数十分後、拓海が保健室に飛び込んできた。
拓海は息を切らしていて、どうやら走って来たようだった。鈴は申し訳なくなって拓海に謝った。拓海は鈴が比較的元気だと知って胸をなでおろしていた。
二人は学校を出て、拓海は当然のように自宅に帰ろうとしていた。鈴はそんな拓海にこれから西松探偵事務所に行こうと提案した。
「は? 西松探偵事務所に行きたい? いきなりどうした。教室で倒れた時に頭をぶったのか? だったら事務所どころじゃねぇだろ。病院に行くぞ」
拓海は鈴の頭に触れてどこか怪我をしていないか確認してきた。しかし特に怪我をしているわけではない鈴は、拓海の手を押し退ける。そして怪我はしていないと拓海に言った。
「だけど倒れたのは確かだろ。一応医者に診てもらったほうがいい」
「保健室で眠って体調はだいぶ良くなった。先生も病院に行くほどではないだろうって言ってたし、大丈夫だよ」
「お前の大丈夫は信用ならねぇんだよ。病院には行かないにしても、今日は家に帰るぞ。事務所に行くのは別の日でいいだろ」
「でもさ、お兄ちゃん、今日バイトなんでしょ。どうせ新宿に行くんだから連れて行ってよ」
「駄目だ」
「なんで?」
「お前が電車の中で倒れる姿が想像できる。俺は保護者として、それがわかって連れて行けない」
「保護者って、子供扱いしないでよ。私、一人でも行くから。てか、もう本当に大丈夫なんだよ。今なら走って駅まで行けそう。こんなに元気になったのに、電車の中で倒れるわけがないじゃん」
「元気に見えるからこそおかしく思うんだよ。お前は今、色々重なって変に興奮している状態なんじゃないのか? 俺はな、西松さんに会うことを反対しているわけじゃない。そこまでの道のりが心配なんだよ。駅には人がたくさん集まる。新宿なんて、もうわけがわからない数の人がいる。そんなところに行けば、声の数も半場ないはずだ」
拓海の言葉に、鈴はドキリとした。
鈴は狭い教室の中で交差する声に耐えきれずに倒れた。だけどあれは、自分に関係する声だったから頭の中がぐるぐるしただけだと、心の中で言い訳をした。
「以前西松さんと新宿駅に行ったことがある。電車に乗った西松さんの顔は真っ青だった。ずっと前からその能力がある西松さんですらああなんだ。ただでさえ体調が悪い鈴が耐えられるわけがない」
拓海の言いたいことはわかる。だけど鈴は、今日どうしても西松に会いたかった。
「私は西松さんとは違う。人の心のすべてが聞こえるわけじゃない。それに今は放課後じゃないから学生が少なくて、電車や駅でスタートを使ってメッセージのやり取りをしている人も少ないと思う」
「てか、なんでそんなに西松さんに会いたいんだよ。お礼は手紙でって、言っていたじゃないか」
「手紙じゃ、意味はない。直接会わなきゃいけないの。私、このままじゃ駄目だと思う。今日も教室で失敗した。きっとまた同じことを繰り返してしまう。もっと、強くならなきゃいけない。だから西松さんにこれからどうやって生きるべきか教えてもらいたい。今の状態から抜け出すヒントがほしいの」
「西松さんに期待するなよ。あの人はたぶん、自分のことでいっぱいいっぱいだ」
「そのいっぱいいっぱいな姿を見ることで、私の気持ちは楽になる気がする。きっと西松さんよりはマシだと思えるから」
他人と比べて、自分のほうがマシだと考える。それで安心するのはどうなんだろうと鈴自身疑問に思う。拓海も呆れたような顔をしていたけれど、結局は新宿へ行くことを認めてくれた。
平日の午前中とはいえ、駅には一定数の人がいる。常にスタートの声が耳に入って来たが、鈴はあまり気にならなかった。周りを執拗に気にしているのは拓海のほうで、携帯電話を使用している人間から鈴をなるべく遠ざけようとしていた。けれどどこにいても携帯電話を手にしている人間の姿が目に入った。鈴は電車に揺られながら、ぼんやりと周りの人間を観察して、手元が寂しく感じた。
新宿では声が波のように押し寄せてきた。声以前に、西松に近づいていると思うと鈴はだんだん怖くなってきた。
西松に会いにいこうと決めた時、自分は確かに興奮状態にあったのだと、今更気づく。
冷静になって、西松に会いたいという気持ちよりも西松への恐怖心のほうが大きくなっていた。
鈴が途中で立ち止まりそうになると、拓海はなにも言わずに手を取って引っ張ってくれた。
しばらく歩くと視界に西松探偵事務所が入っているらしいビルが見えてきた。鈴が西松探偵事務所を訪れるのは、今回が初めてだった。だから拓海が指差したビルを見て、あまりの古さに驚いた。母親が知ったら直ぐに拓海と西松の関係を切らせようとするだろうレベルの建物だった。そして鈴の目にビルはひどく気味悪く映った。それは古いことだけが原因ではない。ビルの中に、直ぐそこに、西松がいると思うと、足が、手が、震えてきた。
鈴はここで逃げてはいけないと自分に言い聞かせながら、震えを止める術を知らなかった。
拓海は鈴の震えに気づいたようで、ビルの前で足を止めた。
「鈴、やっぱり具合が悪いのか?」
拓海は鈴の顔を覗き込み、優しい声でたずねる。鈴は首を小さく横に振った。そしてもう限界だと思った。
「……違う。ただ、西松さんに会うのは、無理っぽい」
「せっかくここまで来たのにどうしてだよ」
「むしろ、私のほうが不思議だよ。お兄ちゃんは、どうして西松さんと普通に会って、話せるの?」
「どうしてって、あの人は、結構おもしろい」
「おもしろいって、なにその理由。お兄ちゃんは、もっと警戒したほうがいいよ。西松さんはさ、危険なんだよ。なにを企んでいるのかわからないのに、こっちのすべては知られてしまう。それって、怖過ぎると思わない?」
