♪樋口翔太

「ペン先が描くのは今までに無い程の感情だった」

翼さんにもらった紙には、とても切ない文章が短く書いてあった。でも僕にはそれがとても嬉しかった。翼さんの気持ちが僕に向いていたってことが分かったから。
それを読み終わってすぐ、ペンを取った。書くことはもう決まっていた。
『僕は翼さんのことが好きだよ。そう伝えた時に一度断られた時はとても悲しくて寂しかったけど、今ここで本心を聞けてよかった。だからさ、もう一回言わせて。翼さん、僕と付き合ってください』
あまり長くはないけど、ぎこちない文章の割には気持ちは乗せられたと思う。こんな細いペンがとんでもなく大きな気持ちを綴るなんて、思わなかった。心の中を正確に表すことのできる道具って案外普通のペンなのかもしれない。
途中で涙が流れ始めて、文字が少しだけぼやけて見えた。そういえば「一筋の涙」とかいう歌詞がよくあるけど、確かにそうなんだろうね。頬を流れる時だけはね。どこかに垂れて落ちたらもう、一筋じゃなくて別の何かになる。たぶんその涙こそが悲しみの象徴であって、喜びの象徴なのかもしれない。そうだと思うから、だからきっと人は、涙の数だけ強くなんてなれない。
書いて渡した紙を翼さんが読む。目にも涙が浮かぶ。その顔をじっと見つめていたら、目が合って、何か言っている。読唇術が使えない僕には何を言っているのかわからない。できれば書いて欲しかったけど、それはを伝えるのは野暮だと思ったからやめておいた。
涙がおさまった翼さんの顔には笑顔が宿っていた。どうしようもないくらい大好きなこの笑顔が僕に向けられていて、内心とても恥ずかしかったし嬉しかった。
聞こえないからどうとか喋れないからどうとかじゃなくて、目の前に感じられる温かさが結局はたまらなく愛おしく感じられる。きっと、伝わるものは聞かずとも言わずとも届くんだ。何がどうなって伝わるのかはわかんないし、心理学に興味もないからそこら辺はどうでもいいけど、今はこの時間を大切に過ごそうと思う。
時計の秒針が何周したかもわからないまま時間は過ぎていってるけど、僕らの間にはずっと沈黙が居座っていたように思う。翼さんはといえば、僕のベッドの机に突っ伏して寝てしまった。こんな状況で僕は眠れるわけもなく、なんとなく壁に吊り下がっていたカレンダーを見た。そういえば今日は三月十一日だ。あの大震災からもう…。なんてことをたいして回転しない頭で考えても不毛だと思ったし、あの悲惨な光景がフラッシュバックするのでこれ以上思い出すのはやめにした。
病室の時計と翼さんの腕時計の秒針の動きがズレている。そういえば特に気にもしてなかったけど、そろそろ消灯の時間が来るかもしれない。こんなとこで寝かしとくわけにも行かないから起こして家に帰ってもらわないと。
肩をゆっくり揺すってみる。相当疲れているのか起きなかった。もう少し強めにまた肩を揺すってみたら、起きはしたがとても眠そうだった。少し目元が赤いのは見なかったことにした。
僕はとりあえず伝えた。
「消灯の時間が来るかもしれないから、そろそろ今日は終わりにしよう。もしよかったらまた明日来てくれると嬉しいな」
「うん、押しかけて遅くまでいたうえに寝ちゃってゴメンね。じゃ、また明日ね」
言葉を交わして、手を振りあった。翼さんが病室を出た後、少し経ってから消灯のアナウンスとともに電気が消えた。不思議と不安感は消え去っていた。