♪高橋翼
『矛盾なんて存在するのが当たり前だと思っていた』
家のドアを開けた瞬間、暖かい風とカレーの匂いが私を迎えた。少し遅れて、ドアの音に気づいたのかお母さんの「おかえり」と言う声が聞こえた。
「ただいま、今日はカレー?」
「よく分かったわね、っていうか匂いで分かるか」
「玄関まで匂い充満してるもん。ごめん、タオルもらっていい?」
「そっか、雨降ってたんだっけ。すぐ持ってくわ、待ってて」
「うん」
びしょ濡れの自分を鏡で見るのを想像した。髪の毛はぺちゃんこだろうし、服も身体に張り付いてみっともないだろうし。これでメイクなんてものまでしてたら顔までメイクが溶けたドロドロの魔女の完成だ。まったく、ひどい想像をしてしまった。
「やだ、びしょ濡れじゃないの」
タオルを持ってきたお母さんが私を見るなりそう言った。
「そりゃ雨が強かったからびしょ濡れだよ」
「早く拭いてお風呂入っちゃいなさい。夕飯もうちょっとかかるから」
「分かった」
持ってきてくれたバスタオルを受け取って、体にへばりついた水滴を歩いても床を濡らさない程度に拭き取った。そしてそのままバスルームに向かった。
びしょびしょの服を脱いで洗濯機に放り込み、シャワーを浴びて湯船に浸かった。お湯はいつもと同じ温度なのに、なぜだか少しぬるく感じた。そうか、寒かったんだ。
湯船の中で、お湯とは似ても似つかないあの温かさを思い出す。どうしようもなく優しくて、狂おしいくらい大好きな約三十六度が心に染みていた。
湯気で曇った窓に、指で笑顔のマークを描いた。その目の端から、重さで耐えきれなくなった水滴が涙みたいに垂れていった。
適当に描いた笑顔が泣き顔になって、これは私だと直感的に思った。見た目は笑っているのに泣いてるなんて、今の私そのものなんだと思った。強くありたいといつも思うのに、どうして悪い方に考えてしまうんだろうか。自分のことながら、訳が分からなかった。
手足が白っぽくふやけ始めた。どうせ夜は長いんだからもうちょっとお風呂に浸かっていたい気もしたけど、夕食があるからそういう訳にもいかなかった。脱衣所に出て、部屋着に着替えてから髪を乾かしてキッチンの方に向かった。
夕食が並んでいるテーブルで、もう家族がみんな待っていた。
「ごめん、遅くなった」
「たいして待ってないわよ、盛り付け手伝ってね」
「うん」
「あとご飯盛ってカレーかけるだけだから」
「翼、俺のやつ少し多めによろしく」
「僕のは普通盛りにしてね」
お父さんと弟の量の注文の声が被った。私は聖徳太子なんかじゃないからそんなに一度に言われてもわからないのに。とりあえず適当に盛っといて後で調節してもらえばいいかと思って、多分これくらい食べるだろうって量を盛り付けた。もちろん私は自分の食べられる丁度いい量だ。
「いただきます」
私は久しぶりのカレーライスを口に運び続けた。掛け値なしに美味しかった。やっぱり私はこの味が大好きだ。
不意に視界がぼやけた。お母さんの驚いたような声が数秒遅れで聞こえた。
「え、ちょっとあんたなんで泣いてんの」
そう言われて自分が今泣いてることに気づいた。そうか、視界がぼやけたのは涙のせいなのか。まったく、最近泣いてばかりだ。
スプーンを一旦置いて、袖口で涙を拭った。次々と溢れてくる涙を、この袖口は拭いきれるだろうか。
「あんた、なんかあったの?」
「なんにも、なんにも無いよ」
「何も無かったならどうして泣くの」
「どうしてだろう。分かんないよ。」
「そう…」
それ以上お母さんは何も聞いてこなかった。本当は全部わかってたけど、言えなかった。大好きな人と体温を分かちあって、唇を重ねたなんて言えるわけがなかった。
嬉しいのに悲しいなんて、自分でも矛盾してると思う。でも、矛盾なんて存在するのが当たり前だと思ってる。今みたいに、嬉しいのに悲しいとか、泣きたいのに笑うしかないとか色々な矛盾がこの世界にはある。だから矛盾が間違っているとは決して思わない。
私の涙が原因で雰囲気が悪くなってしまった。スプーンが食器に当たる音だけが響いている。心なしかさっきまで美味しいと思っていたカレーが、急に美味しいと感じなくなってしまった。
「…ごちそうさま」
席を立って、逃げる様に自分の部屋に戻った。
このまま手首でも切ってしまおうか。
ロープがないから首は吊れない。
こんなような事を考えるのはまずい事だと頭の中でわかってはいたけど、抑えようとして抑えられる思考でもなかった。ほかの言葉に当てはめるなら、言葉が流れ込んでくるとでも言うのだろうか。そんな感じで、自分の命を絶つ最善の方法を考えてしまっていた。そんな自分が怖かった。
