島の頂上に着くと、そこは学生や外国の観光客で多く賑わっていた。
「すいません。シャッター押してもらっていいですか?」
突然、大学生らしき女の人から声を掛けられた。学生同士のカップルだろう。彼氏はサングラスをかけ、彼女らしき女性はブロンズ色に染めた長い髪を靡かせていた。
「はーい、いいですよお」
彼女が快く引き受ける。
「いきますよお。ハイ、ポーズ!」
携帯のシャッター音が軽やかに響いた。
「ありがとう。あ、君たちも撮ってあげようか?」
「え?」
その女性の気遣いに僕と彼女は思わず顔を見合わせた。
「えへっ! せっかくだから二人で撮ってもらおうよ」
「あ・・・うん」
僕はちょっと戸惑った。というのも、実は僕は写真を撮られるのが苦手だった。
うん・・・苦手というか、慣れていないというか、要は僕は写真を撮るときに笑えないのだ。僕は写真を撮られる時、無茶苦茶構えてしまってロボットのような顔になる。
―――どうしよう・・・ちゃんと笑えるかな?
僕の心配をよそに彼女は僕の手を引っ張った。
海をバックに二人で並んで立った。明るい笑顔のピースサインをする彼女の横で、僕は明かに顔が引きつっているのが自分でも分かった。
――うわあ、だめだ。やっぱり笑えない・・・。
「行くよー、はい笑って!」
・・・って言われるほど僕の顔は引きつっていく。
「んーカレシい、なにその顔? 無茶苦茶暗いじゃん。お腹痛いの?」
――うん。痛くなりそう・・・。
彼女がそんな僕を横目で見てクスッと笑った。
「ほらあ、カレシ笑って! それにもっとくっつかないと映んないよ!」
彼女さんの口調がだんだんと怖くなってくる。
――何で僕が怒られなきゃいけないんろう?
その時、彼女の手が僕の肘をグイと引っ張るように引き寄せた。
「ほらあ、真面目くん、笑うぞ!」
彼女が僕に微笑みかける。すぐ真横にあったその笑顔に僕の心臓はドキっと高鳴った。
「え?」
「おっいいね! はーい、いくよ!」
僕があっけにとられているうちにシャッター音が響いた。
「あは、どうかな?」
撮ってもらったばかりの写真をスマホの画面で確認する。彼女は相変わらずの眩しい笑顔で映っていた。
だが、驚いたのはその横にある見覚えのない顔だ。
僕が・・・笑ってる?
――え? これ、僕?
とても不思議だった。
こんなにも自然に笑っている自分の顔が、まるで自分のものではないような感じがした。
「きゃー、すっごくいい感じに撮れたね」
お礼を言ったあと、その大学生とは反対の方向に歩き出した。
「仲良くねー、かわいいカップル君たち!」
大学生は大きく手を振っていた。
「ありがとー!」
彼女もお返しに大きく両手を振った。
――そうか。僕たちもやっぱりカップルなのか。
聞き慣れないその言葉の響きはとても心地いいものだった。
でもカップルと言っても、僕たちは付き合っているわけではないのだ。
その事実に、僕はちょっと寂しさを感じている自分に気づいた。
島からの帰りの下りの坂道をブラつきながら歩く。
雑貨が並ぶ小さな土産店に立ち寄った。
「わー見て見て。これ可愛い!」
彼女が手に取ったのは小さなペンギンのストラップだ。
「鈴鹿さん、ペンギン本当に好きなんだね」
「フフ、大好き」
彼女は嬉しそうにそのペンギンを頬ずりする。
「実はさ、明日、私の誕生日なんだ」
「え! そうなの?」
僕は素直にびっくりした。
「あの・・・それは、おめでとう・・・」
「んふ、ありがとう。はい!」
彼女はお礼を言いながら手を伸ばし、そのストラップを僕に手渡しした。
「え? 何?」
「買ってくれる? 誕生日プレゼントに・・・」
「いや、別にいいけど・・・これくらい」
突然でちょっと戸惑ったが、これくらいのもので喜んでくれるなら、と思った。
「でも、こんなものでいいの?」
「これがいいの」
そして彼女は、なぜか同じストラップをもうひとつ手に取った。
「じゃあ、こっちのは私が君に買ってあげるね・・・記念に」
そう言いながらクスっと笑った。
「記念?・・・なんの?」
「んー・・・何でもいいじゃん!」
そう言うと彼女はそれを持ってレジに並んだ。
僕も別のレジに並び、同じストラップを別々に買った。そして自分の買った包みを彼女に渡した。
「あの・・・誕生日おめでとう」
「フフ、ありがとう。大切にするね。じゃあ、これは私から君に。大切にしてね」
彼女は自分の買った包みを僕にくれた。
これって意味があることなのだろうか?・・・。あるんだろうな、きっと。
「ねえねえ、下の岩場のほうに行ってみようよ」
彼女はそう言うと同時に僕の手を引っ張って歩き出した。
島を下って海岸に出ると、そこにはゴツゴツとした岩場が広がっていた。
小さいカニや小魚、あとはタニシにような貝がたくさん見えた。
「きゃーカニさんかわいいー!」
無邪気にはしゃぐ彼女は、悔しいがやはり可愛いかった。
僕は彼女を見つめながらそう思った。
そして何よりも彼女といると、自然な自分でいられるということに気がついた。
「なあに?」
「いや、ごめんね。別に・・・」
ボーッとしていた僕は思わず言葉に詰まった。
彼女は笑いながらまたカニを追っかけていた。
岩場をちょっと奥に行くと平らな大きい岩が連なっており、僕らはその岩の上に空を見上げながら寝ころんだ。
快晴の空には小さい雲ひとつ無かった。
仰向けになった体で空を見上げる。
視界に映るのは、一面の真っ青な空。まさしく青一色のみだった。
こんな光景は生まれて初めてかもしれない。
――なんて綺麗なんだろう。空ってこんなに綺麗だったんだ・・・。
「あー、気持ちいい!」
僕は思わず叫んだ。
学校をサボってしまったという罪悪感はどこかへすっ飛んでいた。
気持ち良すぎて、気がつくと僕は岩の上でウトウトと眠ってしまった。
しばらくすると、僕は周りに変な違和感を感じ始めた。
――あれ?
さっきまで周りあった岩が見えない。
あたりを見回すと、僕たちがいる岩場は水に囲まれていた。
「やっばい! 満ち潮だ!」
僕は叫んだ。
そう。僕たちは岩場に取り残されてしまっていた。
「どうしよう?・・・名倉くん」
彼女は今にも泣きそうな顔になった。
でも落ち着いて海面をよく見ると、まだ水面の奥に岩が透き通って見える。
「大丈夫、まだ浅そうだ。行けるよ」
僕は制服のズボンをヒザまでまくり、海の中に入って深さを確認する。
――うん、オッケー! 水はまだヒザ下までだ。
「大丈夫、靴と靴下を脱いで」
「うん・・・」
僕は彼女が脱いだ靴と靴下を受け取り、彼女の手を引く。
「ゆっくり下に降りて・・・滑らないように気をつけてね・・・大丈夫」
――よし、行ける! 行ける!
ゆっくり、ゆっくりと足場を確認しながら渡っていく。
ようやく最後の陸続きの岩まで来たところで彼女を先に岩の上に上げた。
――よかった。彼女はもう大丈夫だ。
「ありがとう。名倉くんも気をつけて」
彼女そう言って僕を引き上げようと手を差し伸べたその瞬間だった。
僕の視界に映る彼女の顔がだんだんと小さくなっていく。
僕は自分に何が起きているのか、すぐに理解ができなかった。
――あれ? 僕、どうしたんだ?
