その日の夜、僕はいつものように自分の部屋でベッドに横たわりながら本を読んでいた。
静まり返った部屋の中で携帯の振動音が鈍く響いた。
僕はベッドの上から手を伸して画面を見る。彼女のお母さんからだっだ。僕はベッドから飛び起きた。

 ――こんな時間に何だろう?

時計を見ると時刻は八時をまわっている。僕は嫌な予感がした。
夜に来る連絡なんて、いいことなんてあまりない。メールを恐る恐る開く。その内容は、今から病院に来て欲しいというものだった。
こんな時間に・・・まさか彼女の身に何かあったのだろうか。僕は着替えもろくにせずに、すぐに病院へと向かった。

病院に着くと、昼間は患者さんや見舞の人で賑わっているフロントロビーは照明が半分以上消えていて、暗く閑散としていた。
一般の面会時間はとうに終わっているようだったが、彼女のお母さんが受付に話を通してくれていたようで、彼女の名前を言うとすんなりと通してくれた。僕はメールに指定された病室へ向かう。

前に来た時と部屋番号が違っていた。どうも病室が変わったようだ。
夜の病院の廊下は薄暗かった。長い廊下の向こうに入口から明かりが漏れる病室が見えた。その奥の病室の前の椅子に彼女のお母さんが座っている。暗くて見難かったが、泣いているようにも見えた。
いったい何があったのだろうか。僕の心の中は不安な気持ちでいっぱいになっていた。
彼女のお母さんがこちらを向いた。僕の姿に気づいたようだ。
「ごめんなさい、急に呼び出したりして。実はあの子、今日発作を起こしてね。あまり状態が良くないみたいで・・・手術することになったの」
嫌な予感は当たってしまった。

「手術って、いつですか?」
「明日の・・・午後」
「あした?」
僕は驚きのあまり思わず叫んだ。まさか、そこまで病状が悪化してるだなんて、昼間の彼女の様子からは考えもしなかった。
「それで、あの子急に不安になっちゃったみたいで・・・ちょっと精神的に不安定になって」
「・・・・・」
「あの子、さっきまでずっと泣いていたの。大きな声で叫んだりもして。今までこんなこと一度も無かったのに・・・」
お母さんは涙に言葉を詰まらせた。
嘘だ。あの太陽のように明るい彼女が・・・そう思った。そんな彼女の姿は僕には想像ができなかった。

「咲季に会ってあげてくれる? もしかして、あなただったらあの子も落ち着くんじゃないかと思って。こんな夜にご迷惑かとは思ったんだけど。ごめんない」
「いえ。僕は全然大丈夫です。だけど彼女、そんなに・・・・」

僕は病室の前で大きく深呼吸をした。そして静かにドアを開けた。
まだ消灯時間になっていないと思うが、部屋のメイン照明は消えていて、オレンジ色の常夜灯だけが寂しく灯っていた。暗がりで見難かったが、ベッドで毛布を被っている彼女が見えた。

今度の病室は個室のようだ。
彼女の他には誰もいない。ベッドがひとつしか置いていないその部屋はやたらに大きく感じた。

「何? もう大丈夫だから帰ってよ!」
ドアの音で人が来たことに気づいたのだろう。どうやら僕をお母さんと勘違いしているようだ。でも、こんなに荒れた彼女の声は聞いたことがない。
「あの・・・こんばんは・・・」
僕は恐る恐る声を掛けた。

「え! 雄喜?」
「うん・・・」
彼女はこんな時間に僕が尋ねてきたことに非常に驚いていたが、笑顔で迎えてくれた。
「どうして・・・?」
「あの・・・君のお母さんに呼ばれて来たんだ」
僕が正直にそう言うと、彼女の顔から笑顔がスッと消えた。
「どういうこと?・・・」
彼女は問いただすような口調で言った。

 ――あ!