「だったら、なんでここに来ようと思ったんだ。鈴が自分で来たいって言ったんだろ。西松さんに教えてもらいたいことがあったんだろ。あの言葉は嘘だったのか?」
「嘘じゃない。だけど、簡単なことじゃなかった。気合いでは、どうにもならない。私、今、ものすごく怖いの。西松さんに、心の中を見られてしまうのが怖くてしかたない」
「てか、そんなの今更だろ。俺なんて、いつも垂れ流しだ。それでよくからかわれている」
「だからどうしてお兄ちゃんは平気でいられるの? 心を、読まれるんだよ。全部、知られてしまうんだよ。私は、そんなの耐えられない。ここに来るまでは、なんとかなるかもって思ってたけど、やっぱり無理だよ。もう嫌だ。なにもかもが嫌だ。どうして私ばっかりこんな想いをしなきゃいけないんだろう。声さえ聞こえなければ、西松さんの存在も知らずにいられたのに。友達だって、失わずにいられたはずなのに。こんなに、こんなに怖い想いをせずに済んだのに」
鈴は勢いのまま感情をはき出す。拓海は唖然とした顔で聞いていた。鈴はそんな拓海を見て、この人は本当に心を読まれることに抵抗がないのだと気づいた。
同じ兄妹なのに、どうしてこんなにも違うのか。もしもスタートの声が聞こえるのが拓海だったとしたら、もっと上手く振る舞っていたのだろう。
鈴は西松だけじゃなく、自分とはあまりにも違い過ぎる拓海のことも怖くなってきた。
鈴と拓海が見つめ合っていると、頭上から窓が開く音がした。
「おい、お前ら、そんなところでなにをしているんだよ」
鈴と拓海は視線を上に向ける。三階の窓から、西松が顔を出していた。そしてニヤニヤと笑みを浮かべながら二人にたずねた。
「まぁ、なにをしていたかなんて、既に知っているんだけどな。残念なことに、すべて筒抜けなんだよ。隠そうとすればするだけ、心の中で考えていることが強く伝わってしまっているぞ」
言われて、鈴はその場から駆け出したくなった。けれど拓海に手を掴まれたままで、かなわない。せめてもの抵抗をと、視線を足元に落とした。西松はそんな鈴の行動がおもしろいのか、ケタケタと声を出して笑った。
「そうかそうか。そんなに俺が怖いか。俺としてはなかなか愉快な展開だ。久しぶりに楽しくてしかたない。いいぞ。もっと怖がれ」
「ちょっと、西松さん、心の声が聞こえてしまっているにしても、聞こえない振りをするとか、大人の対応はできないんですか? ただでさえ怖がっている鈴を余計に怖がらせないでください」
鈴はなにも言い返せずに、地面を睨みつける。鈴の代わりに拓海が西松に文句を言った。
「できないんじゃない。しないんだよ」
「だとしたら最悪だろ」
「俺が最悪なことなんて、それこそ最初から知っていただろ。で、俺が最悪だとして、拓海だってどうなんだよ。妹が傷つくとわかって、どうしてここに連れて来たんだよ」
「それは」
「ああ。言わなくても、わかってる。鈴本人がここに来たがっていたんだ。俺と自分を比べて、自分のほうがマシだと思えれば前向きになれるような気がしていたんだろ。お前ら兄妹似ているな。拓海も一見駄目人間な俺がそれなりに生き延びているのを知って、自分もあまり肩に力を入れなくても生きられると安堵していた。それにしてもお前らさ、どうして俺を下に見たがるんだよ。俺とお前らは、本来比べものにならないほどの差があるんだよ。マシもなにもあるか。そもそも上か下か根拠のない格付けをして空しくならないのかよ」
「えっと、あの、俺は……」
拓海は指摘されて、言葉を詰まらせる。鈴は自分のことを言われる以上に、拓海が悪く言われているのが心苦しくなった。
「それにしても、ガキのお守りは大変だな。たいして可愛くねぇガキに振り回されてばかりの拓海には同情するよ。珈琲でもご馳走してやる。上がって来いよ」
「……鈴は?」
「放っておけ。そいつはショックを受けてしばらくは動けないだろう。バイトが終わる時間までそこに放置しておけばいい」
「そんなこと、できるわけがないです。鈴を連れて、一旦帰ります」
「へぇ。そうかよ。改めてお兄ちゃんって大変だな。ほんと、同情するわ。というか、鈴、お前、兄貴に迷惑をかけているという自覚があるのか? 兄貴のためにとっととそこから消えろよ。いくらガキでも中学生なんだろ。だったら一人で家に帰れるはずだ。それともママを呼び出すか? ならば電話を貸してやるよ。ママー助けてーって泣きながら電話してみろよ」
西松のふざけた言葉は、鈴と拓海だけの耳に届いているわけではない。
西松が事務所の窓から顔を出してから通行人の視線が集まるのを鈴は感じていた。
あいつらはいったいなんの話をしているのだろうか。それぞれどういう関係なのか。
好奇心を隠さない視線に、背中が、胸が、痛くなる。
目立つのは西松にとっても良くない状況なのではないかと思うけれど、西松は止まらなかった。
「ここまで一方的に言われても、だんまりか。黙っていれば済むと思っているなら、大きな間違いだぞ。望みがあるのならば、声に出さなきゃ意味がないんだよ。この世でお前の心情を懸命に察してくれるのは兄貴や母親ぐらいだからな。多くの人間は、お前なんかに興味はないんだよ」
西松の声は、大きかった。たぶん、わざと大きく話している。いったい誰に聞かせたい声なのか。
鈴はゆっくりと顔を上げる。すると、西松と視線がかち合った。
