彼女とこの世界で逢えなくなってからどれくらいの時が経ったのだろうか。
カーテンの隙間から横殴りの朝日が突き刺すように僕の顔を照らした。
その眩しい光は、また新しい日がやって来たということを嫌でも僕に知らせる。
――ああ・・・もう朝か・・・。
こんなことをもう何日も繰り返しているような気がする。
僕はベッドに横たわって、こんな風にただ時間が過ぎていくだけの日を重ねていた。
相変わらず何も考えず、何もしなかった。
今日は何曜日だろうか? まあ、どうでもいいことだった。
曜日感覚はとうに無くなっていた。
意識がもうろうとする中、僕は久しぶりにカーテンを開いて窓に手を掛けた。
――ああ・・暑い・・・。
窓の外はいつの間にか初夏の陽気になっていた。
雲ひとつなく、よく晴れていた。でも、その景色に色を感じることはなかった。
モノクロームの景色・・・そんな歌があったっけ。
こういう景色だったんだ。
彼女はもういない?
そんな実感、まだ無かった。
「雄喜! 起きてる?」
一階からの怒鳴るようなおふくろの声に僕の意識は現実へと戻り始める。
「ああ、起きてるよ」
僕がめんどくさそうな返事をすると同時に、ガラっと大きな音を立てて部屋のドアが開いた。
おふくろが顔を覗かせた。
「びっくりしたなぁ! 何だよ?」
「お客さんよ。あんたに」
――お客さん?
「誰?」
「鈴鹿さんのお母様みたい」
「え?」
まだ虚ろだった僕の意識は一瞬で張り詰めた氷のようになった。
――どうしよう。なんで彼女のお母さんがこの家に?
僕は彼女のお通夜にもお葬式にも行っていなかった。それどころか線香の一本すらあげに行っていない。
今の僕にはお母さんに合わせる顔がない。
――きっと怒ってるんだ。でも会わないわけにはいかないし・・・。
とにかく謝るしかないと思いながらタンスから着替えを取り出した。
僕は顔を洗ったあと、階段を下りて応接間へと向かった。
部屋に入ると、久しぶりに見るお母さんの姿があった。
病院で彼女に会った日以来だが、ちょっと痩せたように見える。
「あの・・」
僕が声を掛けたとたん、お母さんの睨みつける視線が僕に突き刺さった。
僕はその目を見て、もう何も言えなくなった。
――やっぱり怒ってる・・・当然だけど。
僕はお母さんの前にゆっくりと正座をした。
言葉が見つからない。たとえあったとしても何も言えない。
しばらくの間、重い沈黙が続いた。
思い立ったようにお母さんが口を開いた。
「突然にごめんなさい名倉君。久しぶりね」
「は・・・はい」
僕は聞こえるかどうかの微かな声しか出せなかった。
「随分冷たいじゃない。あの子のお通夜もお葬式にも来てくれないで。
今日、何の日か知ってる?」
「え?」
「咲季の最初の月命日よ」
――そうか、あれからもうひと月経ってたのか。
「・・・・・・ごめんなさい」
僕はようやく絞り出した声で謝った。
ほとんど声にならなかった。聞こえただろうか。
「ごめんなさい」
僕はもう一回、懸命に声を絞り出した。
自分が情けなかった。彼女に何もしてやれなかった。死んでしまう前も、死んでしまったあとも。
お母さんは下に俯いたまま泣き出した。
僕はそれを見てもう一回謝った。
「ごめんなさい」
「フフ・・・・」
――え?
「フフフ・・・」
――泣いているんじゃない。もしかして笑ってる?
お母さんはゆっくりと顔を上げた。
その顔は涙を浮かべてはいるものの、なぜか笑っていた。
――何? どういう・・・こと?
「ごめんなさい。怒ってるんじゃないわ。いえ、あまりにもあなた達が羨ましくて、ちょっぴり意地悪したくなっちゃったの」
――あなた達?・・・羨ましい?
僕にはお母さんが何を言ってるのかまったく理解できなかった。
「今日はあなたに文句を言いに来たわけじゃないのよ。あなたにお礼をしようと思って来たの」
「お礼?・・・僕に?」
ますます分からない。何でお礼?