そうだった。お母さんに頼まれてたというのは秘密だった。
でも、僕は彼女にもうこれ以上嘘はつけなかった。つきたくなかった。
僕は今までの彼女のお母さんとのやりとりを正直に話した。お母さんから僕に『咲季に会ってやってほしい』と頼んできたことや、病気の本当のことは知らないふりをするように言われたこと、全て話した。

「そうか。雄喜、私の病気の本当のこと、知ってたんだね」
「ごめんね。黙ってて」
僕は謝ることしかできなかった。
「謝るのは私だよ。病気のこと嘘ついてたのは私だもん。雄喜にだけは本当のこと言おうと思ってたんだよ、何度も何度も。でもそれを言ったら雄喜との今の関係が壊れちゃう気がして、怖かったんだ」
「そんなこと・・・そんな壊れるなんてことあるわけないよ」
僕は慌てて否定した。すると、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「ううん。本当の病気のこと知ったら私のこと『可哀そうな病気の女の子』って目で見ちゃうでしょ」
「それは・・・」
「私ね、生まれた頃はせいぜい十歳か十一歳くらいまでしか生きられないって言われてたらしいの。だから、今まで生きてこられただけでもすごく感謝してるんだ」
彼女は笑っていた。でも、こんな寂しい笑顔は初めてだった。
「お母さんにはとっても感謝してる。私に正直に病気の本当のこと教えてくれて。私よりお母さんの方が辛いかもしれないのにね」
僕は黙って頷いた。

「じゃあ、明日の手術のことも・・・聞いた?」
「うん。さっき君のお母さんから」
「そうなんだ。明日、手術になっちゃった。いきなりだよね・・・」
「それで、君のそばに居てくれって、お母さんが電話をもらった・・・」
彼女は俯いたまま静かに笑った。

「そうか。じゃあ雄喜が今まで来てくれてたのはお母さんから頼まれてたからなんだね」 
いつもの彼女らしくなく吐き捨てたような言い方だった。
「いや、そういうわけ・・・」
「ごめんね。無理やり付き合せちゃって」
彼女の声が僕の声を遮る。
「何、言ってるの?」
「雄喜、もう帰っていいよ。私大丈夫だから」
「だから、何言ってるの?」
「病人の女の子と会っててもつまんないしね」
「やめろよ!」
僕は思わず怒鳴ってしまった。

彼女はその声にびっくりして黙り込んだ。
僕はすぐ後悔した。
「ごめん。大きな声出して・・・」
「ううん。私が悪いの。ごめん」
「ごめんね。そんなことないよ。僕が・・・」
「もう・・・いいから!」
さっきより強い口調の彼女の声が僕の声を遮る。
「・・・・・」
「もういいから・・・帰って」
彼女は振り絞ったような声で言った。

「嫌だ!」
僕は叫んだ。
人に“嫌”と言えない性格の僕がこの言葉を使ったのは何年ぶりだろう・・・。
その使い慣れない言葉を使った僕自身が驚いていた。
「帰らない。咲季のそばにいる」
彼女はびっくりした顔で僕を見た。
「雄喜?」
「咲季のそばにいたい」
「ふふ・・・君らしくなくカッコいいね」
彼女は笑って言った。
でも、僕は笑わなかった。その僕の顔を見て、彼女も笑うのを止めた。

「ごめん。本当はすごく嬉しいんだ。素直じゃなくてごめんね」
僕は黙ったまま首を横に振った。
「私、今すごく自己嫌悪なんだ。お母さんにはとっても感謝してるのにさっきも酷いこと言っちゃったし、君にも素直になれないし。雄喜みたいにいつも正直に生きらればいいのにね」
「どうしたの? やっぱり今日の咲季は全然咲季らしくないよ・・・」
彼女は僕の顔をじっと見つめたあと、視線を逃がすように窓のほうに向けた。
「私らしく・・・か。フフッ、私らしいって、何なのかな?」
「え?」
彼女は笑っていた。でも、いつもの眩しい笑顔ではなかった。不安そうな・・・とても寂しい笑顔だった。

「私ね、いろんな人と、みんなと仲良くしたかったんだ。生きている限りね。中学の時はほとんど入院と病院通いで全然学校に行けなくてさ。それでいて引っ込み思案だったから、友達も全然できなくて・・・」
彼女の言葉はとても意外なものだった。