「興味があるかないかは関係なく、俺にはお前の声が聞こえている。だけど俺はお前の母親でも兄貴でもないから、察してなんかやらない。それどころか、泣かしてやりたくなるよ。お前が嫌だ嫌だと思うほど、他の誰かにすべてを晒してやりたくなっちまう。そんなの、地獄だろ。怖くて怖くてたまらない。どこかに消えてしまいたくなる。だったら、実際に消えればいいんだ。そしてもう二度と俺の前に現れるな。家で大好きなママに守ってもらえばいい。お兄ちゃんのことは心配しなくても大丈夫だ。拓海はお前よりもずっと強いからな」
いったいどこまで人を馬鹿にすれば気が済むのか。一方的に言われて平気なわけがない。どうしたら、この男を痛い目にあわせることができるのだろう。
身体が、異様に熱くなる。
鈴は怯えながらも、心の底からどうしようもない怒りが湧き上がり、西松をぐちゃぐちゃにしてやりたくなった。
そんな考えも西松には筒抜けで、おかしそうに鼻で笑う。
鈴はついに耐えられなくなり、西松が再びなにかを言う前に思い切って口を開いた。
「私、私のほうが、あんたのことを、泣かせてやりたいんだから」
あまり大きくはない。だけどはっきりとした自分の声に、鈴は驚く。
これまでだって当たり前に声は出ていたのに、久しぶりに自分の声を聞いた気がした。
「へぇ? それで?」
「でも、今のままじゃ、無理だと思う。私は、あんたと違って、なにもできないから」
弱みなんて見せたくないのが本心だけれど、色々と手遅れで、西松にはどう足掻いても隠し切れない。だったら保健室で校医が話していたように、どうせ知られてしまうのならば先に曝け出してしまったほうがいいのではないかと思った。すると西松は、それが正解だというように目を細めた。
「そうだな。じゃあ、どうする?」
「あんたみたいに、なりたい。どうしたら、あんたのようになれるの?」
あるいは、どうすれば拓海のようになれるのか。
それも口で言わなければいけないのだろうと思ったが、言葉は続かなかった。
「アホか。俺になんてなれるわけがないだろ。拓海にだってなれない。お前はお前だろ」
「だけど私は、今の自分が嫌いなの。今直ぐに、違う誰かになりたい」
「そう焦るなよ。そもそも今の自分がいつまでも続くと思うな。たった一日で、なにかが大きく変わることがある。スタートの声が聞こえなかった自分。聞こえるようになった自分。いつまた変わるかわからない。ただお前がお前自身である以上、俺になれる可能性はなくても、なりたいと思える自分にはなれるはずだ。でもそれは簡単なことじゃない。だから悩むのは当然だ。お前が俺や他人に敵意を向けたり、色々なことを恐れたりするのも、当たり前なんだよ。お前は今、そういう時間を過ごしている」
鈴が意識を変えたら、西松の攻撃も止む。それどころか散々馬鹿にしていた今の自分を受け止めてくれるような口調に、鈴は戸惑った。
「……そういう時間は、いつ終わるの?」
「さぁな。知らねぇよ。にしても、中学生って若いよな。若いからこそ、俺は中学生や高校生が嫌いだ」
「嫌いって、私だって、好きで中学生なわけじゃないから」
「好きでも嫌いでも、今中学生だという事実は大きい。嫉妬しちまうよ。中学生、高校生ってだけで、色んな可能性がありそうなのがずるい。ほんの少し意識を変えるだけで、簡単に化けてしまえそうで怖い。そしてちょっと、楽しみにも思う。なぁ鈴、なれるものなら、俺はお前になりたいんだからな」
西松は空を見上げて、人をからかうのとは違う笑みを浮かべる。それまでよりも柔らかくなった声は、鈴の耳に心地よく響いた。
ほんの一瞬で、西松は変わり、鈴は自分自身の変化を感じる。ついさっきまでいったいなにに怒っていたのだろうかと、急に気が抜けてしまった。
西松の言葉をすべて理解するのは難しくて、色々疑問に思うことがあった。 ただわかったのは、西松は思っていたほど冷たい人間ではないかもしれないということだった。そして少しだけ、西松が抱える恐れを見た。それによって、鈴自身が西松に対して抱いていた恐れは小さくなった。そして鈴はやっぱり西松よりも自分はマシかもしれないと思って、だけど心は落ち着かなかった。
こんな自分は嫌だと、改めて思う。
ならばどんな自分になりたいのか。
ふと考えてみた未来には西松がいて、なぜか一緒に笑っていた。
西松は言いたいことだけ言って満足したのか、顔を引っ込めて窓を閉める。それから鈴と拓海は西松の事務所の中に入った。
拓海は事務所に入ると奥の部屋から紙袋を持って来た。そしてそれを鈴に差し出した。鈴は携帯会社のロゴが入った紙袋の中になにが入っているのか直ぐに理解した。拓海は少し照れ臭そうにしていて、西松はニヤニヤ笑っていた。お兄ちゃんは可愛い妹のために頑張って働いたんだよなぁと拓海をからかう西松の言葉で、鈴は拓海がなぜアルバイトを始めたのかもわかった。
ありがとうと心の中で呟けば、声に出せよと拓海と西松に突っ込まれる。
鈴は笑って、拓海に、そして西松にお礼を言った。
朝から雨が降っていた。
鈴は前日と同じように家を出る時に拓海から傘を受け取った。拓海は鈴を学校まで送ろうとしたけれど、鈴は断って一人で登校した。傘は鈴の存在を隠し、鈴も他の生徒の顔を見ずに校門を潜ることができた。そしてみな手が塞がっているせいか、スタートの声もほとんど耳に入ってこなかった。
教室に入ると、クラスメートがそわそわしていた。
鈴は前日自分が倒れてしまったせいだろうかと思ったが、しばらく様子をうかがっているうちにどうやら違うことに気づいた。
鈴が教室に足を踏み入れても、クラスメートはあまり気にしている様子ではなかった。それから鈴をそっちのけでこそこそと話していた。
スタートでやり取りをしている生徒もいて、鈴はその内容に耳を傾けた。
――ねぇ、結局誰がお金を盗んだんだと思う?