彼女の姿がだんだんと遠くなり、背中が後ろへと吸い込まれていく。
そして次の瞬間、視界が大きくぼやけたと同時に水のギュルギュルギュルという濁音が激しく耳を襲った。
僕はようやく足が滑って海の中に落ちたんだということを自覚した。
「名倉くん!」
彼女の悲鳴が響いた。
幸い満ち潮はまだ浅く、僕はすぐに立ち上がることができた。
「大丈夫? 名倉くん!」
遠くの向こう岸にいた釣り人は特に驚いた素振りも見せず、呆れた顔でちらっとこちらを見たあと、また釣りに没頭していた。
「バカな奴がいる」と、そんな顔をしていた。確かに客観的に見てもかっこ悪い。
彼女もこんな僕の姿をさぞ大笑いするだろうと思っていたが、彼女の反応は意外なものだった。
「名倉くん、名倉くん、大丈夫?」
海に落ちたことにはもちろん驚いたが、それ以上に驚いたのは彼女が泣くような顔で僕を心配して叫んでいたことだ。
彼女のこんな顔は初めて見た。まあこんなところで溺れ死ぬことはないと思うのだが。
「名倉くん、ごめんね、ごめんね」
「いや・・・大丈夫だよ。それに鈴鹿さん、全然悪くないし・・・」
「ごめんね、ごめんね」
彼女は謝り続けた。
いつも自分がしていたことなのだが、相手が何も悪くないのに謝られるってことがどんな気分なのかを実感した。
――ああ、でも参ったな。どうしよう・・・。
そう思いながら僕たちは歩き出した。
海水でズブ濡れになった服は予想以上に重く、冷たかった。服を着たままだったら本当に溺れるだろうと実感した。
「どうしよう・・・全然乾かないね・・・」
一向に乾かない僕の濡れた服を見ながら彼女が心配そうに言った。
「歩いていれば、そのうち乾くよ」
僕は半ば強がりを言いながら、しばらく道を歩いていたが、それが甘い考えであったことを徐々に痛感し始める。
三月になったとはいえ、濡れた体にはまだまだ寒さは厳しかった。
十分ほど歩いただろうか。水は滴らなくなったものの、服はまだまだ濡れていた。海水がぐっしょりと浸み込んだ僕の下着は体にビッタリと張り付き、気持ち悪いという感覚を超えていた。
そして、それは徐々に僕の体温を奪っていった。
「ハックショイ!」
思わずクシャミが飛び出す。
「大丈夫? 名倉くん。寒いよね?」
「あ、ごめんね。全然大丈夫・・・」
そう言いながら全身に悪寒が走った時だ。ひとつの洋風の建物の前で彼女が足を止めた。
これは僕の貧困な社会知識でも分かった。
いわゆるファッションホテルというやつだ。ラブホテルとも言ったっけ。
「ねえ、ここに入ってシャワーと着替えをさせてもらおうよ」
「ええ??」
思いもよらない彼女の言葉だった。
「あの・・・鈴鹿さん・・・と?」
「誰と入りたいの?」
「・・・・・」
僕は彼女に手を引っ張られながらホテルへと続く通路を歩いている。
外側から見ることはあっても中に入るのは初めてだ。
何だろう、この感覚は。後ろめたさと言うのだろうか、僕は強い罪悪感に包まれた。
罪悪感だけではない。不安感、緊張感、いろいろな気持ちが交錯しながら、僕の心臓がバクバクと大きな鼓動を上げ始める。
薄暗い自動扉があり、そこから中に入る。
迷路のような細い廊下を進むとフロントらしき場所に出た。でも、そこに人はいなかった。
その横の壁にはドラマとかでしか見たことがなかった部屋の写真が表示されている大きなパネルが掛かっていた。
――どうすればいいんだろう?
勝手が分からない僕はただオロオロとしていた。
「名倉くん、どうやって入ればいいのか分かる?」
彼女は困った顔をしながら小声で囁いた。僕は情けないかな、黙ったまま首を横に振った。
その時、フロントの脇にあったドアがガチャリという大きな音をたてて開き、
そこから中年のがっしりと太ったおばさんが出てきた。そのおばさんは怖い顔で、僕たちをじろっと睨むように見まわした。
非常にまずい雰囲気が漂う。
「あなたたち、高校生でしょ。ダメよ、高校生は入れないわよ!」
――そういえば僕たちは制服姿だった。やっぱりダメだよな。
そう思いながら僕は帰ろうとした。でも、彼女は諦めなかった。
「すいません。この人、海に落っこちちゃって。シャワーと、あと服を着替えるだけでいいんです。入れてもらえませんか? 私たちは何も・・・」
彼女は今にも泣きそうな顔になりながら懸命に事情を説明した。
「いいよ鈴鹿さん。僕、大丈夫だから、帰ろう」
「大丈夫じゃないよ!」
それを聞いていたおばさんは、僕の濡れた姿をもう一度じっと見まわした。そして彼女の訴えが効いたのか、その怖い顔は呆れたような顔したかと思うとすぐに穏やかな顔に変わった。
「ふふ、なるほどね・・・。しようがないわね。わかったわ。でも今日は週末で混んでいて満室なのよ。一番大きい部屋でよければすぐ準備させるけど、ちょっと部屋のお値段、高いけど大丈夫?」
――え? 入れてくれるの?
僕はおばさんの豹変にびっくりする。
「はい、入れていただけたらどこでもいいです」
「じゃあ、清掃を急がせるわね。待合室で少し待っててくれる?」
「ありがとうございます!」
彼女は深々とお辞儀をした。
おばさんは制服姿の僕達を親切に待合室まで案内してくれた。
待合室といっても小さなソファがあるだけの狭いコーナーだった。
僕たちはそのソファに並んで座った。ソファといってもとても小さく、いやでも体が密着した。
すぐ横にいる彼女の吐息が聞こえるようだった。僕の鼓動はだんだんと抑えが利かなくなっていく。
――まずい! 落ち着け、僕の心臓!
「やさしいおばさんでよかったね」
彼女が掠れるような小声で呟いた。
「・・・そうだね」
「本当はこういうところって高校生は入っちゃいけないんでしょ?」
さらに小さな声で彼女は囁いた。
――僕に訊かないで欲しい。
「これって、学校にバレたらやっぱりマズいかな?」
彼女の囁きは続いた。
――そりゃマズいでしょ!
しばらくの時間、僕にとって辛い沈黙が続いた。濡れた服が体の密着感をさらに強く感じさせた。だんだんと顔がポカポカと熱くなっていくのを感じる。
――あれ? 僕の体もマズいかもしれない・・・。
「寒い? 名倉くん」
「あ、ごめんね。大丈夫だよ」
彼女が僕の顔を覗き込む。
「名倉くん、顔、真っ赤だよ! もしかして熱、出ちゃった?」
びっくりした顔で彼女が叫んだ。
ヤバい。どうやら体のほうが正直に反応してしまっていたようだ。
「い、いや・・・これは熱って言うか・・・大丈夫だから・・・」
僕は慌てて誤魔化した。
その時、僕の服の濡れによって彼女の服まで水が染みているのに気づいた。
「あ、ごめんね。冷たいよね」
僕が離れようと立ち上がろうとした時、彼女の手が僕の手を抑えた。
「大丈夫。私は平気だよ」
「だって、鈴鹿さんの服が濡れちゃうよ」
「その分、君の服が早く乾くよ」
彼女はさらりと答えた。
「でも、それじゃ・・・」
このままでは彼女も風邪をひいてしまうのではないかと思い、無理やりにでも離れようと思った時だった。フロントのおばさんがニコニコしながらようやくやってきた。
「ごめんさないね、お待たせしちゃって。どうぞ、部屋の準備ができたわ」
おばさんはそっと僕にカード式のキーが渡してくれた。
「いい子じゃないの。がんばりなさい!」
おばさんはニタリと笑いながら僕にしか聞こえないように小さな声で言うと、僕の背中をバンと叩いた。
――がんばれって、何をよ?
僕は心の中で呟いた。
「おばさん、何だって?」
「いや、何でもない。カードキー失くさないようにって。それよりあのおばさん、何かやらしい顔してなかった?」
「うーん。今の君の顔ほどじゃないけどね」
彼女は悪戯っぽい顔で微笑んだ。
部屋に入ると同時に、僕は圧倒された。そこは僕が描いていたファッションホテルのイメージとは全く違った空間が広がっていた。
大きなシャンデリア、プロジェクター、ビリヤード、ダーツなど普通のホテルでは見られないものが並んでいる。もっと狭くて汚いイメージを持っていた僕は、ぽっかりと口を開けたまま茫然としていた。
――いったい何なんだここは?
