「鈴、降りるわよ」
突然母親に声をかけられて、鈴はビクリと肩を揺らした。どうやら自宅近くのバス停に着いたようだ。母親は既に席を立っていて、鈴も慌てて立ち上がった。
「バスの中でボーっとしていたけれど、大丈夫? 退院はできたものの、まだ万全じゃないんだから無理はしないようにね」
「わかってる。ちょっと考え事をしていただけだから」
「学校、本当に明日から行くつもりなの? もう少し休んでいてもいいのよ」
「明日行かないと、明後日、来週、来月って、一生行けなくなる気がする。だから明日はなんとしてでも行くから」
「そう。じゃあ拓海に送り迎えしてもらいなさい」
「お兄ちゃんは、放課後バイトでしょ」
「妹を学校から家まで送り届けるくらいの時間はあるでしょ。雇い主は友達のお兄さんなんだから、多少の遅刻は大目に見てくれると思うわ」
「てかさ、スクールカウンセラーのアシスタントって、どんなことをやるんだろう」
「拓海が言うには、主に電話番らしいわ。悩みを抱えた子供たちからの電話に出て、西松さんに回しているのよ」
西松さん。
最近、母親や拓海の口からその名前がよく出てくる。
母親によると西松は拓海の友達の兄で、スクールカウンセラーをしているらしい。そして鈴の病室に一度訪れたことがあって、拓海の相談にも乗ってくれたそうだ。それから拓海はなぜか西松の元でアルバイトを始めることになった。
拓海から働くことになったと報告を受けた時、母親は少し怪訝そうな顔をしていた。けれど反対はしなかった。今では鈴へのお菓子を買ってくるついでに、西松に渡すお菓子を買ってくることがある。
母親はなんだかんだ西松のことを気に入っているようだった。
「お兄ちゃんに悩みがある人の電話を上手く受けられるもんかな」
「きっとマニュアルが用意されているのよ。実際に対処するのは西松さんだから、拓海はいくつか気をつけていればいいはず。仮になにかヘマをしても、西松さんなら上手くフォローをしてくれるわよ」
母親は呑気な声で言う。鈴は曖昧に頷いた。
鈴が本当に心配しているのは拓海のことではなかった。拓海よりも、西松のほうが電話でのやり取りが下手な気がしてならなかった。
そもそも、西松の事務所に電話があるかどうかも怪しい。
鈴は西松がスクールカウンセラーではないことを知っていた。そのことについて、拓海とちゃんと話さなければと思っている。
入院中は拓海と二人で話す機会があまりなかった。こういう時、携帯電話がないと不便だなと思う。
スタートを使えば、とっくに色々なことを確認できたはずだった。けれどスタートを使えば、他の誰かに内容を覗かれるリスクもあった。
「今度、西松さんの事務所に行ってみようかしら。拓海の働いている姿を見てみたいわ」
「やめたほうがいいよ。直接相談に来る子もいるだろうし、関係のない人が多いと悩みを打ち明けにくいと思う」
「そっか。やっぱり迷惑か。だけど西松さんとは改めて話してみたいわ。今度夕食にご招待しようかしら」
「それも、どうかと思う」
「どうして?」
「お兄ちゃんのためにも、お母さんは出しゃばらないほうがいいんだよ。たぶんお兄ちゃんはそういうのが恥ずかしい年頃だから、下手をするとお兄ちゃんとの関係がこじれるよ」
「けれど、拓海がなにかとお世話になっているんだから、親としては西松さんにきちんとお礼をしておきたいわ」
「お母さんの気持ちもなんとなくはわかるよ。実際にお礼をするとしたら、せめてお兄ちゃんがもう少し仕事に慣れてからのほうがいいと思う」
「なるほどね。とりあえず拓海本人に相談してみるわ」
バスを降りた鈴たちは、話しながらスーパーに立ち寄った。そして拓海に頼まれたヨーグルトと夕飯の材料を購入していると、見知った顔に出くわした。
鈴のクラスメート、加賀美亜里沙は、中学生にしては大人びている。全体的にスラリとして、普通に立っているだけで視線を集めるその容姿に、鈴は懐かしさを感じた。亜里沙もまた鈴に気づいたようで顔を引きつらせていた。
お互い顔を合わせたまま無言でいると、母親が空気を読まずに亜里沙に声をかけた。
「あら、亜里沙ちゃん、こんにちは。久しぶりねー。相変わらず綺麗ねぇ」
「あ、えっと、こんにちは」
もしも鈴が一人だったら、亜里沙はなにも言わずにその場を去っただろう。けれど母親の前では流石に無視するわけにはいかないようだった。
「鈴、もう退院したんだ。元気になって良かったね。学校には、いつから来るの?」
亜里沙は愛想笑いを浮かべて母親に会釈する。そして笑みを崩さず、鈴にたずねた。鈴が小さな声で明日からと答えると、ほんの僅かに眉を顰めていた。
「へぇ。そうなんだ。とにかく、元気になって本当に良かったよ。あ、私、もう行かないと。これから塾なの。じゃあ、明日、楽しみに待ってるから」
亜里沙は早口で言いながら、スーパーの出口に目を向ける。早く去りたいのを隠し切れていない亜里沙がおかしいのか母親はクスクスと笑った。
「亜里沙ちゃん、鈴のこと、よろしくね!」
背を向けた亜里沙に、母親はわざとらしく声をかける。亜里沙はビクリと肩を揺らしながらも振り返らずにそのままスーパーを出て行ってしまった。
「だからさ、母親は、あまり出しゃばらないほうがいいんだよ」
「あらごめんなさいね」
悪戯っぽく笑う母親に鈴は呆れる。だけど亜里沙の反応にはちょっとだけ気分がスッキリした。
できる限り大人の力は借りたくないと思うけれど、大人の力の大きさを思い知らされる。
教室では女王の如く偉そうにしていた亜里沙の背中がやけに小さく見えた。
「鈴、明日は気合いを入れて挑みなさいよ」
少し前まで鈴が学校へ行くことを不安がっていた母親が鼻息を荒くさせて言う。鈴は頷いて、亜里沙が消えた出口に再び目を向けた。
――明日、あいつが戻ってくる。
視線の先から、そんな声が聞こえてきた。