♪高橋翼
「抱えたものは大きくて、失ったものも大きくて」
目を覚ました。消えたのは胸の痛みと苦しみと、日常だった。視界の隅にいてほしくなかった人がいて、見てしまった瞬間に涙が出た。酸素マスクが邪魔で涙が拭えなかった。
「ねぇ、オリオン座のベテルギウスの輝きを微分せよって言われたらどうする?」
少し会話を交わしていて、突然そんなことを聞かれた。なんの脈絡もない中で、突然の意味のわからない質問に正直戸惑った。目を逸らした。
「え、なにそれ意味わかんないよ」
思ったことをそのまんま返した。どうして樋口君はあんなことを聞いてきたんだろう。
逸らした視線を戻すと、また目が合った。二人同時にまた目を逸らす。
誰かが病室をノックした。入ってきたのは顔立ちの整った若い医者と数人の看護師だった。私は聞いた。
「あの、私はなにかの病気なんですか?」
「それを話しに来たんだ。心臓外科の長峰です。まぁ落ち着いて。」
「落ち着けるわけがないです」
「でも落ち着いてくれ。こちらとしても、あまり話したくないことを話さなければならないんだ」
あぁ、やっぱりそうなんだ。ってことは余命宣告か難病の宣告かどっちだろう。樋口君の顔、見れない。
「君のお母さんには先ほど救命の方で話はさせてもらった。僕はあまり話すことに気は進まない。でも単刀直入に言うしかないから聞いてくれるかい。いいかい、君は拡張型心筋症という心臓の病気なんだ」
「心臓の…病気ですか」
「そう。心臓がゴム風船みたいに膨らんで、しかるべき機能を果たせなくなった状態になってしまう病気なんだ」
「治す方法はあるんですか」
「あるにはあるが…」
「とても難しい、そうでしょう」
「あ、あぁ。現状は心臓移植か、今はバチスタ手術というものもあるが…」
「二択なんですね」
思いのほか、私は落ち着いていた。落ち着けるわけがないと言っておきながら、とんでもない宣告を受けたにも関わらず、特に取り乱す気にもならなかった。むしろ受け入れられる気さえしていた。
「君はどうしたい?このまま放置しておけばいつその時が来るかもわからない」
「心臓移植は、アメリカに行くしかないんですよね」
「そうだ、この国で移植はできないよ」
「じゃあバチスタ手術はどうなんですか」
「一応その道の権威がいるにはいるけど、打診してみるかい?」
「その手術って難しいんですか」
「成功率は高く見積もって六十パーセントと聞いたことがある。この数字を聞けば分かるだろう」
「六割…」
「でもやらなければ生きられる確率はゼロパーセントだ。君はどうする?」
「少しだけ、考える時間をください。必ず答えは出しますから」
六割に賭けるか、外国で移植を受けるか、何もせず残りの時間を大切にするか、三つの選択肢の中から一つ選ぶだけなのに、センター試験の四択より何百倍も難しい。どれも嫌だ。選びたくない。死にたくない。
ゼロか百か、生きるか死ぬか、そんな小説の中みたいな選択を、まさか自分がすることになるなんて思いもしなかった。
それでもやっぱり、選ばなければならなかった。三つのうちの一つを、自分が納得できる道を。
「まぁ一週間くらいゆっくり考えて、それからでいいからどうしたいか教えてくれるか」
「…分かりました。一週間ですね」
「あぁ、本当は一週間だって長いくらいなんだ」
「…そうですか」
この一週間の中でも、発作が起きないとも限らない。もしかしたら次に発する言葉が最後の言葉になるかもしれない。そう考えるとどうしようもなく怖い。
抱えた気持ちの大きさが大きいと、こういった時に失うものも大きくなる。きっとそれは必然で、世界の誰もがそうなんだ。
「長峰先生、私…どうしたらいいんですか」
「どうしたらって」
「今まで普通に生きてこれてたのに、突然そんなこと…それこそ、もしかしたら死ぬかもなんてあまりにもひどい話じゃないですか」
「それは、確かにそうだが」
「こんなこと先生に言っても無駄だってことは分かってますよ。すみません。でも誰かに言わないと私が壊れちゃいそうで、怖いんです」