――やっぱ加賀美さんなんじゃないの?
どう考えても怪しいじゃん
――だけど本人は否定していたよね
――そりゃあ否定するでしょ
私がやりましたって素直に告白するタイプじゃないよ
このまま白を切るつもりだと思う。
――だとしてもみんな加賀美さんが犯人だと思っているから何事もなかったかのように振る舞うのは無理だよ
これで加賀美さんの地位も落ちるね
次々と入ってくる声の処理が追いつかないで、内容が頭からすり抜けそうになる。窓に激しく当たる雨の音も邪魔だった。それでも鈴は聞こえた声から必死に状況を把握しようとした。そしてわかったのは昨日教室で誰かの財布が盗まれたということだった。更にクラスメートの多くは、亜里沙が犯人だと思っているようだった。
――町村さんのこともあるし加賀美さんのグループボロボロじゃん
――町村さんといえばさ、加賀美さんにはめられたって噂あるけど本当なのかな?
自身の話題になってドキリと心臓が鳴る。
教室の空気は悪いが、どうやら鈴にとって悪い状況ではないようだった。
他に情報がほしいと鈴が周りに意識を集中させていると、噂の的となっている亜里沙が登校してきた。その瞬間、教室の中にいたクラスメートは一斉に口を紡いだ。鈴は前日のことを思い出して、下唇を噛み締めた。昨日のターゲットは自分だったけれど、今日は違う。喜んでいいのかわからなくて、だけど確かにホッとしていた。
亜里沙は誰とも目を合わせずに席についた。詩織は既に自分の席に座っていて、それからしばらくして彩夏が教室に入ってきた。
――あーあ、今日も空気が悪いね。
――そりゃそうでしょ。泥棒が同じ空間にいるんだもん。むしろ昨日よりも悪いよ。
詩織と彩夏は亜里沙に近づこうとしないで、スタートでメッセージを送り合う。昨日の朝までは亜里沙と三人で仲良くしていたのに、もう亜里沙だけ友達ではなくなっていた。そのことに、鈴はショックを受けた。あまりに薄情に思えて、亜里沙のこともよくわからなくなった。鈴の知っている亜里沙は悪戯好きではあったけれど、犯罪に手を染めるような子ではなかった。
――てか、鈴のことどう思う?
私さ、亜里沙が私たちのスタートの内容を鈴に流していたんじゃないかと思うんだよね
――私も一晩考えて、鈴は亜里沙にはめられたんじゃないかって思った
誰かに教えられない限りスタートの内容を鈴が知れるわけがないもんね
――そういえば亜里沙、鈴のことを前からウザがっていたよね
マザコンキモいって言ってた
――あれは今思えば僻みだね
亜里沙の両親って毎日喧嘩ばっからしいよ
亜里沙自身も親と上手くいっていないらしい
だから母親と仲が良い鈴が羨ましかったんだよ
――だとしたらどうする?
――どうするって?
――もう鈴を排除する必要はないでしょ
亜里沙とは一緒にいたくないけれど鈴のことは許してあげてもいいかなって思う
――そうだね
私、もともと鈴のことは嫌いじゃなかったんだよ
むしろ最近は亜里沙の横暴さにムカついてた
あいつ超自己中じゃん
ちょっと可愛いからって調子に乗り過ぎ
鈴のほうがよっぽど友達想いだったよ。
二人の視線が自分に向いた気がして、鈴は思わず目を伏せる。そして一度心臓を落ち着かせてから前方の席にいる亜里沙の様子を観察した。
亜里沙は背筋を伸ばして席に座っていた。手に携帯電話を持っていたが、弄ろうとはしない。亜里沙には詩織と彩夏やその他のクラスメートのスタートの声は聞こえていないはずだった。だけどなんとなく察しはついているのだろうと鈴は思った。
しばらくして担任が教室に入ってきた。硬い表情をした担任は、亜里沙のことを見て、それから鈴のことを見た。その瞬間、ほんの少しだけ表情が緩む。
まるでもう大丈夫だと言われているようで、鈴は寒気がした。
いったい、なにが大丈夫なのか。今この教室の中で一番追い詰められているのは亜里沙のはずなのに、どうして亜里沙のことだけを見てあげないのかと担任が理解できなかった。
「町村さん、体調はどう?」
担任にたずねられて鈴は声を出さずに頷いた。担任はそれをプラスの意味にとったのか、良かったわと呟いた。
「町村さんは昨日、午前中で早退してしまったから知らないわよね。実は昨日の体育の時間に、佐藤さんのお財布が何者かに盗まれてしまったの。他のクラスの生徒が盗んだ可能性もあるけれど、この教室の中の誰かが盗んだ可能性もある。もしも犯人に心当たりがある人は、私にスタートで教えるということで、昨日は解散したの。それでね、昨日のうちに、たくさんのメッセージが届いたわ。そしてある一人の生徒の名前が浮かんだ」
担任は、鈴から視線を逸らして、教室全体に目を向ける。そして大きくため息をついた。
「残念よ。このクラスの生徒が盗んだなんて、信じたくなかった。本当は、本人が正直に打ち明けてくれればいいと思っていたんだけど、本人から連絡はなかったわ」
――ヤバいヤバいマジでヤバい
ほんとヤバいんだけどどうしよう
財布を盗まれた被害者である佐藤が、隣のクラスの生徒にスタートでメッセージを送っている。
――もしかして修羅場ってる?
直ぐに相手から返信があって、佐藤も机の下で素早く手を動かしていた。
――うんヤバい超修羅場ってる
空気ヤバい
私超被害者扱いで心が痛い。
――結局ただの勘違いだったのにどうするつもりなの?
