♪高橋 翼


「悩んだ末に出した答えでも、きっと正解なんかじゃない」

赤い糸がまだちゃんと繋がっているか確認し合って、私もペンを置いた。病室に差し込むオレンジ色が少しずつ濃くなってきて、また夜が来るんだと実感する。
夜になると酷い不安に襲われる気がする。ただでさえいつ死ぬのかもわからない上に、真正面のベッドには樋口君がいる。いくら違うベッドだからといって、いくら雰囲気に流されてキスしたとはいえ、いざ同じ部屋で寝るとなると無駄に意識しちゃうし、緊張しちゃう。ほんとに、我ながらめんどくさい性格だと思う。
病室に差し込む光に黒が混じり始めた。あぁ、嫌だ。と思った時、看護師さんが入ってきた。
「高橋さん、具合はどうですか」
「あまりよくありません。主にメンタルの方が」
「まぁ、そうよねぇ。いきなりあんな事言われたら私だって参っちゃうわ」
「今でも信じたくないです」
「そうね、気持ちは分かるわ。でも、事実は受け入れなきゃね。はい、体温測って」
「はい。まぁ、確かにそうなんですけど」
「高橋さんがどんな選択をするかなんて私には分からないけど、後悔をしない選択をしてほしいと思うわ。こんなありきたりな事言っても、意味ないかもしれないけれど」
「いえ、嬉しいです。もっとも、後悔をしない選択なんて現時点で分かるはずもないんですけど。あ、三十六度八分です」
「まぁそうよね。相手がジャンケンで何出してくるか考えるようなものだわ。平熱ね、良かった」
「ありがとうございます。なんか少し、決めれそうな気がしてきました」
「そう…良かったわ。じゃ、ゆっくりおやすみなさい」
看護師さんは、検温などの道具が乗ったワゴンの様なものを押しながら、病室から出ていった。
ネットに上がっていた曲の歌詞に、こんなフレーズがある。

「運命なんて無い 最初から あるのは選択だけ 決められた レールの上なんて 走りたくなんか ないだろう」

後悔をしない選択って言うのは多分、遠回しに言うところの「死なないでほしいとか、早く元気になってほしいとかいうみんなの気持ちを踏みにじらない選択肢を選ぶこと」なんだろう。
それなら私は、選ぼう。あえて別の道を。移植やバチスタの手術は受けず、延命装置などは付けない。最期はそっと見守られながら旅立つという道を。
わがままを言えば、死ぬ前に行ってみたいところが二箇所ある。モネの池っていう、岐阜県にある透明度が高くて、景観もとても綺麗な場所。もう一つは新宿御苑っ。晴れたらモネの池、雨が降ったら新宿御苑。どちらも今の私にはとても魅力的な場所。
希望か絶望か。普通に生きていればまず問われる事すらないこんな質問。もし問われたとしたら、どうだろうか。多分ほとんどの人が希望に手を伸ばすんじゃないかと思う。でも、それが本当にいいと言える決断なのだろうか。分からない。もう助からないと言われて、命すら諦めていた病気に、「明日治療法が分かるかもしれない」と言われて人は「そうか、そうだよね」と前を向けるのか。分からない。多分私はそんなことは出来ない。長峰先生は私を励ましてくれてるけど、医者は患者の前で弱いところなんて見せないで、虚勢を張るんだ。本当は先生だってこんな思い病気の患者なんか投げ出してしまいたいと思っているに違いない。
私の体に巣食った病気の名前はもう分かってる。どんな病気なのかも分かった。そのうえで私は無闇に命を引き延ばさず、自分から死に歩み寄っていくことを選んだ。後悔はない。こんなこと、家族にはどうやって伝えたらいいのかな。分からないことだらけだ。
そうだ、きっと私は人生ゲームに負けたんだ。ルーレットを回して出た数の分、マスを進めたら、そこに「心臓病にかかって余命宣告」とか書いてあったんだろうな。かけることのできないブレーキならついてない方がいいというのに。あぁ、大事なときに運が悪いのは本当に生まれつきみたいだ。だから今回のこの決断もきっと、悩んだ末に出したからと言って正解とは限らないんだ。
それに、悩みなんて挙げたらキリがないほどある。遺書をどうしようか。家族にはどう伝えるか。樋口君とはこれからどうしたらいいのか。本当に尽きない数多くの悩みを一つずつ消していって、私は平穏に死んでいくことが出来るのだろうか。