組手以外なら一緒にやろう」
「刀祢、ありがとう!」
それを聞いた心寧は花が咲いたように微笑んだ。
道着に着替えて、道場へ向かう。道場に着くと既に由香、天音、秀樹の3人は道場で基礎練習を初めていた。刀祢は静かにその姿を見守る。3人共、基礎訓練をする姿は様になっている。
「こんばんわ」
「「「こんばんわ」」」
3人から元気の良い声が返ってくる。刀祢は木刀を構えて、1人1人へ組手を相手をしていく。3人共、打ち込みの筋が良くなっている。打ち込む時に木刀のブレがない。
良い打ち込みができるようになってきたと内心で刀祢は嬉しく思う。まだまだ教えることも多いが、基礎訓練が完全であれば、この3人なら稽古を楽しんでくれるだろうと思う。
「少し休憩にしましょう」
3人に声をかけて、道場の隅に全員で座る。刀祢の隣は天音の定位置となっている。3人共、水筒を持参していて、天音は紙コップで水筒に入っている麦茶を刀祢に分けてくれた。
麦茶を一気に飲むと、喉が潤って、火照った体に染み渡っていく。
天音は気遣いのできるお姉さんだ。少しホワッとした雰囲気をもっていて、人を和ませる空気を醸し出している。落ち着いた黒い瞳、きれいな二重、少し低い鼻、ポッテリとした唇が大人びていて魅力的である。
天音がこの道場に入門したキッカケは、朝の通勤電車で、毎日のように痴漢に遭うことで困っていたことだった。
気が小さかった天音は痴漢に遭っても大きな声を出せずにいた。しかし、道場に通うようになって今では痴漢に遭っても、大きな声で叫べるようになったという。
刀祢から見ても天音は、後数年もすれば妖艶な美女に変化すると思う。これからも天音は多くの男性達の視線を集め、多くの男性達から声をかけられることだろう。美女も大変だ。
道場で天音に会っても緊張しないが、道場の外で天音と会えば、刀祢は必ず緊張してしまうだろう。
天音は微笑んで麦茶を紙コップに注いでくれる。
「刀祢くんは、付き合っている女の子はいるの? 好きな女の子は?」
「好きな女の子も、付き合っている女の子もいません。俺はモテないですから」
刀祢は笑って髪を指で軽く掻く。
刀祢は自分が常に険しい顔をして、不機嫌な顔付きをしていることを知っている。そんな自分のことを好きになってくれる女子がいるとは思えない。
「男性は見た目も大事ですが、それよりも大事なのは中身です」
「俺には何も誇れる所はないですから」
今まで両親に褒められたこともない。兄貴達からも褒められたことはない。褒められたことがあるとすれば、剣技のことだけだ。自分はつくづく剣技しか取り柄のない男だと刀祢は思う。
「刀祢くんは男性として誇れる部分が沢山あります。自分で自覚がないだけです」
天音の真剣な眼差しを受けて、刀祢は冗談として受け流せなかった。
「褒めてくれてありがとうございます」
「道場が終わってから、私に少し時間をください」
天音が突然、刀祢にお願いをしてくる。何か相談事でもあるのだろうか。
「わかりました。道場で待っています」
刀祢は軽い気持ちで、天音のお願いを聞き入れた。
◆
道場に剣道部の練習を終えた心寧と直哉が入ってきた。2人が刀祢の元まで歩いてくる。
「刀祢、学校で話していたとおり、今日は私にも稽古をつけてね」
元気よく心寧が言う。
「今は基本的なことしか教えていない。心寧は基本はできているから、教えることなんてないぞ」
「そうだぞ、心寧。刀祢は門下生を預かってるんだ。心寧と稽古をしている所を見られると、刀祢が館長に怒られる。ここは大人しく刀祢の言う通りにしよう」
直哉は心寧の肩を優しく叩く。心寧は少し、ショゲていたが、小さく頷くと、直哉と一緒に自分達の定位置へと歩いていった。
