鈴はゆっくりと顔を上げる。すると、西松と視線がかち合った。

「興味があるかないかは関係なく、俺にはお前の声が聞こえている。だけど俺はお前の母親でも兄貴でもないから、察してなんかやらない。それどころか、泣かしてやりたくなるよ。お前が嫌だ嫌だと思うほど、他の誰かにすべてを晒してやりたくなっちまう。そんなの、地獄だろ。怖くて怖くてたまらない。どこかに消えてしまいたくなる。だったら、実際に消えればいいんだ。そしてもう二度と俺の前に現れるな。家で大好きなママに守ってもらえばいい。お兄ちゃんのことは心配しなくても大丈夫だ。拓海はお前よりもずっと強いからな」

 いったいどこまで人を馬鹿にすれば気が済むのか。一方的に言われて平気なわけがない。どうしたら、この男を痛い目にあわせることができるのだろう。

 身体が、異様に熱くなる。

 鈴は怯えながらも、心の底からどうしようもない怒りが湧き上がり、西松をぐちゃぐちゃにしてやりたくなった。
 そんな考えも西松には筒抜けで、おかしそうに鼻で笑う。
 鈴はついに耐えられなくなり、西松が再びなにかを言う前に思い切って口を開いた。

「私、私のほうが、あんたのことを、泣かせてやりたいんだから」

 あまり大きくはない。だけどはっきりとした自分の声に、鈴は驚く。
 これまでだって当たり前に声は出ていたのに、久しぶりに自分の声を聞いた気がした。

「へぇ? それで?」

「でも、今のままじゃ、無理だと思う。私は、あんたと違って、なにもできないから」

 弱みなんて見せたくないのが本心だけれど、色々と手遅れで、西松にはどう足掻いても隠し切れない。だったら保健室で校医が話していたように、どうせ知られてしまうのならば先に曝け出してしまったほうがいいのではないかと思った。すると西松は、それが正解だというように目を細めた。

「そうだな。じゃあ、どうする?」

「あんたみたいに、なりたい。どうしたら、あんたのようになれるの?」

 あるいは、どうすれば拓海のようになれるのか。
 それも口で言わなければいけないのだろうと思ったが、言葉は続かなかった。

「アホか。俺になんてなれるわけがないだろ。拓海にだってなれない。お前はお前だろ」

「だけど私は、今の自分が嫌いなの。今直ぐに、違う誰かになりたい」

「そう焦るなよ。そもそも今の自分がいつまでも続くと思うな。たった一日で、なにかが大きく変わることがある。スタートの声が聞こえなかった自分。聞こえるようになった自分。いつまた変わるかわからない。ただお前がお前自身である以上、俺になれる可能性はなくても、なりたいと思える自分にはなれるはずだ。でもそれは簡単なことじゃない。だから悩むのは当然だ。お前が俺や他人に敵意を向けたり、色々なことを恐れたりするのも、当たり前なんだよ。お前は今、そういう時間を過ごしている」

 鈴が意識を変えたら、西松の攻撃も止む。それどころか散々馬鹿にしていた今の自分を受け止めてくれるような口調に、鈴は戸惑った。

「……そういう時間は、いつ終わるの?」

「さぁな。知らねぇよ。にしても、中学生って若いよな。若いからこそ、俺は中学生や高校生が嫌いだ」

「嫌いって、私だって、好きで中学生なわけじゃないから」

「好きでも嫌いでも、今中学生だという事実は大きい。嫉妬しちまうよ。中学生、高校生ってだけで、色んな可能性がありそうなのがずるい。ほんの少し意識を変えるだけで、簡単に化けてしまえそうで怖い。そしてちょっと、楽しみにも思う。なぁ鈴、なれるものなら、俺はお前になりたいんだからな」

 西松は空を見上げて、人をからかうのとは違う笑みを浮かべる。それまでよりも柔らかくなった声は、鈴の耳に心地よく響いた。

 ほんの一瞬で、西松は変わり、鈴は自分自身の変化を感じる。ついさっきまでいったいなにに怒っていたのだろうかと、急に気が抜けてしまった。
 西松の言葉をすべて理解するのは難しくて、色々疑問に思うことがあった。 ただわかったのは、西松は思っていたほど冷たい人間ではないかもしれないということだった。そして少しだけ、西松が抱える恐れを見た。それによって、鈴自身が西松に対して抱いていた恐れは小さくなった。そして鈴はやっぱり西松よりも自分はマシかもしれないと思って、だけど心は落ち着かなかった。
 こんな自分は嫌だと、改めて思う。
 ならばどんな自分になりたいのか。
 ふと考えてみた未来には西松がいて、なぜか一緒に笑っていた。

 西松は言いたいことだけ言って満足したのか、顔を引っ込めて窓を閉める。それから鈴と拓海は西松の事務所の中に入った。
 拓海は事務所に入ると奥の部屋から紙袋を持って来た。そしてそれを鈴に差し出した。鈴は携帯会社のロゴが入った紙袋の中になにが入っているのか直ぐに理解した。拓海は少し照れ臭そうにしていて、西松はニヤニヤ笑っていた。お兄ちゃんは可愛い妹のために頑張って働いたんだよなぁと拓海をからかう西松の言葉で、鈴は拓海がなぜアルバイトを始めたのかもわかった。

 ありがとうと心の中で呟けば、声に出せよと拓海と西松に突っ込まれる。

 鈴は笑って、拓海に、そして西松にお礼を言った。