「名倉君、咲季と一緒にいてくれてありがとう。私のわがままで病院にずっと通わせてしまったわね」
――違う!
僕は大きく首を横に振った。
「僕はお礼を言われるようなことは何もしてないですよ」
「え?」
「僕はお母さんから頼まれたから彼女に逢いに行っていたわけではないですから。僕が彼女に逢いたいから、彼女と一緒にいたかったから・・」
それを聞いたお母さんは優しく微笑んだ。
「そうね、ありがとう。そう言ってもらえるとあの子も・・・」
お母さんは俯いたままハンカチで目を抑えた。
「ごめんなさい。結局僕は彼女に何も・・・何もしてあげられなかった。それどころか励ます言葉すらかけてあげられなかった。本当に情けなくって・・・こんな情けない自分が嫌で嫌で・・・」
息が詰まりそうで声が出なくなった。
何もできなかった悔しさがさらに込み上げてきた。
「名倉君、あなたは本当にあの子に何もしてやれなかったと思っているの?」
お母さんは不思議そうな顔で僕を見つめていた。何が言いたいのだろうか? お母さんのその顔の意味が理解できなかった。
お母さんはゆっくりと手元の紅茶を少し口に含んだ。
「あなた達は本当に心が通じ合ってのね。だからさっき羨ましいって言ったの。あなたのおかげで咲季は幸せだったと思う。ありがとう」
僕はまた黙って首を横に振った。
僕は何もできなかった。何もしてやれなかった。
「あの子言ってたのよ。『もし私が死んだら彼は・・・』、あ、彼ってあなたのことね。『もし私が死んだら、彼はショックでしばらく立ち直れなくなると思う。だからお葬式どころか、お線香もあげに来ないかもしれない。だけど許してあげてね。私が許すから』って。私、何をこの子は自惚れてるのかしら、と思ったけど、本当にその通りなんだもの。フフ、びっくりしちゃった」
僕はただ苦笑いをするしかなかった。そう、彼女は僕のことを誰よりも分かってくれていた。
「手術の前日の夜、あなたに来てもらって本当によかった。あの時は突然呼び出してしまってごめんなさいね」
「いえ・・・全然、そんなこと・・・」
「あの夜、あなたが咲季とどんな話をしてくれたかは知らないし、訊こうとも思わない。その日記に何が書かれているかということも。それはあなた達二人だけのものだから。でも、これだけは言わせてね。名倉君、咲季と一緒にいてくれて、本当にありがとう」
僕は何かを言わなければならないと思ったが、何も声が出なかった。
「あなたに来てもらった日の次の日・・・手術の日ね、手術室に入る前に咲季と少しだけ話すことができたの。それがあの子との最期の会話になってしまったけど・・・」
「え?」
「その時の咲季は前の日の夜とは全く違ってたわ。とっても明るくて、毅然としていて、咲季らしい咲季だった。
――咲季らしい咲季。そう、いつも明るいのが咲季だ。
「あの子、『名倉くんに逢わせてくれてありがとう』って言ったわ。そして最後に『お母さん、行って来ます』って笑顔で一言だけ・・・きっとあの子は本当に・・」
お母さんの言葉が涙で詰まった。
「名倉君、あなたは私たち親では与えてやれなかったものをあの子に与えてくれたんだと思う。本当にありがとう」
「いえ・・・結局僕は彼女には何も・・・何もしてあげられなかった・・・」
――ごめんね。咲季・・・。
僕は心の中で呟いた。
「僕、今でも思うんです。彼女はこんな僕といて本当に楽しかったのかなって。
僕は彼女に憧れてました。彼女はいつも元気で、明るくて、積極的で、とっても眩しかった。僕は大人しくて、暗くて、つまらない人間だったから、彼女みたいになれたらいいなっていつも思ってました」
お母さんは彼女にそっくりな眩しい笑顔で僕を顔を見ていた。
そしてゆっくり、そして大きく首を横に振った。
「違うわ。あの子があなたのことを好きになったのは、きっと自分に似ていたからだと思う。あなたを見ているとそれがよく分かるわ」
「彼女と・・・僕が?」
僕は大きく首を振った。
