目が覚めると、保健室にいた。
 頭がズキズキと痛む。
 鈴は額を抑えながら、ベッドから身体を起こした。

「あら、目が覚めたの? 体調はどう? 熱はないみたいだけれど、しばらく安静にしておいたほうがいいわよ」

 鈴が目を覚ましたのに気づいた校医がベッドに近づいてきた。

「もうすぐお兄さんが迎えに来てくれるわよ」

「……お兄ちゃんが?」

「ええ。とても一人で帰らせるわけにはいかないから自宅に連絡したんだけど繋がらなくてね。お母さんの職場に電話をかけようと思った時、石神さんがお兄さんの携帯の番号を教えてくれたの」

「……石神」

「彼女、かなり心配していたわよ。あなたをここまで運んでくれたのは教室の前を偶然通りかかった学年主任の先生だけれど、石神さんも一緒について来てくれたの」

 知恵はいったいなんのつもりなのか。そんなことをしてもなんの得にもならないのに、どうして関わろうとするのか。
 鈴は知恵の態度が理解できなかった。もしも立場が逆だったら、鈴が絶対にしないだろうことを知恵はする。周りに合わせるほうが楽なのに、それをしない知恵が鈴は少しだけ憎く思えた。今の鈴には周りに合わせるという選択肢すらなかった。

「……先生、私って、やっぱり変ですか?」

「顔色は確かに変よ。家に帰ったら直ぐに寝なさい」

「そういう意味じゃないです。私って、普通じゃない、他の人とは違う、変わった人間に見えますか?」

「どう答えてほしいのかしら。ありきたりな言葉を使うと、同じ人間なんて一人もいないのよ。普通の基準はそれぞれ違う。私からしてみたら、私以外の人間はみんな普通じゃないように思えるわ」

「……それもそうですね。自分以外は、みんな変ですよね。その中でも、石神さんが一番変だと思います」

「変なのって、案外おもしろいものよ。あなたが今、石神さんのことを一番変だと思っているってことは、石神さんに一番興味があるってことじゃないのかな。つまりあなたは、石神さんのことをもっと知りたいのよ」

「まさか。石神さんのことなんて、どうでもいいです。今日まで、ほとんどその存在を忘れていたんです。石神さんどころか、私は他人に興味を持てません。他の人の情報なんて最小限あればいい。なのに、いらない情報や、知りたくない情報がどんどん頭に入ってくる。このままじゃ、頭がパンクしてしまいそうです」

 教室でのことを思い出すと、身体が急に震え出す。頭の中でなにかがうごめいているような気がして、鈴は両手で頭をかきむしった。校医はそんな鈴の手をそっと握って止めさせた。

「頭がパンクすると言って実際にパンクした人間がはたしてこの世にいるのかしら。大丈夫よ。人間の情報処理能力は無限に近いわ。一気に処理するのは難しいかもしれないけれど、時間をかければいいだけ。焦らないで、自分のペースでやっていきなさい」

 校医は鈴の手を摩りながら、優しい声で言う。
 鈴はこれまでほとんど保健室を訪れることがなくて、校医とは挨拶くらいしか言葉を交わしたことがなかった。派手な車で学校に来て、廊下ですれ違う時は強い香水のにおいがする校医のイメージはあまり良くなかった。だけど実際に話してみると案外真面目に受け答えをしてくれて、なんだが不思議な気持ちになった。

「ところであなたは普段どこで情報を得ているの?」

 校医の手がゆっくりと離れていく。鈴は校医に触れられていた部分をそっと撫で、どう答えるべきか少し悩んだ。

「……スタートです」

「ああ。スタートね。私も利用しているわ。便利だけれど、いじめの温床になるのではないかって、前から指摘されているわよね。あなたもスタートで嫌なことを言われたの?」

 鈴が頷くと、校医は僅かに顔を歪めた。校医は鈴の事情をある程度把握しているようだった。その上で心配してくれているように感じるのは、鈴の勘違いではないだろう。真っ直ぐな言葉は嫌いじゃなくて、鈴はもっと校医と話をしてみたいと思った。

「あの、先生は、もしも人の心の中を覗ける能力が手に入ったら嬉しいですか?」

「なにその能力。本当に存在するのならば、ちょっと使ってみたいわ。だけど私、心の中を知りたい相手があまりいないのよね。その能力によって知りたくもない相手の心の中が知れちゃうとしたら最悪じゃない。元々私ね、察するよりも察してもらいたい女なのよ」

「じゃあ、その能力のある人が直ぐ近くにいるとしたらどうしますか?」

「その能力を使って完璧にエスコートしてもらいたい。私が食べたいもの、行きたい場所を、一々言わなくてもわかってくれるなんて最高のパートナーでしょ」

「怖くはないですか? 食べたいと思っている物、行きたいと思っている場所ならばまだしも、嫌いな物や人間、醜い感情、心の中を、すべて見られてしまうんですよ」

「そうね。考え方によってはすごく怖いことなのかもしれない。だけどその場合、相手はもっと怖いんじゃないかと思うわ。知りたくもない人間の本心よりも、すべてを知りたいと思う人間の本心のほうがずっと怖いはずよ」

「じゃあ、やっぱり、お互いのためにも、人の心を読める人とは、関わらないほうがいいと思いますか?」

「どうかしら。関わらなければいい。そんな単純な問題じゃない気がするわ。気がついた時にはもう離れられないくらいにその人のことを好きになってしまっていたら、どうしようもないじゃない。ただやっぱり心を読まれるのが怖いと思うなら、相手に知られる前にすべてを曝け出すのも手かな。そして知られる分以上に、相手を知る努力をすればいいんじゃない。相手だって同じ気持ちなら、きっとなにかしらの努力をしてくれるはず。ま、実際はかなり難しいだろうけどね。そもそも心が読める人間なんて、本当にいるのかしら」

 校医は心が読めない側の人間だ。その立場から、心が読める人間の気持ちを想像して話す。ならば自分はどっちなのだろうかと、鈴は考える。
 限定的とはいえ、教室の中で本来隠したいのかもしれない声を聞いているのはおそらく鈴だけだ。けれど、一歩教室の外に出ると状況が変わる。鈴は心を読まれてしまう側の人間にもなった。
 本物なのはあの人だと、鈴は西松の顔を思い浮かべる。
 西松はスタートなどなくても人の心を読むことができた。西松に比べると、鈴の能力はないに等しいのかもしれなかった。
 少し人の本心が見えてしまうだけでこんない辛いのだ。だから西松はもっと辛い思いをしているのだろうと鈴は勝手にその人生を想像し途方もない気持ちになった。だけど改めて西松のことを思い出して、違和感を覚えた。 
 西松は初めて出会った時、自信に満ち溢れているような顔をしていた。そして拓海の話の中の西松は、いつも楽しそうだった。
 西松は今、それほど辛くないのだろうか。
 だとしたら、いったいどうして。

「先生、一番変な人は、石神さんじゃなかったです。石神さんよりも、もっと変な人を知っています」

「へぇ。じゃあ、あなたは、その人に興味があるのね?」

「はい。そうみたいです」

 人の心を読めるくせに、西松が飄々としていられる理由が知りたい。
 鈴はこれまでは西松のことをあまり考えないようにしていた。だけど今は、最悪から抜け出す希望を西松に見出して胸がドキドキと高鳴る。
 直ぐにでも西松に会いたかった。