♪高橋 壱誠

「本当に感謝すべきは」


診察室の重い扉を開ける。
「失礼します。私は高橋翼の父、壱誠と妻の由美子です」
「高橋さんですね、私は翼さんの主治医の長峰響一といいます」
「長峰先生…あの、娘は?」
「落ち着いてください。順を追って説明させていただきますから」
俯いている長峰先生の顔には、翼の事に関して何らいい情報は無いと書いてあるような気がした。いつだって、悪い予感は当たるものだ。長峰先生が少し戸惑いながらも発した言葉は、親の私たちを絶望のどん底にたたき落とすには十分な威力だった。
「翼さんの余命は、長くて一月、短ければ一週間から二週間です。発作による急変が起これば、今日とも明日とも知れません」
「え?まさかそんな…」
「お父さん、気持ちは分かります。こんな事実、飲み込めないということも分かった上であえて私は伝えています」
「もう助かる見込みは無いんですか?」
「残念ながら、翼さんが、移植なりバチスタなりの手術を受ける意思が無い以上、私達にはどうすることも出来ません」
「あんた……患者の家族にそんな普通の顔で余命宣告なんてよく出来るな……」
俺は、それを意図してやった訳では無いと思う。でも結果的に、長峰先生の左頬を思い切り殴ってしまった。由美子の制止も間に合わなかった。
「落ち着いてください。私も何度も話はしたつもりです。でも、彼女の意思は固かった」
「そんな。だって翼は、家で『やっと本気で好きな人ができた』と嬉しそうな顔で言っていたんです。そんな時に、命を捨てるような選択なんてするはずないですよ」
「その好きな人というのは、樋口翔太君という名前ではありませんか?」
「……どうして、その名前を長峰先生が」
「翼さんの同室に入院しているのが、まさにその樋口翔太君本人なんです。回診の医師や検温の看護師から見る限り、彼らはとても幸せそうですよ」
「そうか……彼が。樋口君は娘の同級生で、ことあるごとに家で彼のことを話していました」
「そうですか……」
俺はなんとなく、本当になんとなくだが、少しこの状況が飲み込めた気がする。最近の翼の幸せそうな笑顔を創り出してくれていたのは彼で、その彼が今、翼と同じ空間にいる。それだけでなんだか安心できるような気分になった。
本当に感謝すべき人はきっと彼なんだろう。