翌朝、窓のカーテンのわずかな隙間から漏れる光で僕は目覚めた。カーテンを開けて外を見ると、空はどんよりとした厚い雲で灰色に染まっていた。
僕は折りたたみ傘をカバンの中に入れ、いつも通りの時間に家を出た。そして、いつも通りの時間のバスに乗った。
今日は土曜日なので、授業は午前中だけだ。学校が終わったらすぐ病院へ向かおう、そう思いながらお母さんからのメールを待っていた。僕の心の中は、早く彼女に会いたいという気持ちだけでいっぱいで、他には何も見えず、何も聞こえなかった。

午前中の授業が終わる。何の授業だったか、全く記憶に残っていない。僕はすぐに携帯の画面を確認した。しかし、着信はまだ無かった。
僕はお母さんのメールを待った。

帰りのホームルームが終わった時だ、携帯のメール着信音が響いた。彼女のお母さんからだ。
やっと彼女に会える・・・僕は思わず気持ちが弾んだ。しかし、そのメールの内容は僕が待っていたものとは違った。
『ごめんさない。今日の面会は少し待って下さい。また連絡します』
どういうことだろう? 手術は終わったのではなかったのだろうか?
手術後の検査に時間がかかっているのだろうか。それとも何かの手続きか。真っ暗な不安感が僕を襲った。それは理由が分からない分だけ大きかった。
でも、僕はたとえ会えなくても彼女のそばに居たかった。

僕は病院方面行きのバスに飛び乗った。バスは二十分ほどで病院に着いた。けれど僕は病室には向かわなかった。もし検査中だとしたら、まだ彼女と会うことはできない。
それにお母さんから待ってくれと言われているので迷惑になるかもしれない。そう思い、僕は病院内の公園で連絡を待つことにした。連絡が来たらすぐに会えるように。
僕は公園の中にある木製のベンチにゆっくり腰かけた。
頭の上にポツリと何かが落ちた。手に取った。桜の花びらだった。
周りを見ると、公園内にあちらこちらに桜の木が植えられていた。ついちょっと前まで満開だったと思っていたが、気がつくと既にかなりの花が散っている。

――もう桜も終わりかな。
思い返すと、今年は落ち着いて桜を見ることもなかった。
そっと瞼を閉じた。僕の脳裏に彼女と出逢った時のことが映し出される。ほんの一か月前のことなのに、やけに懐かしく感じた。
――また海に行きたいな。それとも彼女はどこか別の所に行きたがるかな・・・。
そんなことをボーっと考えながら時間は過ぎていく。

一時間くらい経っただろうか。
ベンチでずっと動かなかったせいか、腰に痺れを感じた。
公園内に湿った空気が漂っていた。
ポツリと頭の上に何かが落ちた。
 ――また花びら?
違う。雨だ。そう言えば天気予報は午後から雨だった。
――やばい。どこかで雨宿りしないと。
そう思って立ち上がった時、ジャケットのポケットに入れていた携帯がコトンと音をたてて、ベンチの上に落ちる。
――あれ?
携帯のLEDが青白く点滅していた。メール着信に気がつかなかったようだ。
液晶画面に彼女のお母さんの名前が表示された。やっと検査が終わったみたいだ。

僕は嬉しい気持ちを抑えながらメールを開く。
しかし、そこに表示された、たった一行の文章に僕の意識は凍りついた。

『咲季だめでした。いろいろありがとう』

一瞬で頭の中が真っ白になった。
その言葉の意味を理解できなかった。

――何?
――だめって、何? 
それ以上、考えたくなかった。

――まさか、彼女が・・・。
僕の頭の中に最悪の言葉が過る。
――いや、そんなことがあるはずがない。
その言葉を僕は懸命に打ち消した。

――嘘だ・・・嘘だ・・・嘘だ・・・。
僕の頭の中で同じ言葉が反芻される。
――確かめないと。

僕は急いで病棟へと走ったが、僕の足は病棟のエントランスの扉の前で動けなくなった。
自動扉が鈍い音をたててゆっくり開いた。でも足が竦んで中へと入ることができない。
行けなかった。行きたくなかった。
僕は認めない。認めたくない。僕はそのまま病院を背にして駆け出した。

