新しく生まれ変わったような感覚を、ここ最近何度か味わっている。
町村鈴は病院を一歩出て、思わずため息をはきそうになった。けれど機嫌の良さそうな母親の手前、なんとか出かけたそれを呑み込んだ。
実際に新しく生まれ変わったわけではないが、今日は鈴や母親にとって新しい生活が始まる日だった。だから鈴は気を持ち直して、背筋を伸ばして歩くことにした。母親はそんな鈴の背中にそっと手のひらを当て付き添った。
病院前にあるバス停のベンチでは若い女が携帯電話を弄っていた。鈴は女のことを視界に入れないように、時刻表を無意味に眺めた。母親のほうは若い女が気になるようで、鈴に新しい携帯を買ってあげないとねと呟いた。
「いらないよ。携帯は、なくていい」
「どうして? 小学生の時は買って買ってと泣くほど騒いでいたじゃない。せっかくだから最新の機種を買ってあげるわよ。これからでも携帯ショップに寄ってみようか」
「だから、いらないって。携帯は一度手に入れて満足したの。今ほしいのは、服とか、香水とかかな」
「服や香水がほしいのはわかるけれど、それとこれとは話が別よ。今の時代携帯がないと不便でしょ」
「別に。どうしてもなくちゃいけないものじゃないよ」
「だけど、鈴が携帯を持っていると、お母さんが安心できるのよ。携帯さえ持っていればいつでも連絡がとれるでしょ」
「連絡の取り方なんて、他にいくらでもあるよ」
「でも、友達とやり取りをするのも今はスタートが主流なんでしょ。スタートをやっていないと、変な目で見られちゃうって聞いたわよ」
「携帯を持っている時だって、変な目で見られていたからね」
鈴が言うと、母親は表情を暗くさせた。その瞬間、鈴は再びため息をはきそうになってやはり堪えた。
「お母さん、心配しなくても私は大丈夫だよ。入院中、自分なりにこれからどうするべきか考えてみたの。それで、無理矢理周りと合わせる必要はないと思った。携帯電話を持っていないくらいで関係を保てなくなる友達なんていらないんだよ。むしろ持たないことで、相手の本性がわかると思うの。誰が本当の友達なのかを知ることができる。これは、いい機会だと思う。だからやっぱり、携帯電話はしばらくいらない」
「携帯を持つ、持たない以前に、そんなふうに頑なになるのはどうなのかしら」
「頑なって?」
「鈴は、間違っていないと思うわ。だけど、他人に合わせるのは生きていく上で重要な手段よ。嫌いな人と一緒に行動しなければいけないことはこれからの人生何度もあるはず。その時上手く切り抜けられるように、今から慣れておく必要があるのよ。だから合わない人間を片っ端から切り捨ててしまうのは、未来の鈴のためにはならないと思うの。もっと慎重にならなくちゃ」
「なら、嫌いな人とでも表面上は上手くやれるように頑張るよ」
心配してくれているのはわかるが、その説教は正直ウザい。
鈴は母親に反発心を覚えて、小さな、冷たい声で言った。すると母親は驚いて目を丸くさせていた。そして後悔したように額に手を当てため息をはいた。
「ごめん、鈴。お母さんの言うことは、なんか違うわよね。誰とでも上手くやってほしいと思うのは、お母さんの勝手な願いで、実際は難しいことだとわかっているわ。なんとなくみんなに合わせるのは良い手段なのかもしれないけれど、根本的な解決にはならないのよね。色々言ったけれど、結局は鈴のやりたいようにやればいいわ。だけど、またどうにもならない状況になった時は、せめて拓海にでも相談してよね。拓海も、お母さんも、なにがあっても鈴の味方だから、それだけは覚えておいて」
「うん。そうする」
鈴は母親をウザいと思ってしまったことを後悔した。けれど今更素直になれずにそっけなく答えた。
鈴と母親の会話を聞いていたのか、ベンチの女がチラチラと視線を向けていた。
――近くにいる親子超ウケるんだけど
最近の中学生意識高過ぎ
視線と一緒に声が届いたが鈴は何事もなかったかのように到着したバスに乗り込んだ。
鈴と母親は空いている二人掛けの席に座った。そして発車したバスの中では誰も口を開いていなかったけれど、いくつもの声が交差していた。
――お腹空いたー夜ご飯なに?