「ハハハ、それはないです。全く正反対ですから。彼女はいつも明るくて、とても積極的で。僕は臆病で、暗くて、人見知りで・・・」
今度はお母さんが大きく首を横に振った。そして笑いながら僕を見つめた。
「あの子はね・・・中学の時まではすごい内気で、気が弱くて、引っ込み思案で、それは大変だったのよ」
「え?」
そう。確かにそれは前に彼女本人から聞いたことがある。
冗談かと思っていたけど、本当のことだったんだ。
「あの子は小さい時から病院の入退院を繰り返していたから、学校でもなかなか友達ができなかった。中学に上がった時は少しクラスにお友達ができたんだけど、中学二年の時に大きな手術をしてね。一年の内、ほとんどが入院生活だったからその年は進級できなかったの。だからせっかくできたクラスの友達とも離れ離れになってしまって。それも大きかったかな。ますます引っ込み思案になっちゃってね」
僕は頭を棒で殴られたようなショックを受けた。
――病気が理由だったんだ・・・進級できなかったのは。
彼女がグレていただなんていう噂を信じていた自分を攻めた。そして彼女が言っていた『病気になったから僕に出逢えた』という言葉の意味を理解をした。
――僕はやっぱり大馬鹿野郎だ。何もわかっちゃいなかった。
その後もお母さんから彼女の中学時代の話を聞いた。
退院後は一コ下の学校の友達とはあまり馴染めなかったこと。そしてしばらく学校に行けなくなってしまった時期があったこと。
「でもね、ある日、あの子のクラスのお友達がある高校の学校見学会に誘ってくれたの。そこで見た高校生たちや制服、学校のキャンパスがとても眩しく見えたらしくて、その日に『ここを受験をしたい!』って言い出したのね。それが今の高校。その時のあの子の成績からしたらかなり難しいって言われてたんだけど・・・。受かったのは奇跡的だったのよ。わが娘ながらあの集中力のすごさには驚かされたわ。見学に誘ってくれたあの子の親友も一所懸命に勉強を教えてくれて、本当に感謝してる。咲季の受験番号を合格掲示板で見つけた時はその子と三人で抱き合って泣いたの」
「その話は彼女から聞いたことあります。全然勉強できなかったんだけど奇跡的に受かったって確かに言ってました」
成績が悪かったのは、遊んでいたからだと思っていた。
自分が恥ずかしかった。病気で入院ばかりしていたというのに、どれだけの努力をしたのだろうか。
「それで高校に入ってからは、あの子全然性格が変わってね。いや変えたのかな。とっても積極的になって、友達もたくさん作って」
「ええ。いつも明るくて、男子にも人気あったみたいです。僕は隣のクラスだったけど、彼女のことは知ってましたから」
「あの子、高校に入ってから何人かの男の子と付き合ったみたいなんだけど・・」
お母さんはハッとしたように慌てて声を止めた。
「あ、ごめんなさい、私ったら。こんな話、嫌だったよね?」
「いえ、知ってますから全然大丈夫です。彼女、男子からもすごく人気あったし・・」
「よかった。でもね、あの子、結局どの男の子とも長続きしなかったのね。
みんないい人なんだけど、どうも好きという気持ちになれないって言ってね。
そんな時あの子、私に訊いてきたの。『人を好きになるってどういうことかな?』って。
その時に私言ったの。『一緒にいて自然でいれる人。本当の自分を出せる人。そういう人じゃない』って。
そしてある日、あの子が『隣のクラスに面白い男の子がいるんだ』って話してくれたの。
そんなこと言うのはとってもめずらしいことだったのよ。『どんな人?』って訊いたら『いっつも謝ってばかりいる優しそうな人・・・』って言ってね。
名倉君が最初に家に来てくれた時、あなたがその人だってすぐに分かったわ。思わず笑っちゃったわよ。あの時はごめんなさいね」
そしてお母さんはカバンの中からひとつの包みを取り出した。
「あともうひとつ、あなたに渡さなければならないものがあるの」
――え、なに?
