「……私の名前は、松尾玲だよ」
「ふーん。今更どうでもいいけど」
「住所を聞かなくてもいいの? 電話番号とかも知りたいんでしょ?」
「そんなもん既に秋山が調べているだろ」
「どうやって?」
「警察とか?」
「まさか冗談だよね? あのオジさん、秋山って人、警察には連絡しないからって最初に言っていたよ」
「俺の言葉は信じないくせに、どうして秋山のことは信じるんだよ。てか、警察が怖いのか?」
「そりゃあ、怖いよ。悪いことをしていなくても、警察の車を見かけるとドキドキする」
「それってなにかをしでかしている意識があるからこそじゃないか?」
「あなたは警察が怖くないの?」
「警察はお友達だからな。大人の都合もあって、あいつらは俺に手を出せねぇよ」
「なんか、警察以上にあなたが怖いんだけど」
西松は鼻で笑う。そもそも警察なんかと比べるなと心の中で突っ込んだ。
それからしばらくの間くだらないことを話していると、窓から少し強めの風が引き込んできた。玲が身体を擦っていたので、西松はソファーから立ち上がって窓を閉めようとした。そしてなんとなく視線を道路に向けたら、見覚えのある車が停まっていた。玲の迎えはとっくに来ていたようだ。西松は窓を閉めずに、玲の名前を呼んだ。
「玲、迎えが来てるぞ。もう帰っていい」
「本当に帰らせていいの? あなたの仕事は私から情報を聞き出すことでしょ?」
「名前はもう聞いた。住所もわかってる」
「だからどうしてわかるのよ」
「大人はお前が思っている以上にすごいってことだよ」
納得がいかなそうに、玲は足をバタつかせる。迎えが来たことを伝えたのになかなか動こうとしなかった。
「私、親と喧嘩したの。それで、家を飛び出して来た」
「つまり家出か」
「熱が冷めたら直ぐに戻るつもりだったんだけどね。だけどどこかで財布をなくしちゃって、電車に乗れなくなった。友達に来てもらおうかと思ったら、スマホの電源が切れて、もう最悪だった」
「そういう時は警察に駆け込めよ。それか、駅員に事情を話せば千円くらい立て替えてくれるんじゃないのか」
「私もそうするべきだと思ったよ。だけど、なんかダサいじゃん。親と喧嘩して家を出て一文無しになりましたって説明するのは恥ずかしくて嫌だったんだ。結果親を呼ばれてもまずいし。それでスマホを充電できる場所を探してうろちょろしていたら、変な男の人たちに声をかけられて車に連れ込まれそうになったの。だけどギリギリであのオジさん、秋山さんに助けられた。秋山さんは私に警戒心を与えないように明るい場所に移動して自分のやっている仕事の説明をしてくれてさ、世の中にはこんな良い人がいるんだって感動しちゃったよ」
「助けてもらって、良い人だとわかって、どうして名乗れなかったんだよ」
「なんで、だろうね。やっぱり恥ずかしかったのかな。一人で空回りしている自分が。馬鹿みたいに弱い自分が。すごい人を前にして、余計に惨めな気持ちになった。それに、私は嘘をつくのが下手で、一度口を開いたら不満をすべて吐き出してしまいそうだった。ただでさえ恥ずかしい状況なのに、本当の自分を晒せるわけがないでしょ」
「今は恥ずかしくないのか?」
「そっちが色々話してくれたから、やっぱり自分も話すべきかと思って」
「俺に心を開いたところで、俺の話はだいたい嘘だけどな」
「えっ。嘘だったの?」
「どうして真実だと思うんだよ。初対面で普通そんな重い話はしないって冷静に考えたらわかるだろ」
「でもさ、八割嘘でできているなら、二割は真実ってことでしょ。だったらやっぱり、本当かもしれない」
「まぁ結局なにが真実なのかわからないんだから信じたいことだけ信じればいいんじゃねぇか。それで、下でおっさんが待ってるって言っただろ。いい加減帰れよ」
玲はすっきりとした顔をして、ようやく立ち上がる。それから西松と一緒に事務所を出た。
西松たちが車に近づくと、助手席の窓が開いた。運転席に乗っていたのは秋山だった。西松と秋山は目を合わせて、お互い頷く。そして西松は秋山に玲の住所を書いたメモを渡した。玲は後頭部座席の扉を開けて、自ら車に乗り込んだ。
「じゃあな。もう家出なんてダサいことするなよ」
「家出はしないけど、今度事務所に遊びに行くかも」
「ふざけんなよ。もう二度と顔を見せるな」
「また話を聞かせてね」
「今度じゃなくて今俺の話を聞けよ」
「とりあえず、今日はありがとうございました」
玲が西松にお礼を言い終えたタイミングで、秋山が窓を閉めた。玲はちょっとだけ驚いた顔をして前方の秋山を見る。秋山は玲の視線を気にとめずに車を発進させた。
玲が手を振っていたので、西松も軽く手を振り返す。車が見えなくなってから事務所に戻った。
その日、玲の他に二人の子供が事務所にやって来た。連れて来たのは秋山とは違う人間で、仕事はスムーズに終わった。そして始発の電車で帰宅した。