♪樋口 翔太

「一つ一つの雨の降り方にも、名前があるように」

そうだよ。今更気づくなんて僕は甘かったんだよ。「当たり前」なんて存在する訳がなくて、でも君が僕の心の中にいることがいつしか当たり前になって、そして壊れた。
僕の今までの人生で、思い出と呼べるアルバムみたいな物の中に、君のいないページは無い。そんな気がする。君の笑顔で、仏頂面で、泣き顔で埋め尽くされていて、幸せだった。
でもそれがさっきの何分かで崩れ去った。美化されてた思い出が急速に色褪せて、セピア色に変わってしまう。
ネガフィルムに透過してしまうような気持ちで君を愛していたわけじゃないのに。
それなのに。
出会わなければよかったのかな。
やっぱりダメだ。どうしてこんなことに。
頭が痛くなってきた。
やっぱりきっと僕達は、ノアの方舟には乗れない存在だったんだ。幻を夢に見て、それにいつまでも浸っていた罰だった。
ただじっと、ベッドに横たわっている彼女を見つめていた。秒針が三十周くらいして彼女は目を開けた。ゆっくりと起き上がって、僕と目が合う。驚く。
向かい合ったベッドの上で向かい合った僕達は多分、同じタイミングで涙を流した。彼女の頬を伝う一筋の煌めきが、視神経を通って脳に伝わる。また頭がズキンと痛む。側頭部を押さえて下を向く。白い布団の上に水滴がぽつんと落ちて、染みを作った。
どうしていつも、災難の後には災難がやってくるんだろう。幸運と災難が交互にやって来るなら、まぁ分からなくもないのに。
今までもそうだったけど、僕の人生には高くて乗り越えるのが辛すぎる壁と、災難が多すぎる。生きるのが嫌になる。「どうして翼さんがそんなことに?」
怖かったけど、思ったことにそのまま疑問符をつけてみた。
「分からない。突然胸が苦しくなって、気づいたらベッドの上だった」
「何かの病気とかなのかな?」
「それも分からないよ」
「そっか」
本人に分からないことは尋ねても仕方無い。止まった涙を拭って、これ以上は何も尋ねないでおいた。その代わりに一つ別のことを尋ねてみた。
「ねぇ、オリオン座のベテルギウスの輝きを微分せよって言われたらどうする?」
「え、なにそれ意味わかんないよ」
「やっぱりそうだよね」
何も分からずに死んだ感情をどうすればいいのか分からない。人が生き返らないのと同じように、死んだ感情も元には戻らない。人も、虫も、犬も、猫もいつかは死ぬと分かってはいる。星も寿命が来て、超新星爆発を起こして、白色矮星とか黒色矮星とかブラックホールになる。死んだ星さえも、元へは戻れないのだから、たった一人の心なんて傷つくだけで、もうどうにもならない気がしてしまう。
どうしようもない悲しみがホコリみたいに積もっている。
どこへとも向けようのない憎しみが消え掛けの焚き火みたいに燻っている。
運命に対する怒りがマグマみたいに滾っている。
それなのに、今の自分は驚く程に落ち着いていた。渦巻く感情がこのクソ狭い心の中でぶつかって、ぶつかって、少しずつ綻びてきて、最後は砕けて全部の感情が粉になった。
もう一度翼さんを見た。また目が合った。また目をそらした。その数秒あと、なにかに気づいたように翼さんが病室の扉の方を見た。少し遅れて、若い感じの医者と数人の看護師が入ってきた。翼さんとなにか話している。
向かい合った翼さんと医者は深刻そうな顔で言葉を交わしている。そしてある一言を医者が言ったその時、翼さんは何かを悟ったような、でも驚きが隠せないような、よく分からない表情をした。
立てた予想が外れていることを強く願いながら、また僕はベッドに横たわった。
約八十年の中の数分が流れていく。刻一刻と僕達は死に近づいていく。朝が来れば、それは、死に一日近づいたということになる。
人は皆、死に向かって全力で生きているんだ。