西松は他人の思考が覗けるけれど、知りたいことをなんでも知れるわけじゃない。精神的に不安定になっている人間の思考はやっぱり不安定で、覗けても間違っている可能性があった。
 少女は緊張していて、あちこちに思考が飛んでいる。質問してもその質問の意味について考えることを拒否しようとしていたから、なかなか正確な名前を知れずにいた。

「あのおっさんに素直について来たってことは、あのおっさんが悪いやつじゃないのはわかっているようだな。あのおっさんは、昼間飲食店で働いて、夜はふらふらと彷徨う少年少女を保護する活動をしている。ご苦労なことだよ。俺にはとても真似できないね。一人二人を相手にするならまだしも、保護する対象が多過ぎるんだよ。毎晩毎晩、きりがない。あのおっさんの意識がいくら高くても手に負えない現状だ。だから実際に保護するのは、彷徨う少年少女たちの中でもより危険性を感じた子たちを優先している。聞くところによると、あんたは結構危険な状況にあっていたみたいだな。もしも連れ去られていたらどうしたんだよ。ほんと、幸運だったよ。あのおっさんに保護されて。だから全力で感謝しろよ。その様子じゃ、名前を教えるどころか感謝の言葉も口にしていないんだろ。マジでふざけてるよな。あのさ、あんたが保護されたのと同じ時間に、他に危険な目にあっている子供がいたかもしれないってわかるか? 救われなかった子どもについてどう思う?」

 少女が口を開かないのをいいことに、西松は好き勝手に言う。いくら考えないようにしたって耳に入ってくる言葉に全く動揺しないでいられるはずがなく、少女の瞳はグラグラと揺れていた。

「あんたが早くおっさんに名前を教えていれば、おっさんは早く街に戻ることができたんだよ。そしたら今頃他の誰かが救われていたはずだ。だけどあんたがいつまでも口を割らなかったから時間を無駄にしてしまった。躾には飴と鞭を使い分けるのが重要だ。ちなみに俺は鞭だ。あのおっさんみたいに甘くない。あんたから身元を聞き出す。それが俺の仕事だ。どうだ。そろそろ口を割る気になってきたか? 場合によっては痛い目にあうぜ」

 西松をじっと見つめていた少女の頭がゆっくりと下がっていく。机の上にあった空の灰皿に、少女の顔が映り込んでいた。

「もう一度聞く。名前は?」

 少女は答えない。なるべくなにも考えないようにして、この時間をやり過ごそうとしている。西松がそれを許すわけがなく、質問を繰り返す。

「ほら、名前を言え」

 開けっ放しだった窓の外から通行人の騒ぎ声が聞こえてきた。遠くでサイレンが鳴っている。外の騒がしさとは対照的に、事務所の空気は重く沈んでいた。

「もしかして、名前がないのかよ」

 そろそろ落ちる頃だろうと思っていたのに、まだその時は来ない。
西松はだんだん面倒くさくなって投げやりに言った。

「だったら、俺がつけてやろうか」

 西松が続けてふざけると、少女が小さく震える。そして唇を噛み締めた。

(松尾、玲だよ)

 ついに、落ちた。

 少女、松尾玲は頑なな抵抗を諦め、心の中で呟いた。
 西松は頬を緩めてしまいそうになってなんとか耐える。松尾玲に落ちたという認識はない。まさか思考を覗かれてしまっているなどと思いもしないはずだった。

「じゃあ質問を変える。住んでいる場所は?」

 玲は杉並区だけど、教えるわけがないじゃんと心の中で言う。一度落ちて、玲は西松の言葉にちゃんと耳を傾け一応は質問に対する答えを頭で考えるようになっていた。だから具体的な住所を聞き出すのも簡単だった。それから電話番号と親の名前、年齢などを聞き出して、西松は紙にメモを取った。玲は俯いてしまっているため、西松のメモがその目に入ることはなかった。

 いくつかの重要な情報を引き出し、西松の仕事は終わった。
 一応は仕事モードに入っていた西松は肩の力を抜いて、壁にかかる時計に目を向けた。玲が事務所に来てからまだ十分も経っていない。秋山が迎えに来るまでどう時間を潰すべきかと玲に視線を戻した。
 玲は人形のようにじっとしている。心は少し開いたものの、口を開くつもりはないようだ。事務所の空気は悪いままで、西松は煙草を吸いたくなった。

「わかったよ。そんなにしゃべりたくないなら、しゃべらなくてもいい。俺はもう知らねぇよ」

 西松はわざとらしく両手を上げて、降参の意を表す。玲はあっさり仕事を投げ出した西松に驚いたのか目を丸くさせていた。

「心配するなよ。俺以外の誰かがあんたの身元を突きとめてくれるから。ここを出て、次に連れて行かれるのは警察かな」

 警察という言葉に、玲は小さく唾を飲み込んでいた。そしてそれは困ると、声に出さずに言う。ここに来て明らかな動揺を見せる玲に、西松は最初から警察の名前を出せば簡単だったのだと気づいた。