車道から細い道に入り、緩やかな弧を描きながら歩いて行くと、突然目の前が開けた。人工の眩い光が漏れだして、天の川が急に地上に流れ込んだのかと思った。
その光は大きな建物のものだった。周りが木々に囲まれているにしても、これだけの建物が車道からまったく光を見せないのはすごいことだ。よほど計算して建てられているのだろう。
星降り温泉の名の通り、この素晴らしい星空を楽しみに来ているお客さんも多いだろうから、旅館の外観もあまりライトアップしていない。そのため細かいことは分からないが、瓦葺きの屋根のシルエットが夜空に反り返るようになっている。木造三階建ての立派そうな建物だった。
しかし、中に入ると普通の旅館ではないことに気づく。
最初は夜だから雰囲気が違うのかと思ったけど、昼か夜かの問題ではない。
いるのだ。
あやかしが。
そこかしこに。
ロビーは普通に観光客で賑わっていた。浴衣を着た家族連れや女性客たちがお土産物を見たり、中庭へ出て星空を楽しんだりしている。はたから見ればごく普通の温泉旅館だ。
しかし、扉をくぐって人気のない廊下へ出ると一変した。
ひとつ目や仮面をかぶったのや、大きいのや小さいのや、動物のようなのやきれいな女性のようなのやが、廊下をうろうろしている。温泉が気持ちよかったとか、星空がきれいだとか談笑していた。そのうえ、ご丁寧なことにみんな浴衣を着ている。あやかし用の浴衣とかってあるの?
ふと先ほどの烏天狗を思い出して身がすくんだ。
「こ、ここって……?」
何かにすがりたくて、私は思わず葉室さんの作務衣の端をつかんでしまった。そのとき、葉室さんの身体に指先が触れた。とても引き締まって固かった。
「詳しいことは、大旦那が教えてくれる」
葉室さんは相変わらずむすっとした様子で頭をかきながら言った。明るいロビーで改めて見ると、びっくりするほどきれいな顔をしている。年齢は私より少し上くらいだろう。黒髪はさらさらで、抜けるような色白の肌。眉は凜々しく整い、切れ長の目は二重でまつげも長かった。まっすぐな鼻梁がなぜか少しやんちゃそうな印象を与えた。頬はうっすら桃色づいていて、同じように桃色の薄い唇を軽く引き結んでいる。
これだけ美形の材料がそろっているのに、現に秀麗な顔立ちなのに、全体からはどこかけだるそうな雰囲気が漂っていた。最初、それは私の鈍臭さへの当てつけだと思っていた。しかし、明るいところで見ると、私の考えが間違いだったように思えてきた。葉室さんは、私に当てつけているのではない。この人が当てつけているのは周りの環境であり、あやかしであり、葉室さん自身へのように直感した。それがなぜかは分からなかったけれど……。
「こっち」と言って葉室さんは私を旅館の奥のほうへ案内する。
何度か階段を上り下りして、きれいな装飾のされた襖(ふすま)の前についた。
「大旦那」
と、両膝をついた葉室さんが声をかける。私もならう。
すると、襖の向こうからつやのある男の声がした。
「何だい」
どこか楽しげで、余裕に満ちた大人の男の声だった。
「チラシを持ってやって来た女性をお連れしました」
「ああ、入ってもらってくれ」
「はい」
葉室さんが正座の姿勢のままふすまを開ける。深く一礼。さっきまでの気に障る態度とまるで違う。
襖の向こうは広い和室だった。畳の匂いが清々しい。二十畳くらいの広さの和室のいちばん奥、床の間を背にして和服姿の男が座っていた。男の前には文机があり、いろいろな書類が散らばっていた。
「どうぞ。もっと近くへいらっしゃい」
手招きされるままに私は奥へ進んでいく。知的で落ち着いた顔立ちの大人の男性だった。はっきり言って思わずじっくり見てしまうほどのイケメン。それなのに目だけは好奇心一杯の子供のようにきらきらしているのが印象的だった。黒い髪はつややかで若々しい。着物に詳しくはないのだが、一目で高級そうだと分かる。しかし、それが嫌味ではない。透明でありながら存在感がある、不思議な人だった。あ、履歴書とか出さないといけないのかな。バッグから書類を出して、その音この人の前に正座した。
「初めまして。大変遅くなりまして申し訳ございません」
「東京から遠いところ、お疲れさまでした。私はこの『いざなぎ旅館』の大旦那ということになっている、土御門泰明。よろしくお願いします」
土御門。何かお公家さんみたな名前だな――。
「そうだね。私の家は、遡れば京都の公家だし、いまでも京都住まいの親戚は多いよ。さらに遡れば安倍という名字になって、安倍晴明なんて人に行き着く。安倍晴明っていうのは知ってるかな、藤原静姫さん?」
私は固まった。何も話していないのに。お公家さんみたいな名前だと、心で思っただけなのに――。
その光は大きな建物のものだった。周りが木々に囲まれているにしても、これだけの建物が車道からまったく光を見せないのはすごいことだ。よほど計算して建てられているのだろう。
星降り温泉の名の通り、この素晴らしい星空を楽しみに来ているお客さんも多いだろうから、旅館の外観もあまりライトアップしていない。そのため細かいことは分からないが、瓦葺きの屋根のシルエットが夜空に反り返るようになっている。木造三階建ての立派そうな建物だった。
しかし、中に入ると普通の旅館ではないことに気づく。
最初は夜だから雰囲気が違うのかと思ったけど、昼か夜かの問題ではない。
いるのだ。
あやかしが。
そこかしこに。
ロビーは普通に観光客で賑わっていた。浴衣を着た家族連れや女性客たちがお土産物を見たり、中庭へ出て星空を楽しんだりしている。はたから見ればごく普通の温泉旅館だ。
しかし、扉をくぐって人気のない廊下へ出ると一変した。
ひとつ目や仮面をかぶったのや、大きいのや小さいのや、動物のようなのやきれいな女性のようなのやが、廊下をうろうろしている。温泉が気持ちよかったとか、星空がきれいだとか談笑していた。そのうえ、ご丁寧なことにみんな浴衣を着ている。あやかし用の浴衣とかってあるの?