中にある部屋は三つに分かれていて、それぞれがみんなムチャ広い。大勢でパーティもできそうだ。一番大きい部屋だと言っていたので、ここだけ特別な部屋なのかもしれない。
「名倉くんは早くお風呂に入って。私は何か着替えを買ってくるから」
そう言うと彼女は足早に部屋を出て行った。
――あれ? 行っちゃった。
部屋に一人残った僕は、ひとまず冷静さを取り戻した。まずはともあれ、この濡れた体を何とかしないと。
僕は彼女の言葉に甘え、お風呂に入らせてもらうことにした。
海水でズブ濡れになり、冷えきった体がどっぷりと熱い湯に浸される。
体の芯の芯まで十分に温まった僕は、覗き込むようにして浴室のドアを開けた。彼女はまだ帰ってきてないようだ。
僕は取りあえず、何か羽織るものを探した。彼女が着替えを買ってきてくれるまででも、さすがにバスタオル一丁というわけにはいかない。
おあつらえ向きのバスローブが備えつけてあるのを見つけた。外国の映画ではよく見るものだったが、実際に見るのは初めてだった。
バスローブを羽織った自分の姿を鏡で見る。
そこには違和感満載の変態っぽい男が立っていた。
――うーん・・・。
思わず僕は唸った。映画とかで見る俳優がスマートに着ている姿と何か違う。いや全然違う。
どちらかというと安っぽいドラマに出てくるスケベおやじを連想させた。バスローブというのは典型的な日本人の体形には合わないようだ。
呼び鈴が部屋の中に響いた。どうやら彼女が帰ってきたようだ。僕はそそくさと入口のドアを開ける。
「ごめんねー、遅くなって。なかなか洋服のお店が見つかんなくてさー」
息を切らしながそう言って、彼女はこちらを見た。すると、彼女は僕のバスローブ姿を見たとたん、砕け散ったように笑い出した。
「何だよ、急に!」
「いやー、どこのスケベ親父かと思ったよ。部屋、間違えちゃったかなーって」
「ふん。確かにカッコよくはないのは分かってるけど、そこまで笑わなくてもいいんじゃない」
「ごめん、ごめん。あ、スエットでよかったかな? フリーサイズなんだけど大丈夫だよね。ちょっと着てみて。あとあったかい肉まんとスープ買ってきたよ」
僕は買ってきてもらったスエットを受け取った。風呂場で着替えると、彼女の買ってきてくれたスエットは思いのほかピッタリだった。
「うん、似合うよ!」
「そう?」
「あのバスローブを着続けられたら私、笑い過ぎで呼吸困難で死んじゃうから」
僕はムスっとしながら彼女の買ってきてくれた肉マンを頬張った。
「ところでさ、私、前から思ってたんだけど、君って分析するの好きだよね。AB型でしょ」
やはり彼女の人を見る目は鋭いようだ。
「当たりだよ。よく分かったね。AB型は日本人では十分の一の確率なのに」
「やっぱりね。AB型って変人が多いしね」
あまり褒められてないなと思いながら、僕も彼女の血液型については自信があった。
「じゃあ鈴鹿さんの血液型も当てようか?」
「ううん、私はいい。血液型判断みたいの嫌いだし」
「ごめん。僕の記憶が正しければ血液型の話を振ってきたのそっちだよね」
彼女は黙ったまま、悪戯っぽく笑っていた。
「でもめずらしいね。女の子って血液型占いみたいのけっこう好きじゃない?」
「友達は確かに好きな子多いよね。でも私は嫌いなの。偏見の目で見られるからさ」
たった今、人を偏見で見てたのは誰だよ、と思いながら、僕は偏見で彼女の血液型を当てにいった。
「鈴鹿さん、ズバリB型でしょ?」
「ほーら、やっぱりだ。私、いつもB型って言われてすごく傷付くんだ。どうせ、わがままで自分勝手な性格だからB型とか言いたいんでしょ? だから嫌なんだよ、血液型当てゲームみたいなの。そういうのを偏見って言うんだよ! 偏見!」
「え、意外だな。ごめんね、B型じゃなかったんだ」
「ううん。B型だけど・・・何?」
「・・・」
あっさりとそう答えた彼女に対し、僕はリアクションに困った。
何だろう。この“全く納得いかない感”は・・・。
僕は思ったより帰りが遅くなりそうになったので、家に連絡を入れようと携帯を手に取った。
その時、新たな問題が発覚した。携帯の電源が入らない。携帯は僕と一緒に海に水没していた。
「あ、僕の携帯、ダメみたい・・・」
「えー大変! ごめんね」
「別に鈴鹿さんが謝ることじゃないよ。僕が勝手に滑って海に落ちたんだから」
携帯以外もポケットに入っていた物はみんなズブ濡れになっていた。
「あーかわいそうー。この子もびしょびしょだ。今乾かしてあげるねー」
そう、さっき一緒に買ったペンギンのストラップもズブ濡れになっていた。まあこのほうがペンギンらしい感じになった気がするけど。
彼女はその濡れたストラップを丁寧にドライヤーで乾かし始めた。
「君のペンちゃんも貸して。一緒に乾かすから」
「あっ、ごめん。僕がやるよ」
「いいよ、私がやるから」
「ダメだよ。海に落っこちて濡らしたの僕なんだから」
僕は半ば無理やりにドライヤーと濡れたストラップを受け取り、乾かし始める。
しばらくの間、部屋の中にドライヤーの音だけが響いていた。ホテルの部屋に女の子と二人きり。ドライヤーの響き。何か変な感覚だった。
彼女がこの部屋の番号を見て、何かに気づいたようだ。
「ねえねえ。この部屋229号室だって。なんか運命感じない?」
いきなりの話の振りに戸惑った。はっきり言って全く意味が分からない。
「229?・・・何だっけ?」
僕は素直に脱帽した。こういう時は誤魔化さずに正直に言ったほうがいい。
「えー、まさか分かんないの君? 酷いね。私たちが最初に学校の屋上で出逢った日だよ。二月二十九日は」
見事に微塵にも予想しなかった答えだった。
「鈴鹿さん、よく覚えてるね」
「うん。閏日だったからね。だって四年に一度の特別な日だよ。何かいいこと起きないかなって思ったりして」
「へえ・・・でも閏日なんて暦と地球の公転自転ズレのためのただの調整日だよ」
「君って、ほんっとにロマンチック度マイナスにひゃくぱーせんとだね」
彼女は僕を睨みながら叫んだ。
僕の会話能力の低さが露呈する。
「ああ、ごめんね。でも何かいい事ってあった?」
彼女はなぜかしら、さらに僕を睨んだ。
「そういえばさ、二月二十九日に生まれた人って誕生日は四年に一回しか来ないのかな?とすると四年に一回しか歳を取んないってこと?」
また彼女の突拍子もない疑問が始まった。こういう発想はいったいどこから来るのだろうか・・・。
「あの、そんな訳ないでしょ。二月二十九日生まれの人だってもちろん毎年きちんと歳は取るよ」
「でもさ、その人は誕生日が毎年来ないよね?」
「うん。歳を取るのは誕生日じゃないんだ」
「どういうこと?」
「年齢がひとつ上がるのは誕生日ではなくて、誕生日の前日という決まりなんだよ。だから二月二十九日生まれの人は、その前日の二月二十八日にひとつ歳を取るんだよ。もう少し正確に言うと誕生日の前日が終わる瞬間なんだけどね。そうすることで閏日生まれの人でもちゃんと毎年歳を取れるって仕組みになってるんだ」
「へーそうなんだ。よく知ってるね。さすが真面目くんだ」
「それってあんまり褒めてないよね」
「別に褒めてないもん」
彼女は悪気も無く、あっからかんと笑った。
「実はね、私も二月二十九日についてはひとつ知ってることがあるんだよ。知りたい」
「話したそうだね」
彼女はちょっと僕を睨んだあと、話し続ける。
「あのね、昔ヨーロッパでは一般的に女性から男性に求婚できなかったらしいんだけど、二月二十九日だけは女性から男性に求婚できる特別な日だったんだって」
「それは男にとっては下手な怪談より怖い話だね」
「だよねだよね。やっぱ怖いよね。女の私からみてもそう思うもん!」
彼女は怖いと言いながら、とても嬉しそうに話した。
「誕生日といえば、明日は鈴鹿さんの誕生日だったよね?」
「へー、よく覚えてたね!」
「さすがに今日聞いたことだからね」
「私、言ったっけ?」
「そのペンギンさんは誰からのプレゼントだっけ?」
彼女は舌をぺろっと出しておどけたように笑った。
「三月生まれで咲季・・・そうか、花の咲く季節という意味なんだね」
「そうだよ。私、この名前好きなんだ」
「うん。とてもいい名前だね」
「フフッ、ありがと」
彼女はめずらしく照れた表情をした。
「ねえ、そういえば君の誕生日っていつ?」
「僕? 四月五日だよ」
「なんだあ! 私と二週間しか違わないじゃん!」
「ああ・・・そうだね」
「そっかあ。よかったあ、ほとんど離れてなくて・・・」
――離れてない?・・・
僕は彼女の喜んでいる本当の意味を理解していなかった。
「あの・・・名倉くん」
彼女は何か思わせぶりの口調になった。
「え、なに?」
「私ね、ずっと君に言いたかったことがあるんだ・・・」
――え? まさか・・・。
僕は否が応にも変な期待をした。
「な・・・何?」
僕の心臓は一気に高鳴る。
「あのね・・・私・・・」
「う・・・うん」
「私・・・実は、明日で十八なんだ」
「え?・・・・ああ、そう十八」
――なんだ、歳のことか。びっくりさせないでよ。
そう思いながら僕はどっと肩を撫で下ろした。
「そう、もう十八か・・・・・え! じゅうはち?」
――あれ? 僕は今、何歳(いくつ)だったっけ?
