朝から雨が降っていた。
 鈴は前日と同じように家を出る時に拓海から傘を受け取った。拓海は鈴を学校まで送ろうとしたけれど、鈴は断って一人で登校した。傘は鈴の存在を隠し、鈴も他の生徒の顔を見ずに校門を潜ることができた。そしてみな手が塞がっているせいか、スタートの声もほとんど耳に入ってこなかった。

 教室に入ると、クラスメートがそわそわしていた。
 鈴は前日自分が倒れてしまったせいだろうかと思ったが、しばらく様子をうかがっているうちにどうやら違うことに気づいた。
 鈴が教室に足を踏み入れても、クラスメートはあまり気にしている様子ではなかった。それから鈴をそっちのけでこそこそと話していた。
 スタートでやり取りをしている生徒もいて、鈴はその内容に耳を傾けた。

――ねぇ、結局誰がお金を盗んだんだと思う?

――やっぱ加賀美さんなんじゃないの?
  どう考えても怪しいじゃん

――だけど本人は否定していたよね

――そりゃあ否定するでしょ
  私がやりましたって素直に告白するタイプじゃないよ
  このまま白を切るつもりだと思う。

――だとしてもみんな加賀美さんが犯人だと思っているから何事もなかったかのように振る舞うのは無理だよ
  これで加賀美さんの地位も落ちるね

 次々と入ってくる声の処理が追いつかないで、内容が頭からすり抜けそうになる。窓に激しく当たる雨の音も邪魔だった。それでも鈴は聞こえた声から必死に状況を把握しようとした。そしてわかったのは昨日教室で誰かの財布が盗まれたということだった。更にクラスメートの多くは、亜里沙が犯人だと思っているようだった。

――町村さんのこともあるし加賀美さんのグループボロボロじゃん

――町村さんといえばさ、加賀美さんにはめられたって噂あるけど本当なのかな?

 自身の話題になってドキリと心臓が鳴る。
 教室の空気は悪いが、どうやら鈴にとって悪い状況ではないようだった。

 他に情報がほしいと鈴が周りに意識を集中させていると、噂の的となっている亜里沙が登校してきた。その瞬間、教室の中にいたクラスメートは一斉に口を紡いだ。鈴は前日のことを思い出して、下唇を噛み締めた。昨日のターゲットは自分だったけれど、今日は違う。喜んでいいのかわからなくて、だけど確かにホッとしていた。

 亜里沙は誰とも目を合わせずに席についた。詩織は既に自分の席に座っていて、それからしばらくして彩夏が教室に入ってきた。

――あーあ、今日も空気が悪いね。

――そりゃそうでしょ。泥棒が同じ空間にいるんだもん。むしろ昨日よりも悪いよ。

 詩織と彩夏は亜里沙に近づこうとしないで、スタートでメッセージを送り合う。昨日の朝までは亜里沙と三人で仲良くしていたのに、もう亜里沙だけ友達ではなくなっていた。そのことに、鈴はショックを受けた。あまりに薄情に思えて、亜里沙のこともよくわからなくなった。鈴の知っている亜里沙は悪戯好きではあったけれど、犯罪に手を染めるような子ではなかった。

――てか、鈴のことどう思う?
  私さ、亜里沙が私たちのスタートの内容を鈴に流していたんじゃないかと思うんだよね

――私も一晩考えて、鈴は亜里沙にはめられたんじゃないかって思った
  誰かに教えられない限りスタートの内容を鈴が知れるわけがないもんね

――そういえば亜里沙、鈴のことを前からウザがっていたよね
  マザコンキモいって言ってた

――あれは今思えば僻みだね
  亜里沙の両親って毎日喧嘩ばっからしいよ
  亜里沙自身も親と上手くいっていないらしい
  だから母親と仲が良い鈴が羨ましかったんだよ

――だとしたらどうする?

――どうするって?

――もう鈴を排除する必要はないでしょ
  亜里沙とは一緒にいたくないけれど鈴のことは許してあげてもいいかなって思う

――そうだね
  私、もともと鈴のことは嫌いじゃなかったんだよ
  むしろ最近は亜里沙の横暴さにムカついてた
  あいつ超自己中じゃん
  ちょっと可愛いからって調子に乗り過ぎ
  鈴のほうがよっぽど友達想いだったよ。

 二人の視線が自分に向いた気がして、鈴は思わず目を伏せる。そして一度心臓を落ち着かせてから前方の席にいる亜里沙の様子を観察した。
 亜里沙は背筋を伸ばして席に座っていた。手に携帯電話を持っていたが、弄ろうとはしない。亜里沙には詩織と彩夏やその他のクラスメートのスタートの声は聞こえていないはずだった。だけどなんとなく察しはついているのだろうと鈴は思った。

 しばらくして担任が教室に入ってきた。硬い表情をした担任は、亜里沙のことを見て、それから鈴のことを見た。その瞬間、ほんの少しだけ表情が緩む。
 まるでもう大丈夫だと言われているようで、鈴は寒気がした。
 いったい、なにが大丈夫なのか。今この教室の中で一番追い詰められているのは亜里沙のはずなのに、どうして亜里沙のことだけを見てあげないのかと担任が理解できなかった。

「町村さん、体調はどう?」

 担任にたずねられて鈴は声を出さずに頷いた。担任はそれをプラスの意味にとったのか、良かったわと呟いた。

「町村さんは昨日、午前中で早退してしまったから知らないわよね。実は昨日の体育の時間に、佐藤さんのお財布が何者かに盗まれてしまったの。他のクラスの生徒が盗んだ可能性もあるけれど、この教室の中の誰かが盗んだ可能性もある。もしも犯人に心当たりがある人は、私にスタートで教えるということで、昨日は解散したの。それでね、昨日のうちに、たくさんのメッセージが届いたわ。そしてある一人の生徒の名前が浮かんだ」

 担任は、鈴から視線を逸らして、教室全体に目を向ける。そして大きくため息をついた。