鈴は佐藤たちのスタートの会話を聞いて、佐藤の背中を二度見した。
佐藤は背中を丸めて、一見は元気を失くしているようだった。だけどスタート上の佐藤は、教室の誰よりもはしゃいでいた。
「私から送ったメッセージは既読無視。電話にも出なかった。それはつまり、弁解できないということなのかしら」
佐藤たちのスタートの内容に気づいていない担任は、深刻そうな顔をして話を続ける。佐藤はその間も携帯電話を弄るのを止めなかった。
――それ秘密だよ
絶対に誰にも言っちゃ駄目だよ
財布は普通に家にあったって今更みんなに打ち明けられないよ
「あの時間、忘れ物をしたと一人で教室に戻っていたそうね。四組で授業をしていた山田先生も、あなたのことを目撃したと言っていたわ。あの時間は、あなただけしか廊下を歩いていなかったって教えてもらったの」
――てか騒ぎになった時に家にある可能性は少しも考えなかったの?
「私と、佐藤さんと、あなたの三人だけで話をつけられる問題じゃない。クラスメート全員が知っている。だからこの時間に、みんなの前で、あなたは謝罪する必要があるのよ。あなたのためにも、ここでしっかりこの問題を終わらせたほうがいいのよ」
――だって昨日に限って大金が入っていて見当たらなくて焦ったんだもん
――確かに九千円がなくて焦るのはわかるよ
あんたが昨日財布を忘れたせいでライブのチケット買えなかったし最悪だった
――ほんとごめんって
だけどまだチケットは余っているみたいで良かったじゃん
――そういう問題じゃない
――埋め合わせは今度する
――埋め合わせをすべきなのは私にじゃないでしょ
「ねぇ、加賀美さん、悪いのはあなたなのに、どうして私をそんなに睨みつけているの?」
――そうだね
加賀美さんごめんなさいって心の中ではもう何百万回も謝ってるよ
――心の中でいくら謝罪したって加賀美さんには永遠に届かないから
加賀美さんほんとに可哀想
犯人扱いされたことに傷ついて学校に来なくなるかもね
――それマジで困るわ
だけど私には今ここで真実を打ち明ける勇気はないんです
本当のことがバレたら私こそ学校に行けなくなる
だから絶対に誰にも言わないでよ。
――言わないよ
私には直接関係ないことだしね
――ほんと頼むよ
あんたのこと信じているからね
私たちは一生親友だよ
困った時はお互い様なんだよ
――都合の良い時だけ親友面するなし
とりあえず放課後なにか奢ってね
「加賀美さんがなにをやったのか、もうみんな知っているのよ」
被害者とされている佐藤に目を向けている者はいない。亜里沙に教室中の視線が集まっている。亜里沙はクラスメートの視線を流して、担任のことだけを睨みつけていた。
斜め後ろから見える亜里沙の横顔を見て、鈴は小さく息を呑む。その眼差しから亜里沙の強い意志を感じ取った。亜里沙は逃げずに担任と向き合おうとしていた。
「加賀美さん、立ちなさい」
担任に言われても、亜里沙は動かない。鈴は机の下で握られた亜里沙の拳が震えているのに気づいた。
いくら戦う意思があっても、亜里沙には身の潔白を証明する術がなかった。
違うと言ったところで、きっと誰も信じてくれない。それがわかっているからこそ、亜里沙はなにも言わないのだろう。それでもこのままというわけにはいかない。
ならば亜里沙はどうするべきなのか。
鈴は前日の自分と亜里沙の姿を重ね合わせて、誰かに助けてほしいと強く願っていたことを思い出した。
亜里沙と担任がにらみ合っている間に、雨脚が更に激しくなる。佐藤はまだスタートでやり取りをしていたけれど、その内容はもう鈴の耳に入らなかった。それよりも、次に担任が発する言葉が気になった。そして亜里沙が最初になにを言うのか、聞き逃さないようにと耳を澄ませた。
「佐藤さんに、謝るの」
耳の奥が、キンと鳴る。担任の声は、今まで聞こえたどんな声よりもかき消したい声だった。
担任を筆頭に佐藤を除いたクラスメートは亜里沙が犯人だと決めつけてしまっている。そんな中真実を知ってしまった鈴は、やっぱり机の下で拳を握り締めた。そして亜里沙に同情する以前に、担任への怒りが抑えられなくなっていた。
「ほら、早く! 加賀美さん! みんなの前で謝罪しなさい!」
「先生!」
鈴は机を両手で叩いて、席を立ち上がった。
担任が、亜里沙が、他の生徒が、驚いたような表情で鈴を見た。
「町村、さん? いったいどうしたの?」
担任は顔を引きつらせて鈴にたずねた。
「加賀美さんを一方的に責めるのは、おかしいと思います。どこに加賀美さんが財布を盗んだ証拠があるんですか?」
鈴の考えはまとまっていなかったけれど、自然と口が動いた。
言葉と一緒に、これまで溜め込んでいたものが噴き出るのを感じた。
「体育の時間、加賀美さんは教室に戻った。山田先生も、見ていた。だったら、加賀美さんしかいないじゃないの」
三組の教室は二階の突き当たりにある。四組の教室に隣接する廊下を横切らなければ、三組には行けなかった。だから山田先生の証言は重要だった。
「その時間に教室に戻ったのは加賀美さんだけかもしれない。それを山田先生に目撃されていた。それで、どうして加賀美さんが財布を盗み出したと言い切れるんですか? 他の生徒も、山田先生も、加賀美さんが佐藤さんの財布を盗んだ瞬間を見ていたわけではないんですよね? 決定的な証拠はないのに、どうして加賀美さんがやったと決めつけられるんですか?」
「ごちゃごちゃ考えなくても、これまでの話を聞いていればわかるでしょ。加賀美さんしかいないのよ。その時盗めたのは、加賀美さんだけなのよ」
「本当に、そうですか? もっと冷静になってください。ちゃんとみんなの声を聞いてください」
「だから、昨日のうちにスタートでみんなの話を聞いて結論を出したのよ」