「だから高校入ってからは思い切って自分を変えようと思ってキャラ変えたんだ。こんな風に明るく軽いキャラ続けたの。ちょっとのことで大袈裟に笑ったり、わざと大きくはしゃいだり、それでいて嫌われないように調子よくみんなに合わせたりして。お母さんたちにも心配かけたくなかったから、いつも笑顔を絶やさないようにしてね」
僕は自分が恥ずかしかった。僕は彼女のことを何も分かっていなかったんだ。
「でも本当はね・・・正直言うとけっこう辛かったんだ、別の自分を演じるのって。本当の自分を騙しながら生きてきたのかもしれないね・・・」

 ――そんなことない。君は本当に魅力的な女の子だ。

そう言いたかった。でも声にならなかった。

「私、ずっと突っ張って生きてきたから、素直さ忘れちゃったのかもしれないな・・」
そうなんだ。彼女はずっと病気のことを隠しながら学校生活を続けてきたんだ。
お父さんやお母さん、友達にはいつも明るい笑顔を見せながら、何事も無いようにいつも平然として。いつ病気が再発して死ぬかも分からないという不安と恐怖と戦いながら。

どんなに不安だったろう・・・。どんなに怖かっただろう・・・。僕になんかにはとても想像がつかない。彼女の眩しい笑顔はその不安と恐怖の裏返しだったんだ。
「そうやって君は・・・ずっと一人でがんばってきたんだね・・・今まで・・・」
彼女から笑顔がスッと消えた。僕を横眼で見つめている。僕の知らない、今まで見たことがない、寂しく、悲しい目だった。

彼女の瞳が震えながら潤んでいくのが分かった。
彼女の両手が僕の服の袖をぎゅっと掴んだ。

「どうしたの?」
「私ね、覚悟はできてたんだよ・・・」
「え?」
「お母さんから自分の病気のこと聞いた時から、覚悟はできてたんだよ。もうダメかもしれないって・・・。でもさ、明日だなんていきなりすぎるよ。みんなにお別れも言えないじゃん」
「何、弱気になってるんだよ。ダメって決めつけないでよ! そんなの君らしくないよ!」
彼女は小さく首を横に振った。
「ううん、これが私だよ。本当の私。臆病で、弱虫で、泣き虫で・・・」
彼女の目からひとしずくの涙がこぼれ落ちる。
僕はもう何も言えなくなった。

「雄喜・・・わたし・・・怖い・・・」
とても小さな震えるような声だった。
「わたし・・・・死ぬの・・・怖いよ・・・」
震える手、震える声。いつもの活発で明るい彼女からは想像ができない、初めて見る彼女の弱々しい姿だった。

「発作が起きた時、このまま死んじゃうのかなって・・・思っちゃうの・・・。夜、部屋の電気を消すと、深いに闇に吸い込まれそうで怖くて消せないの・・・。このまま眠って、ずっと目が覚めなかったらどうしようって思っちゃうの・・・」
僕は大きな間違いをしていた。僕は大馬鹿野郎だった。

僕は彼女は強い人間だと思い込んでいた。死の恐怖へも立ち向かってきた強い人間だと。彼女の眩しい笑顔は彼女の強さの象徴だと。
でもそれは違った。彼女はいつ襲ってくるのか分からない“死”という運命の恐怖から逃れるため、精一杯の笑顔を貫いていた。ずっと、ずっとその恐怖と戦っていたんだ。たった一人で。

当たり前のことだ。本当に当たり前なことだったんだ。
死ぬのが怖くない人間なんているはずがない。それが十八歳の女の子ならなおさらのことだ。
僕は何でこんな当たり前のことをずっと分かってあげられなかったんだ。
でもそれが分かったからといって、そんな彼女に僕は・・・何もしてあげられない。
そう分かった時、僕は自分に絶望した。

「雄喜と・・・もう逢えなくなるのかな・・・」
彼女が寂しそうに呟いた。

 ――そんなこと・・・言わないで・・・。

僕の言葉は声にならなかった。
目に涙が潤んでくる。
僕は黙って激しく首を横に振った。

「死んだら・・・死んじゃったら、君と逢えない寂しさも感じなくなっちゃうのかな・・・」
彼女は笑いながらそう言った。涙をぽろぽろ流しながら。
僕は黙って大きく首を横に振った。

