♪樋口翔太

「月の光に負けそうだったら、目を閉じればいいんだ」

恋人同士のキスとか、そういうのに憧れた事もある。でも、あんな形で経験する事になるなんて思わなかったから、少しショックだった。もっといいムードで、いいシチュエーションだったらよかったのにと思う。もう過ぎたことだけど。
抱きしめられた温かさが、ほんの一瞬のシャンプーの匂いが、僕を満たした。誰かを愛することも、誰かに愛されることも嫌いじゃなかった僕にとって、それが一番の幸福だった。どんなに短い時間だっとしても、幸せだったんだ。
翼さんが寝ていた辺りに触れてみても、もうあの温もりは無くて、その分前にも増して冷たく感じられてしまう。
あの時僕が声を出せていたら、少しは違ったかも知れない。そんな時に、「翼さん」と呼ぶことの出来ない自分が嫌になった。と言うか、未だに翼さんの事を「さん」付けで呼んでいる時点で僕はどこまでも弱虫だった。そんな小さい覚悟しかできない人間のままじゃ、気持ちを届けるとか誰かを守るなんざ、出来るわけがないことくらい分かってないといけなかった。
本当に時の方舟なんて想像上のものが存在するなら、僕の人生を一度でいい。やり直させてほしい。翼さんの声が聞こえて、僕の声が届く人生にしてほしい。それ以外は変わらない人生でいいから。
 僕の抱える、時間が解決なんてしてくれないハンディキャップがどうしても邪魔に思えて仕方ない。目の前の人が話しかけてきてるってことは口の動きで分かるんだけど、相手がちょっと話した後になにか思い出したような顔をして、さっき言いかけた言葉を書いた紙を僕にくれるって時がたまにある。きっと読唇術とかが使えればわざわざ相手に書いてもらわなくてもいいのにって思う。
今も検温とかで、担当の看護師さんが検温の道具と一緒に、いつものノートも持って来てくれている。
「検温よ、あとついでに夕食持ってきたわ。食べれそう?」
「ありがとうございます」
「さっきの子、喧嘩でもしたの?すごい勢いで病室出てってエレベーターの方まで行っちゃったけど」
「いえ、ちょっと色々あって」
常套句過ぎる答えに、看護師さんがうっすら微笑んで続けた。
「まぁ、喧嘩もできないような仲なら彼氏彼女もあったもんじゃないわね」
「違いますって、付き合ってなんかいませんよ」
そう書いてちょっと後悔した。すれ違いの末にやっと通じあった両思いなのに、そんな軽はずみに付き合ってないとか言っていいのだろうか。あまり実感は湧かないけど、僕らは付き合っていてもおかしくない状況なのだ。
僕は、「違いますって、付き合ってなんかいません」の文に二重線を引いて消した。そして書き直した。
「まぁ付き合ってない訳じゃないですけど、友だち以上恋人未満みたいなそんな感じですよ」
そう書き直してふと看護師さんの顔を見た。さっきの苦笑いとは打って変わって、嬉しそうに笑っていた。
検温が終わって、片付けを終えた看護師さんが病室を出ていった。僕は目の前に置かれた病院食を食べた。ご飯は冷めていた。でも不味い訳ではなかったし、普通に美味しかったから箸は進んだ。
食べながらちょっとだけ考えていた。それは、運命というどうしようもなく非論理的なものの話だ。もちろん僕は運命なんてものを信じていない。まるで初めから僕達は、決まった道を歩いているようにとか、出会ったのは運命なんだとか、そんなことがある訳がないのにさもそうであるかの様に語る人達がいる。ちょっとどうかと思う。
僕達が生きている世界は、「予定」以外に初めから決まっていることなんてほとんど無くて、「予定」以外のものは毎日の決断と選択の結果なのだということを、もっと人々は知っておくべきであると思う。結局これも、ただの持論の域を出ないのだけど。
食事を終えて食器を片付けてもらった後、清拭を受けてあとは寝るだけになったけど、消灯時間でもないのに眠れるわけがなく、仕方ないからもらった病院のプリペイドカードでテレビをつけた。やっている番組といえば、ニュースだったり猫型ロボットがメガネの少年の為になにか道具を出していたり、クイズだったり色々あったし、面白いものもまぁあったのだろうけど文字情報が一番多そうな全国のニュースでチャンネルを固定した。
「山梨県笛吹市で火災、二人の遺体発見」
「東京都八王子市で殺人、自首の男を逮捕」
「青森県八戸市で大規模なトンネル崩落事故が発生」
「長野県出身の常磐 康成(五七)が『偽りなき嘘』で直木賞受賞」
「奈良県の正倉院宝物殿で隠された古文書を発見、歴史の教科書は変わるか」
今日だけでこんなにもたくさんニュースになる事が起きているんだから、忙しない世の中だと思う。気になったのは、四番目のトピックにあった常磐康成という人で、僕の好きな作家。人の心を文章に表すのにとても豊かな才能を持っていると思う人だ。『偽りなき嘘』ももちろんとても面白かった。
平日のゴールデンタイムだけあって、ニュースは短かった。バラエティ系の旅番組が始まったので、テレビを消してベッドにもたれかかった。