「それが駄目なんです。スタートを使うんじゃなくて、相手の目を見て、生の声を聞くべきだったと思うんです。スタートの内容が、どうしてすべてだと思えるんですか? 嘘をついている人。適当に答えていた人。相手の目を見てやり取りをしていれば、ちゃんとなにが真実なのか気づけていたと思います」
「もう、なんなのよ。意味がわかんない。頭痛がしてきた。町村さんは事件の時学校にいなかったんだから、余計な発言をして混乱させないでほしいわ。あなたはただでさえクラスに迷惑をかけているのよ。だから黙っていなさい」
「黙ってなんかいられません。それに、いなくたって、わかりますよ。加賀美さんは、無実です」
「あなたこそ、どうしてそう言い切れるのよ。もしかして他に犯人がいると思っているの?」
「いいえ。犯人なんて、どこにもいないと思っています」
「ほんと、なにを言っているのよ」
「犯人なんて、いないんです。それなのに先生は、最初からない罪を加賀美さんに着せようとしている。そんなの、いけないと思います」
「あー、もういいわ。わかったわよ。言いたいことは、なんとなくわかったから、もう十分よ。町村さんって、前から被害妄想が激しいところがあったわよね。事故にあってから、より精神的に不安定になってしまったんでしょ。他人の問題と、自分の問題の区別がつかなくなってしまっているんじゃないかしら。仲が良かった加賀美さんを助けたいという気持ちはわかるわ。けれどこんなやり方では加賀美さんを救うことはできないのよ。大丈夫。私がちゃんとフォローするから。私だって、加賀美さんのことを心配しているのよ。町村さんは、自分自身のことを考えて。体調が悪いならば、今からでも保健室に行ってきなさい。今日も早退していいわよ。帰る時は、くれぐれも車に気をつけなさいよ」
いきなり口出しをされて担任が苛立っているのが鈴にはわかった。ただ亜里沙にするように強くは出られないようだ。登校拒否のことや事故のことがあってか、担任は腫物を扱うように鈴に接していた。そんな表面的な対応を、いったいいつまで続ける気なのか。どうせ感情を隠しきれないならば、いっそのことはっきりと言ってしまえばいいのにと鈴は思った。
鈴はもう知っているのだ。担任が、普段なにを考えて生きているのか知ってしまっていた。
(――面倒くさい生徒がいるの)
あの日。鈴が久しぶりに登校した日。普段生徒たちの前では絶対に口にしないだろう担任の声が聞こえた。鈴はその面倒くさい生徒は自分なのだと気づいて、頭の中が真っ白になった。
友人同士で悪口や陰口を言い合うのは、必ずしも珍しいことではない。声の種類は違っていたけれど、鈴はこれまでの人生で友人から悪口を言われたことが何度もあった。その時はやはり傷ついて、だけどちゃんと割り切ることができていた。
スタートの声が聞こえるようになって、内容以前に現実を受け入れるのに時間がかかった。ただでさえ混乱している中で聞こえる友人たちの悪口に酷く傷ついた。それでもなんとか乗り切らなければいけないと思って、頭に浮かんだのは母親と拓海と担任の顔だった。
母親と拓海にはただでさえ心配させていて迷惑をかけたくない。だからあの日、担任に相談しようと決めて登校したのだ。そして耳に入った担任の声は鈴を絶望させるのに十分だった。
パニックになった鈴は学校を飛び出して、トラックにひかれた。そして病室で目を覚ました時、生まれ変わったように感じた。だけど実際は生まれ変わってなんていなかった。
時間が進んでいたとしても、状況はあまり変わっていなかった。それから自分自身が変わるしかないのだと西松から教えらえて、また教室に戻ってきた。
前とは違って、今の鈴にはちゃんと逃げ場があった。誰かの言葉に傷ついたら、西松の元に向かえばいいと思っている。西松はもっとひどい言葉を投げかけてくるかもしれないけれど、言い返してやればいいのだ。
そう、言い返してやればいい。
「私、先生の言う通り、被害妄想が激しいんだと思います。人が私のことをどう思っているのかいつも気になっている。視線や言葉にものすごく敏感に反応してしまう。だから、周りの人の考えを、気持ちを、よく想像しているんです。先生が私のことをどう思っているのかも、自分なりに考えていました。先生、私、ずっと先生に謝りたかったんです。迷惑をかけてばかりで、ごめんなさい。面倒くさい生徒で、ごめんなさい」
「ちょっと、どうしちゃったの? 私は町村さんのことを面倒だなんて思っていないわ。そもそも、今はそんな話をしていたわけじゃないでしょ」
鈴の謝罪に、担任は焦る。鈴の前まで移動して、その口を塞ごうとしているのか手を伸ばしてきた。けれど次の瞬間、ショートホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。
担任は手を下して、少し冷静になったのか辺りを見渡した。そして大きくため息をついた。
「ああ。もうこんな時間。話が逸れてしまったけれど、盗難の件はまた放課後にします。町村さんはこの後、私と一緒に職員室に来なさい。じっくりと話し合いましょう」
鈴は素直に頷く。担任はそれを確認して、早歩きで教室を出て行った。鈴も担任に続いて教室を出て行こうとして、途中で足を止めた。そして唖然とした顔で鈴と担任のやり取りを見ていた佐藤に声をかけた。
「佐藤さん、財布が盗まれた本人なのに、やけに平然としているよね。盗まれたの、大金なんでしょ? 加賀美さんが犯人だと思っているのならば、加賀美さんにお金を返してもらわなければ、気が収まらないはずだよね」
「えっ。私は、その、別に……」
「それで、今財布の中にある九千円は、新しく親にもらったの?」
鈴が言った瞬間、佐藤の表情が凍りついた。そして佐藤は手に握っていた携帯電話を床に落とした。その瞬間多くの生徒は携帯電話に意識を奪われていたけれど、佐藤本人は鈴から目を逸らせないでいた。