「いいさ、言いたいことは言うべきだよ。主治医として、出来ることはするから、言ってくれ」
「ありがとうございます」
きっと、この先生はいい人なんだろうと思った。いい医者じゃなくていい人。医者としての腕はどうか分からないからいいとは言いきれないけど、人としてはとてもいい人だと思う。
私の病気の話が終わって長峰先生がどこかへ行った後、樋口君のいるベッドにそっと視線を移した。カーテンが閉められていた。こんな時なのに、顔も見せてくれないなんて。
私はどうしたらいいの。生きるか死ぬかを一週間で選ばなければいけないなんて、無理だよ。樋口君は優しいから、きっと「死なないで」とか言うんだろうけど。と言うか、知り合いとか恋人とか友達がそんな状況になったら、誰だってそう言うんだろうな。
十八年近く付き合ってきたこの身体に、明確でとんでもなく大きな異状が見つかってみて、今更恐怖を感じてしまっている。言わばいつ爆発してしまうか分からない時限爆弾を心臓に抱えてしまったようなものだ。デジタル数字がカウントダウンをせずに完全にランダムに動いている。いつゼロになって動きを止めて、身体機能が停止するかわからない。そんな恐怖が鉛のように両肩と背中にのしかかってきた。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。死ぬのは嫌だ。どうして私なの。思いきり頭を掻きむしった。息が荒くなった。
冷静になれ、私。と心では思っても無理なものは無理だった。長峰先生に愚痴とかを言って病気が治るならいくらでも言ってやるのに。なんなら怒鳴りつけて、言葉を力の限り投げつけてやるのに。無駄だとわかってるから、抑え込んだ。涙は出なかった。でも枯れ果てたわけじゃない。
等速直線運動みたいな生き方をしてきて、たまに加速はしても立ち止まらずに来てしまっていたのに。樋口君と会って少しだけスピードが弱まった気がしてた。もうそろそろ立ち止まるべき時期みたいだ。立ち止まって、考えなければいけない。これから私はどうするか、どうしたいのかを。
「抱えたものは大きくて、失ったものも大きくて」
目を覚ました。消えたのは胸の痛みと苦しみと、日常だった。視界の隅にいてほしくなかった人がいて、見てしまった瞬間に涙が出た。酸素マスクが邪魔で涙が拭えなかった。
「ねぇ、オリオン座のベテルギウスの輝きを微分せよって言われたらどうする?」
少し会話を交わしていて、突然そんなことを聞かれた。なんの脈絡もない中で、突然の意味のわからない質問に正直戸惑った。目を逸らした。
「え、なにそれ意味わかんないよ」
思ったことをそのまんま返した。どうして樋口君はあんなことを聞いてきたんだろう。
逸らした視線を戻すと、また目が合った。二人同時にまた目を逸らす。
誰かが病室をノックした。入ってきたのは顔立ちの整った若い医者と数人の看護師だった。私は聞いた。
「あの、私はなにかの病気なんですか?」
「それを話しに来たんだ。心臓外科の長峰です。まぁ落ち着いて。」
「落ち着けるわけがないです」
「でも落ち着いてくれ。こちらとしても、あまり話したくないことを話さなければならないんだ」
あぁ、やっぱりそうなんだ。ってことは余命宣告か難病の宣告かどっちだろう。樋口君の顔、見れない。
「君のお母さんには先ほど救命の方で話はさせてもらった。僕はあまり話すことに気は進まない。でも単刀直入に言うしかないから聞いてくれるかい。いいかい、君は拡張型心筋症という心臓の病気なんだ」
「心臓の…病気ですか」
「そう。心臓がゴム風船みたいに膨らんで、しかるべき機能を果たせなくなった状態になってしまう病気なんだ」
「治す方法はあるんですか」
「あるにはあるが…」
「とても難しい、そうでしょう」
「あ、あぁ。現状は心臓移植か、今はバチスタ手術というものもあるが…」
「二択なんですね」
思いのほか、私は落ち着いていた。落ち着けるわけがないと言っておきながら、とんでもない宣告を受けたにも関わらず、特に取り乱す気にもならなかった。むしろ受け入れられる気さえしていた。