ふと先ほどの烏天狗を思い出して身がすくんだ。
「こ、ここって……?」
何かにすがりたくて、私は思わず葉室さんの作務衣の端をつかんでしまった。そのとき、葉室さんの身体に指先が触れた。とても引き締まって固かった。
「詳しいことは、大旦那が教えてくれる」
葉室さんは相変わらずむすっとした様子で頭をかきながら言った。明るいロビーで改めて見ると、びっくりするほどきれいな顔をしている。年齢は私より少し上くらいだろう。黒髪はさらさらで、抜けるような色白の肌。眉は凜々しく整い、切れ長の目は二重でまつげも長かった。まっすぐな鼻梁がなぜか少しやんちゃそうな印象を与えた。頬はうっすら桃色づいていて、同じように桃色の薄い唇を軽く引き結んでいる。
これだけ美形の材料がそろっているのに、現に秀麗な顔立ちなのに、全体からはどこかけだるそうな雰囲気が漂っていた。最初、それは私の鈍臭さへの当てつけだと思っていた。しかし、明るいところで見ると、私の考えが間違いだったように思えてきた。葉室さんは、私に当てつけているのではない。この人が当てつけているのは周りの環境であり、あやかしであり、葉室さん自身へのように直感した。それがなぜかは分からなかったけれど……。
「こっち」と言って葉室さんは私を旅館の奥のほうへ案内する。
何度か階段を上り下りして、きれいな装飾のされた襖(ふすま)の前についた。
「大旦那」
と、両膝をついた葉室さんが声をかける。私もならう。
すると、襖の向こうからつやのある男の声がした。
「何だい」
どこか楽しげで、余裕に満ちた大人の男の声だった。
「チラシを持ってやって来た女性をお連れしました」
「ああ、入ってもらってくれ」
「はい」
葉室さんが正座の姿勢のままふすまを開ける。深く一礼。さっきまでの気に障る態度とまるで違う。
襖の向こうは広い和室だった。畳の匂いが清々しい。二十畳くらいの広さの和室のいちばん奥、床の間を背にして和服姿の男が座っていた。男の前には文机があり、いろいろな書類が散らばっていた。
「どうぞ。もっと近くへいらっしゃい」
手招きされるままに私は奥へ進んでいく。知的で落ち着いた顔立ちの大人の男性だった。はっきり言って思わずじっくり見てしまうほどのイケメン。それなのに目だけは好奇心一杯の子供のようにきらきらしているのが印象的だった。黒い髪はつややかで若々しい。着物に詳しくはないのだが、一目で高級そうだと分かる。しかし、それが嫌味ではない。透明でありながら存在感がある、不思議な人だった。あ、履歴書とか出さないといけないのかな。バッグから書類を出して、その音この人の前に正座した。
「初めまして。大変遅くなりまして申し訳ございません」
「東京から遠いところ、お疲れさまでした。私はこの『いざなぎ旅館』の大旦那ということになっている、土御門泰明。よろしくお願いします」
土御門。何かお公家さんみたな名前だな――。
「そうだね。私の家は、遡れば京都の公家だし、いまでも京都住まいの親戚は多いよ。さらに遡れば安倍という名字になって、安倍晴明なんて人に行き着く。安倍晴明っていうのは知ってるかな、藤原静姫さん?」
私は固まった。何も話していないのに。お公家さんみたいな名前だと、心で思っただけなのに――。