♪樋口翔太

「答えの出せない問題にぶち当たるのは、いつも誰かに恋をした時だ」

いつの間にか眠っていた。カーテンから漏れる少しの明かりと、雀かどうかはわかんないけど鳥の鳴き声で目を覚ました。病院のベッドに座っていること以外は普通の、いつもの朝が来ていた。時計はちょうど六時半を指していた。目覚まし時計が無が無い状況で、こんな時間に目が覚めたのは久しぶりな気がする。
特段不思議というわけでもないけど、なんだか変な夢を見た。数学の期末試験を受けている夢だったんだけど、問題の意味がよくわからなかった。言ってしまえば、数学と地学と国語がごちゃ混ぜになったような、こんなような問題が出題された。

問一,解答者自身の心に占める愛する人への気持ちの大きさを証明せよ。ただし「好き」の二文字は使用を禁ずる。

問二,オリオン座のベテルギウスの輝きを微分せよ。ただし、観測者の心情は考慮しないものとする。

問三,月と地球の距離は約三十八万キロである。これを踏まえて、解答者自身の心と一光年離れた先の恋との距離を求めよ。

答え方すら全くよく分からない問題を前に、僕は目の前の紙を白紙で提出した。こんな滅茶苦茶な問題が成り立つわけがないと思った。
答えの出せない問題にぶち当たることが今までもあった。その問題には、読解法も無ければ公式もない。ただ、それにぶち当たった時の僕は誰かに恋をしていた。
そんな不思議な夢を見たけど、特段気になることもなく、いつものの気持ちのいい朝だった。相変わらず顔の傷は少し痛むし、腰から下の動きはとても鈍いし、足のギプスはガチガチだけど、爽やかな朝だった。
そういえば、ずっと誰にも伝えなかったことがある。いつかの夢の中で、翼さんの声が聞こえた。僕の声も聞こえた。実際に翼さんの声を聞いたわけじゃないから、本当に翼さんの声なのかどうかわかんないけど、多分あれは翼さんの声だと思う。きっと僕の声も、本当に喋れていたならあんな声だと思う。
その夢を見るまで僕は、声なんて人っていう楽器が出す音なんだろう程度に思ってた。でもそんなことは無かった。僕の声はまだしも、翼さんの声はとても綺麗だった。
やっぱり僕は、翼さんの全てが大好きだった。愛おしくて、苦しくて、それでも本当に「愛してた」っていう言葉さえも似合ってしまうような、そんな恋だ。
六等星に光り方を教えても仕方が無い。六等星には六等星なりのいいところがある。弱々しい光の儚さと、遠く離れていても確かに僕らの目に届く強さを持っている。
僕と翼さんは、例えるなら多分一等星と六等星くらいの大きな差がある。いつも明るい彼女は、周りの人を惹きつけてみんなに愛されていた。それに比べて、自分の声も、他人の誰の声も知らない僕は、自然といつも一人になっていった。日常生活に協力してくれる友達はいたけど、ちょっと困ったその時に協力するだけの関係のような感じだった。
確かに彼女の事は大好きだ。これはほかの誰にも負けない自信はある。でも、僕が彼女の隣に立つ資格のある人間かと聞かれると自信が無い。きっと僕はそんな器じゃない。僕が隣に立って、一緒に歩くことで、負担になることは分かりきっていた。だから、やっと通じた想いさえ今、断ち切ってしまおうかとさえ思ってしまう。
ギターの六弦が切れるみたいに、鈍い音が心の中で響いた。やっぱりこの気持ちを断ち切ることは、絶対にできない。切れるのはギターの弦だけで十分だ。彼女のことを愛するという道を選んだその時の自分を、嘘つきになんてさせる訳にはいかなかった。ましてや、一度は通じたその気持ちを一方的に断ち切るなんてできなかった。
ストロークでもアルペジオでも語れないこの気持ちをどうやって表現したらいいんだろうって、悩んだ。小さな楽器とかが奏でる話じゃなくて、もっと大きな、太陽系の外側の、エッジワース・カイパーベルトとかオールトの雲みたいな、広い規模の話だと思う。
そんな状況の中で、今の僕には受け入れ難い現実が目の前に現れた。
よく知った顔の彼女が、人工呼吸器をつけられた状態で僕のベッドの前の、空いたスペースに運ばれてきた。
どうして。
なにがあったんだ。
意味がわからない。
分かりたくもない。
嘘だ。嘘であってくれ。
どうして。どうして。どうして。
信じたくない。どうしたらいい。
泣くことすらもできない。
昨日、あんなに元気そうだったのにどうして。どうして君は、今そんなに多くのチューブに繋がれてしまっているの。答えてよ。あの夢の中の声で。僕に教えてよ。何があったのか。昨日の君に何があって、今日の君がこうなっちゃったの。
返事なんて返ってくるはずもなくて、もし彼女が話せる状況にあったとしても、僕は何も聞こえないから意味が無い。何でこんなにも僕はクソみたいな世界に生きることを強いられているんだろう。分からない。
永遠の中にも一瞬の中にも、人は生きている。生まれてすぐ、一本の時間というレールに乗って、命が尽きるまで走り続け、いつかは離脱する。永遠に等しい時間の中のほんの一瞬の煌めき。それが僕達人間の命なんだろう。