鈴は一人校門を潜り、昇降口を目指す。すると背後から、声が届いた。

――今夜は復帰祝いだ。バイト終わりにケーキを買ってくる。

　振り向くと、拓海が携帯電話を持った手を振っていた。
　鈴はそれを見て思わず頬を緩める。
　なくていい能力を、悪くないかもと思える時、いつも拓海が携帯電話を握っていた。


　三年三組の教室の前に来て、鈴は一度深呼吸をしてから扉を開けた。
　鈴が現れたことで、それまで賑やかだった教室が一瞬で静まり返った。
　鈴は露骨な反応に内心驚きながら、何事もなかったかのように自身の席についた。
　席についてしばらく経っても、鈴の元に近づいてくる者はいなかった。教室に入った時ほど空気は張りつめていないけれど、みんな声を潜めて話している。鈴にとってそんな確かな囁きよりもきつかったのは、スタートを介して届く声だった。

――マジで来やがった。てかなんで普通に来れるの？

――教室の空気悪っ。息が詰まるわ。

――超気まずいよね。

――ほんと、迷惑なんだけど。どうせなら一生来なくて良かったのに。

　耳を塞いでしまいたかったけれど、それはしないと決めていた。
　鈴の今日の目標は、なるべく堂々としていることだった。クラスメートとの関係の改善は今のところ望んでいない。中途半端に取り繕っても意味がないことはわかっていた。

「町村さん！　本物の、町村さんだ！」

　鈴が途切れない声の嵐にひたすら耐えていると、突然場にそぐわない明るい声が耳に届いた。鈴は驚いて声がしたほうに目を向けた。他のクラスメートにとっても予想外の出来事だったのか、言葉の嵐はパタリと止んだ。

「あ、私、突然叫んじゃって、恥ずかしい」

　声を発した人物、石神知恵は自身に注目が集まっていることに気づいたのか、途端に顔を赤くして独り言のように呟いた。そして知恵は、改めて鈴に声をかけた。

「あの、町村さん。退院おめでとう。お兄さんから、もう直ぐ退院だとは聞いていたんだけど、具体的な日にちまでは聞いていなくて、本当は、退院の日も会いに行きたかったんだけど、間に合わなかった。それにしても、もう体調は良いの？　退院しても、学校に来られるようになるのはもう少し先だと思っていたんだ。だから今日会えてすごく嬉しい」

　知恵は早口で言う。鈴は知恵の言葉を理解するのに少し時間がかかった。最初に知恵に叫ばれた時は驚いて、よくしゃべる知恵を見てもっと驚いた。鈴の中の石神知恵のイメージは、地味で口下手な優等生だった。

「あ、そうだ。休んでいた間のノート、まとめてきたの。よかったら、テスト勉強で使って」

　知恵は鞄から数冊のノートを取り出す。ノートの表紙には教科名と、町村鈴の名前が綴られていた。
　鈴は知恵からのノートを受け取るべきか悩んだ。思わず手を出しかけた時、知恵の携帯電話にスタートのメッセージが届いた。
　開けっ放しだった鞄の中で、鈍いバイブ音が響く。知恵は携帯電話を手に取って、届いたメッセージの内容を確認していた。

――おい石神、町村のことは無視しろって言っただろ。

　知恵は届いたメッセージの内容を見て下唇を噛む。鈴は小さく息を呑んだ。
予想通り、クラスでは町村鈴を無視するというルールが決まっていたようだ。そのルールを破った知恵を罵倒するメッセージが次々と届いていた。

――私は、そんなこと約束した覚えはないから。

　知恵は最初にメッセージを送った相手に一言だけ返信する。他のメッセージは開きもしないで、携帯電話を鞄の中に突っ込んだ。

「町村さん、ノート、頑張って作ったの、だから、受け取って」

　メッセージのことなどなかったかのように、知恵は柔らかい笑みを浮かべてノートを鈴に押しつけようとする。鈴はそんな知恵に戸惑い、それからだんだん腹立たしくなってきた。