「良かったね。とりあえず、ライブのチケットは買えるみたいで、本当に、良かったよ。お金もチケットも、なくさないようにね」
静まり返った教室で、鈴の声はよく響いた。
亜里沙が、詩織が、みんなが、佐藤に訝しげな目を向ける。次のターゲットは佐藤だ。佐藤は多少痛い目を見るべきだと鈴は思っている。だけどこれで佐藤がいじめられるようになったらどうしようかと不安にもなった。
いったい、どうするのが正解だったのか。
鈴に今わかるのは、ますます逃げるわけにはいかなくなったということだった。そして鈴は、どんなに迷惑がられようと、恐れられようと、このクラスにいてやろうと決めた。
廊下に出ると、担任の姿はそこになかった。向かった場所はわかっていて、鈴はゆっくりと担任が通っただろう道を辿る。
ジメジメとした校舎は、上昇していた鈴の熱を冷ましてくれた。そして教室から遠ざかっていく程、言いようのない虚しさに襲われた。
前に進むしかないとわかっていても、楽しかった過去を振り返るのをやめられない。
鈴は短期間に多くを失い過ぎていた。
色々なことを思い出して涙が出そうになった時、突然ポケットの中で携帯電話が震えた。スタートを介して送られたメッセージの内容はディスプレイを確認する前に耳に入り、鈴は思わず足を止めた。
まさか。信じられない。
雨は相変わらず降り続いていて、雨音は校舎中に響いている。鈴は空耳かと思い、慌ててポケットから携帯電話を取り出した。そしてありがとうとたった一言だけのメッセージを目にして、悲しいだけじゃない涙が零れ落ちた。
「お客さん、来ませんね」
町村拓海が事務所の扉に目を向けて言う。西松彼方はそれを聞いて、いつものことだろと鼻で笑った。
「笑っている場合じゃないですよ。少しは現状に焦ってください」
拓海は事務所の扉から視線を逸らして、蔑むような目で西松を見た。
染めていない黒い髪に特に乱れのない服装。まずまずの偏差値の高校に通っている拓海は、基本的に真面目な性格をしている。
遅刻はしないし、言われたことはしっかりこなす。拓海の西松探偵事務所での主な仕事は掃除で、毎回手を抜くことはないし、事務所を綺麗に保つ工夫もしていた。掃除用具や芳香剤を家から持ち込んで、西松にゴミの分別の仕方を度々指導することもあった。だけど妹の鈴曰く、拓海は特別に掃除好きというわけではないようだった。拓海の部屋は虫が沸かないほどに整えられているだけで、本格的な掃除は一年に一度くらいしかしないらしい。それも母親に注意されてようやくするそうだ。そんな拓海が事務所の掃除を一生懸命やっているのは、給料を貰うからにはちゃんと働かなければという意識があるからだった。
事務所に客が来なければ、西松自身ほとんどやることがない。そんな状態でアルバイトの拓海にたいした仕事が回ってくるわけがなかった。だから拓海は掃除に打ち込むしかなかった。
拓海のおかげで、事務所はいつも清潔に保たれている。雇い始めてから西松の中の拓海の評価は上がっていた。拓海はちょっと生意気だけれど、真面目に働くし、なにかといいパシリになっていた。一方、拓海の中の西松の評価は下がっていて、西松はそのことに気づいていた。
「西松さん、暇なら一緒にビラを配りに行きませんか?」
拓海は再び事務所の扉を見つめて大きなため息をついた。そして西松のほうを振り向いて、決心したような顔で提案した。
「あ? なんでビラなんて配らなきゃいけねぇんだよ」
「なんでかなんて一々説明しなくてもわかっているはずですよね。俺がここに勤め始めてからまだ一人の客も出迎えていないんですけど。この事務所、このままじゃかなりヤバいと思いますよ。早めに対策を打たないと、本気で笑えない事態になりそうです」
(この事務所、潰れるのも時間の問題だろ)
言葉だけじゃなく、空気を介しても事務所の存続を危ぶむ拓海の気持ちが伝わってくる。
一人で焦る拓海を前に、西松は笑うしかなかった。
「余計な心配をしなくても経営は順調だ。拓海が知らないだけで、この事務所は結構繁盛している。俺の仕事は拓海が帰ってからが本番なんだよ」
「今客が来なくてどうして俺がいない間に客が来ると思えますか。街柄的に一人くらい夜に客が来ることはあるかもしれないけど、繁盛とかありえないでしょ。つくならもっとましな嘘をついてください」
「嘘じゃねぇし。全部本当のことだし」
拓海の視線は異様に冷たい。
(なにが本当のことだよ。あんたは普段嘘ばかりついているだろ。基本的に信用できないんだよ)
拓海は正直で、考えていることがそのまま顔に出てしまうことが多い。その心の声を聞かなくてもすべて伝わってきた。
西松は拓海の顔を見ているうちにオオカミ少年の童話を思い出した。そしてまさに俺はオオカミ少年状態だなと他人事のように思いやっぱり笑ってしまった。
「だからなにを笑っているんですか。俺は本気でこの事務所と西松さんのことを心配しているんですよ」
「心配してくれるのは有難いが、過度な心配は有難迷惑だ。とにかくビラは配らねぇ。面倒な客に来られても迷惑なだけだ。客を追い返すのだって楽じゃねぇんだよ」
「だから西松さんに客を選んでいる余裕なんてないでしょ。経営を安定させるには地道な努力が重要なんですよ」
「拓海に事務所経営のなにがわかる。そもそもターゲット層は最初から決まっているんだよ」
「ターゲット層って、本当の本当に客が来ているってことですか? 俺がいない間って深夜ですか?」
「ああ。動きがあるのは夜だ。遅くまで未成年の拓海に働かせるわけにはいかない。だから拓海に俺の働いている姿を見せられないのが残念だよ」
「……もしかして、俺の目が届かないところでなにか悪いことをしているんじゃないですよね?」
「おい。どうしてそういう考えに行きつく。流石に傷つくわ。俺が犯罪に手を染めるような人間に見えるか?」
