数十分後、拓海が保健室に飛び込んできた。
拓海は息を切らしていて、どうやら走って来たようだった。鈴は申し訳なくなって拓海に謝った。拓海は鈴が比較的元気だと知って胸をなでおろしていた。
二人は学校を出て、拓海は当然のように自宅に帰ろうとしていた。鈴はそんな拓海にこれから西松探偵事務所に行こうと提案した。
「は? 西松探偵事務所に行きたい? いきなりどうした。教室で倒れた時に頭をぶったのか? だったら事務所どころじゃねぇだろ。病院に行くぞ」
拓海は鈴の頭に触れてどこか怪我をしていないか確認してきた。しかし特に怪我をしているわけではない鈴は、拓海の手を押し退ける。そして怪我はしていないと拓海に言った。
「だけど倒れたのは確かだろ。一応医者に診てもらったほうがいい」
「保健室で眠って体調はだいぶ良くなった。先生も病院に行くほどではないだろうって言ってたし、大丈夫だよ」
「お前の大丈夫は信用ならねぇんだよ。病院には行かないにしても、今日は家に帰るぞ。事務所に行くのは別の日でいいだろ」
「でもさ、お兄ちゃん、今日バイトなんでしょ。どうせ新宿に行くんだから連れて行ってよ」
「駄目だ」
「なんで?」
「お前が電車の中で倒れる姿が想像できる。俺は保護者として、それがわかって連れて行けない」
「保護者って、子供扱いしないでよ。私、一人でも行くから。てか、もう本当に大丈夫なんだよ。今なら走って駅まで行けそう。こんなに元気になったのに、電車の中で倒れるわけがないじゃん」
「元気に見えるからこそおかしく思うんだよ。お前は今、色々重なって変に興奮している状態なんじゃないのか? 俺はな、西松さんに会うことを反対しているわけじゃない。そこまでの道のりが心配なんだよ。駅には人がたくさん集まる。新宿なんて、もうわけがわからない数の人がいる。そんなところに行けば、声の数も半場ないはずだ」
拓海の言葉に、鈴はドキリとした。
鈴は狭い教室の中で交差する声に耐えきれずに倒れた。だけどあれは、自分に関係する声だったから頭の中がぐるぐるしただけだと、心の中で言い訳をした。
「以前西松さんと新宿駅に行ったことがある。電車に乗った西松さんの顔は真っ青だった。ずっと前からその能力がある西松さんですらああなんだ。ただでさえ体調が悪い鈴が耐えられるわけがない」
拓海の言いたいことはわかる。だけど鈴は、今日どうしても西松に会いたかった。
「私は西松さんとは違う。人の心のすべてが聞こえるわけじゃない。それに今は放課後じゃないから学生が少なくて、電車や駅でスタートを使ってメッセージのやり取りをしている人も少ないと思う」
「てか、なんでそんなに西松さんに会いたいんだよ。お礼は手紙でって、言っていたじゃないか」
「手紙じゃ、意味はない。直接会わなきゃいけないの。私、このままじゃ駄目だと思う。今日も教室で失敗した。きっとまた同じことを繰り返してしまう。もっと、強くならなきゃいけない。だから西松さんにこれからどうやって生きるべきか教えてもらいたい。今の状態から抜け出すヒントがほしいの」
「西松さんに期待するなよ。あの人はたぶん、自分のことでいっぱいいっぱいだ」
「そのいっぱいいっぱいな姿を見ることで、私の気持ちは楽になる気がする。きっと西松さんよりはマシだと思えるから」
他人と比べて、自分のほうがマシだと考える。それで安心するのはどうなんだろうと鈴自身疑問に思う。拓海も呆れたような顔をしていたけれど、結局は新宿へ行くことを認めてくれた。
平日の午前中とはいえ、駅には一定数の人がいる。常にスタートの声が耳に入って来たが、鈴はあまり気にならなかった。周りを執拗に気にしているのは拓海のほうで、携帯電話を使用している人間から鈴をなるべく遠ざけようとしていた。けれどどこにいても携帯電話を手にしている人間の姿が目に入った。鈴は電車に揺られながら、ぼんやりと周りの人間を観察して、手元が寂しく感じた。
新宿では声が波のように押し寄せてきた。声以前に、西松に近づいていると思うと鈴はだんだん怖くなってきた。
西松に会いにいこうと決めた時、自分は確かに興奮状態にあったのだと、今更気づく。
冷静になって、西松に会いたいという気持ちよりも西松への恐怖心のほうが大きくなっていた。
鈴が途中で立ち止まりそうになると、拓海はなにも言わずに手を取って引っ張ってくれた。
しばらく歩くと視界に西松探偵事務所が入っているらしいビルが見えてきた。鈴が西松探偵事務所を訪れるのは、今回が初めてだった。だから拓海が指差したビルを見て、あまりの古さに驚いた。母親が知ったら直ぐに拓海と西松の関係を切らせようとするだろうレベルの建物だった。そして鈴の目にビルはひどく気味悪く映った。それは古いことだけが原因ではない。ビルの中に、直ぐそこに、西松がいると思うと、足が、手が、震えてきた。
鈴はここで逃げてはいけないと自分に言い聞かせながら、震えを止める術を知らなかった。
拓海は鈴の震えに気づいたようで、ビルの前で足を止めた。