自分の歳をあらためて確認する。
確か、来月の四月の誕生日で十八だよな、僕・・・。あれ?
彼女は恥ずかしそうに上目使いで僕を見ていた。
「え? もしかして鈴鹿さんって?」
「うん。本当だったらもうひとつ上の学年なの・・・私、中学の時にいろいろあって、中学二年生を二回やってるんだ」
――やっぱり元彼の言ってた噂は本当のことだったんだ・・・。
「私の中学時代のことの噂って、何か訊いてる?」
探ってくるような言い方で僕に訊いてきた。
「ううん、別に、何も・・・」
僕は咄嗟に嘘をついて、そのまま平然を装った。嘘をつくのが苦手な僕にしては上手く誤魔化せたと思う。
内心はやはりショックだった。でも、僕は彼女の過去のことは気にしないと決めた。
僕はしばらく黙ったまま下を俯いていた。
「君ってやっぱりいい人だね。何も訊かないんだね」
「別に・・・。だって鈴鹿さんは今の鈴鹿さんだから。それ以上でもそれ以下でもないでしょ」
彼女はそれを聞くと優しく微笑んだ。
「ありがとう。でもよかった。思ったより君よりおばさんじゃなくて。二週間だったら、ほとんど変わらないもんね。四捨五入したら同じになるし」
「それを言うなら十五捨十六入でしょ」
「君、細かいねえ・・・」
呆れたように彼女が言った。
「鈴鹿さんが大雑把過ぎるんだよ」
僕の拗ねた仕草に彼女はまた笑った。
「あ、あのさ・・・」
僕にしては唐突な話の出だしだった。
「うん?」
「実は、僕も前から鈴鹿さんに言いたいことがあって・・・」
「え? なになに? もしかして告白?」
――それ、言っちゃうかなあ・・。
「ごめんね。違うよ」
「なーんだ。じゃあ、なあに?」
「あの申し訳ないけど・・その『君』って呼び方、実はちょっと苦手なんだ・・」
「え? どうして?」
彼女はびっくりした顔で僕を見た。
「僕、『君』って呼ばれると、なんか先生とかに言われてる感じがして、萎縮しちゃうんだ」
「えーそうなの・・・私は親しみがあって好きなんだけど・・・」
今度はきょとんとして顔をしかめた。
「まあ君が言うならしょうがないな。よし、じゃあこれからは名前で呼ぶことにしようか。ね、雄喜!」
――え、名前って下の方なの? しかも呼び捨てって・・・。
「そうだ。じゃあさ、雄喜も私を下の名前で呼んでよ。友達もみんなも名前で呼んでるしさ」
予想外の話の展開に僕は焦った。今まで女の子を名前で呼ぶなんてもちろん無い。
僕にとって女の子の名前を呼び捨てにするなんて漫画やドラマの世界の中だけだった。
「え? な、名前って・・・何て呼べばいいのかな?」
「『名前で呼んで』ってお願いして『何て呼べばいいの』って聞かれたら、何て答えればいいの私・・・」
「さき・・・ちゃん・・・でいいのかな?」
何か無茶苦茶恥ずかしかった。いや、恥ずかしさを超えた何とも言えない違和感が心の中を走った。
「ああ、ちゃん付けはやめて。同じクラスに『亜紀ちゃん』がいるからさ、紛らわしいの。『さき』でいいよ」
――え、呼び捨て?
ハードルが上げられた。
「ああ・・・さ・き・・・・」
声が裏返った。
「あのお? 聞こえないよ」
彼女は悪戯っぽい声で言った。
「さき・・・」
「フフッ・・・」
彼女はとても嬉しそうな顔で笑った。
・・・なんて思っている時だ。何か焦げた臭いがまわりに充満していた。
「うあ! ちょっと雄喜ィ! 焦げてるよお!」
彼女が慌てた顔で叫んだ。
「ゲゲ!」
ドライヤーを近くで当て過ぎたのだろう。乾かしていたペンギンのお腹が見事にこんがりとした黄金色に焦げ始めていた。
「ああ、ごめんね! どうしよう・・・」
焦がしてしまったのは僕が彼女に渡したほうのストラップだった。彼女はその焦げたペンギンのお腹を痛々しそうにさすっていた。
「ああ、痛そう。君、ペンちゃんを焼き鳥にするつもり? 動物虐待だよ!」
「あの、ごめんね。僕のと交換するよ」
「ううん、こっちのでいいよ」
彼女は笑いながらあっさりと答えた。
「だって焦がしちゃったし・・・」
「こっちがいいの! このペンちゃんは君が私に買ってくれたものだもん」
「え? だって・・・同じじゃない?」
「同じじゃないよ! そっちのペンちゃんは私が君にあげたやつだからね。大切にしなきゃ怒るよ」
――そんなものなのかな・・・。
経験不足だからなのだろうか、僕はやはり女の子の気持ちが理解できない。
その時、ベルの音が部屋に鳴り響いた。二人とも突然の大きな音にビクっとなる。ベッドの脇にある電話の呼び出し音だ。
受話器を取ると、さっきのフロントのおばさんの声がした。
「あと十五分でご宿泊料金になりますが、どうなさいますか?」
――え? ご宿泊って?
「ど、どうしよう?」
電話口のおばさんの声がとても大きく、内容は彼女まで聞こえていたようだ。
・・・っていうか、あのおばさん、僕達が高校生って知ってて言ってるのだろうか。
彼女も困ったような複雑な顔をしていたが、何も喋らなかった。
――彼女、どうして何も言わないのかな? まさか・・・泊まる?
そうぐちゃぐちゃと考えている間に、僕は気持ちとは裏腹に反射的に返事をしていた。
「はい、あの・・・もう出ます」
彼女はホッとしたような、がっかりしたような、どちらでもとれる顔をしていた。
「うん、もう帰らなきゃ・・・ね」
彼女は下を向いたまま呟いた。僕も黙って頷いた。
名残惜しいというのが正直な気持ちだったが、高校生がこんなところに泊まるのはもちろん許されるわけがない。
たちはゆっくりと帰り支度を始めた。
忘れ物が無いかと部屋の中を確認する。すると、彼女が床に這って何かを探していた。
「何か落としたの?」
僕がそう尋ねたが、彼女の返事は無かった。
「何か捜してるの?」
また返事が無い。
――どうしたのかな?
僕は探し物を一緒に探そうかと彼女に近づいた。
すると、彼女の体が小刻みに震えていた。
「え?」
――違う!
僕は彼女の体に何か異変があることに気づいた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「ごめんね。ちょっと・・・・苦しくなっちゃって・・・・」
明らかに様子が変だった。
「大丈夫・・・すぐ治まると・・・思う」
彼女は苦しそうな声で呟いた。
――どうしよう・・・こんなところで・・・。
僕はどうしたらいいのか分からず、ただ茫然としていた。
徐々に彼女の息遣いが荒くなってくる。
僕は焦った。胸のあたりがかなり苦しそうだった。
「ドジだな私。薬・・・学校のカバンの中だ・・・」
――え? 薬って、まさか心臓?
目の前で人が苦しんでいるなんて生まれて初めてのことで、僕は頭の中が真っ白になった。
――どうしよう・・・どうしよう・・・。
頭の中で同じ言葉が反芻される。
もう彼女は喋ることができないくらい苦しい状態だった。
――もうだめだ。何とかしないと。そうだ救急車だ!
僕は携帯を慌てて掴んだ。
――あ、そうだ。携帯は海に落として壊しちゃったんだ、どうしよう。
僕はさらに頭の中がさらにパニックになる。
――そうだ、部屋の電話だ!
僕はベッドの脇にある電話の受話器を取った。
――この電話って直接119番に繋がるのかな?
焦って気が動転する。正面に『フロント0番』の文字が目に入り、僕はすぐにボタンを押した。
フロントの人に事情を話し、すぐに救急車のお願いをした。僕はもう何がなんだか分からなくなっていた。
――彼女の身にいったい何が起きたのだろう?