「最期の日に咲季から頼まれたの。もしもの時はこれをあなたに渡して欲しいって」
「僕に・・・?」
僕は驚きながらお母さんから差し出された包みを両手で受け取った。
紙の袋に包まれていたが、形と重さの感触から本のようなものだと分かった。
「ごめんなさい。本当はもっと早くあなたに渡さなければいけなかったのだけれど、私も気持ちの整理がつくまで時間がかかってしまって・・・」
僕はその包みをゆっくりと開いた。
――やっぱり本?・・・。
いや違う。でもどこかで見覚えがある表紙だ。
『D.I.A.R.Y』と書かれている。・・・・日記帳?
そうだ。思い出した。これはあの時、彼女と初めてデートした日に彼女が買った日記帳だ。
――これを僕に?・・・。
声は出なかった。
驚いているのか、嬉しいのか、悲しいのか、僕自身が分からなかった。
「名倉君?」
お母さんの声で僕は我に返った。
「あの・・・ここで読んでいいですか?」
僕がそう尋ねると、お母さんはゆっくりと首を横に振った。
「あなた一人になってから読んでくれる? 中は私も見てないわ。それは咲季とあなたたち二人だけのものだから」
僕は黙ったまま頷いた。
「名倉君。あなた、さっき咲季に何もしてあげられなかったって言ってたわね」
「は・・・はい」
「その答えは、きっとこの日記に書いてあると思う・・・」
僕はお母さんを帰り道の途中まで送った。
「もうここでいいわ。ありがとう」
「今日は・・・ありがとうございました」
「今度またうちにも来てよね。ハーブティご馳走するから」
「はい」
「名倉君、じゃあね」
小さく手を振るお母さんの笑顔に彼女の面影がダブった。
『じゃあね』・・・。
彼女のいつもの別れの挨拶だった。
僕はお母さんが歩いていく方向から目を逸らした。
これ以上お母さんを見続けると、込み上げてくる感情を抑える自信が無かったから。
カーテンの隙間から横殴りの朝日が突き刺すように僕の顔を照らした。
その眩しい光は、また新しい日がやって来たということを嫌でも僕に知らせる。
――ああ・・・もう朝か・・・。
こんなことをもう何日も繰り返しているような気がする。
僕はベッドに横たわって、こんな風にただ時間が過ぎていくだけの日を重ねていた。
相変わらず何も考えず、何もしなかった。
今日は何曜日だろうか? まあ、どうでもいいことだった。
曜日感覚はとうに無くなっていた。
意識がもうろうとする中、僕は久しぶりにカーテンを開いて窓に手を掛けた。
――ああ・・暑い・・・。
窓の外はいつの間にか初夏の陽気になっていた。
雲ひとつなく、よく晴れていた。でも、その景色に色を感じることはなかった。
モノクロームの景色・・・そんな歌があったっけ。
こういう景色だったんだ。
彼女はもういない?
そんな実感、まだ無かった。
「雄喜! 起きてる?」
一階からの怒鳴るようなおふくろの声に僕の意識は現実へと戻り始める。
「ああ、起きてるよ」
僕がめんどくさそうな返事をすると同時に、ガラっと大きな音を立てて部屋のドアが開いた。
おふくろが顔を覗かせた。
「びっくりしたなぁ! 何だよ?」
「お客さんよ。あんたに」
――お客さん?
「誰?」
「鈴鹿さんのお母様みたい」
「え?」
まだ虚ろだった僕の意識は一瞬で張り詰めた氷のようになった。
――どうしよう。なんで彼女のお母さんがこの家に?