『矛盾なんて存在するのが当たり前だと思っていた』
家のドアを開けた瞬間、暖かい風とカレーの匂いが私を迎えた。少し遅れて、ドアの音に気づいたのかお母さんの「おかえり」と言う声が聞こえた。
「ただいま、今日はカレー?」
「よく分かったわね、っていうか匂いで分かるか」
「玄関まで匂い充満してるもん。ごめん、タオルもらっていい?」
「そっか、雨降ってたんだっけ。すぐ持ってくわ、待ってて」
「うん」
びしょ濡れの自分を鏡で見るのを想像した。髪の毛はぺちゃんこだろうし、服も身体に張り付いてみっともないだろうし。これでメイクなんてものまでしてたら顔までメイクが溶けたドロドロの魔女の完成だ。まったく、ひどい想像をしてしまった。
「やだ、びしょ濡れじゃないの」
タオルを持ってきたお母さんが私を見るなりそう言った。
「そりゃ雨が強かったからびしょ濡れだよ」
「早く拭いてお風呂入っちゃいなさい。夕飯もうちょっとかかるから」
「分かった」
持ってきてくれたバスタオルを受け取って、体にへばりついた水滴を歩いても床を濡らさない程度に拭き取った。そしてそのままバスルームに向かった。
びしょびしょの服を脱いで洗濯機に放り込み、シャワーを浴びて湯船に浸かった。お湯はいつもと同じ温度なのに、なぜだか少しぬるく感じた。そうか、寒かったんだ。
湯船の中で、お湯とは似ても似つかないあの温かさを思い出す。どうしようもなく優しくて、狂おしいくらい大好きな約三十六度が心に染みていた。
湯気で曇った窓に、指で笑顔のマークを描いた。その目の端から、重さで耐えきれなくなった水滴が涙みたいに垂れていった。
適当に描いた笑顔が泣き顔になって、これは私だと直感的に思った。見た目は笑っているのに泣いてるなんて、今の私そのものなんだと思った。強くありたいといつも思うのに、どうして悪い方に考えてしまうんだろうか。自分のことながら、訳が分からなかった。
手足が白っぽくふやけ始めた。どうせ夜は長いんだからもうちょっとお風呂に浸かっていたい気もしたけど、夕食があるからそういう訳にもいかなかった。脱衣所に出て、部屋着に着替えてから髪を乾かしてキッチンの方に向かった。
夕食が並んでいるテーブルで、もう家族がみんな待っていた。
「ごめん、遅くなった」
「たいして待ってないわよ、盛り付け手伝ってね」
「うん」
「あとご飯盛ってカレーかけるだけだから」
「翼、俺のやつ少し多めによろしく」
「僕のは普通盛りにしてね」
お父さんと弟の量の注文の声が被った。私は聖徳太子なんかじゃないからそんなに一度に言われてもわからないのに。とりあえず適当に盛っといて後で調節してもらえばいいかと思って、多分これくらい食べるだろうって量を盛り付けた。もちろん私は自分の食べられる丁度いい量だ。
「いただきます」
私は久しぶりのカレーライスを口に運び続けた。掛け値なしに美味しかった。やっぱり私はこの味が大好きだ。
不意に視界がぼやけた。お母さんの驚いたような声が数秒遅れで聞こえた。
「え、ちょっとあんたなんで泣いてんの」
そう言われて自分が今泣いてることに気づいた。そうか、視界がぼやけたのは涙のせいなのか。まったく、最近泣いてばかりだ。
スプーンを一旦置いて、袖口で涙を拭った。次々と溢れてくる涙を、この袖口は拭いきれるだろうか。
「あんた、なんかあったの?」
「なんにも、なんにも無いよ」
「何も無かったならどうして泣くの」
「どうしてだろう。分かんないよ。」
「そう…」
それ以上お母さんは何も聞いてこなかった。本当は全部わかってたけど、言えなかった。大好きな人と体温を分かちあって、唇を重ねたなんて言えるわけがなかった。
嬉しいのに悲しいなんて、自分でも矛盾してると思う。でも、矛盾なんて存在するのが当たり前だと思ってる。今みたいに、嬉しいのに悲しいとか、泣きたいのに笑うしかないとか色々な矛盾がこの世界にはある。だから矛盾が間違っているとは決して思わない。
私の涙が原因で雰囲気が悪くなってしまった。スプーンが食器に当たる音だけが響いている。心なしかさっきまで美味しいと思っていたカレーが、急に美味しいと感じなくなってしまった。
「…ごちそうさま」
席を立って、逃げる様に自分の部屋に戻った。
このまま手首でも切ってしまおうか。
ロープがないから首は吊れない。
こんなような事を考えるのはまずい事だと頭の中でわかってはいたけど、抑えようとして抑えられる思考でもなかった。ほかの言葉に当てはめるなら、言葉が流れ込んでくるとでも言うのだろうか。そんな感じで、自分の命を絶つ最善の方法を考えてしまっていた。そんな自分が怖かった。