このあとの出来事については、僕は気が動転していて、断片的にしか記憶が無い。
憶えているのは、救急車が来た時、ホテルの前に人だかりができていたこと。僕は彼女と一緒に救急車に乗ったこと。
救命士さんから彼女の家への連絡先を聞かれたが、僕は答えられなかったこと。彼女が苦しみながらも自宅の連絡先を伝えたこと。
そのあとは・・・よく覚えていない・・・。
気がつくと、僕は病院の集中治療室の前に座っていた。
――そうだ。僕と彼女は救急車で病院へ運ばれたんだ。
僕は彼女の身に何が起きたのか、全く状況が理解できていなかった。横には中年の男性と女性が心配そうな顔で座っている。
頭の中はまだ混乱していた。
――思い出した。
彼女のお父さんとお母さんだ。病院からの連絡でここへ駆けつけたのだ。
誰も喋ることは無く、静寂が続いていた。
しばらくすると集中治療室から医師が出てきて、彼女の容態がなんとか落ちついたということを伝えられた。
僕は安堵の気持ちを抑えられなかった。
ホテル内でのことだったので事件性を懸念したのか、僕はこのあと警察の事情聴取を受けた。恐らくホテルのフロントのおばさんが連絡したのだろう。
事件性は無いと分かり、警察からの尋問は形式的なものだけで、僕はすぐに解放された。
ただ、このあとの彼女の両親からの尋問がすごかった。
学校をサボり、挙句の果てにホテルに一緒に入り、そこで倒れただなんて、何も言い訳ができるわけがなかった。
誰が学校をサボろうと言い出したのか? どっちがホテルへ誘ったのか?
特に彼女のお父さんからの質問の責めがキツかった。
僕は自分から彼女を誘ったと話した。彼女のお母さんからは本当なのか、と念押しされたが、そのまま頷いた。
別にカッコをつけた訳ではない。彼女がこのことで両親から怒られるのが嫌だったし、何より彼女が僕を誘ったようなウワサがたつのがもっと嫌だったからだ。
実際に最終的に電車に引っ張ったのは僕だし、ホテルに入らなければならない原因を作ったのも僕だ。そう。僕がはっきりと授業をサボるのをやめようと言えばよかったんだ。
僕の優柔不断さが、彼女をこんな危険な目に遭わせてしまった。それは紛れもない事実だった。僕自身がそれに納得していた。
彼女の父親は激怒し、もう彼女には絶対に会うなと言われた。父親として当然のことだろう。
僕もそう言われることは覚悟していた。でも、彼女が倒れた理由については何も教えてくれなかった。
「ごめんね。鈴鹿さん・・・」
僕はひとりで病院をあとにした。
このことは当然のこととして僕の両親や学校にも報告が行くことになり、かなりの大事になると覚悟していた。学校もサボってしまったし、ただでは済まないだろう。
しかし、帰ってから親から何も言われることは無かった。
その後の学校からの呼び出しや連絡も無かった。
彼女の両親はどこにも報告や連絡をしなかったようだ。
僕に気遣ったのか、彼女を気遣ったのか。
どちらにしても、僕がもう彼女に会えないということには変わりないだろう。
その日、僕は海に落として壊れてしまった携帯を持ってショップへ行き、修理に出した。
さすがに海に水没した本体は一目で修復不能と判断された。
しかし幸いなことに携帯内に記憶されていた電話番号やアドレスデータは読み取ることができ、復旧させることができた。彼女の連絡先を含めて。
しかし彼女のご両親との約束で僕のほうから連絡を取ることはもうできなかった。
彼女はどうしているのだろうか。元気になったのか?
そんなことを思う毎日が続いた。
彼女に会いたかった。それはもうできないのも分かっていた。
でも、せめて元気かどうかだけでも知りたい。そう思った。
学校は春休みに入ってしまったので、学校からの情報も何もない。彼女のことを教えてくれる友達もいなかった。
僕は、たとえようもない喪失感に包まれていた。心にぽっかり穴が開いたような感覚。
何をしてもつまらない。いや、つまらないという感覚さえ無くなっていた。
僅かな時間だったが、彼女と一緒に過ごした時間がとても愛おしいく感じられた。
――楽しかった?
うん、確かに楽しかった。でも彼女と一緒に過ごした時はそんな単純な感情ではなかった。
あんなにも自然でいられた自分がとても不思議だった。
でも、もう彼女に会うことは許されないんだ。
――彼女のことは忘れよう・・・。
僕に今できることは、そう努力することだけだった。
彼女が倒れて病院に入った日からちょうど一週間たった時のことだった。携帯の鈍い振動音が僕の部屋で響いた。
誰からだろう、と携帯に表示された文字を見て僕は思わず動揺する。そこには登録したばかりの彼女の名前が表示されたからだ。
――え? 彼女から?
僕は喜びと嬉しさで慌てながら受信ボタンを押した。
しかし、電話越しの声は彼女のものではなかった。
彼女のお母さんからだった。
僕は約束の時間よりも三十分ほど前に待ち合わせ場所に指定されたカフェに入った。理由は、間違っても遅れてはならないと思ったからだ。
店のドアを開け、店内に入ると迎えのウエイターから人数を訊かれる。
「えっと、今ひとりですが、待ち合わせをしているので、あとからもう一人・・」
たどたどしく答えていると、店の奥で手を挙げてこちらに合図する女性がいた。見覚えのある顔、そう、彼女のお母さんだ。
前に会った時も思ったが、とても綺麗な人だ。彼女はやはりお母さん似だ。まさかこんな早くから待っているとは思わなかった僕は、虚を突かれた感じになり焦っていた。
「すいません。お待たせしてしまって」
「何を言ってるの。まだ待ち合わせ時間の三十分も前よ。読みたい本があったから早めに来て読んでいたの」
お母さんはここに座ってと誘導するように反対側の椅子に手を差し向けた。
「お久しぶりね、名倉君。何飲む? ここのハーブディーはお勧めなの。ケーキもなかなかよ」
程なくウエイトレスがやってきて、僕はお母さんが勧めてくれたハーブティーを頼んだ。勧められておきながら他のものを注文する度胸は僕には無かった。
「ごめんなさい・・・」
僕は謝った・・・と言うより僕ができることは謝る以外になかった。
「僕の身勝手で咲季さんの体を危険な目に遭わせてしまって・・・本当にすいませんでした。もう咲季さんには二度と・・・」
そう言いかけた時、お母さんの声が僕を遮った。
「ごめんなさい」
今度はお母さんが僕に謝った。
「え?」
「謝るのはこっちのほうなの」
――お母さん、何を言ってるんだろ・・・?
今日、呼び出された理由は『ニ度と彼女の前に現れるな』との最終通告しか僕には考えられなかった。
「あの日、学校サボって外に行こうって言い出したのは咲季のほうね」
お母さんは優しい顔で僕に問いかけた。
「あ?・・・い、いえ。ぼくが・・・」
「本当に? 本当は咲季が言い出したんでしょ。本人が言ってたわ」
「咲季・・・さんが?」
お母さんが僕の顔を見つめる。僕はお母さんの目に委縮して思わず視線を逸らした。
「フフッ、あなたって本当に嘘がつけない性格みたいね。最初は咲季があなたを庇って言ったのかとも疑ったけど、あなたを見てたらどっちが本当かすぐに分かったわ」
「いえ。確かに最初は彼女から言い出したことですけど、最終的に行こうって言ったのは僕なんです。本当です。僕が優柔不断なばっかりに彼女を危険な目に・・・」
「本当・・・咲季の言う通り人ね」
「え?」
「あなたは何でも自分のせいにしちゃうのかしら? 咲季もね、嘘をつくのが昔からものすごく下手なの。すぐ顔に出ちゃうタイプなのよね。だからあの子が言ってることが本当か嘘かなんて私はすぐ分かるの。今日はあなたに文句を言いに来たわけじゃないのよ。あの子が入院したのはあなたのせいではないのよ」
「え?」
「学校のクラスメートの人には内緒にしてもらってたんだけど咲季はあの日はもうすでに入院してたの」
――すでに入院してたって・・・どういうこと?