「心寧さんと刀祢くんは仲良いですね」
天音が微笑みながら聞いてくる。
「心寧とは小学校3年生からの付き合いですからね。大事な友達です」
心寧がこの道場に来たのが小学校3年生。それからの付き合いだから幼馴染に近いかもしれない。
「すごく仲良く見えます」
「そんなことないですよ。顔を見合わせれば口喧嘩ばかりの時期もありましたし」
心寧とは小学生の間は仲が良かったが、中学へ入学した頃から言い合いを始めるようになった。
心寧は剣斗兄貴のことを信じていたので、ことごとく意見が合わなかった。剣斗兄貴を信じる心寧のことを刀祢は苦手だった。そのうち、心寧と口喧嘩していることが普通の状態になっていく。
中学生のある日、心寧が3日ほど風邪をひき、熱をだして学校を休んだことがあった。寂しさを刀祢は感じた。
風邪から復帰した心寧と口喧嘩をしている時、妙な安心感と安堵を感じたことを、今でも思い出すことができる。刀祢は心寧と口喧嘩している時、そのことを楽しんでいた。
それから心寧と口喧嘩するのが楽しくなった。心寧と口喧嘩していないと妙に元気が出ない。それからは、刀祢から心寧に口喧嘩をふっかけるようになっていった。
刀祢は考える気もなく、心寧との口喧嘩の日々を思い出していた。
◆
道場が終わりになり、先に直哉と心寧には帰ってもらう。
天音が更衣室で着替えて来て、薄いベージュ色のツーピースのスーツを着て道場へ入ってくる。まるで別人のような大人の女性だ。刀祢の体が自然と緊張する。
天音は真剣な顔付きで刀祢の前に立って会釈する。
「刀祢くんのことが好きです! 付き合ってください!」
刀祢は天音の意表を突く告白に、一瞬、誰に言ってるのだろうと思う。しかし、道場には、今は刀祢と天音しかいない。自分が告白されている事実を理解して、内心で大いに焦るが、顔に出さないようにする。
天音は答えを待っている。刀祢は考えるが、答えが出ない。しかし、心の奥にモヤモヤした気持ちがある。こんな状態で、真剣に告白してくれている天音に応じるのは失礼だと思った。
「ごめんなさい―――」
「理由を聞いてもいいですか? やっぱり誰か好きな人でもいるんですか?」
「好きな人はいない。天音さんに応えようとした時、モヤモヤした気持ちがあって、スッキリした気持ちになれなかった。こんな気持ちで天音さんに応えるのは、天音さんに失礼だと思う。だから、ごめんなさい」
天音は優しく微笑む。
「やっぱり、ダメだったかー!」
刀祢は黙ったまま、何も答えずに立っていた。謝ると失礼だと思った。
「刀祢くん、早く自分の気持ちに気づいたほうがいいわよ」
天音はそう言い残して道場から去っていった。
(自分の気持ち―――)
どうして天音さんをフッてしまったんだろう。天音さんは気配りの利く年上の美女だ。
刀祢には勿体ない話だと思う。
天音さんは大学1年生の栗色のロングストレートがよく似合う美人だ。可愛くてきれいで童顔で。スタイルも良くて、自慢できる彼女になっていただろう。
稽古をつけ始めてから、天音さんが一番、刀祢に懐いて努力してくれていた。努力家な面も刀祢は評価していた。なのに、あの場面で告白を断ってしまった。
刀祢はベッドの上に横になって、天井を見つめながら考える。
今まで刀祢は女子から告白されたことなどなかった。天音さんから告白されたことも今となってはドッキリではないかと疑ってしまう。それほど刀祢はモテたことがない。
あの心のモヤモヤ感は何だったんだろう。あのモヤモヤ感がなかったら天音さんの告白にOKを出していた。妙に心の中に引っかかるものがあった。だから断ってしまった。
惜しいことをしたと刀祢は後悔するが、心のどこかで、これで良かったんだという安心感もある。刀祢は今まで剣の修行ばかりに集中してきた。だから未だに初恋などしたことがない。