何も言えなかった。
彼女はただ震えていた。
彼女がとても愛おしかった。
こんなにも人を愛しく思えたことはなかった。
なのに、僕は何もできない。何か言ってあげることすらできない。

 ――なんで何もできないんだ・・・なんで何も言えないんだ・・・。

僕はこれほど自分が無力で情けないと感じたことはなかった。自分が一番大切にしたいと思う人が今、目の前でこんなに苦しく、辛く、悲しい思いをしているのに。

涙が溢れそうになる。悲しいからじゃない。
悔しい・・・悔しい・・・。
僕はその時、意識も無く自分の両腕で彼女を引き寄せた。そしてその小さな体をそのまま強く包み込んだ。

何も考えてなかった。真っ白だった。ただ彼女を包みこんだ。優しく。そして強く。
それしか・・・できなかった。

初めて抱いた彼女の体は思ったより華奢で、今にも壊れそうな感じがした。
彼女の髪が僕の頬に絡む。彼女の頬の温もりが僕の頬に伝わる。
彼女の香りが僕の心までも包み込む。

「雄喜?・・・」

彼女の声が空間ではなく、直接肌を通して僕に伝わった。
僕は何も言わなかった。いや何も言えなかった。

そう、僕にできることは、彼女を抱きしめること、それだけだった。
そんな自分が情けなく、悔しかった。

 ――死なないで! お願いだ!

僕は思わず心の中で叫んだ。でも声にはならなかった。
彼女はにこりと笑った。
好きだ! 咲季、君が好きだ!

やはり声にはならなかった。僕はそれでも心の中で叫び続けた。

 ――こんなにも伝えたいのに、なんで声が出ないんだ。

彼女の体を包み込む力が無意識に強くなっていく。

彼女に僕の気持ちが伝わったのだろうか。彼女の腕が僕の体を強く抱きしめてくるのを感じた。

どれくらいの時間が経ったのだろうか。僕らはどちらからともなく、ゆっくりとお互いの体を離した。

「ごめんね・・・」
僕はようやく声が出た。

「フフッ、また謝ってる」
「ごめんね・・・」
抑え込んでいた涙がついに溢れ出した。
僕が泣いちゃダメだ。でもそう思えば思うほど涙が溢れ出てくる。

「雄喜・・・泣いてるの?」
「ごめんね・・・」
僕は擦れた声で答えた。

「雄喜から『ごめんね』を取ったら喋れなくなるね」
 彼女は小さく笑うように言った。
「ごめんね・・・」
これ以上何も言えない自分が悔しかった。
何もできない自分が悔しかった。

今度は彼女から僕の体を包み込んできた。

 ――え?

僕はちょっとびっくりしたが、ゆっくり彼女の背中に手をまわした。
「雄喜・・・ありがと・・・」
彼女が耳元で囁いた。涙を堪えた小さな声で・・・。

「ごめんね・・・僕・・・何もしてあげられない」
「いいよ・・・もう何も言わなくて・・・」

彼女の僕の体を掴む力がさらに強くなるのを感じた。
体は苦しくなかった。でも心が苦しかった。
彼女がとても愛おしかった。
彼女を失いたくない。心でそう叫んだ。
このまま時間が止まって欲しい。僕はそう願った。

部屋にノック音が響き、僕はふと我に帰った。
看護師さんの消灯の見回りだった。その女性の看護師さんは、僕らに消灯時間のことを伝えると、次の病室へと向かった。

もう帰らなきゃいけない時間だった。胸がぎゅっと思い切り締め付けられた。
「雄喜・・・」
「うん?」
「一緒の修学旅行、楽しみだね」
彼女は顔を見上げて嬉しそうに言った。

「うん。一緒に行こうね」
「そしたらさ、自由時間にまた二人で抜け出さない?」
「またエスケープ? フフ、いいね。病み付きになりそうだ。名所やおもしろそうな所、チェックしとくよ」
「あと、美味しいスイーツのお店も忘れないでね」
「オッケー」
「あとさ、あとさ・・・」
彼女はわざと大袈裟にはしゃいでいるように見えた。まるで不安をかき消すかのように。
そんな彼女を見て、僕はまた何も言えなくなった。