西松が軽いノリでたずねると、拓海はしばらく無言になった。そして小さく首を縦に振った後、慌てて横に振り直した。
(正直、怪しく見えるのはしかたないだろ。だけど、そんなに悪い人間ではないはずだ)
拓海の考えていることがわかって、西松は複雑な気持ちになった。
なんだかんだ拓海に信頼されているのを感じる。拓海からは未だに冷たい視線を向けられているのに、胸の奥がむず痒かった。
「仮に夜仕事をしているとして、具体的にどんなことをしているんですか?」
「迷える子羊を救っているんだよ」
「本気で言っているならかなりキモいですよ」
「お前、さっきから俺にたいしてひどいよな。そんなに俺が信じられないなら今日は事務所に泊まれよ。そして俺の働きぶりを見て土下座して謝れ」
「急な泊まりとか無理ですから。また機会があったらぜひその働きぶりを見せてください」
西松をまだ疑っている様子の拓海はとりあえずビラを配ることを諦めたようだ。拓海はちょっとトイレに行って来ますと言って事務所の奥に消えた。同時に、その心の声が西松に届いた。
(面談、どうしようかな)
少し離れたところで、その心の声が聞こえなくなるわけじゃない。
西松には拓海の心の声の他、隣のビルの美容院の店員と客の心の声が聞こえていて、事務所の前の道路を行き交う人々の声も聞こえていた。
拓海はともかく、普段は口に出せない毒を吐いている人間が多い。
ムカつく同僚。嫌いな客。苛立つ他人のSNS。
本人に聞こえないのをいいことに、心の中では好き勝手に言っていた。
それらの声を聞きながら、もしも彼らに自分がすべてを聞いていることを教えたらどうなるだろうかと西松は想像する。
きっと事務所に近づく人間が今よりも少なくなるだろうと思って、それもそれでいいような気がした。
お前のすべてを知っている。
西松のその一言で、顔を青ざめさせて逃げ出した人間がこれまで何人もいた。しかし中には図太い人間がいて、恐れながらも繰り返し接触してきた。そんな人間の一人が、今では西松のビジネスパートナーになっている。
西松は夜からの仕事のことを考えて、少しだけ気が重くなった。
「西松さん、暇なので買い出しに行ってきます。なにか必要なものがありますか?」
「煙草」
トイレから戻ってきた拓海にたずねられて、西松は咄嗟に答える。すると拓海は露骨に眉を顰めていた。
「馬鹿ですか。普通に買えませんよ。俺は未成年ですからね。それで、真面目になにが必要ですか?」
「そうだなぁ。珈琲豆でも買ってこいよ。あと、適当に夕飯」
「珈琲はいつもの店ですよね。食べ物は、和食がいいですか? 洋食がいいですか?」
「今日は中華の気分だ」
「了解です」
「寄り道するなよ」
「しませんよ」
「変な人間に絡まれたら大声で叫べよ。ここから十メートル圏内なら助けに行ってやらないこともない」
西松が冗談のつもりで言うと、拓海は真面目な顔をして頷いた。
「西松さんなら直ぐに俺の居場所を特定できそうですね。迷子になっても探し出してもらえる」
「迷子になる予定があるのかよ」
「ないですけど、便利だなって思って。てか、西松さんは探偵よりも警察のほうがむいているんじゃないですか。その力を使えば、逃走犯とか誘拐犯とかも直ぐに見つけられそうです」
「警察とか融通が利かねぇだろ。上下関係うぜぇし、日中ダラダラできねぇ。それに俺は拓海が思っているほど万能でもねぇからな。実際捜査であんまり役に立つ気がしねぇよ。犯人に遠くへ行かれたらどうしようもねぇし、数万人いる人間の中の一人の人間の声をピンポイントで拾うのも難しい。普段接している人間の声ならばまだしも、顔も見たことのない犯人の声なんてそう特定できねぇよ」
「へぇ。能力を使いこなすのも難しそうですね。そういえば鈴の能力にも制限があったっけ。能力が消えることはないとして、これからその能力が伸びるってことはありえるんですか?」
「さぁ。どうだろうな。鈴のケースは特殊なんだよ。俺が自然系だとすると、鈴はある意味で人工系だからな。おそらくスタートさえなければ目覚めることがなかった。今後伸びる、伸びないはスタート次第だろ」
「じゃあ仮にスタートがなくなれば、鈴の能力は消えますかね」
「なくなってみなければわからねぇな。てか、なくならねぇだろ。今やかなり重要なアプリなんだろ」
やっぱり簡単じゃないですよねと拓海は軽く頷く。一見は平然としていたけれど、頭の中では色々と考えていた。
(試してみる価値はあるんじゃないか)
スタートをなくす方法を考える拓海に、西松は内心ゾッとする。
拓海は鈴のために西松の元で働くことを決めていて、ちょくちょく西松から情報を引き出そうとしていた。そして鈴のためにどうするのが正解かと、常に考えている。今はスタートを消してしまえばいいと極端な考えに辿り着いて胸を熱くさせていた。
拓海は西松に思考を読まれているのをわかっていて、だから西松は馬鹿じゃねぇのと突っ込もうと思ったけれどできなかった。
最近拓海の様子がどこかおかしい。色々なことを考え過ぎて、危うい結論を出してしまう。今や鈴よりも拓海のほうが不安定に思えていた。だから西松は拓海をからかって遊びながらも、拓海のことを気にしていた。そして妙な方向に暴走しそうな拓海を止めようと決めていたけれど、なかなか上手くいかなくて焦る。
人の思考は常に変化しているし、本人が不安定だと思考もぐちゃぐちゃで、いったいなにを望んでいるのかわかりにくい。
拓海が本当にスタートをなくすことを望んでいるとしたら流石にふざけている場合ではないと口を紡いだ。
当の拓海が西松の葛藤に気づくことはない。西松が上手く反応できないでいると、今アホみたいな顔をしていますよと軽く嫌味を言って事務所を出て行った。
拓海がいなくなって急に事務所が静まり返る。
実際西松には色々な音が聞こえていたけれど、どれも所詮は雑音だった。