だから恋の感覚がわからない。女性を好きになったこともない。近くにいる女性といえば母親だが、母親はあまり話さない人で、寡黙な父親とお似合の女性だ。
刀祢のことを信頼しているのか、無関心なのか、全くの放任主義で、今まであまり拘わった記憶が刀祢にはない。
直哉は小学校の時から女子にモテる。中学の時に直哉とは親友になったが、その時には直哉は女子に対して、興味を示さなくなっていた。
中学時代の直哉は「女子って構わないとウルサイから困る」と口癖のように言っては、女子達の中に入って、爽やかな笑顔を振りまいていた。
そう言えば直哉の初恋の話なんて聞いたことがないぞ。直哉も好きな女性がいるのかな。いつも多くの女性に囲まれて笑顔でいるので、直哉が誰が好きなのか、刀祢もわからない。
杏里は中学の頃から知っているが、高校に入ってからギャル化して、天然ぶりを発揮している。中学の時から元気で明るい奴だった。
中学の時は杏里が直哉のことを好きだとは知らなかったが、高校に入ってから杏里が直哉に猛アタックをかけている。
しかし、直哉は上手く杏里をあしらって、相手にしていない。たぶん杏里は直哉のタイプではないように思う。
(今度、直哉にこっそりと、好きな女子がいるか聞いてみよう)
友達と言えば、心寧と莉奈が今は一番近くにいる友達だ。しかし、心寧と莉奈では、心の距離が違う。
莉奈は中学の時からの知り合いだが、いつもおっとりとしていて知的で、いつも刀祢を諭したり、叱ったりするお姉さん的存在だ。
莉奈は、そのおっとりとした雰囲気と、知的な面を持ち合わせた美少女だ。刀祢も美少女だとは思う。胸もEカップあるし、男子生徒の中でも人気が高い。
しかし、莉奈は刀祢にとっては怒ると怖いお姉さん的な存在で、恋愛対象として見ることはできない。絶対に無理といえる。
心寧は小学校4年生から道場に通うようになり、その頃からの刀祢との知り合いだ。
いつも道場で一緒に稽古をし、小学校も中学校も同じ学校で、いつも口喧嘩ばかりしている幼馴染だ。
刀祢の小学校からのアルバムには心寧の小学校の頃の写真が多く載っている。いつも刀祢の傍にいて当たり前の存在だ。心寧のことを女性として意識したことがない。
心寧は他校からも告白にくるほどの美少女だと莉奈はいうが、刀祢にとって心寧は、どこにでもいる女子高生と変らない存在で、美少女とは思えなかった。
あんな怒りっぽくて、泣き虫で、感情的な心寧が、どうしてモテるの意味不明だ。
刀祢はベッドに仰向けになったまま、まぶたを伏せる。すると、小学校からの心寧のことばかりが思い出として浮かんでくる。
泣いている心寧。怒っている心寧。拗ねている心寧。喜んでいる心寧。笑っている心寧。
(ヤバい! 俺って女子といえば心寧しか知らないじゃん)
今更ながらに、天音と付き合ったほうが良かったかもと思う。そうしなければ、心寧に侵食されてしまう。どうしてフッてしまったんだろうと今になって後悔する。
すると頭の中で泣いて、服を掴む幼い心寧の顔が浮かぶ。
刀祢は心寧を泣かせたくない自分に気づいて、驚く。今まで、そんなことを考えたこともなかった。確かに刀祢は心寧のことを妹のように思っている部分もあった。
可愛い妹、口喧嘩をして口を尖らせている妹、ちょっと拗ねている妹、笑顔が可愛い妹。
刀祢は小さい頃から道場で心寧と一緒の時、心寧に剣術を教えていた。その関係もあって、自然と心寧のことを妹のような存在にすり替えてしまっていたらしい。
(心寧のことは妹のようで放っておけないんだよな)
刀祢が冗談で心寧を泣かせるのは構わない。しかり他の男子が心寧を泣かしたりすることは絶対に許せない。そんなことをした男子は絶対にギタギタにしてやる。