しばらく静かな時が流れた。
すると、黙っているそんな僕を見て彼女は言った。
「雄喜はさ、今のままの雄喜でいいからね。無理しないで」
「え?」
「君らしい君でいてね。私は今のままの雄喜が・・・」
彼女が言葉がを止めた。

「なに?」
「今の雄喜が・・一番いいと思うから・・」
「あらたまって何言ってるの? 会うの最後ってわけじゃないし」
「ふふ。そうだったね。でも、今日はもう帰らないといけないじゃない?」
彼女はちょっと寂しい顔で言った。

「雄喜はさ、将来きっといい小説家になれると思うよ」
「何? 突然・・・」
「ふふ、急に何かそう思っただけ・・・」
「別に小説家になれなくてもいいよ。なれるとも思わないし。まあずっと小説は書いてはいきたいとは思うど・・・」
「書けたら真っ先に読ませてね」
「分かった。待っててね」
「うん。楽しみだな」
彼女はにこりと笑った。

「あのさ、もしも・・・もしもだよ」
「何?」
「もしもさ、私たちが将来大人になって、二人に子供ができたらどんな子供だと思う?」

 ――え?

「何? 突然?」
「もしも・・・の話だよ」
以前の僕だったらこんなと唐突な質問、何も答えられなかったと思う。
「そうだな。きっと咲季に似たすっごく可愛い女の子だと思うな」
それを聞いた彼女は噴出すように笑い出した。

「なんだよ、自分から訊いといて・・・」
「ごめんごめん。だって君がさらっとそんなこと言えるなんて、成長したなあって」
「そう?」
 僕はそんなに笑わなくてもいいのにと思いながら苦笑いをした。

「私と一緒にいたおかげだよ」
そう言いながらまた明るく微笑んだ。

「もう帰る時間・・・だね」
彼女は淋しそうな声で呟くように言った。
「うん・・・ごめんね。大丈夫?」
「うん、さっき雄喜から元気いっぱいもらったから」
彼女はそう言いながら僕を見つめた。
その視線に僕は咄嗟に下に目を逸らしてしまった。

「手術、明日の午後からだよね。学校が終わったら来るからね」
「うん。待ってる」
「じゃあ・・・帰るね・・・」
「うん」
帰りたくなかった。でもそれは許されない。
僕はゆっくりと病室のドアに手を掛けた。

「あのさ・・・」
彼女が僕を呼び止めた。
「なに?」
「・・・・・」
彼女は黙ったまま俯いていた。
「どうしたの?」
「あのさ、最後に・・・一回睨めっこ・・・してくれる?」
「何だよ! 最後って!」
僕は思わず強い口調になってしまった。
「今日は最後ってことだよ。そんな恐い顔しなくてもいいじゃん。君の顔をよく見ておきたいなあって・・・」
「変なこと言わないでよ」
「別にいいよ・・・嫌なら・・・」
彼女は拗ねたようにまた俯いた。
「わかったよ」
僕はちょっとムキになって言った。

「いい? じゃあ、いつものように先に目を逸らしたほうが負けだからね。いくよ・・・」
彼女の掛け声で静かに睨めっこは始まった。
彼女は僕の目をじっと見つめてきた。僕も彼女の目を強く見つめた。
彼女とは何回目の睨めっこだろう。
とても不思議な感覚に僕は包まれていた。

何だろう。前に睨めっこした時とは何かが違った。
自分から意識的に目を逸らさないようにしているのではない。彼女から目を逸らすことができなかった。まるで吸い込まれるように。
彼女の瞳はとても澄んでいて、そして眩く輝いていた。
彼女がとても愛おしい・・・そう感じた。
彼女のその茶色い大きな瞳の中に僕の顔が歪んで映っている。
その瞳に映った僕の顔がどんどん大きくなっていくのが見えた。

 ――え?

次の瞬間、僕たちの世界(なか)の時間(とき)が止まった。