「そういえばまだ自己紹介をしていなかったな。俺の名前は西松彼方。西松探偵事務所の代表だ。今後関わることはないと思うから忘れていいぞ」

 適当な自己紹介を終えた西松は、胸ポケットから煙草の箱を取り出して吸おうか吸わないか悩んだ。
 役割は果たしたとはいえ、今が仕事中であるという意識はある。悩んだ末、机の上に放り投げた。
 子供の前で煙草を吸うなと以前秋山から注意を受けた。子供と関係なく秋山は嫌煙家らしい。今煙草を吸えば、その臭いが玲に移ってしまうだろう。秋山など怖くないが、後で余計な愚痴を言われるのは面倒だった。

「どうでもいいが、名前って結構重要だよな。今度から名前を聞かれたら、偽名でもいいから適当に名乗っておけよ。名前がわかっているかわかっていないかでだいぶ相手の態度が変わってくるぞ。呼べる名前があるってだけで、不思議と安心するもんなんだよ」

(……西松彼方は、偽名なの?)

 玲は西松の話を聞いて、心の中でたずねてきた。

「ちなみに俺の本名は羽鳥彼方だ」

 西松はその心を読んでいることをバレないようにして答えた。

(名字がニセモノ? 事務所の名前は西松探偵事務所だから、それに合わせているの?)

「ちなみに未婚だよ。そして複雑なことに、彼方って名前も後付けなんだよ」

(なにそれ。意味がわからないし)

 名前の話をすると、玲は結構食いついてきた。
 そもそも玲は最初から西松に興味を抱いていた。西松の姿を見た瞬間、探偵じゃなくてホストだろと疑って、話している間に危ない男だと決めつけ警戒していた。それでもだんだん緊張は解けてきて、感じていた恐怖心はより強い好奇心に変わっていく。そしてつい口を開きそうになっているのがわかって、西松はもう少し話を続けてみることにした。

「なぁ、あんたは家族が好きか?」

 西松の問いに玲は目を瞬かせる。そして咄嗟にその答えを導き出そうとして、家族のことを思い出していた。玲は両親と三人暮しらしい。優しい父親と、明るい母親。家出をして家族を心配させているだろうことを、玲は今頃になって後悔し始めていた。

「俺さ、羽鳥家の養子なんだよ。本当の両親は、どこにいるかわからない」

(そんな話を、どうして出会ったばかりの私に言うのよ。てか、この人の話は、どこまで本当なんだろう)

 玲の呟きに、西松は思わず吹き出しそうになる。疑う姿はまるで拓海みたいだなと思った。拓海は西松の言葉をまず疑う癖があった。玲もやっぱり信じてくれない。自分はそんなに嘘つきに見えるかなと、少し複雑でもあった。

「昔々、とある企業の跡取りとして大切に育てられていた男がいたんだ。男は二十歳になり、友人たちと共にキャバクラに行った。女の子としゃべることに慣れていない男は、酒の力を借りてベラベラに酔っぱらってしまった。すっかりできあがった男は、自分の人生観を店の女の子たちに語るというウザいことをして失笑されていた。けれどただ一人、そんなウザい男の話に真剣に耳を傾けてくれていた女の子がいた。名前はリサ。その日が初出勤で、初めての接客に緊張していた。同じく初めてのキャバクラで大失敗をした男はリサに共感を抱いた。それから二人は店の隅で話に花を咲かせた。ほとんどは男がしゃべっていたけれど、リサはやっぱり嬉しそうに耳を傾けてくれた。そしてリサは男に聞いた。子供は好きかと。男は答えた。大好きだと」

 馬鹿な男だと、西松は冷めた気持ちで話していた。一方で玲は真剣に聞いてくれている。西松は玲と向かい合っているうちに、リサに惹かれた男の気持ちが少しだけわかるような気がした。

「翌日、男は二日酔いになって、夕方から活動を始めた。食べ物を買ってこようと家を出ると、扉の直ぐ傍で小さな子供が蹲っているのを見つけた。五歳くらいの、一見女にも見える男の子は、男に一枚のメッセージカードを差し出した。“どうかカナちゃんをよろしくお願いします。西松より”カードにはそう書かれていた」

 玲の瞳が、おもしろいように見開く。同時にそれまで頑なに閉じていた口も開かれたけれど、声は出てこなかった。

「どうして俺が西松を名乗っているのかわかるか?」

(どうしてって、それは、もしかして……)

「俺がその時の子供だったからだよ」

(嘘でしょ。つまりこの人は、捨てられたってこと?)

 信じたくないようで、玲は口をパクパクと動かす。声に出さずとも、感情はすべて顔に出てしまっていた。

「捨てられた。だけどちゃんと保護された。それから色々あって、男が俺を引き取ってくれた。今となっては変な大人に預けられるよりは良かったって思うよ。あの母親の元で過ごすよりも、ずっと良かったんだと思う。あそこではろくな大人になれなかったと思うからな」

 西松はしみじみと過去を思い出す。色々あったけれど、それなりにやってきたという自信があった。だから話していて特別に悲しい気持ちになることはなかった。だけど玲に西松が歩んでいた人生のことがわかるわけがない。ほんの一部を聞いて、ひどくショックを受けていた。