♪樋口翔太


「もし神様が許しても僕らだけはこれを許しちゃいけなかった」

翼さんを見送って、消灯の時間が来て部屋の電気が消えた後に、蓄光式の文字盤が組み込まれている時計を見た。黄色のような、青白いような光をぼやっと放つ長針と短針が時を刻んでいる。カーテンの裏からも月の光が漏れてきていた。
光の薄くなった短針が一二時にちょっと近づいた頃には眠気が来て、ベッドの柔らかさと温かさがそのまま僕を眠りに誘った。

__________……

病院にいるってこと以外は別にいつもと何も変わらない朝が来た。雀の声も聞こえなければ誰かの話し声が聞こえるわけでもない、いつもの朝だ。ただ、そんな朝はそう長くは続かなかった。
朝食を食べて少し経った頃、ゆっくりと開いた扉から翼さんが顔を覗かせた。僕はただ嬉しかった。「また明日」と伝えて本当に来てくれるとは思ってなかったからだ。まぁ、ちょっと期待はしてたけど。すぐに僕はいつも使ってる筆談用のノートで「おはよう」を伝えた。そのすぐ下に同じ言葉が今度は翼さんの文字で綴られた。
「本当に来てくれるとは思わなかったよ。ありがとう」
「また明日って言ったのは誰かな?というか言われなくても来るけど」
「そっか、ありがとう。でもそんなに心配いらないよ。ちょっと顔切っただけだし。まぁなんか足動かないけどね」
「え、それ大丈夫?」
「大丈夫なんじゃない?とりあえず生きてるからそんな顔しないで」
「え、どんな顔してた?」
「この世の終わりみたいな顔」
「それがどんな顔かって聞いてるの」
「泣きそうな、怒ってるような…?うまく言葉に表せないけど、そんな感じ」
「数学は得意だけど国語は苦手みたいね」
「確かにそうかもね」
いつもはたいして埋まらないページにどんどん会話がのびていく。特に誰かと話したくて話すこともなかった僕にとって、好きな人と二人きりで会話する今この時間はとても幸せだった。ただ、それもここまでだった。
きっと僕達は感情の濁流に流されて、道を間違った。
どっちが悪いとかじゃない。ただ流されてこうなっちゃったんだ。たとえ他の誰かや神様が許しても、僕らだけはこの出来事を許しちゃいけなかったんだ。
さっきの会話から少し経って、なんとなく真面目な話になってきた。
「ねぇ樋口君、私たちって恋人同士だよね…?」
「え、うん。そうだと思う」
「そうだと思う?思うってどういうこと?」
「うん、なんか実感が湧かないというかなんというか」
「そっか、実感か……」
「まだ昨日の話だし、なんとなくだけど心の整理もついてない気がするんだ」
「なんでそうやって目の前の何かからいつも逃げるの?」
「逃げてないよ」
「逃げてるよ、だってさっきから私の目、ほとんど見てないもん」
「そういう事じゃない。ただ翼さんのことが好きすぎて目を合わせるのがちょっと恥ずかしいだけだよ」
そう書いた直後、急に翼さんの表情が変わって数秒間目が合った。どちらも顔をそらすことができなかった。
「ねぇ、もう、ごめん。樋口君、隣いい?」
「え、隣?ダメなんて言わないよ。どうぞ座って」
「違う、座るんじゃなくて隣入れてって意味なんだけど」
「え、ちょっここは病院の……」
書くのが先か翼さんが僕のベッドの隣に入ってくるのが先か、どっちにしろもう書いても無駄だった。驚きと動揺がいっぺんに襲ってきて、もうどうしようもなかった。
今この状況がやばいということは多分誰が見ても明らかだと思う。柔らかいマットレスと羽毛布団に挟まれた二人分の体温が混ざり合う。僕は頭がおかしくなりそうだった。もちろん横を向く勇気もなくて、ずっと目をつぶっていた。
僕の体に伝わる明らかに自分のものじゃない体温にちょっとずつ理性が奪われていく。でも僕は最後の一歩は絶対に越えないと決めた。こんな場所でそんなことはできなかった。
何分か経ったのかもしれないし数秒間だったかも知れない。僕は目を開けた。状況は何も変わってない。ただずっと温かい。動きがないから寝たのかなとか思って横を見てみたらそんな事はなくて、翼さんは起きていた。そしてまた目が合った。僕は再度、目を閉じた。
多分目を閉じたのが最大の失敗で、目が合わなければ大丈夫だと思ったのは大誤算だった。目を閉じた瞬間、一瞬のシャンプーのような甘い香りとともに僕の唇に確かな温もりと柔らかい感触が触れた。そして背中の方に腕をまわされ、抱きしめられた。かろうじて理性は吹き飛ばなかったけど、頭の中は真っ白になった。その数秒間は本当にとても長く感じられた。腕が離されて、唇が離れて、また一瞬の甘い香りが僕を包んだ。
不意に涙がこぼれた。別に悲しかったわけじゃない。嬉しかったわけでもない。本当になんとも言えない感情の塊が居座ってて、そいつが涙腺を刺激してきたんだ。
目を開けたら、今にも泣き出してしまいそうな悲しげな顔の翼さんがいた。僕はその顔を見ていられなくて、目をそらした。
ベッドがちょっと揺れて、翼さんが降りたことに気づいた。そして机のところでまた何かを書いていた。何を書いているのかはわからないけど、表情は全然さっきと変わっていなかった。そんな顔で、一体何を僕に伝えたいのか。
書き終わったかと思うと、翼さんはペンを置いてすぐにどこかに行ってしまった。僕はその置き去りにされた紙をすぐに見ることが出来ずに、さっきよりちょっとだけ冷たくなった布団に潜り込んだ。
いつの間にか眠ってしまっていた。多分、僕の脳も現実から逃れたかったのだと思う。だってあんまりじゃないかと、そう思って気づいた。僕は翼さんに明確で、でも小さな怒りを向けていた。どうしてなのだろうか、おさまる気配もなかった。
翼さんの置いていった紙を見たのは、夕方になってからだった。授業に疲れ、仕事に疲れ、夕食を楽しみにしながら帰る人たちだとか、沈む夕陽に照らされた町だとかが妙に楽しげで、綺麗に見えた。その反面、例の紙が置いてある机の周りだけなんだか暗いオーラを放っているようにも思える。紙を手に取って、裏返した。
「まずは、本当にごめん。樋口君のこと本当に好きなんだ。私ね、惚れっぽくて今までいろんな人好きになってきたけど、樋口君は何か今までの他の人とは違って、本気で好きになれた。だからあんな事しちゃったんだ。許して。」
僕はあの時どうすればよかったんだろう。正解なんて、分からなかった。
空にうっすらと冬の大三角形が浮かび始めた。ほかの一等星もぼんやりと輝き始めていた。