どうして、心寧のことを、こんなに庇って、守ろうとしているのか、刀祢自身が理解することはなかった。
ただ、刀祢は心寧の笑顔をずっと見ていたかった。それがモヤモヤの原因であることを理解
する。
(このままだと、心寧が早く彼氏を作らないと、俺は彼女を作れないじゃないか)
刀祢は自分の心を、全く勘違いしていることに気づかず、そのまま目をつむって眠りにおちた。
刀祢は心寧が初恋の相手であることに全く気づくことはなかった。
刀祢にサンドイッチを渡してから5日が経った。
1人で家に居ると、同じことばかり考えてしまう。刀祢のことばかりを考えてしまう。そして思い悩んでしまう。だから今日は莉奈の家に泊まりに来た。
「最近の心寧は忙しそうね」
莉奈はお風呂に入って、サッパリした後に、ジュースとポテチを用意してくれた。莉奈の部屋でパジャマに着替えて、2人でポテチを食べて、ジュースを飲む。
「今回は何の相談かな?」
昼休憩にサンドイッチを作っていった日、刀祢の寝顔を見て、心寧は自分の心が安らぐのを感じる。とても落ち着く。
細い眉、常に吊り上がった目元、切れ長の奥二重、シャープな鼻筋、薄い唇小顔、色白で、端正な顔立ち。刀祢がこんな格好いい容姿をしていると思わなかった。すごく恰好いいし、可愛い寝顔。思わず吸い込まれるように顔を近づけてしまう。
刀祢が起きてきて、いつもの不機嫌な顔に戻った。もう少し寝顔を見ていたかった。刀祢に好きと伝えたかった。でも言葉に出して言う勇気がない。だからサンドイッチを心を込めて作った。少しでも自分の心を伝えたかった。
刀祢はサンドイッチを美味しそうに食べてくれた。心寧は刀祢が早弁を食べている姿が好きだった。はじめは早弁なんてルールに反すると思って注意したけど、早弁のおかずやご飯を口いっぱいに頬張る刀祢を見ていると可愛いと思った。
「刀祢くんは本当は格好良くて、可愛い顔をしてるもんね。表情で損をしているけど」
刀祢を好きと自分が理解してから世界が変わった。刀祢のことが全て恰好よく見えるし、可愛くみえるし、輝いて見える。自分は一体、今まで刀祢の何を見ていたんだろうと思う。
道場で門下生達に稽古をつけている時の刀祢の横顔が素敵すぎる。刀祢は横顔のほうが格好いい。凛々しさが際立つ。自分の稽古をしながら、目で刀祢の姿を追ってしまう。刀祢の道着姿で木刀を振っている姿は、すごく凛々しい。
「はい、はい、そこまで刀祢くんに夢中になってるのね。もう心寧の心は刀祢くんでいっぱいね」
こんなに恰好いい刀祢が、いままでモテなかったことが不思議。今までの心寧と同じで、皆も刀祢のことを、きちんと見ていないから、刀祢の魅力がわからないんだと心寧は思う。
「刀祢くんは魅力的な男の子よ。私は1学期の時から、そう思っていたわ。心寧が刀祢くんに惹かれる気持ちはすごくわかるよ。刀祢くんは心寧のことが大好きだから、自分に自信を持ちなさい!」
莉奈はそう言って、心寧を優しい瞳を向けて、静かに微笑んだ。
莉奈は刀祢は心寧のことが大好きだと言ってくれたが、心寧は自分に自信がない。今までの自分の行動を顧(カエリ)みると、刀祢にはずいぶんと迷惑をかけたと思う。刀祢に嫌われていたらと思うと足が竦む。
刀祢は本当に自分のことを受け入れてくれるだろうか。心寧はそれが知りたかった。
「それを知るには心寧から告白するしかないわね。そうしないと刀祢くんは自分の気持ちを教えてくれないわ」
告白するなんて恥ずかしいことは、今までしたことがない。告白されたことはいっぱいあったけど、自分が告白することになるなんて想像もしていなかった。でも刀祢とこのままの状態でいたなら、一生友達関係で終わってしまう。
