「仮に夜仕事をしているとして、具体的にどんなことをしているんですか?」
「迷える子羊を救っているんだよ」
「本気で言っているならかなりキモいですよ」
「お前、さっきから俺にたいしてひどいよな。そんなに俺が信じられないなら今日は事務所に泊まれよ。そして俺の働きぶりを見て土下座して謝れ」
「急な泊まりとか無理ですから。また機会があったらぜひその働きぶりを見せてください」
西松をまだ疑っている様子の拓海はとりあえずビラを配ることを諦めたようだ。拓海はちょっとトイレに行って来ますと言って事務所の奥に消えた。同時に、その心の声が西松に届いた。
(面談、どうしようかな)
少し離れたところで、その心の声が聞こえなくなるわけじゃない。
西松には拓海の心の声の他、隣のビルの美容院の店員と客の心の声が聞こえていて、事務所の前の道路を行き交う人々の声も聞こえていた。
拓海はともかく、普段は口に出せない毒を吐いている人間が多い。
ムカつく同僚。嫌いな客。苛立つ他人のSNS。
本人に聞こえないのをいいことに、心の中では好き勝手に言っていた。
それらの声を聞きながら、もしも彼らに自分がすべてを聞いていることを教えたらどうなるだろうかと西松は想像する。
きっと事務所に近づく人間が今よりも少なくなるだろうと思って、それもそれでいいような気がした。
お前のすべてを知っている。
西松のその一言で、顔を青ざめさせて逃げ出した人間がこれまで何人もいた。しかし中には図太い人間がいて、恐れながらも繰り返し接触してきた。そんな人間の一人が、今では西松のビジネスパートナーになっている。
西松は夜からの仕事のことを考えて、少しだけ気が重くなった。
「西松さん、暇なので買い出しに行ってきます。なにか必要なものがありますか?」
「煙草」
トイレから戻ってきた拓海にたずねられて、西松は咄嗟に答える。すると拓海は露骨に眉を顰めていた。
「馬鹿ですか。普通に買えませんよ。俺は未成年ですからね。それで、真面目になにが必要ですか?」
「そうだなぁ。珈琲豆でも買ってこいよ。あと、適当に夕飯」
「珈琲はいつもの店ですよね。食べ物は、和食がいいですか? 洋食がいいですか?」
「今日は中華の気分だ」
「了解です」
「寄り道するなよ」
「しませんよ」
「変な人間に絡まれたら大声で叫べよ。ここから十メートル圏内なら助けに行ってやらないこともない」
西松が冗談のつもりで言うと、拓海は真面目な顔をして頷いた。
「西松さんなら直ぐに俺の居場所を特定できそうですね。迷子になっても探し出してもらえる」
「迷子になる予定があるのかよ」
「ないですけど、便利だなって思って。てか、西松さんは探偵よりも警察のほうがむいているんじゃないですか。その力を使えば、逃走犯とか誘拐犯とかも直ぐに見つけられそうです」
「警察とか融通が利かねぇだろ。上下関係うぜぇし、日中ダラダラできねぇ。それに俺は拓海が思っているほど万能でもねぇからな。実際捜査であんまり役に立つ気がしねぇよ。犯人に遠くへ行かれたらどうしようもねぇし、数万人いる人間の中の一人の人間の声をピンポイントで拾うのも難しい。普段接している人間の声ならばまだしも、顔も見たことのない犯人の声なんてそう特定できねぇよ」
「へぇ。能力を使いこなすのも難しそうですね。そういえば鈴の能力にも制限があったっけ。能力が消えることはないとして、これからその能力が伸びるってことはありえるんですか?」
「さぁ。どうだろうな。鈴のケースは特殊なんだよ。俺が自然系だとすると、鈴はある意味で人工系だからな。おそらくスタートさえなければ目覚めることがなかった。今後伸びる、伸びないはスタート次第だろ」
「じゃあ仮にスタートがなくなれば、鈴の能力は消えますかね」
「なくなってみなければわからねぇな。てか、なくならねぇだろ。今やかなり重要なアプリなんだろ」
やっぱり簡単じゃないですよねと拓海は軽く頷く。一見は平然としていたけれど、頭の中では色々と考えていた。
(試してみる価値はあるんじゃないか)
スタートをなくす方法を考える拓海に、西松は内心ゾッとする。
拓海は鈴のために西松の元で働くことを決めていて、ちょくちょく西松から情報を引き出そうとしていた。そして鈴のためにどうするのが正解かと、常に考えている。今はスタートを消してしまえばいいと極端な考えに辿り着いて胸を熱くさせていた。
拓海は西松に思考を読まれているのをわかっていて、だから西松は馬鹿じゃねぇのと突っ込もうと思ったけれどできなかった。
最近拓海の様子がどこかおかしい。色々なことを考え過ぎて、危うい結論を出してしまう。今や鈴よりも拓海のほうが不安定に思えていた。だから西松は拓海をからかって遊びながらも、拓海のことを気にしていた。そして妙な方向に暴走しそうな拓海を止めようと決めていたけれど、なかなか上手くいかなくて焦る。
人の思考は常に変化しているし、本人が不安定だと思考もぐちゃぐちゃで、いったいなにを望んでいるのかわかりにくい。
拓海が本当にスタートをなくすことを望んでいるとしたら流石にふざけている場合ではないと口を紡いだ。
当の拓海が西松の葛藤に気づくことはない。西松が上手く反応できないでいると、今アホみたいな顔をしていますよと軽く嫌味を言って事務所を出て行った。
拓海がいなくなって急に事務所が静まり返る。
実際西松には色々な音が聞こえていたけれど、どれも所詮は雑音だった。