「君はどうしたい?このまま放置しておけばいつその時が来るかもわからない」
「心臓移植は、アメリカに行くしかないんですよね」
「そうだ、この国で移植はできないよ」
「じゃあバチスタ手術はどうなんですか」
「一応その道の権威がいるにはいるけど、打診してみるかい?」
「その手術って難しいんですか」
「成功率は高く見積もって六十パーセントと聞いたことがある。この数字を聞けば分かるだろう」
「六割…」
「でもやらなければ生きられる確率はゼロパーセントだ。君はどうする?」
「少しだけ、考える時間をください。必ず答えは出しますから」
六割に賭けるか、外国で移植を受けるか、何もせず残りの時間を大切にするか、三つの選択肢の中から一つ選ぶだけなのに、センター試験の四択より何百倍も難しい。どれも嫌だ。選びたくない。死にたくない。
ゼロか百か、生きるか死ぬか、そんな小説の中みたいな選択を、まさか自分がすることになるなんて思いもしなかった。
それでもやっぱり、選ばなければならなかった。三つのうちの一つを、自分が納得できる道を。
「まぁ一週間くらいゆっくり考えて、それからでいいからどうしたいか教えてくれるか」
「…分かりました。一週間ですね」
「あぁ、本当は一週間だって長いくらいなんだ」
「…そうですか」
この一週間の中でも、発作が起きないとも限らない。もしかしたら次に発する言葉が最後の言葉になるかもしれない。そう考えるとどうしようもなく怖い。
抱えた気持ちの大きさが大きいと、こういった時に失うものも大きくなる。きっとそれは必然で、世界の誰もがそうなんだ。
「長峰先生、私…どうしたらいいんですか」
「どうしたらって」
「今まで普通に生きてこれてたのに、突然そんなこと…それこそ、もしかしたら死ぬかもなんてあまりにもひどい話じゃないですか」
「それは、確かにそうだが」
「こんなこと先生に言っても無駄だってことは分かってますよ。すみません。でも誰かに言わないと私が壊れちゃいそうで、怖いんです」
「いいさ、言いたいことは言うべきだよ。主治医として、出来ることはするから、言ってくれ」
「ありがとうございます」
きっと、この先生はいい人なんだろうと思った。いい医者じゃなくていい人。医者としての腕はどうか分からないからいいとは言いきれないけど、人としてはとてもいい人だと思う。
私の病気の話が終わって長峰先生がどこかへ行った後、樋口君のいるベッドにそっと視線を移した。カーテンが閉められていた。こんな時なのに、顔も見せてくれないなんて。
私はどうしたらいいの。生きるか死ぬかを一週間で選ばなければいけないなんて、無理だよ。樋口君は優しいから、きっと「死なないで」とか言うんだろうけど。と言うか、知り合いとか恋人とか友達がそんな状況になったら、誰だってそう言うんだろうな。
十八年近く付き合ってきたこの身体に、明確でとんでもなく大きな異状が見つかってみて、今更恐怖を感じてしまっている。言わばいつ爆発してしまうか分からない時限爆弾を心臓に抱えてしまったようなものだ。デジタル数字がカウントダウンをせずに完全にランダムに動いている。いつゼロになって動きを止めて、身体機能が停止するかわからない。そんな恐怖が鉛のように両肩と背中にのしかかってきた。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。死ぬのは嫌だ。どうして私なの。思いきり頭を掻きむしった。息が荒くなった。
冷静になれ、私。と心では思っても無理なものは無理だった。長峰先生に愚痴とかを言って病気が治るならいくらでも言ってやるのに。なんなら怒鳴りつけて、言葉を力の限り投げつけてやるのに。無駄だとわかってるから、抑え込んだ。涙は出なかった。でも枯れ果てたわけじゃない。
等速直線運動みたいな生き方をしてきて、たまに加速はしても立ち止まらずに来てしまっていたのに。樋口君と会って少しだけスピードが弱まった気がしてた。もうそろそろ立ち止まるべき時期みたいだ。立ち止まって、考えなければいけない。これから私はどうするか、どうしたいのかを。