刀祢に自分以外の彼女ができたらどうしよう。そんなのは耐えられない。でも告白して刀祢に断られることが怖い。いつまでも大事な友達と言われることが怖い。
「大好きな人に告白するってことは怖いことよ。でも逃げるなんてことをしてはできないよ」
直接、私の気持ちを刀祢に伝えないといけないことはわかっている。しかし、決心がつかない。
「心寧はきれいで可愛くて、放っておけない所があって、とてもチャーミングよ。私が男子で彼氏だったら、心寧を1人にすることなんてできない。可愛すぎるから」
そう言って莉奈は私の体に抱き着いて、ギュッと抱きしめてくれる。
(莉奈は私のことをきれいと言うけれど、莉奈のほうが大人で魅力的だと私は思う)
莉奈が私の髪を綺麗に梳いて、ドライヤーでブローしてくれる。そして洋服ダンスから新しい洋服を出してきた。可愛い靴まで揃っている。
「心寧が告白に行くときは私の家から行くと思ってた。だから、心寧の勝負服を選んでおいたの。この服を着て、今から刀祢くんに会いに行きなさい」
いきなり莉奈に告げられて、心寧は戸惑うが、今を逃せば告白できないような気がして、大きく頷いて、自分のスマホを取り出して、刀祢に震える手で連絡する。
刀祢の電話番号は中学の時から知っていたけど、今まで連絡をしたことはなかった。
《心寧か? どうした? 連絡してくるなんて初めてだな》
《刀祢とゆっくり話がしたいの》
《明日だとマズイのか?》
《うん。今日、会ってほしい》
《どこに行けばいいんだ?》
《私が道場の近くの公園まで行く。だから公園で待ってて!》
《よくわからないが、公園で待ってればいいんだな。わかった》
スマホを切ると、莉奈が私の背中を優しくさすってくれる。すごく緊張した。少しずつ緊張がほぐれて落ち着いてくる。
出かける用意ができた心寧を見て、莉奈が優しく微笑む。心寧は莉奈の家を出て、刀祢が待っている公園へ向かった。
道場の近くの公園で刀祢は心寧が来るのを待っている。ほどなくすると、黒髪のロングストレートの女子が公園の中に入ってきた。一瞬で心寧だとわかるが、いつもと雰囲気が違う。
心寧がゆっくりと外灯の下まで歩いてくる。心寧の姿が良く見えるようになった。
白のニットワンピースを着て、フレアーなスカートを履いて、少し化粧もしている。いつもよりも大人びて、上品で清楚に見える。
そのまま心寧は刀祢の近くまで歩いてくる。その可憐さと美しさに刀祢は言葉を失う。今まで学校で元気よく、刀祢と口喧嘩をしていた心寧の姿はどこにもない。ここにいるのは上品で清楚な美少女だ。
「誰だ? 本物の心寧か?」
「何言ってるの? 心寧よ」
心寧は不思議そうな顔で刀祢の顔を、優しい眼差しで見つめてくる。
心寧相手なのに刀祢は自分の体が自然と緊張していくのがわかる。
黒いまつ毛が濡れている。漆黒の瞳がとてもきれいだ。唇がグロスで濡れて光っている。頬がほんのりとピンク色に染まっている。どこから見ても完璧な美少女だ。
「今日は、化粧をしてきたんだな」
「似合ってるかな?」
「ああ」
刀祢はなるべく平静を装うが、声が妙に高くなってしまう自分を自覚する。心寧が刀祢の目の前で立ち止まって、刀祢を見上げる。瞳がウルウルと潤んでいて、瞳に吸い込まれそうだ。
「刀祢、突然だけど、私、刀祢のことが好き! 付き合ってほしいの!」
「え!」
突然の心寧の告白に頭が真っ白になる。全てのことが頭から吹き飛んで消え去る。心寧が何を言っているのか理解できない。
心寧は世話好きなので、刀祢のことを面倒みていると思っていた。中学生の頃は刀祢のことを心寧は嫌っていたはずだ。どこで変わった。心寧に何があったんだ?
