♪樋口翔太:大人になって

「大人っていうのは、大人の真似をするのが上手い人達のことを総じてそういうんだと思う」

あれから何年か経っても、シリウスはずっと僕の上に輝き続けていた。歳をとって、成人式も終わった。この何年かの間にもたくさんの思い出ができた。その思い出の中に、翼の存在があったらどれだけよかっただろう。僕の声が届く、翼の声が聞ける世界があったらどれだけよかっただろう。望んでも手に入らないものが多すぎる。
きっと大人っていうのはさ、大人の真似をするのが上手い人達のことを総じて大人って言うんだと思う。僕はずっと、あの日に縛りつけられたまま大人になれていない。体と年齢だけが大人と言われるまでに育っただけだ。大人の真似なんか出来なくて、真似の仕方も知らない。世界に馴染めないまま生きてきた二十歳までの僕は、退院したあの日の僕のままだった。
それでも二十歳の誕生日の日、雪乃原未咲にもう一度思いを告げられてから、僕の人生はまた少しだけ変わった気がする。
呼び出された喫茶店で突然思いを告げられた。彼女はやっぱり高校の頃から変わらない。
「ねぇ、樋口君の中に翼ちゃんがいて、ずっと忘れられるわけが無いのはわかってる。それでも、私の中にも高校生の頃からずっと今まで樋口くんがいて、忘れられなかったんだ。あのさ。私、樋口君のこと好きだよ。ずっと。やっと、声で伝えられる」
「久しぶり。突然どうしたのさ」
「今日さ、誕生日でしょ?これ言うなら今日しかないって思って」
「そのために隣の市まで来る?」
「そのためじゃなきゃ来ないよ。好きな人に好きって伝えるってさ、それくらい大事なことなんだよ。わかってると思うけど」
「あ、うん、そうだね、確かに」
「ほんとに分かってた?」
「分かってたよ。ただ、ちょっといきなりそんなこと言われるとドキッとするというか」
「なんだ、翼ちゃんの事以外でドキッとするなんてことあるんだね」
「まぁ、音とか声がしっかり聞こえるようになってからは人並みにはドキッとする事はあるよ」
「例えば?」
「今みたいな」
「告白みたいな?」
「そう」
「あの高校生の時のクールな感じの樋口君はどこにいったの?」
「筆談だと手短に伝えようとするからクールに見えてただけだと思うけど」
「そんなもんなの?」
「そんなもんだと思うよ」
「なるほどね」
「まぁ、大学入って少しは明るくなったと思えるけどさ」
「そうなんだね……あのさ、さっきの返事は?」
「上手く話逸らせたと思ったんだけどな。ダメだったか」
「ダメに決まってるでしょ。どう?私じゃ、やっぱりダメかな?」
「恋愛ってさ、難しいね」
「ねぇ、もう話逸らさないで」
「逸らさないよ。あのさ、僕って惚れやすいタイプなのかな」
「え?突然なに?惚れやすいかどうかなんてわかんないよ」
「まぁそりゃわかんないよね。でも、なんか翼の事は忘れられそうにないのに未咲ちゃんの事もなんとなく好きになっちゃったみたいだ」
「遅いよまったく。二年も待ってた」
「でも、僕はまだ翼のことを忘れられそうにないのに、未咲ちゃんとしっかり向き合えるのかな」
「あのさ、忘れられそうにないってのは分かるから、樋口君の中にいるのはまだ翼ちゃんでもいいから少しずつでも私のことも見て。過去に囚われないで、私と一緒に前を見て。ね?」
「そっか、なるほどね。僕はやっぱり過去に囚われてたんだね」
「囚われてるって言うとちょっと言葉があれだけど。まぁ、あの頃のことはあの頃のことでセピア色に褪せるまで大事にして、今は今で一緒に歩いて行けたらいいなって思って」
「大丈夫、言いたいことはわかるよ。ありがとう」
「うん。だからそろそろ返事教えて?どっちでも覚悟できてるから」
「わかったよ。まだ翼の事を忘れられてない僕でよければだけど、一緒に歩いてくれる?」
「ほんとに?」
「うん。二年も待たせてごめんね」
「ありがとう。あのさ、さっきの一言なんだけど、翼ちゃんの事は忘れないであげて。ちゃんと思い出にして樋口君の中で大切にして」
「それでもいいの?」
「うん。むしろ、その気持ちを大切にしてる樋口君と一緒に歩いていきたいと思う」
「ん、そっか」
「だから、よろしくね」
「うん、僕の方こそありがとう」
「じゃ、私ちょっとこれから用事もう一件あるからそろそろ行くね。ここのお会計よろしく、彼氏さん」
「え?いきなり?」
「冗談だよ冗談。多分これくらいで足りるよね」
彼女は千円札をテーブルに置いて席を立った。卒業した時よりずっと大人っぽくなった背中がそこにあった。
彼女が店を出たのを確認して、すぐさま携帯でメッセージを送った。
「今日は本当にありがとう。楽しかったし、嬉しかった」
直ぐに既読はつかなかった。アプリをタスクキルして、テーブルに残ったアイスコーヒーを飲む。氷が全部溶けて薄くなったアイスコーヒーは、ちょっとだけ苦かった。
そのコーヒーとともに、今までの過去の全部を飲み込めた気がした。翼のことも、自分のことも、未咲のことも。これからのことだって、きっと大丈夫。