僕は彼女のお通夜にもお葬式にも行っていなかった。それどころか線香の一本すらあげに行っていない。
今の僕にはお母さんに合わせる顔がない。
――きっと怒ってるんだ。でも会わないわけにはいかないし・・・。
とにかく謝るしかないと思いながらタンスから着替えを取り出した。
僕は顔を洗ったあと、階段を下りて応接間へと向かった。
部屋に入ると、久しぶりに見るお母さんの姿があった。
病院で彼女に会った日以来だが、ちょっと痩せたように見える。
「あの・・」
僕が声を掛けたとたん、お母さんの睨みつける視線が僕に突き刺さった。
僕はその目を見て、もう何も言えなくなった。
――やっぱり怒ってる・・・当然だけど。
僕はお母さんの前にゆっくりと正座をした。
言葉が見つからない。たとえあったとしても何も言えない。
しばらくの間、重い沈黙が続いた。
思い立ったようにお母さんが口を開いた。
「突然にごめんなさい名倉君。久しぶりね」
「は・・・はい」
僕は聞こえるかどうかの微かな声しか出せなかった。
「随分冷たいじゃない。あの子のお通夜もお葬式にも来てくれないで。
今日、何の日か知ってる?」
「え?」
「咲季の最初の月命日よ」
――そうか、あれからもうひと月経ってたのか。
「・・・・・・ごめんなさい」
僕はようやく絞り出した声で謝った。
ほとんど声にならなかった。聞こえただろうか。
「ごめんなさい」
僕はもう一回、懸命に声を絞り出した。
自分が情けなかった。彼女に何もしてやれなかった。死んでしまう前も、死んでしまったあとも。
お母さんは下に俯いたまま泣き出した。
僕はそれを見てもう一回謝った。
「ごめんなさい」
「フフ・・・・」
――え?
「フフフ・・・」
――泣いているんじゃない。もしかして笑ってる?
お母さんはゆっくりと顔を上げた。
その顔は涙を浮かべてはいるものの、なぜか笑っていた。
――何? どういう・・・こと?
「ごめんなさい。怒ってるんじゃないわ。いえ、あまりにもあなた達が羨ましくて、ちょっぴり意地悪したくなっちゃったの」
――あなた達?・・・羨ましい?
僕にはお母さんが何を言ってるのかまったく理解できなかった。
「今日はあなたに文句を言いに来たわけじゃないのよ。あなたにお礼をしようと思って来たの」
「お礼?・・・僕に?」
ますます分からない。何でお礼?
「名倉君、咲季と一緒にいてくれてありがとう。私のわがままで病院にずっと通わせてしまったわね」
――違う!
僕は大きく首を横に振った。
「僕はお礼を言われるようなことは何もしてないですよ」
「え?」
「僕はお母さんから頼まれたから彼女に逢いに行っていたわけではないですから。僕が彼女に逢いたいから、彼女と一緒にいたかったから・・」
それを聞いたお母さんは優しく微笑んだ。
「そうね、ありがとう。そう言ってもらえるとあの子も・・・」
お母さんは俯いたままハンカチで目を抑えた。
「ごめんなさい。結局僕は彼女に何も・・・何もしてあげられなかった。それどころか励ます言葉すらかけてあげられなかった。本当に情けなくって・・・こんな情けない自分が嫌で嫌で・・・」
息が詰まりそうで声が出なくなった。
何もできなかった悔しさがさらに込み上げてきた。
「名倉君、あなたは本当にあの子に何もしてやれなかったと思っているの?」
お母さんは不思議そうな顔で僕を見つめていた。何が言いたいのだろうか? お母さんのその顔の意味が理解できなかった。
お母さんはゆっくりと手元の紅茶を少し口に含んだ。
「あなた達は本当に心が通じ合ってのね。だからさっき羨ましいって言ったの。あなたのおかげで咲季は幸せだったと思う。ありがとう」
僕はまた黙って首を横に振った。
僕は何もできなかった。何もしてやれなかった。
「あの子言ってたのよ。『もし私が死んだら彼は・・・』、あ、彼ってあなたのことね。『もし私が死んだら、彼はショックでしばらく立ち直れなくなると思う。だからお葬式どころか、お線香もあげに来ないかもしれない。だけど許してあげてね。私が許すから』って。私、何をこの子は自惚れてるのかしら、と思ったけど、本当にその通りなんだもの。フフ、びっくりしちゃった」