心寧に何か変化がなければ、刀祢のことを好きになることなんてあり得ないと、刀祢は思った。
「心寧、何かあったのか? 相談になら乗るぞ」
「もう1回言うね。私は刀祢のことを本気で大好き。だからお付き合いしてください」
悩み事ではなかった。本気で心寧は刀祢と付き合いたいと言っている。少し時間が欲しい。理解がついていかない。心の準備が全くできていない。
今まで心寧のことは大事な友達だと思ってきた。これは本当だ。でも恋愛対象として女性扱いしていなかった。
「ちょっと待ってくれないか。頭を整理する時間がほしい」
「いつまででも待つわ」
こんな美少女を彼女にしていいのか?刀祢は心寧の顔を見つめ続ける。心寧が微笑んで1歩前に身体を寄せる。
心寧の可憐で美しい顔が目の前に迫る。心臓がドキドキと鼓動が激しい。これ以上、緊張すると、身体が硬直してしまいそうだ。
「刀祢は私のこと嫌い?」
刀祢にとって心寧は安定剤である。嫌いなはずがない。友達の中でも一番信頼できるのは心寧だ。家族よりも一番信頼も信用している。
「心寧のことは好きだ」
心寧は嬉しそうに顔をピンク色に染めて恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべる。そんな可愛い表情と仕草をされると視線を合わせていることができない。刀祢は照れて心寧から視線を逸らした。
「刀祢に好きって言ってもらえて、すごく嬉しい。胸がドキドキする」
既に刀祢の胸は高鳴り過ぎて爆発寸前だ。体中から汗が噴き出してくる。体が熱くて、喉が渇いて仕方がない。
「ちょっとジュースを買ってくるから、待ってろ」
「うん」
刀祢は緊張感に耐えられずジュースを買いに自販機へ走る。ジュースを2本買って、すぐにジュースのプルトップを空けて一気に飲み干す。ジュースが体に染み渡って、少しは頭が回転するようになった。
刀祢は歩いて戻ってくるとジュースを心寧に渡す。心寧は嬉しそうにジュースを飲んでいる。その姿もきれいだ。
「こんな俺のどこがいいんだ?」
「全部よ。 全部、大好き!」
心寧は深く頷く。そして嬉しそうに微笑む。
「付き合おう。しかし、男女の付き合いなんて俺にはわからないからな」
「刀祢は私の傍にいてくれるだけで十分に幸せ」
心寧は嬉しくて、刀祢の胸に飛びこんで、刀祢に抱き着くと、刀祢の胸の中で涙を浮かべている。刀祢は心寧の体を受け止めて、心寧が倒れないように背中に手を回した。
道場が終わった後に直哉に頼んで、刀祢の部屋に泊まってもらった。
「刀祢、今日は稽古中も真剣な顔をしていたが、何かあったのか? 心寧も顔を真っ赤にしたまま、刀祢のほうへ顔を向けないし、喧嘩でもしたのか?」
「―――――付き合うことになった―――」
「はあ?キチンと聞こえなかった。もう1度、大きな声で言ってくれ」
「俺と心寧は付き合うことになった!」
「な!」
直哉は刀祢の声を聞いて、爽やかな笑顔のまま固まっている。直哉の気持ちはわかる。刀祢自身も、心寧と付き合うことになったことが、未だに信じられない。
引きつった笑顔のまま、直哉が刀祢の両肩を鷲掴みにする。
「一体、どういうことなんだ? 詳しく聞かせろ!」
「俺だって、どうなってるのか、未だにわかんないんだよ。昨日、心寧に突然、告白されたんだ」
直哉に昨日の告白の出来事の全てを刀祢が説明する。始め緊張していた直哉だったが、段々と意味を理解してきたらしく、刀祢の顔を見てニヤニヤと笑っている。
直哉からすれば、刀祢も心寧も幼すぎというか、自分の気持ちに気づくのが遅すぎると思っていたので、とうとう心寧が自分の心を理解したかと、大きく頷いた。
「それで心寧からの告白にOKを出したんだろう」
「ああ、心寧を泣かせたくないと思ったからな。俺は心寧には笑顔でいてほしいからな」
「はあ? 理由はそれだけか?」
