その時、ベルの音が部屋に鳴り響いた。二人とも突然の大きな音にビクっとなる。ベッドの脇にある電話の呼び出し音だ。
受話器を取ると、さっきのフロントのおばさんの声がした。

「あと十五分でご宿泊料金になりますが、どうなさいますか?」

 ――え? ご宿泊って?

「ど、どうしよう?」
電話口のおばさんの声がとても大きく、内容は彼女まで聞こえていたようだ。
・・・っていうか、あのおばさん、僕達が高校生って知ってて言ってるのだろうか。

彼女も困ったような複雑な顔をしていたが、何も喋らなかった。

 ――彼女、どうして何も言わないのかな? まさか・・・泊まる?

そうぐちゃぐちゃと考えている間に、僕は気持ちとは裏腹に反射的に返事をしていた。
「はい、あの・・・もう出ます」
彼女はホッとしたような、がっかりしたような、どちらでもとれる顔をしていた。
「うん、もう帰らなきゃ・・・ね」
彼女は下を向いたまま呟いた。僕も黙って頷いた。

名残惜しいというのが正直な気持ちだったが、高校生がこんなところに泊まるのはもちろん許されるわけがない。
たちはゆっくりと帰り支度を始めた。
忘れ物が無いかと部屋の中を確認する。すると、彼女が床に這って何かを探していた。

「何か落としたの?」
僕がそう尋ねたが、彼女の返事は無かった。
「何か捜してるの?」
また返事が無い。

 ――どうしたのかな?

僕は探し物を一緒に探そうかと彼女に近づいた。
すると、彼女の体が小刻みに震えていた。
「え?」

 ――違う!

僕は彼女の体に何か異変があることに気づいた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「ごめんね。ちょっと・・・・苦しくなっちゃって・・・・」
明らかに様子が変だった。
「大丈夫・・・すぐ治まると・・・思う」
彼女は苦しそうな声で呟いた。

 ――どうしよう・・・こんなところで・・・。

僕はどうしたらいいのか分からず、ただ茫然としていた。
徐々に彼女の息遣いが荒くなってくる。
僕は焦った。胸のあたりがかなり苦しそうだった。
「ドジだな私。薬・・・学校のカバンの中だ・・・」

 ――え? 薬って、まさか心臓?

目の前で人が苦しんでいるなんて生まれて初めてのことで、僕は頭の中が真っ白になった。

 ――どうしよう・・・どうしよう・・・。

頭の中で同じ言葉が反芻される。
もう彼女は喋ることができないくらい苦しい状態だった。

 ――もうだめだ。何とかしないと。そうだ救急車だ!

僕は携帯を慌てて掴んだ。

 ――あ、そうだ。携帯は海に落として壊しちゃったんだ、どうしよう。

僕はさらに頭の中がさらにパニックになる。

 ――そうだ、部屋の電話だ!

僕はベッドの脇にある電話の受話器を取った。

 ――この電話って直接119番に繋がるのかな?

焦って気が動転する。正面に『フロント0番』の文字が目に入り、僕はすぐにボタンを押した。
フロントの人に事情を話し、すぐに救急車のお願いをした。僕はもう何がなんだか分からなくなっていた。

 ――彼女の身にいったい何が起きたのだろう?

このあとの出来事については、僕は気が動転していて、断片的にしか記憶が無い。
憶えているのは、救急車が来た時、ホテルの前に人だかりができていたこと。僕は彼女と一緒に救急車に乗ったこと。
救命士さんから彼女の家への連絡先を聞かれたが、僕は答えられなかったこと。彼女が苦しみながらも自宅の連絡先を伝えたこと。
そのあとは・・・よく覚えていない・・・。

気がつくと、僕は病院の集中治療室の前に座っていた。

 ――そうだ。僕と彼女は救急車で病院へ運ばれたんだ。

僕は彼女の身に何が起きたのか、全く状況が理解できていなかった。横には中年の男性と女性が心配そうな顔で座っている。
頭の中はまだ混乱していた。

 ――思い出した。

彼女のお父さんとお母さんだ。病院からの連絡でここへ駆けつけたのだ。
誰も喋ることは無く、静寂が続いていた。

しばらくすると集中治療室から医師が出てきて、彼女の容態がなんとか落ちついたということを伝えられた。
僕は安堵の気持ちを抑えられなかった。

ホテル内でのことだったので事件性を懸念したのか、僕はこのあと警察の事情聴取を受けた。恐らくホテルのフロントのおばさんが連絡したのだろう。
事件性は無いと分かり、警察からの尋問は形式的なものだけで、僕はすぐに解放された。
ただ、このあとの彼女の両親からの尋問がすごかった。
学校をサボり、挙句の果てにホテルに一緒に入り、そこで倒れただなんて、何も言い訳ができるわけがなかった。
誰が学校をサボろうと言い出したのか? どっちがホテルへ誘ったのか?  
特に彼女のお父さんからの質問の責めがキツかった。
僕は自分から彼女を誘ったと話した。彼女のお母さんからは本当なのか、と念押しされたが、そのまま頷いた。

別にカッコをつけた訳ではない。彼女がこのことで両親から怒られるのが嫌だったし、何より彼女が僕を誘ったようなウワサがたつのがもっと嫌だったからだ。
実際に最終的に電車に引っ張ったのは僕だし、ホテルに入らなければならない原因を作ったのも僕だ。そう。僕がはっきりと授業をサボるのをやめようと言えばよかったんだ。

僕の優柔不断さが、彼女をこんな危険な目に遭わせてしまった。それは紛れもない事実だった。僕自身がそれに納得していた。
彼女の父親は激怒し、もう彼女には絶対に会うなと言われた。父親として当然のことだろう。
僕もそう言われることは覚悟していた。でも、彼女が倒れた理由については何も教えてくれなかった。

「ごめんね。鈴鹿さん・・・」
僕はひとりで病院をあとにした。

このことは当然のこととして僕の両親や学校にも報告が行くことになり、かなりの大事になると覚悟していた。学校もサボってしまったし、ただでは済まないだろう。
しかし、帰ってから親から何も言われることは無かった。
その後の学校からの呼び出しや連絡も無かった。

彼女の両親はどこにも報告や連絡をしなかったようだ。
僕に気遣ったのか、彼女を気遣ったのか。
どちらにしても、僕がもう彼女に会えないということには変わりないだろう。