「あんた、馬鹿じゃないの？」

　鈴は知恵の手から乱暴にノートを奪い取った。そして次の瞬間、ビリビリに破り捨てた。

「こんなもの、いらないから。ウザいんだよ。もう私に話しかけるなよ」

　声を低くさせて、鈴は知恵に言う。知恵はなにが起こったのかよくわからないようで、口をぽかんと開けて鈴の顔を見つめていた。

「うわっ、最低。てか何様なの？　石神さん、可哀想」

　スタートを使うまでもなく、誰かが言う。
　鈴は声を発した生徒をすかさず睨みつけた。すると生徒は途端に顔を伏せた。その生徒はほんの数秒前まで知恵に消えろとスタートでメッセージを送っていた。お前こそ何様だと、鈴は言ってしまいたかった。

「えっ？　どうしたの？　なにこの空気？」

　空気が張りつめた教室に、加賀美亜里沙と小田詩織、江口彩夏の三人が入って来る。三人は鈴を一瞥して、それから床に散らばったノートの切れ端に目を向けた。

「なにこれ。ウケる。石神さん、紙の無駄使いは駄目だよ」

　無視というルールはクラス全体で決まっているもので、知恵は一人それを破ってしまった。
　知恵の立場は、とても危うい。
　鈴はそれに気づいて、だからこそ知恵を突き放そうとした。だけどあまり意味はなかったのかもしれない。その場にいなかったものの、亜里沙は直ぐに状況を理解したようで知恵に声をかけた。亜里沙は薄い笑みを浮かべているけれど、その目は笑っていなかった。亜里沙の後ろでは詩織と彩夏がスタートでメッセージのやり取りをしていた。

――今日、カラオケに行かない？

――いいね。他に誰誘う？

――亜里沙と三人でよくない？　三人でいるのが、一番気が楽じゃん。

――それもそうだ。

　何気ないやり取りなのに、今はあてつけに感じる。もう四人組でないことを改めて実感した鈴は、俯いて机を睨みつけた。
　亜里沙は鈴に声をかけることなく席につく。他の二人も亜里沙に続いた。一方知恵は青い顔をして床に散らばったノートの切れ端をかき集めていた。鈴は知恵を手伝わなければと思うだけで行動はしなかった。そして知恵がノートの切れ端をすべて片付け終えた時、担任が教室に入ってきた。
　担任は鈴の姿を見て、困ったように眉を下げていた。それでいて言葉では鈴が元気になって良かったとしきりに心配していたのをアピールしてきた。他のクラスメートは詰まらなそうな顔で担任の話を聞いていて、朝のショートホームルームは微妙な空気のまま終わった。

　朝のショートホームルームが終わって一時間目の授業が始まる前、知恵がスタートでメッセージを送っていた。

――私、余計なことをしちゃったのかもしれません。お兄さん、どうしましょう。

　それは拓海に送られたメッセージだと気づいて、鈴は眉を潜める。
　知恵と拓海が、自分の入院中になんらかのやり取りをしていたのを知っていたが、退院した今もその関係が続いていることが腑に落ちなかった。

――スタートで鈴の話題は禁止だからね。

　知恵のスタートのメッセージに気をとられていると、また違うメッセージが頭に入ってきた。それは亜里沙が送ったもので、クラスのほとんどが参加しているグループへ送られていた。
　他のクラスメートは亜里沙のメッセージにどういうことかと次々と反応を示す。
　メッセージが頭に入ってきてしまうことにはたいぶ慣れてきたが、狭い空間で飛び交うメッセージの多さは異様で、更に自分が関係している内容となれば神経が過敏になってしまう。
　鈴は次第に気分が悪くなってきた。

――弱みを握られたくなかったら話題にしないほうがいいってことだよ。

――あいつは異常者だから、本当に気をつけて。スタート上じゃなくても、関わらないほうがいい。

　亜里沙をフォローするように、詩織と彩夏がメッセージを送る。
　鈴はついに耐えられなくなって、気を失ってしまった。