「お客さん、来ませんね」

 町村拓海が事務所の扉に目を向けて言う。西松彼方はそれを聞いて、いつものことだろと鼻で笑った。

「笑っている場合じゃないですよ。少しは現状に焦ってください」

 拓海は事務所の扉から視線を逸らして、蔑むような目で西松を見た。
 染めていない黒い髪に特に乱れのない服装。まずまずの偏差値の高校に通っている拓海は、基本的に真面目な性格をしている。
 遅刻はしないし、言われたことはしっかりこなす。拓海の西松探偵事務所での主な仕事は掃除で、毎回手を抜くことはないし、事務所を綺麗に保つ工夫もしていた。掃除用具や芳香剤を家から持ち込んで、西松にゴミの分別の仕方を度々指導することもあった。だけど妹の鈴曰く、拓海は特別に掃除好きというわけではないようだった。拓海の部屋は虫が沸かないほどに整えられているだけで、本格的な掃除は一年に一度くらいしかしないらしい。それも母親に注意されてようやくするそうだ。そんな拓海が事務所の掃除を一生懸命やっているのは、給料を貰うからにはちゃんと働かなければという意識があるからだった。
 事務所に客が来なければ、西松自身ほとんどやることがない。そんな状態でアルバイトの拓海にたいした仕事が回ってくるわけがなかった。だから拓海は掃除に打ち込むしかなかった。
 拓海のおかげで、事務所はいつも清潔に保たれている。雇い始めてから西松の中の拓海の評価は上がっていた。拓海はちょっと生意気だけれど、真面目に働くし、なにかといいパシリになっていた。一方、拓海の中の西松の評価は下がっていて、西松はそのことに気づいていた。

「西松さん、暇なら一緒にビラを配りに行きませんか?」

 拓海は再び事務所の扉を見つめて大きなため息をついた。そして西松のほうを振り向いて、決心したような顔で提案した。

「あ? なんでビラなんて配らなきゃいけねぇんだよ」

「なんでかなんて一々説明しなくてもわかっているはずですよね。俺がここに勤め始めてからまだ一人の客も出迎えていないんですけど。この事務所、このままじゃかなりヤバいと思いますよ。早めに対策を打たないと、本気で笑えない事態になりそうです」

(この事務所、潰れるのも時間の問題だろ)

 言葉だけじゃなく、空気を介しても事務所の存続を危ぶむ拓海の気持ちが伝わってくる。
 一人で焦る拓海を前に、西松は笑うしかなかった。

「余計な心配をしなくても経営は順調だ。拓海が知らないだけで、この事務所は結構繁盛している。俺の仕事は拓海が帰ってからが本番なんだよ」

「今客が来なくてどうして俺がいない間に客が来ると思えますか。街柄的に一人くらい夜に客が来ることはあるかもしれないけど、繁盛とかありえないでしょ。つくならもっとましな嘘をついてください」

「嘘じゃねぇし。全部本当のことだし」

 拓海の視線は異様に冷たい。

(なにが本当のことだよ。あんたは普段嘘ばかりついているだろ。基本的に信用できないんだよ)

 拓海は正直で、考えていることがそのまま顔に出てしまうことが多い。その心の声を聞かなくてもすべて伝わってきた。
 西松は拓海の顔を見ているうちにオオカミ少年の童話を思い出した。そしてまさに俺はオオカミ少年状態だなと他人事のように思いやっぱり笑ってしまった。

「だからなにを笑っているんですか。俺は本気でこの事務所と西松さんのことを心配しているんですよ」

「心配してくれるのは有難いが、過度な心配は有難迷惑だ。とにかくビラは配らねぇ。面倒な客に来られても迷惑なだけだ。客を追い返すのだって楽じゃねぇんだよ」

「だから西松さんに客を選んでいる余裕なんてないでしょ。経営を安定させるには地道な努力が重要なんですよ」

「拓海に事務所経営のなにがわかる。そもそもターゲット層は最初から決まっているんだよ」

「ターゲット層って、本当の本当に客が来ているってことですか? 俺がいない間って深夜ですか?」

「ああ。動きがあるのは夜だ。遅くまで未成年の拓海に働かせるわけにはいかない。だから拓海に俺の働いている姿を見せられないのが残念だよ」

「……もしかして、俺の目が届かないところでなにか悪いことをしているんじゃないですよね?」

「おい。どうしてそういう考えに行きつく。流石に傷つくわ。俺が犯罪に手を染めるような人間に見えるか?」

 西松が軽いノリでたずねると、拓海はしばらく無言になった。そして小さく首を縦に振った後、慌てて横に振り直した。

(正直、怪しく見えるのはしかたないだろ。だけど、そんなに悪い人間ではないはずだ)

 拓海の考えていることがわかって、西松は複雑な気持ちになった。
 なんだかんだ拓海に信頼されているのを感じる。拓海からは未だに冷たい視線を向けられているのに、胸の奥がむず痒かった。