♪樋口翔太

「過去には帰れない、なんて当たり前を言わないでくれよ」

未咲の置いていった千円札を折りたたんだまま財布に入れ、伝票を持ってお会計をお願いした。彼女が注文したものは普通に千円を超えていた。たったそれだけの事が少し面白く思えて、心の中で少しだけ笑った。財布から五千円札と、小銭を出した。お釣りを受け取って、店員さんの笑顔を背中に店を出た。
なんというか、今日はいい日だった。翼のこともある程度は自分の中で飲み込めた気がするし、新しい恋愛というものにも気兼ねなく進めそうだった。もちろん翼っていう大切な人がいて、その人を超えるような素敵な人は一生現れないんだろうけど。未咲は「それでもいい」って言ってくれた。過去に未練タラタラの僕を受け入れてくれた上に、高校時代のダサかった僕の事まで水に流してくれたみたいだった。
夕焼けの中、街を歩く人達の風景はいつになっても変わらない。駅前の交差点を電話しながら歩くサラリーマンとか、髪を派手な色に染めて騒ぐ大学生っぽい人達とか。変わっていく街並みの中で変わらないのは僕だけだ。なんて言ったら、どうせ二人に怒られちゃうから言わないでおくけど。
話は変わるけど、高校を卒業してから馬鹿みたいに早く過ぎ去った二年間は楽しかった。大学に行くことをやめてそのまま地元のローカルテレビ制作会社に就職した。最初は全く仕事に身が入らず怒られまくっていたけど、少し経ってから仕事のやり甲斐ってものに気づいた。自分が制作に携わった番組が駅前の大きなディスプレイで流れていて、それを見ていた子供と母親が笑っていた。傍から見れば、いつも夕方にやっている短い帯番組くらいの認識かもしれない。それでも、これを見て笑顔になってくれる人が少しでもいるなら頑張ろうと思えた。そんな小さな理由だ。
今日もあのディスプレイでいつもの番組が流れている。それを横目に家の最寄りのバス停を通るバスに乗る。
生きる意味、仕事をする意味、それらを見つけられる人生って素晴らしいと思う。まだ二十歳の若者がこんな事を言うのもなんだけど、僕は恵まれているし、運がいいと思う。そりゃあ不自由な生活を送ってきたし、漫画の世界かよってくらいの悲劇にも見舞われた。それだけ見れば確かに運は悪いかも知れないけど、その経験をした上で、今、僕は恵まれているし運がいいと言える人生に感謝してる。
救いようのない人生だってあるかも知れない。一生をかけても報われない事だって、この広い世界の中では日常茶飯事なのかも知れない。もしそんなことがあっても、「過去には帰れない」だなんて当たり前の事を言わないで、「こんな時だけど、未来の話をしよう」って言って欲しいと思う。崇高な理想ではあると思うけど、僕はそれが一番じゃないかと思うんだ。泣いても笑っても時間は進んでいく。辛くなったら立ち止まってもいいし振り返ってもいい。好きなだけ振り返って、後悔もして、それから未来を見よう。未来の話をしよう。そうすればきっと、少なからずいい方向に舵は切れると思うんだ。