「それだけだが、変か?」
直哉は大きくため息をついて、首を横へ振った。
「お前は心寧のことをどう思ってるんだ?」
「最近、気づいたんだが、俺は心寧のことを妹のように思ってるんだと思う!」
「はあ? 妹? お前、何を言ってんだ?」
刀祢と心寧は小学校4年からの付き合いだ。道場の中でも2人は仲良く、一緒に稽古に励み、中学の時には良きライバルとなっていた。
それまでの間、刀祢が兄のように心寧のことを可愛がっていたと、刀祢が説明する。
中学へ入学した頃から心寧は剣斗を尊敬し始め、刀祢とは距離を離れていくことになるが、刀祢は剣斗を尊敬する心寧のことが気に入らなかった。
なんだか妹を取られたような気がしたと今、刀祢は当時を振り返って、直哉に説明する。
「だめだ。これは俺が思っていたよりも重症だ」
「誰か、重症患者でもいるのか?」
「お前のことだよ。この鈍感!」
直哉は刀祢の肩を握ったまま、ベッドに座らせる。そして刀祢の前に仁王立ちで立った。
「刀祢、お前はすごい勘違いをしている。自分自身のことで勘違いをしている。良く聞け。お前は昔から心寧のことが好きなんだ。心寧が初恋の女性なんだ」
「はあ? 直哉、一体、何を言い出すんだ?」
「刀祢、鈍感にもほどがあるぞ。刀祢は心寧のことを妹としてなんて見てない。初恋の女友達として、今まで友達でいたんだ。妹の部分を初恋の女子に変えて考えてみろ」
刀祢は軽いパニックを起こして、頭を抱える。
(今まで俺が思っていたのは勘違いだったのか!)
小学校で心寧に出会った時、既に刀祢は心寧に初恋をしていた。恋人としての付き合い方がわらかなかったので、心寧を妹扱いしていた。妹扱いをしなければ心寧に近づくことができなかった。
中学になってから心寧が剣斗を尊敬し始めた時、刀祢は嫌な気持ちになった。それは妹を取られた気持ちではなく、初恋の好きな女子を剣斗に取られたと勘違いしたためだ。だからこそ剣斗と異常なほど険悪な仲になった。
そして心寧に口喧嘩を吹っかけて楽しむのは、可愛い妹に対して、意地悪をして楽しむ兄の気持ちではなかった。好きな初恋の女の子に振り向いて欲しくて、意地悪をする男子の行動といえる。
そして、常に心寧のことが頭から離れないのは、妹のことを心配する兄の気持ちではない。初恋の女子である心寧のことで頭がいっぱいだったのだ。
刀祢は段々と、そのことを自分で理解しはじめる。すると体が緊張して、動きが固まる。
「俺の初恋は心寧だったのか―――知らなかった!」
「そうだ。知らなかったのは刀祢だけだ。俺や莉奈はそのことに気づいていたぞ」
「心寧は俺の大事な妹代りではなかったのか?」
「誰が幼馴染を妹と勘違いするんだ。妹のはずないだろう。お前は小さい頃から心寧のことを大好きだったんだ。お前が好きな女性は心寧だ」
刀祢は直哉にズバリと本当のことを言われて顔色を無くして狼狽する。
(俺が心寧を守りたいと思っていたのは、心寧のことを妹だと思って、守りたいと思っていたわけではなく、心寧に惚れていたからなのか)
刀祢はベッドの上にゴロンと寝転がる。ベッドの端に直哉が座った。
心寧が刀祢のことを好きでいてくれたこと、両想いであったことを、今更ながらに安堵する。心寧が他の男に奪われる前で良かった。
「これで自分の心を理解したか? まだ言い訳があるか?」
「いや、自分の心を理解した。直哉の言っている通りだ。俺が勝手に勘違いをしていただけだ。俺は小学校の頃から、心寧に惚れていたんだな」
「やっとわかったか。鈍感!」
直哉にそう言われても仕方がないと思った。自分で考えても鈍すぎる。刀祢の心の中にあったモヤモヤが一気に解消されていく。
そして小学校4年生の剣道大会の時、満面の笑顔で心寧が刀祢に贈った言葉を思い出す。
「刀祢、恰好いい! 大好きよ!」
あの瞬間から刀祢は心寧に初恋していたことを素直に理解した。