頭の中の整理ができない。
「体の具合があまり良くないからって、その週の月曜日に病院に検査に行ったの。その検査の結果が良くなくて、そのまま入院になってしまったの」
その週の月曜日は彼女と教室で話をした日だった。
行かなければならない所があるって病院だったんだ。その日、彼女の様子がおかしかった理由が今、分かった。
「あの子は幼い時から病院の入退院を繰り返してたんだけど、高校に入ってからはわりと調子が良くて入院は無かったから、ちょっと落ち込んじゃってね。春休みになる前に一度だけ学校に行きたいって言うもんだから、病院から一日だけ外出許可をもらったの」
――あの日、一日だけ?・・・。
「今回の入院がどれくらい長くなるか分からないから、その前にきっと遊びに行きたかったのね」
――そんな貴重な時間だったのに僕なんかと・・・。
僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「今日は来てもらったのは、あなたにお願いをしたかったからなの」
「お願い・・・ですか?」
「あなたにあの子の、咲季のそばにいてあげて欲しいの」
彼女をあんな大変な目に遭わせてしまった僕に何を言い出すのか、母さんの言葉の理解に苦しんだ。
「ああ、そうだ。あなたには報告しないとね。咲季、おかげさまで体のほうはかなり回復して元気になったわ」
「本当ですか。よかった!」
思わず大きな声が出てしまった。何よりも僕はその言葉を待っていたから。
「ただあの子あれ以来、ああ、あの倒れて病院に運ばれた日のことね。
体のほうは元気になったんだけど、気持ちが・・・全然元気にならなくて。あの子、聞き分けがいいから、もうあなたに会っちゃダメだって言ったら素直に聞いてくれた。ただその代わり、今回のことであなたを絶対に攻めないでって言ってた」
僕は苦笑いをするしかなかった。
お母さんが僕のカバンを見て何かに気づいた。
「あら、そのペンギンのストラップ・・・」
僕はあの日以来、あのペンギンのストラップをずっとカバンに付けていた。
「これ・・・ですか?」
僕はストラップをカバンから外してお母さんに見せた。
「咲季も同じもの持ってわね。もしかして一緒に買ったの?
あの子すごく大切にしてたわ」
――大事に持っててくれてるんだ。
僕は嬉しかった。
「でも、あの子のはこんがりとお腹が焦げてたわよ」
「ああ、すいません。それは僕がドライヤーで焦がしちゃったんです」
「フフッ、そうだったんだ。私が『あら焦げてるじゃない』って言ったら、
『だから世界にひとつしか無いんだよ』ってそれは嬉しそうに言ってたわ。
そっか、あなたが焦がしたものだったんだ・・・なるほどね」
お母さんは子供がはしゃぐように笑ったあと、今度は急に黙りこんで僕を見つめた。
「あの子に・・・・会ってくれる?」
「でもお父さんが、すごく怒ってたし・・・大丈夫ですかね」
「うん、だからね。私たち親には内緒ってことにして」
「え?」
お母さんの言っていることの意味がまた分からなくなった。
「私たちが病院に行かない時間をあなたに教えるから、その時間以外であの子に会ってあげてくれる?」
「どういう・・・ことですか?」
お母さんはまた少し黙ったあと、決心した感じで話し始めた。
「あなたには・・聞いておいて欲しいことがあるの。あの子の病気のことで」
「病気?・・・」
「あの子はね。咲季は生まれつき心臓がよくないの。心臓の病気でね。けっこう重い・・・」
何の冗談かと僕は思った。お母さんはこのあと彼女の病気について話し始めた。
彼女の病気は生まれつきの先天性のものであること。詳しい内容は理解できなかったが、心臓の弁の癒着とかの問題らしく、手術が非常に困難であること。
「でも、命にかかわるなんてことは・・・」
僕はまさかと思いながら訊いた。お母さんはまたしばらく黙った。
「高校に入ってからしばらくは安定していたんだけど、最近また発作を起こすことが多くなってきてね。咲季の心臓はいつ発作が起きても不思議じゃない状態なの。生まれた時は中学生になるまで生きられないだろうって言われての。だからあの子は、あとどれくらい生きられるかは分からない。あと五年なのか・・・一年なのか・・・一か月なのか・・・」
――ちょっと待ってよ。そんなこと急に言われても・・・ ありきたりの恋愛映画や漫画じゃあるまいし。
頭の中で叫んだ。気持ちの整理が追いつかない。
悪い冗談だろうと笑いたかった。でも、お母さんの膝の上にあるハンカチに滴り落ちる涙がそれを許してくれなかった。
「咲季・・・さんは自分の病気のことは?」
「全部知ってるわ。自分の心臓がいつダメになるか分からないってこと。あの子にはできる限り精一杯生きて欲しい。後悔なんかさせたくなかったからすべてを話したの。主人は反対したけど・・・」
そうか。彼女の笑顔がなぜあんなに眩しかったのか、今理由が分かった。
彼女は自分の持っている時間がとても貴重なものだと分かっていたんだ。彼女にとって一日一日は非常に大切なものだった。
いつまで生きられるか分からない。だからこそ、彼女の笑顔には常に一生分の笑顔が凝縮されていたんだ。
あの笑顔の裏側にどれだけの心の強さが必要だったのか、僕には計り知れない。
僕は何も分かっていなかった。
『人の寿命は予めDNAにプログラムされてる』だって?
『生物の本能に逆らうから人は死を恐れる』だって?
僕は何を偉そうに彼女に講釈を垂れていたんだ。死の重みもロクに分からない軟弱な奴が。
自分の馬鹿さ加減が情けなくて悔しくて、居た堪れなくなった。
「あの、もうひとつお願いがあるの」
お母さんは申し訳なさそうに話を続けた。
「はい?」
「今話をした咲季の病気のことは、あなたは知らないフリをしていて欲しいの」
「え?」
「同情で一緒にいるような誤解をあの子にさせたくないから。今までのように自然なお付き合いをして欲しいの。無理を言っているのは承知なんだけど」
そう、無理だ。僕は嘘が苦手だ。そんなことすぐ顔に出てしまうだろう。僕が嘘をつけない性格なのはさっき理解したばかりだろうに。
「ごめんなさい。お願い・・・」
お母さんの声が泣かないように必死にこらえている。
「わかり・・・ました」
僕は思わず答えてしまったが、すぐに後悔した。
僕はなんて無責任な奴なんだろう。彼女に嘘をつき通す自信なんて全く無いのに。
翌日の午後、僕は彼女の入院している病院にいた。もちろん彼女に会うためだ。
病室は事前に彼女のお母さんからメールで聞いていた。
彼女に会うのは何日ぶりだろうか。
でも僕の心の中は嬉しさより不安が大きかった。
怒っていないだろうか・・・僕になんかもう会いたくないのではないか・・・そんなことを思いながら病室に前に着いた。
病室の扉の横にある名札に彼女の名前を確認する。
――ここだ。
病室の中の覗くと、カーテンで仕切られたベッドが部屋の四方に置かれていた。わりと広い四人部屋だ。
奥の窓際のベッドで本を読んでいる彼女すぐに見つけた。僕は胸がきゅっと締め付けられた。
声を掛けようとした。なのに声が出ない。
――あれ? 何で?
