♪side:高橋翼

「信じたいことはいつも嘘だった」

どんよりとした鉛みたいな雲から雨が降り始めた。私の心も雨だよ。なんて思ったり、ほんのさっき壮大な嘘を自分と樋口君についたショックを必死に誤魔化しては隠そうとして失敗して。涙はこぼれなかったけど、やっぱり寂しいし悲しい。
カバンから折りたたみ傘を出して広げた。サイズはあまり大きくなかったから、きっと樋口君と一緒に歩いたらどっちかがびしょ濡れになってしまう。まぁ肩を濡らしながら帰るなんてのもありきたりな少女漫画みたいな気がするけど。
結局どうにもなんなくて、一人で帰り道を歩いた。校門を出て、三年間通い続けた道を今日も辿る。晴れてる時と雨が降ってる時の道の様相が違いすぎて、路地を間違えそうになることもこれからはもう無いんだ、なんて思うと少し感傷的になってしまう。
なんであんな嘘吐いたんだろうって後悔した。後の祭りだって分かっててもあの時の自分をバカにするしか今この感情を押さえつける手段がなかった。
足元で跳ねる無数の水滴から目を離して、信号を確認しようと頭を少し上げた。で、点滅する青信号を渡ろうと横断歩道へ突っ込もうとしてる樋口君を見つけた瞬間に、持ってた折りたたみ傘を放り出して走った。多分傘を持ってないからだろうけど、もうあんなにびしょ濡れになってるなら歩いてもいいんじゃないか。
私はなんとか追いつきたくて、追いついて本当に伝えたかったことを伝えたくて、走った。今度は思いの全てを告白しようと思った。
でもやっぱりそうはいかなくて、樋口君が青信号の点滅している横断歩道に突っ込んだその瞬間、信号を無視してきた車が樋口君をはね飛ばした。一瞬何が起きたか分かんなくて、ただ一心不乱に駆け寄ることしか出来なかった。
野次馬が取り囲む中を樋口君の近くに寄ってみる。顔から血が出てて、まるっきり動かなくなってしまった。私はなんとか泣くのをこらえて、制服のポケットからびしょ濡れで使い物になるか分からない携帯を取り出した。震える手で一一九とだけ押して電話をかけた。なんとか通じたようで、場所と状況を手短に伝えた。気が動転してちゃんと伝わったかすら分からないけど。
五分だか六分程で救急車が来た。鉛色の風景の中に赤色灯とサイレンがどうにも溶け込めていなくて、なんとなく違和感があった。
樋口君がストレッチャーに乗せられて、自分も救急車に乗せてもらって病院に向かう途中、救急隊の人に樋口君について色々と聞かれた。彼の名前、彼との間柄とかを色々質問されて、それぞれ答えた。樋口翔太という名前であること、耳が聞こえないということ、筆談でないと意思疎通が難しいこと。全部嘘偽りなく答えた。それなのに、私にとって信じたいことだけがいつも嘘だった。目の前に横たわって動かない彼の名前を呼び続けた。聞こえないとわかっていても、呼び続けた。一度も反応は無かった
すぐに近くの総合病院に着いた。救急車は病院のICU入口の扉のすぐ前に停まった。「ICU」と書かれ、開かれた銀色の重そうな扉の向こうに樋口君を乗せたストレッチャーは吸い込まれていった。
「申し訳ありませんがあなたはここまでしか入れません。正面玄関から入って受付の方に事情を説明してICUの前で待っていてください」
医師か看護師なのだろうか、白衣を着た人が私にそう冷たく告げて、後を追うように扉の奥へ消えていった。私の気持ちとは裏腹に、その扉の奥はとても明るかった。
正面入口から入って、受付で事務員の人に事情を説明した。タオルを一枚貸してくれて、濡れた身体を軽く拭きながらICUへ続く廊下を歩いた。ICUの前の長椅子に座り、誰かが出てくるのを待った。雨が病院の屋根を叩く音が気にならなくなった頃、透明な自動扉が開いた。手術着に血がついたままの医師らしき人が歩いてきた。私は一も二もなく駆け寄って聞いた。
「樋口君は……?大丈夫なんですか?」
「あぁ、見た目が派手なだけでそこまで顔の傷は深くなかったよ。ちょっと縫ったけど将来的に跡は残らないんじゃないかな。まぁ脚とかまずいことになってるかも知れないけど。あとは検査とある程度治るまで入院かな?ひとまず命に別状はなかったよ」
そこまで聞くと、膝が震え始めて息が荒くなった。きっと安心したんだ。そう思っておいた。不安が一気に吹き飛んで、目眩に似たような、目の前がくらむ感覚に襲われた。
ただただ、涙と笑顔を同時にこぼすしか出来なかった。静かに声を殺して泣いた。
少し経って、看護師の方が二人で樋口君が横たわっているストレッチャーを運んできた。キャスターの転がる音が少しだけ耳障りだったけど、今はそんなことどうでもよかった。ひとまず会って話したい。元気な顔を見たい。そんなことを望んでいた。
そのままエレベーターに乗り、外科病棟に向かうらしい。
ひとまず私は帰ることにして、また落ち着いてから顔を見に来ようと思った。私自身の気持ちも整理しないと、今日だけで色々とくしゃくしゃになってしまった。また二日後か、三日後か、樋口君の目が覚めた頃に来てみようと思う。