Beyond The Distance And Tragedy

♪樋口翔太

「iの二乗がマイナス一になるなんて、知らなければよかった」

翼さんのことを考え始めて二日。結局なにもまともに考えることが出来なかった。昨日の夜は頭痛に襲われて、なかなか寝付けなかった。なにか嫌な予感がした。小さいトゲが心の隅に刺さってるような、嫌な予感が。
 その日の夜中。なかなか寝付けなくて布団に潜り込んだまま何度も寝返りをうった。食欲がなくて夕食を口に運べず、歯を磨くのさえ億劫に感じられたり、かといって何をするにもだるいという訳ではないというのは久しぶりだった。小学生の頃とかはたまにあったけど、ここ最近はこんなにだるかった日はない。
 どうしても寝付けなくて布団から顔を出した。カーテンが激しく揺れていた。どうしたのだろうかと思ってカーテンを開けてみたら、僕の目にいつか来るとわかっていながら信じたくなかった光景が飛び込んできた。
 翼さんに繋がれた心電図モニターの線が正常な波形とは違う波形を示している。赤いランプが点滅している。発作が起きたことは明白だった。数人の看護師さんと長峰先生と翼さんの両親が翼さんのベッドを囲んでいた。僕は訳が分からなくなって動きを止めた。ただ目の前の静かな喧騒を眺めることしかできなかった。
 それからまたちょっと経って、心電図が波形を示さなくなった。ただ無機質な緑色の一本の線が流れていく。横に表示されている数字はゼロだ。僕でもわかる。翼さんの心臓は止まった。長峰先生は胸骨圧迫をしている。翼さんの両親は何かに祈るように手を組んでいた。やっぱり僕は、その静かな喧騒を眺めることしかできなかった。
何分か経った。長峰先生は胸骨圧迫をやめて腕時計を見た。そして看護師と両親に何か一言伝えた。僕はその行為の意味を分かっているつもりだ。
 翼さんは亡くなった。僕の目の前で。大好きな人が死ぬっていうのはもっと辛いものだと思ってた。ドラマや小説なんかで見る、ヒロインを失った主人公の心境なんか一つも当てはまらない。ただ、虚無感だけが心に重くのしかかってきた。こんな時なのに、頭の中に数学の式が浮かんできた。その式に対して心の中に自分自身を焦がすくらいの憎悪の炎が燃え盛った。
『iの二乗はマイナス一』
愛の二乗も結局マイナスになっちゃったじゃないか。ろくに届かないままの中途半端な気持ちなら、マイナスに変わりはないんだ。そんな数式、知らなければよかった。
僕はカーテンを閉めた。冷静さなんてこれっぽっちもないまま、また布団に潜り込んだ。心臓の鼓動は早く細かい。いっそこのまま僕も発作が起きて死んでしまいたい。とすら思った。
 寝られるわけもなく、じっとしてるのも耐えられなかったからすぐに起きた。またカーテンを開けた。さっきと何も変わらない光景が目の前に広がる。正面のベッドに横たわっているのは翼さんじゃなくて翼さんだった身体だ。僕にはあれが翼さんだと認識できなくなっていた。それくらいにどす黒い虚無感が心を覆っていた。
 僕に気づいた看護師さんが気を使ってくれたのか、ペンを取ってくれた。
「樋口君、翼さんは亡くなったわ」
「見ればわかります」
「本当に辛いでしょうけど、君は翼さんの分まで……」
「長生きしろって言いたいんですよね?」
「そう。ありきたりなことしか伝えられないけど、それが一番いいと思うの」
「そうですね、分かっているつもりです。でも、彼女のいない世界に僕はいる意味が無いと、そう思うんです」
「また聞いたことあるような事だけど、君が後を追ったところで翼さんは喜ばないと思うわ」
「その通りですよね。そうだと思います」
「なら、なんで」
「今まで生きてきて、悲しいことはたくさんありました。この耳のおかげでいじめられたりだとか、数え切れないほど色々と。それでもなんとか生きてこれた。でも、大好きな人を失って、それでもまだ生き続けることがもう辛いんです」
「気持ちはわかるわ」
「分かってほしいとは思いませんよ。この気持ち、虚無感って言うんですか、これはきっと味わった人にしかわからないと思いますから」
「……」
次の言葉を絞り出すことができない看護師さんの後ろで、長峰先生が翼さんの両親と話している。三人とも泣いているように見えた。
「でも、僕は死のうなんて思ってません。生きていたいとは思わないけど、死にたいなんてろくでもない事は考えません」
「樋口君はどうしたいの?」
「今は、何もしたくありません」
「そう、分かったわ」
「すみません、ちょっとまだ何も飲み込めていなくて。一人にしてもらえますか?」
「あ、ごめんね。分かった」
いつも検温をしてくれる優しそうな看護師さんの顔が、なんだかいつもとは違う感じに見えた。普段の顔は鍍金でもしたようにいつも笑顔で、優しそうなのに、今日、というか多分今だけはその鍍金が剥がれ落ちて別人のように見えた。誰かの死を看取ると人は顔つきが変わるのだろうか。だとしたら僕も、今の顔は普段の顔と違う表情なのだろうか。
翼さんの遺体が運び出され、僕は部屋に一人になった。慌ただしかった部屋は静まり返った。どうしてこんなに暗いんだろうかと思ったけど、そういえば今夜は新月だったことを思い出す。新月。確かにそこにあるのに見えもしない。手も届かない月がいつもより割りかし遠くにあるように思えた。
 翼さんの命の糸が切れる寸前、彼女は僕の方を見て、苦痛に歪んだ顔で僕に向けてゆっくりと唇を動かした。読唇術なんか使えない僕だけど、翼さんは確かにこう言った。
「あり……が……と……う」
聞こえはしなかったけど絶対にそう言った。間違えるわけはなかった。そんな悲しげな五文字を残したまま大人になれなかった翼さんと、最後の言葉を聞き取ることも出来ず中途半端に大人になっていく僕。こんなちぐはぐな感じにも関わらず対極にある様な僕らは、まるでさそり座とオリオン座。どこまで追いかけても追いつけない。
 少しだけ窓にかかったカーテンを開けた。新月だったこともあって、いつもより暗い夜空にいつもよりたくさん星が光っていた。オリオンの右肩も、いつもより数段輝いて見えた。やっぱりベテルギウスが放つ光が五百年前の光だなんて、信じられない。今見えてる光が五百年も前にあの星を離れていた。そんな事実が僕を余計に追い詰める。
 知っている星座を全部見つけた頃、長峰先生が部屋に入ってきた。