僕は振り絞るように声を出した。
「あの・・・こんにちは!」
病室内に僕の声が大きく響く。その声に病室にいたみんなが一斉にこちらを向いた。
――あ、まずい・・・っていうか恥ずかしい。
「あっ、すいません!」
僕はすかさず謝った。彼女がびっくりした顔でこちらを見ていた。
「名倉くん? 来てくれたの」
「あっ、ごめんね。久しぶり・・・」
驚いている彼女の顔が慌てている僕を見て笑顔に変わった。
「相変わらずいいキャラしてるね。君は」
「ごめんね。うるさかったよね」
危険な目に遭わせてしまった僕を怒ってるんじゃないかと不安だったが、僕を明るく迎えてくれたのでホッとした。
「ごめん。君に連絡したかったんだけど、お母さんに携帯使わせてもらえなくて連絡できなかったんだ。よく部屋わかったね」
「ああ、学校で教えてもらったんだ」
「そう・・・」
僕は下手な芝居をしていた。
「あの・・・今日家族の人は?」
「大丈夫。お母さんが来るのは朝と夕方だから。さっき帰ったところだから今日は夕方まで来ないよ。そうだよね。うちの両親とかち合ったらまた何か言われちゃうもんね。ごめんね、いろいろ言われたんでしょ。みんな私が悪いのに。一所懸命説明したんだけど・・」
「僕のほうは全然大丈夫だよ。鈴鹿さんこそ、体は大丈夫なの?」
僕がそう訊くと、彼女はゆっくりと俯いた。
「私の病気のこと・・・聞いた?」
彼女は探るようなトーンで僕に訊いてきた。
「え? お母さんからは昔から体が少し弱いってことは聞いたけど、あとは・・」
僕は精一杯に嘘をついた。
彼女はまたしばらく黙っていた。
「私ね・・・心臓があまりよくないんだ。生まれつき・・・」
「そ・・・そうなんだ」
僕は平然を装った。
「海に行った時は、薬を学校のカバンの中に入れっぱなしで、持っていくの忘れちゃったんだよね。私ってドジだから・・・ごめんね、心配かけて」
そうか。あの日はカバンを持たずにそのまま学校を出てきちゃったから。
「もしかして電車に乗る前に学校に戻ろうとしたのは、薬を忘れたのを思い出したからだったの? 僕、何も知らなくて・・・本当にごめんね」
僕は自分のしてしまったことの重大さを知った。僕は取り返しのつかないことをしてしまうところだったんだ。
「ううん、違うよ。あの時は私のわがままに君を付き合わせたら悪いなって本当に思ったんだ。薬も一日くらいなら平気かなって思ったし・・・。でも君に手を引っ張ってもらった時は本当に嬉しかったよ」
僕は・・・何も言えなかった。
「あー、そういえばさっき私のこと『鈴鹿さん』って言ったでしょ。名前で呼ぶ約束だよね」
彼女は頬を膨らませた。
「あ、ごめんね。でも確か、君もさっき僕のこと『名倉くん』って言ったよ」
「あー、君こそ今、私のこと『君』って言ったよ」
何だかよく分からない押し問答が続いた。
「ごめんね。なんか君のがうつっちゃったよ」
「フフッ、影響されやすいんだね、君」
「うん、そうみたい。でも『君』って呼び方も何か悪くないかも」
「そうでしょ」
拗ねていた彼女はやさしく笑った。
「あのさ・・・大丈夫・・・なの」
「え?」
「その、心臓の病気って・・・命にかかわる・・・とか・・・」
――何を言い出すんだ、僕は。
言葉に出してしまったあと猛烈に後悔した。訊いてはいけないことを訊いてしまった。
でも、それを聞いた彼女は、いつもの眩しい笑顔で答えてくれた。
「えー心配してくれてるの? 嬉しいな。大丈夫だよ。そんな大袈裟なもんじゃないよ、私の病気は。ちゃんと薬を飲んで、運動とか、食事とか、お医者様の言うことを聞いて無理しなければ大丈夫って言われてるから」
そう言ったあと、にこりとまた微笑んだ。
彼女も嘘をついている。二人の間に嘘が交錯していた。
彼女はどんな気持ちでこの嘘をついているんだろうか。それを思うと心が張り裂けそうになった。
「ごめんね」
「また謝ってる。別に君が謝ることないでしょ」
彼女は大きく笑った。
「携帯やスマホが無いと全然連絡できないから不便だよね」
彼女は困ったように言った。
「でも昔はみんなそうだったからね」
「そうだよね」
「僕らの父さんや母さんの時代はどうやって連絡取り合ってたのかな?」
「やっぱり電話か手紙じゃない?・・・あと交換日記とか?」
「今はラインとかあるから交換日記なんかする人はいないんじゃないかな?」
それを聞いた彼女が黙ったまま上目遣いで僕のほうを見た。
「私、雄喜と交換日記したいな」
「僕が日記を書いたら、きっと理屈っぽくて論文みたいになっちゃうよ」
僕は彼女のその言葉は軽い冗談だと思い、軽い答えで返してしまった。
「そうだ。海に落ちた時に私が買ってあげたスエットどうしてる?」
「ああ、今は僕の愛用の部屋着になってるよ」
「ホント? 嬉しいな。私も一緒におそろいの買っておけばよかったな」
「また今度一緒に買いに行こうよ。今度は海に落ちないようにするから」
「うん、そうだね。約束だよ」
彼女は嬉しそうに笑った。僕は彼女のこの笑顔こそ人を幸せにできる、そう思った。
その笑顔は少なくとも僕を何か暖かい気持ちでいっぱいにしてくれた。
今日は四月の最初の登校日、いわゆる始業式の日だ。
僕も今日から三年生になる。
これからは大学受験で勉強も忙しくなりそうだ。
でも、そういった緊張感をよそに、もっと緊張することが僕にはあった。それはクラス替えの編成だ。
もちろん彼女と同じクラスになれるかどうかという期待だった。
ドラマや漫画だったら、こういう場合必ずに同じクラスになるものだ。
でも僕は常に悪いほうを考えてしまう。漫画じゃないんだから、そううまい話は無いだろう・・・と。
まずは全員、みんな二年の時の古いクラスの教室へと集まる。ここで新三年のクラス編成表が張り出され、自分の新しいクラスを確認してからその教室へと向かう仕組みだった。
前の教室に入ると、大勢の二年の時のクラスメートが黒板に張り出されているクラス編成表を見ながら歓喜していた。
喜ぶ生徒、悔しがる生徒、その中に混じりながら僕もクラス編成表を覗き込んだ。
『名倉雄喜』――『D組』
今年からはD組か・・・。自分の新クラスを確認する。
これに対して何か感動があるということはない。問題はことあとだ。
僕はすぐに教室を出て、隣の教室へと入った。隣の教室とは旧2年A組の教室だ。そこに張り出されている新クラス編成表を他の旧A組の生徒に混じって確認する。
あらためて僕の心に緊張感が走る。
そう、気になるのは彼女の新クラスだ。
僕は祈る気持ちで最初にD組から捜し始める。するといきなり僕の心が思わずガッツポーズをした。
『鈴鹿咲季』――『D組』
彼女の名前の横に間違いなく僕と同じD組と記されている。
――やった! やった! やった!
僕は心の中で三回叫んだ。
――彼女と一年間クラスメートになれるんだ!
こんなに喜んだのは高校の合格発表の時以来だろうか。いやそれ以上の喜びかもしれない。
僕は喜び勇んで新しいクラスの教室に向かった。
教室に入ると、すでに多くの生徒が集まっていた。でも顔の知っている生徒は四分の一程度もいないだろうか・・・。
元々人の顔の名前を憶えるのが苦手な僕は、ほとんどが知らない生徒のように見えた。だがそんなことはどうでもよかった。
彼女と同じクラスになれた。それだけで十分だった。
もちろん教室内に彼女の姿はない。
教室の奥のほうで彼女のことを話している五、六人のグループがいることに気づいた。恐らく彼女の二年の時のクラスメートだろう。
彼女が春休み中に入院したという話をしている。どうやらみんなで彼女のお見舞いに行こうという話らしい。
僕は二年の時はクラスは別だったので、当然声は掛からないだろうと思っていた。だが、そのグループの中の男子から声を掛けられたのでびっくりした。
見覚えのある顔だった。
「確か名倉君…だったよね? 今、鈴鹿さん病気で入院してるんだ。明日みんなでお見舞いに行くんだけど、よかったら一緒に行かないか?」
声を掛けてきたのは彼女の元彼である武田君だ。まさかの誘いだった。
僕は学校の帰りにそのまま病院へと向かった。彼女と同じクラスになったことを一刻も早く報告したかったから。
お母さんとかち合わない時間はお母さん本人から既にメールで連絡を受けている。
「こんにちは」
病室に入ると、僕はいつもと変わらない挨拶をする。
「や! 真面目くん。相変わらずタイミングいいね。さっきお母さん帰ったとこだよ」
彼女もいつも通り明るかった。
「あ、そうだ。今日三年の始業式だよね。クラス替え・・・どうだった?」
彼女も新しいクラスはやはり気になるようだ。
「ああ、僕はD組だったよ」
僕のその言葉に対し、彼女はもの言いたげな顔でこちらを見つめた。
「僕・・・は? で、私・・・は?」
「あ、ごめんごめん。君のは見てこなかった」
彼女は腹を空かした虎のような目で僕を睨みつける。
「嘘だよ!」
僕は慌てて答えたあと、ニッと笑った。
「え、ウソ? もしかして、もしかした?」
僕はピースサインを出した。
「うん。僕たち今年からクラスメートだよ」
「えー嬉しい! 雄喜も嬉しい?」
「もちろんだよ」
「そっかあ。雄喜と同じクラスかあ。となりの席になれたらいいね」
