「すぐ下りてくるそうなんで、少し待っててください」
 フロントウーマンが振り向いて言う。
 しばらく待っていると、茶髪を腰まで伸ばした30代半ばぐらいの女の人が出てくる。

「チイちゃん、また勝手にお外に出て」
 女の人はチイちゃんを見て怒ったような顔をした。
「ママ」
 チイちゃんが手を伸ばす。僕はその女の人にチイちゃんを渡した。
「本当にありがとうございました。よく言って聞かせます」
 女の人が頭を下げる。
「いえいえ」
 時計を見る。
 もう8時24分。

 ここから学校まで死ぬ気で走ればなんとか間に合うかどうかだ。
 まずい。
「急ぎますんで」
 まだ何か言おうとする女の人に僕はそう言うとマンションを出て、全速力で走る。

 死ぬ気で走ればひょっとしたら間に合うかも。
 しばらく走ると、先ほど声をかけてきたと思われる僕より長身の女子の後姿が見えてきた。
 そんなにゆっくり歩いていては遅刻するよと思いながらその女子を抜いていく。
 今は人どころではない。

 あと1分というところで校門が見えて来た。
 これならギリギリ間に合う。
 学校の前には信号がある国道があり、この国道を渡らなければ、学校には着かない。
 僕が国道に着いた時、ちょうど信号が赤に変わってしまった。
 国道は車の量が多く、信号無視をするなど不可能だ。

 信号はなかなか変わらない。イライラしながら足踏みをして、待つうちに学校のチャイムが鳴り始めるのが聞こえてきた。
 まずい。
 鳴り終わるまでに校門を通らないと遅刻になってしまう。

 信号が青に変わったとたん猛ダッシュをする。
 まだチャイムは鳴っている。
 僕が横断歩道を渡り終えたと同時にチャイムの音が消えた。
 校門が無情にも閉じられていく。

 校門の前に立っている生徒指導の先生がニコニコ笑いながら、僕を見た。
「はい。アウト。なんだ澤田じゃないか。遅刻とは珍しいな。何かあったのか」
 先生が珍しい生き物でも見るように僕を見る。
「いえ、単なる寝坊です」
 迷い子の家探しをしていましたと言い訳をしたいところだが、チイちゃんのお母さんやフロントウーマンに迷惑がかかるかもしれないのでそんなことは言えない。

「そうか。あとで反省文を出しとけよ」
 反省文は書きます。何十枚でも書きます。
だから、遅刻したことを無しにして……くれないよな。
「はあー、分かりました」
 先生は僕の名前を手帳にメモしてから校門を開けてくれた。

 唯一自慢の無遅刻無欠席が途切れてしまった。
「石野。また、遅刻か。何回目だ」
 先生の呆れたような声が後ろから聞こえてくる。
「……」
 何かボソボソ言う女子の声が聞こえた。
 きっとあのマンションに住んでいる女子だろう。
 あの女子は石野って言うのか。石野って名前はどこかで聞いたことがあるような気がするが、思い出せなかった。

 教室に入って、窓側一番後ろの自分の席に座ると、机に突っ伏した。
「どうした、隆司。遅刻か? 珍しいな」
 前に座っている山崎紀夫が振り向いた。

 人見知りの僕にとって紀夫は、小学校、中学、高校12年間で9回も同じクラスになったという人生のほぼ半分を一緒に過ごした気安く話ができる唯一の友人だ。

「ああ、最悪だ。今まで続いていた無遅刻無欠席が……」
 僕は机に突っ伏したまま固まった。
「どうして遅刻したんだ?」
「迷い子の家探しをしていた」
「お前らしいな。たしか、小学校と中学校の時もそんなことを言って遅刻したよな」
 紀夫の言うとおり小学生の時も中学生の時も遅刻をして、無遅刻無欠席を逃している。

「あれは違う。小学校の時はOL風の人が定期を落としたって言うから一緒に探してたんだ。中学の時はおばあさんが駅への道がわからないって言うから駅まで送ったんだ」
「お前は本当に呆れるほど人がいいな」
「困った人を見たらほっとけないだけだよ。あの国道の信号さえ青だったら間に合ったのに。ついてないよ」
 あの信号待ちさえなかったらと思うと、すごく悔しい。

「まあ、悪い後はいいって、よく言うからな。きっとこれからいいことがあるよ」
 紀夫が慰めてくれるように言った。
ところが、紀夫の言葉はまったく外れていた。
 今日はついてなかった。次から次へと悪いことが起こる。

 寝坊して慌てて家を出てきたために、教科書を忘れてしまっていたり、せっかくやった宿題を家に忘れてきて先生に怒られたり、寝不足で頭がボーとしていたためか体育の授業で転けて膝を擦りむいたりとさんざんな1日だった。