僕はただ苦笑いをするしかなかった。そう、彼女は僕のことを誰よりも分かってくれていた。
「手術の前日の夜、あなたに来てもらって本当によかった。あの時は突然呼び出してしまってごめんなさいね」
「いえ・・・全然、そんなこと・・・」
「あの夜、あなたが咲季とどんな話をしてくれたかは知らないし、訊こうとも思わない。その日記に何が書かれているかということも。それはあなた達二人だけのものだから。でも、これだけは言わせてね。名倉君、咲季と一緒にいてくれて、本当にありがとう」
僕は何かを言わなければならないと思ったが、何も声が出なかった。
「あなたに来てもらった日の次の日・・・手術の日ね、手術室に入る前に咲季と少しだけ話すことができたの。それがあの子との最期の会話になってしまったけど・・・」
「え?」
「その時の咲季は前の日の夜とは全く違ってたわ。とっても明るくて、毅然としていて、咲季らしい咲季だった。
――咲季らしい咲季。そう、いつも明るいのが咲季だ。
「あの子、『名倉くんに逢わせてくれてありがとう』って言ったわ。そして最後に『お母さん、行って来ます』って笑顔で一言だけ・・・きっとあの子は本当に・・」
お母さんの言葉が涙で詰まった。
「名倉君、あなたは私たち親では与えてやれなかったものをあの子に与えてくれたんだと思う。本当にありがとう」
「いえ・・・結局僕は彼女には何も・・・何もしてあげられなかった・・・」
――ごめんね。咲季・・・。
僕は心の中で呟いた。
「僕、今でも思うんです。彼女はこんな僕といて本当に楽しかったのかなって。
僕は彼女に憧れてました。彼女はいつも元気で、明るくて、積極的で、とっても眩しかった。僕は大人しくて、暗くて、つまらない人間だったから、彼女みたいになれたらいいなっていつも思ってました」
お母さんは彼女にそっくりな眩しい笑顔で僕を顔を見ていた。
そしてゆっくり、そして大きく首を横に振った。
「違うわ。あの子があなたのことを好きになったのは、きっと自分に似ていたからだと思う。あなたを見ているとそれがよく分かるわ」
「彼女と・・・僕が?」
僕は大きく首を振った。
「ハハハ、それはないです。全く正反対ですから。彼女はいつも明るくて、とても積極的で。僕は臆病で、暗くて、人見知りで・・・」
今度はお母さんが大きく首を横に振った。そして笑いながら僕を見つめた。
「あの子はね・・・中学の時まではすごい内気で、気が弱くて、引っ込み思案で、それは大変だったのよ」
「え?」
そう。確かにそれは前に彼女本人から聞いたことがある。
冗談かと思っていたけど、本当のことだったんだ。
「あの子は小さい時から病院の入退院を繰り返していたから、学校でもなかなか友達ができなかった。中学に上がった時は少しクラスにお友達ができたんだけど、中学二年の時に大きな手術をしてね。一年の内、ほとんどが入院生活だったからその年は進級できなかったの。だからせっかくできたクラスの友達とも離れ離れになってしまって。それも大きかったかな。ますます引っ込み思案になっちゃってね」
僕は頭を棒で殴られたようなショックを受けた。
――病気が理由だったんだ・・・進級できなかったのは。
彼女がグレていただなんていう噂を信じていた自分を攻めた。そして彼女が言っていた『病気になったから僕に出逢えた』という言葉の意味を理解をした。
――僕はやっぱり大馬鹿野郎だ。何もわかっちゃいなかった。
その後もお母さんから彼女の中学時代の話を聞いた。
退院後は一コ下の学校の友達とはあまり馴染めなかったこと。そしてしばらく学校に行けなくなってしまった時期があったこと。