「はは、それはうるさそうだな」
「ひどーい。あ、そうだ。何か二人で一緒に委員とか係やろうよ。学級委員やろうか?」
「やめてよ。僕、そういう目立つポジションだめなんだ」
「あはは、そーだよね。実は私も苦手だんだ。委員長に立候補する人とか見ると尊敬しちゃう」
「あと、今年は修学旅行もあるよ」
「わあ、同じバスに乗れるね」
「あと、三年生っていうことは将来、同窓会も一緒になるね」
「なあに? 将来は私と同窓会でしか会わないつもり?」
「いや、そういう意味じゃないけど・・・どういう意味?」
「君、今度は海じゃなくて病室の窓から落ちてみる?」
彼女はなぜか横目で僕を睨んだ。
最近、何か睨まれることが多くなったような気がする。
「あと咲季にもうひとつ報告。僕、今日で十八になったよ」
「あっ、そうか。今日は四月五日だから雄喜の誕生日だ。おめでとう!」
「ありがとう。ようやく咲季に追いついたよ」
「ようやくって、たった二週間じゃん。でもよかった。これで君よりおばさんじゃなくなったよ」
彼女は嬉しそうに笑った。
「あっ、そうだ。ごめん、私、誕生日プレゼント・・・」
「ああ、それならもう貰ってるよ」
「え?」
「これ!」
僕は海で一緒に買って、交換したペンギンのストラップを見せた。
「え? それで・・・いいの?」
彼女は申し訳なさそうに言った。
「これがいいんだ!」
僕がそう言うと、それを聞いた彼女はくすっと笑った。
「え? 何?」
「いや、今の、なんか、ちょっとだけカッコよかったよ」
「ちょっとだけ、なの?」
僕は皮肉っぽく訊いた。
「うん。ちょっとだけかな」
彼女は当たり前だと言わんばかりに答えた。僕は思わず吹き出して笑った。彼女もまた笑い出した。
「ああ、それから、クラスの有志で明日、咲季のお見舞いに行こうって話が出たんだけど聞いてる?」
「あ、聞いてるよ。お母さんのところに今日連絡が来たみたい。もしかして雄喜も一緒なの?」
「うん。僕は二年の時はクラスが違うから誘われないと思ってたんだけど、あのサッカー部の彼・・武田君だっけ。彼が僕を誘ってくれたんだ」
「へー克也がね。よかったね。早速新しいクラスで友達ができて。私のおかげだよ」
「別に、まだ友達になったわけじゃないけど・・・」
「そうなの? まあいいか。じゃあ明日待ってるね。久しぶりだなあ、みんなと会うの」
彼女はとても嬉しそうな顔で窓の外に目を向けた。
翌日、放課後にクラスメートのみんなで待ち合わせ、彼女の病院へと向かった。
僕が知らない生徒も数人いた。三年では別のクラスになったクラスメートもいるようだ。
みんなの話を聞いていると、彼女の入院については『ちょっと風邪をこじらせたが大事を取って入院した』程度とのことで、それほど大きい病気とは伝わっていないようだった。
もちろん僕は余計なことは言わなかった。
病院へ着くと、まずは病院の一階にある売店でお見舞い品を買うことにした。
「今はお見舞いにお花ってダメなんだよね?」
「そうだよね。何がいいのかな?」
――え? 花ってダメなんだ。知らなかった。
病院のお見舞いというと映画でよく見る“花”が定番なのかと思っていたが、最近の病院は感染症の問題とかで花のお見舞い品は禁止のところが多いそうだ。
「そうするとやっぱりお菓子? 食事制限とかあるのかな?」
「だったらゼリーなんかが無難じゃない?」
女子生徒のこの一言でお見舞い品は決まった。
大きなロビー内は診察を待つ患者さんとお見舞いの人で込み合っていた。総合案内でクラスの女子生徒が部屋番号を言って病室の場所を尋ねた。
僕は彼女の病室の場所を知っていたが、もちろんこれも黙っていた。
エレベーターに乗り、病室のあるフロアで降りる。
「あった。あそこだよ」
女子生徒の一人が彼女の病室番号を見つけた。
病室に入ると彼女はベッドで本を読んでいた。お母さんが横でゆっくり会釈をした。
彼女の目が僕の目と一瞬合ったが、言葉は交わさなかった。
「きゃー咲季! 久しぶりぃ、元気?」
彼女の姿を見るなり女子たちが両手を上げながら叫んだ。
「元気なわけないじゃん! 私いちおう病気で入院中だよ」
「あはは、そうだったねー」
病室内にみんなの笑い声が響いた。
そういえば僕はクラスメートと喋る普段の彼女をほとんど見たことが無かった。
とても楽しそうに笑いながら話をしていて、まさに天真爛漫な女の子といった感じだ。
でもなぜだろう? 美術の授業の時にも感じていたが、彼女のその笑顔に妙な違和感を感じていた。
僕といる時とは何かが違う、別の彼女がいるような、そんな感じがした。
僕自身はとりわけ喋ることは無く、ずっと後ろにいてみんなの会話を聞いていた。
彼女も特に僕のほうを見たり、話し掛けてくることもなかった。
少し寂しい気もしたが、とても楽しそうに笑っている彼女を見ているだけで、僕も楽しい気分になれた。
――早く元気にしてあげたい。
僕は心底そう思った
「あんまり長居しても迷惑になるから、そろそろ行こうか」
女子生徒の一人が切り出した。
「えー、もう帰っちゃうの?」
名残惜しそうに彼女が言う。
「退院したらまたみんなで遊びに行こうね」
「あの・・また、来てもいいかな?」
そう言い出したのはあの武田君だ。
彼女はちょっと戸惑った顔をしたあと、しばらく黙っていた。
「ありがとう。でもそんな長い入院になるわけじゃないし、大丈夫だよ。みんなも受験で忙しくなるし、私の病気もそんな大袈裟なもんじゃないから。
彼女がそう言うと、武田君は少し寂しそうな顔をしていた。でもすぐに笑顔で顔を上げた。
「そうか。そうだね。退院したらまたみんなで遊びに行こう」
――なんだろう。この複雑な、なんとも言えない気分は。
今、彼女が言ったこの言葉に、とても安堵している自分に気づいた。
僕はみんなを先に送るようにしながら一番後ろで病室を出る。
歩きながら最後に彼女ほうを見た。すると彼女は僕のほうを見てクスッと笑い、みんなから見えないように小さく手を振ってくれた。
何か二人だけの特別なサインのようで、ちょっといい気分になった。
病室を出る直前に武田君が突然、足を止めた。
彼は何か思いつめたような顔をしている。
「ごめん、みんな。俺、鈴鹿さんに話があるから、ちょっと先に行っててくれる?」
そう言うと武田君は彼女のほうへ引き返した。
――え? 何?
「おいおい、こんなとこで告白かあ?」
他の男子が冷やかし始める。
「いいから、頼むよ!」
「分かったよ。じゃあ行こうみんな。外で待ってるぜ」
病室を出る間際、また彼女と目が合った。今度はちょっと不安そうな顔をしてこちらを見ていた。
こういうのを後ろ髪を引かれる、というのだろうか。そう思いながら僕はみんなと一緒に病室を出た。
「克也のやつ、鈴鹿とヨリを戻したがってたからな」
――え?
一人の男子生徒の思いがけない言葉は僕を焦らせた。
「でもさ、普通、病院で告る?」
もう一人の女子生徒が言った。
――ヨリを戻すって・・・?
例えようもない不安な気持ちが僕の心を襲った。
僕たちは病室の近くの談話コーナーで武田君を待つことにした。武田君はなかなか病室から出て来なかった。実際は五、六分しかたっていなかったかもしれないが、僕には異常に長い時間に感じられた。
僕は徐々に増幅してくる不安な気持ちを抑えられなくなっていた。
――いったい何を話してるんだろう? 二人で。
「克也遅くね?」
クラスメートの男子が痺れを切らしたように言った。
「おいおい、二人で抱き合ってキスでもしてんじゃねえの」
――ちょっ、ちょっと待ってよ・・・。
津波のような猛烈な不安感が僕を襲った。
「オレこっそり覗いてこようかな」
もう一人の男子生徒が言った。
「止めなよ」
女子生徒が止めに入ったが、その男子生徒は病室のほうへと向かっていった。
男子生徒がこっそり病室のドアを開けようとしたその時、ガラリとドアが突然開いた。
「おう! なんだ?」
武田君は何事も無かったように出てきた。
「おう! どうだった?」
男子生徒は興味津々に訊いた。
「ふっ・・・」
武田君は不敵な笑いを浮かべた。
「何だよ、その笑い?」
――何? どういうこと?
「みんな、ハンバーガー食いに行こうぜ! おごったる!」
武田君が明るくみんなを誘った。
「おいおい。ホントかよ。おごってくれんのか?」
そして武田君は僕のほうを見てニイッと笑った。
「名倉君も来るだろ?」
突然の誘いに僕は戸惑った。
「あ、ごめんね。今日はこれから用事があって・・・」
「そうか・・分かった。じゃあ、またな」
僕は思わず断ってしまった。用事なんかないのに。でも彼の誘いに乗ったら、何か負けたというような気分になる気がしたのだ。
武田君は複雑な表情をしていた。その表情を見て、僕はさらに複雑な気持ちになった。
――彼女と何を話したんだろう? まさか、また彼女と・・・。
何なんだ、このモヤモヤした気持ちは。女々しく考え込む自分にイライラした。
だったら自分も武田君みたいに積極的になればいいじゃないか、そう自分を叱咤した。
でも、なれるわけがないと心の中で呟き、失笑した。
そうやってすぐに諦めてしまうのが僕だった。
そんな僕が嫌だった。
僕はその日、とても落ち込んだ気持ちを引きずったまま病院をあとにした。