それからどれくらい時が経ったのか、どこをどう走ったのか全く覚えていない。

気がつくと、僕は自分の家の前にいた。
服がぐっしょりと雨で濡れていた。どうやら雨が降ってたようだ。全く憶えていないが。
今、何時くらいなんだろう? あたりを見るとすでに真っ暗になっていた。
――もう夜になってたんだ・・・。
僕はろくな着替えもせず、そのままベッドに倒れ込んだ。
何も聞きたくなかった。
何も知りたくたかった。
僕は虚ろなまま眠ってしまった。
ただ、時々ぼんやりとだが意識が戻った。
――夢?  夢だ・・・よね?・・・こんな夢、早く覚めてほしい・・・・。

おふくろの僕を呼ぶ声に一瞬、意識が戻る。何やら慌てた感じで僕の部屋に入ってきた。
僕は毛布を被ったまま寝つづけた。
「今連絡が来たんだけど、あんたのクラスの鈴鹿咲季さんって子が今日、病院で亡くなったそうよ。あんた、知ってる子?」
「・・・・・」
僕は無意識に耳を塞いだ。
何も聞きたくなかった。
心の中は真っ白のままだった。
いや、懸命にすべてを真っ白に打ち消そうとしていた。
でも、心の中で無情にも声がした。
――そうか・・・夢じゃなかった。やっぱり彼女は・・・。
寝ている間の夢であって欲しかった。
――人ってこんな簡単に死んじゃうんだな。
僕は心の中で失笑した。
彼女の手術は一度は成功したとの話だったが、翌日に容態が急変したそうだ。医療ミスではないかとの疑いもあったようだが、そんなことは、もうどうでもよかった。どのみち、彼女はもういない。

覚悟はできていたはずだった。彼女のお母さんから病気の本当の話を聞いた時から。
いや、そんな覚悟、僕には全然できていなかった。覚悟することから逃げていた。今になってやっとそれに気づいた。彼女が死ぬはずないと、どこかで思っていたんだ。
でもなぜだろう? 涙は出なかった。とても悲しいはずなのに、泣きたいはずなのに泣けなかった。
涙が出ないなんて、僕は本当に悲しいのだろうか? 
自分の心の中が分からなかった。
悲しさではない、何か違うものが心の奥に沈んでいる気がした。
――なんだろう? 悔しい?
そう、悔しいんだ、僕は悔しいんだ。
でも何が悔しいんだろう?
そうか・・・分かった。僕の心の中にある悔しさの正体が。
僕は彼女に自分の想いを伝えていなかった。伝えることができなかった。自分の気持ちを伝えるどころか、彼女に励ましの言葉さえ、かけることができなかった。
――僕は馬鹿だ。なぜ彼女にもっと早く・・。
もう一度、もう一度だけでいい。会いたい。会って僕の気持ちを言葉で伝えたい。
そう心の中で叫んだ。
でも、もう遅かった。どんなに叫んだってもう僕の声は彼女には届かない。

いつの間にか夜は明けていた。
眠れたのか眠れなかったのか、よく分からない。
体が熱っぽい。雨で濡れて、そのまま寝てしまったせいだろうか。どうやら風邪をひいたようだ。でもそんなことはどうでもよかった。このまま肺炎にでもかかって死んでもいいと本気で思った。
おふくろが僕を起こしに部屋に入ってくる。彼女の通夜についての連絡が学校から入ったようだ。
――ああ、お通夜・・・・そうか・・・。
僕は体調が悪いのを理由に葬儀には行かないことをおふくろに伝えた。
おふくろは「そう・・・」と一言返事をしただけで、それ以上は何も言わなかった。
彼女の通夜と告別式は地元の葬儀場で行われたようだが、結局どちらへも行かなかった。
体調が悪かっただけではない。
行けなかった。彼女の死を認めたくなかったから。
僕自身が認めなければ彼女は生き続ける・・・そんな錯覚を起こしていた。

僕はしばらくベッドに寝込む日が続いた。彼女の死が原因なのか、風邪が原因なのかは分からない。

あれから何日が過ぎたのだろうか。久しぶりに部屋の窓から外を眺めた。曇っているせいだろうか。目に映るもの全てが灰色に見えた。僕は来る日も来る日も何もする気が起きず、昼の間も自分のベッドで、ただ寝ながら過ごす日が続いた。
何も考えたくなかった。少しでも何かを考えると、彼女を思い出しそうだったから。だから僕は考えるのを止めた。
そういえば、彼女がいなくなってから、僕は悲しいと感じたことがなかった。
なぜ悲しくないのだろう。僕の心が彼女は死んだということをまだ認めてないからか・・・。だから悲しくないのだろうか。
いや、違う。僕の中に感情というものが無くなったんだ。だから何も感じない。
悲しさも、苦しさも、楽しさも、嬉しさも、何も、何も感じない。
僕の心は真っ白だった。もう感情なんていらない。