翌日、拓海は寝ている母親を起こさないように家を出た。そして新宿に向かい、携帯ショップに足を運んだ。
 携帯ショップでは休日ということもあってか先客が多数いて一時間近く待たされた。やっと順番が回って来て、携帯電話の電源が点かないことを伝えると店員は早速確認してくれた。
 しばらくして、水没してしまったようだと教えられた。店員は続けて修理に出してもデータを復旧できるかどうかわからないと説明した。
 拓海は鈴が携帯電話の修理を望んでいなかったことを母親から聞いてしまったので、また日を改めて修理をお願いすることにした。

 続いて向かった西松探偵事務所は繁華街から少し外れたところにあった。
 事務所はビルの三階に入っていて、一階と二階は空きテナントとなっている。

 拓海はビルを見上げて、本当にここが西松探偵事務所なのかと不安になった。

 ビルは全体的に古く、外壁には蔓が這っていた。目立つところに看板はなくて、三階も空きテナントのように見えた。それでも階段横にあるポストには西松探偵事務所というラベルが貼られていたので、目的地で間違いないようだった。
 エレベーターがないため、階段を使って上へ行く。そして三階に辿り着くと、西松探偵事務所という銀色のプレートがかかった扉が目に入った。

 拓海は少し緊張しながら扉の横にあるチャイムを押した。しかし故障しているのか、押しごたえがほとんどなく音も聞こえなかったため直接扉をノックした。そしてしばらく待ってみたものの、中からはなんの応答もなく、思い切って扉を開いてみた。
 途端に、強い煙草のにおいに包まれる。
 普段煙草を吸う人間が身近にいない拓海はそのにおいに耐えきれず、思わず鼻を摘まんだ。

「いらっしゃい。ご用件は?」

 拓海が鼻を摘んだまま固まっていると、中から男が近づいてきた。男は火の点いた煙草を片手に、やる気のなさそうな声で拓海にたずねた。
 拓海は男の姿を見て、こいつが鈴と接触していた人間なのだろうと瞬時にわかった。
 男は黒いスーツを着て、明るい茶髪をホストみたいに盛っている。ネクタイは首からぶらさげているだけで、第二ボタンどころかシャツのボタンはすべて外れていた。
 知り合いがこんな男と一緒にいるところを見かけたら、当然戸惑うはずだ。
 知恵の後輩が不安がっていたのも理解できた。

「……あの、妹が、ここの事務所の名刺を持っていて、それで、今日来ました」

「妹? とりあえず中に入れよ。珈琲でもいれてやるよ」

「いや、お気遣いなく。俺、珈琲飲めないんです」

「ガキかよ。まぁいい。どちらにしても中に入れ」

 男に促されて、拓海はとりあえず事務所の中に入る。事務所の中は殺風景で、真ん中にローテーブルとソファーが二つあるだけだった。奥の部屋はわからないが、とても真面目に探偵業務をしている様子ではなかった。

「座って」

 拓海は男に言われるがままソファーに座って、ポケットから事務所の名刺を取り出した。そして改めて名刺の名前を確認した。

「俺は、町村拓海といいます。あなたは、西松彼方さんで合っていますか?」

「そうだよ」

 男、西松彼方は向かい側のソファーに座って足を組む。話しながらも煙草を吸うのを止めないで、気怠そうに煙を吐き出した。
 拓海は煙草のにおいに慣れずに、気分が悪くなった。長く居るつもりはなくて、さっそく本題を切り出した。

「あなたは俺の妹、町村鈴と会ったことがありますか?」

「さぁね。妹の年齢は?」

「中学三年生、十四歳です」

「十四? 俺に十四歳の友人なんていないはずだけどなぁ」

「友人かどうかを聞いているわけじゃないです。鈴はもしかして、あなたの依頼者だったんじゃないですか? あなたと鈴が一緒にいるところを知り合いが見かけているんです。実際に鈴はあなたの名刺を持っていた。だから全くの無関係なわけがないんです。どこで鈴と出会ったのか教えてください。誤魔化しても無駄です。場合によっては警察に相談しますよ」

「はぁ? なんでいきなり警察が出てくるんだよ。俺は悪いことも、良いこともしない主義なんだよ。毎日事務所に来て煙草を吸って家に帰る。基本的に人とほとんど接することはない。お前の妹のことは、本当に知らねぇんだよ」

「じゃあ、なんで鈴は名刺を持っていたんですか?」

「形だけの営業として、年に何度か名刺をばらまいている。その時偶然手に入れたんじゃないのか? 当然配った相手を一々覚えてなんていねぇからな」

「それにしても、奇妙です。妹はレシートとかはちゃんと処分しているのに、この名刺だけは処分せずに残していました。それは、なぜだと思いますか?」

「例えば、名刺のデザインを気に入ったとか?」

「ふざけないでください。そもそも、ここは探偵事務所なんですよね? 普段どんな業務をやっているんですか? 本当に毎日煙草を吸っているだけなんですか?」

 拓海は西松のふざけた態度に苛立っていた。
 西松は話せば話すほど胡散臭い男で、鈴とは関係なく警察に通報したほうがいいように思えた。

「いったいなにを期待していたんだよ。俺なんかに夢を見るなって。勝手に期待して失望されたような顔をされても困るわ。探偵事務所なんてそこらじゅうにある。俺がわざわざ働かなくても優秀な探偵さんたちが日々人々の悩みを解決してくれているんだよ。お前も本当に解決したい依頼があるなら、他の事務所を当たればいいだろ。ここはただの飾り事務所だ。俺は名ばかりの代表。このビルを所有しているのは俺の祖父でね、つまり税金対策だよ。客が来ても基本的には居留守を使っている。普通はチャイムを鳴らして反応がない時点で帰るんだけど、たまにしつこいやつがいるんだよなぁ。まぁなににしたって、俺は依頼を受けない。その上で聞くが、妹は家出でもしているのか? どうしてここの事務所の名刺を持っているのかなんて本人に聞けば済む話だろ」

「家出なんてする子ではありません」

「家出していないにしても、なにか事件に巻き込まれているんだろ。じゃなきゃ、お兄ちゃんがわざわざこんな所まで来るはずがない。最近の中学生は結構過激だからなぁ。欲望は大人とあまり変わりねぇよ。ただガキはガキだ。一人じゃ自分の尻拭いもできない。俺は小学生も中学生も高校生も嫌いなんだよ。てか、人間が嫌いだ。人混みも当然嫌いで、新宿なんて人がうじゃうじゃいる町に事務所を構えているのを自分でもおかしく思う。どこかに引っ越してぇな。犬と猫しかいない世界で生きてぇよ」

 プカプカと煙草を吸いながら、西松の話はだんだん逸れていく。
 駄目人間を前にして、拓海はいよいよこの場にいる意味がわからなくなった。