「でもね、ある日、あの子のクラスのお友達がある高校の学校見学会に誘ってくれたの。そこで見た高校生たちや制服、学校のキャンパスがとても眩しく見えたらしくて、その日に『ここを受験をしたい!』って言い出したのね。それが今の高校。その時のあの子の成績からしたらかなり難しいって言われてたんだけど・・・。受かったのは奇跡的だったのよ。わが娘ながらあの集中力のすごさには驚かされたわ。見学に誘ってくれたあの子の親友も一所懸命に勉強を教えてくれて、本当に感謝してる。咲季の受験番号を合格掲示板で見つけた時はその子と三人で抱き合って泣いたの」
「その話は彼女から聞いたことあります。全然勉強できなかったんだけど奇跡的に受かったって確かに言ってました」
成績が悪かったのは、遊んでいたからだと思っていた。
自分が恥ずかしかった。病気で入院ばかりしていたというのに、どれだけの努力をしたのだろうか。
「それで高校に入ってからは、あの子全然性格が変わってね。いや変えたのかな。とっても積極的になって、友達もたくさん作って」
「ええ。いつも明るくて、男子にも人気あったみたいです。僕は隣のクラスだったけど、彼女のことは知ってましたから」
「あの子、高校に入ってから何人かの男の子と付き合ったみたいなんだけど・・」
お母さんはハッとしたように慌てて声を止めた。
「あ、ごめんなさい、私ったら。こんな話、嫌だったよね?」
「いえ、知ってますから全然大丈夫です。彼女、男子からもすごく人気あったし・・」
「よかった。でもね、あの子、結局どの男の子とも長続きしなかったのね。
みんないい人なんだけど、どうも好きという気持ちになれないって言ってね。
そんな時あの子、私に訊いてきたの。『人を好きになるってどういうことかな?』って。
その時に私言ったの。『一緒にいて自然でいれる人。本当の自分を出せる人。そういう人じゃない』って。
そしてある日、あの子が『隣のクラスに面白い男の子がいるんだ』って話してくれたの。
そんなこと言うのはとってもめずらしいことだったのよ。『どんな人?』って訊いたら『いっつも謝ってばかりいる優しそうな人・・・』って言ってね。
名倉君が最初に家に来てくれた時、あなたがその人だってすぐに分かったわ。思わず笑っちゃったわよ。あの時はごめんなさいね」
そしてお母さんはカバンの中からひとつの包みを取り出した。
「あともうひとつ、あなたに渡さなければならないものがあるの」
――え、なに?
「最期の日に咲季から頼まれたの。もしもの時はこれをあなたに渡して欲しいって」
「僕に・・・?」
僕は驚きながらお母さんから差し出された包みを両手で受け取った。
紙の袋に包まれていたが、形と重さの感触から本のようなものだと分かった。
「ごめんなさい。本当はもっと早くあなたに渡さなければいけなかったのだけれど、私も気持ちの整理がつくまで時間がかかってしまって・・・」
僕はその包みをゆっくりと開いた。
――やっぱり本?・・・。
いや違う。でもどこかで見覚えがある表紙だ。
『D.I.A.R.Y』と書かれている。・・・・日記帳?
そうだ。思い出した。これはあの時、彼女と初めてデートした日に彼女が買った日記帳だ。
――これを僕に?・・・。
声は出なかった。
驚いているのか、嬉しいのか、悲しいのか、僕自身が分からなかった。
「名倉君?」
お母さんの声で僕は我に返った。
「あの・・・ここで読んでいいですか?」
僕がそう尋ねると、お母さんはゆっくりと首を横に振った。
「あなた一人になってから読んでくれる? 中は私も見てないわ。それは咲季とあなたたち二人だけのものだから」
僕は黙ったまま頷いた。
「名倉君。あなた、さっき咲季に何もしてあげられなかったって言ってたわね」
「は・・・はい」
「その答えは、きっとこの日記に書いてあると思う・・・」
僕はお母さんを帰り道の途中まで送った。
「もうここでいいわ。ありがとう」
「今日は・・・ありがとうございました」
「今度またうちにも来てよね。ハーブティご馳走するから」
「はい」
「名倉君、じゃあね」
小さく手を振るお母さんの笑顔に彼女の面影がダブった。
『じゃあね』・・・。
彼女のいつもの別れの挨拶だった。
僕はお母さんが歩いていく方向から目を逸らした。
これ以上お母さんを見続けると、込み上げてくる感情を抑える自信が無かったから。