まだ決めてないならから揚げにしてよ
――世界史のテストの範囲どこまでだっけ
――頼んでいた資料、もうできあがりましたか? できれば今週中に送っていただけるとありがたいです。
多くの声は鈴とはなんの関係もないもので、同じバスの中にいる誰かと誰かを繋ぐものでもなかった。それぞれが小さな画面にくぎづけで、日本のどこかにいる見えない誰かとやり取りをしていた。
鈴の隣に座った母親も携帯電話を片手に、スタートでメッセージを送っていた。母親に限っては相手が誰なのか鈴にもわかっていた。
兄の拓海に今から帰るとメッセージを送れば、牛乳を買ってきてと返信がある。
あまりにも平凡なやり取りに鈴は小さく笑い、そしてなんだか安心した。
こんなくだらない声ばかりならば、良くはないけれど、そう悪くもないと思えた。
今の鈴は、届く声に惑わされることはあるものの、自分を見失うほど混乱することはない。だけど数か月前は違っていた。
町村鈴は病院を一歩出て、思わずため息をはきそうになった。けれど機嫌の良さそうな母親の手前、なんとか出かけたそれを呑み込んだ。
実際に新しく生まれ変わったわけではないが、今日は鈴や母親にとって新しい生活が始まる日だった。だから鈴は気を持ち直して、背筋を伸ばして歩くことにした。母親はそんな鈴の背中にそっと手のひらを当て付き添った。
病院前にあるバス停のベンチでは若い女が携帯電話を弄っていた。鈴は女のことを視界に入れないように、時刻表を無意味に眺めた。母親のほうは若い女が気になるようで、鈴に新しい携帯を買ってあげないとねと呟いた。
「いらないよ。携帯は、なくていい」
「どうして? 小学生の時は買って買ってと泣くほど騒いでいたじゃない。せっかくだから最新の機種を買ってあげるわよ。これからでも携帯ショップに寄ってみようか」
「だから、いらないって。携帯は一度手に入れて満足したの。今ほしいのは、服とか、香水とかかな」
「服や香水がほしいのはわかるけれど、それとこれとは話が別よ。今の時代携帯がないと不便でしょ」
「別に。どうしてもなくちゃいけないものじゃないよ」
「だけど、鈴が携帯を持っていると、お母さんが安心できるのよ。携帯さえ持っていればいつでも連絡がとれるでしょ」
「連絡の取り方なんて、他にいくらでもあるよ」
「でも、友達とやり取りをするのも今はスタートが主流なんでしょ。スタートをやっていないと、変な目で見られちゃうって聞いたわよ」
「携帯を持っている時だって、変な目で見られていたからね」
鈴が言うと、母親は表情を暗くさせた。その瞬間、鈴は再びため息をはきそうになってやはり堪えた。
「お母さん、心配しなくても私は大丈夫だよ。入院中、自分なりにこれからどうするべきか考えてみたの。それで、無理矢理周りと合わせる必要はないと思った。携帯電話を持っていないくらいで関係を保てなくなる友達なんていらないんだよ。むしろ持たないことで、相手の本性がわかると思うの。誰が本当の友達なのかを知ることができる。これは、いい機会だと思う。だからやっぱり、携帯電話はしばらくいらない」
「携帯を持つ、持たない以前に、そんなふうに頑なになるのはどうなのかしら」
「頑なって?」
「鈴は、間違っていないと思うわ。だけど、他人に合わせるのは生きていく上で重要な手段よ。嫌いな人と一緒に行動しなければいけないことはこれからの人生何度もあるはず。その時上手く切り抜けられるように、今から慣れておく必要があるのよ。だから合わない人間を片っ端から切り捨ててしまうのは、未来の鈴のためにはならないと思うの。もっと慎重にならなくちゃ」
「なら、嫌いな人とでも表面上は上手くやれるように頑張るよ」
心配してくれているのはわかるが、その説教は正直ウザい。
鈴は母親に反発心を覚えて、小さな、冷たい声で言った。すると母親は驚いて目を丸くさせていた。そして後悔したように額に手を当てため息をはいた。
「ごめん、鈴。お母さんの言うことは、なんか違うわよね。誰とでも上手くやってほしいと思うのは、お母さんの勝手な願いで、実際は難しいことだとわかっているわ。なんとなくみんなに合わせるのは良い手段なのかもしれないけれど、根本的な解決にはならないのよね。色々言ったけれど、結局は鈴のやりたいようにやればいいわ。だけど、またどうにもならない状況になった時は、せめて拓海にでも相談してよね。拓海も、お母さんも、なにがあっても鈴の味方だから、それだけは覚えておいて」
「うん。そうする」
鈴は母親をウザいと思ってしまったことを後悔した。けれど今更素直になれずにそっけなく答えた。
鈴と母親の会話を聞いていたのか、ベンチの女がチラチラと視線を向けていた。
――近くにいる親子超ウケるんだけど
最近の中学生意識高過ぎ
視線と一緒に声が届いたが鈴は何事もなかったかのように到着したバスに乗り込んだ。
鈴と母親は空いている二人掛けの席に座った。そして発車したバスの中では誰も口を開いていなかったけれど、いくつもの声が交差していた。
――お腹空いたー夜ご飯なに?
まだ決めてないならから揚げにしてよ
――世界史のテストの範囲どこまでだっけ
――頼んでいた資料、もうできあがりましたか? できれば今週中に送っていただけるとありがたいです。
多くの声は鈴とはなんの関係もないもので、同じバスの中にいる誰かと誰かを繋ぐものでもなかった。それぞれが小さな画面にくぎづけで、日本のどこかにいる見えない誰かとやり取りをしていた。
鈴の隣に座った母親も携帯電話を片手に、スタートでメッセージを送っていた。母親に限っては相手が誰なのか鈴にもわかっていた。
兄の拓海に今から帰るとメッセージを送れば、牛乳を買ってきてと返信がある。
あまりにも平凡なやり取りに鈴は小さく笑い、そしてなんだか安心した。
こんなくだらない声ばかりならば、良くはないけれど、そう悪くもないと思えた。
今の鈴は、届く声に惑わされることはあるものの、自分を見失うほど混乱することはない。だけど数か月前は違っていた。