「見つけた――」


 低く、くぐもった声がした。私は慌ててスマートフォンを取り出し、ライトをつける。ライトは夜の闇をただ素通りするだけ。何も映さない。

 しかし、私の目には大きな男の姿が見えていた。いや、正確には男と呼ぶべきではないだろう。二メートルは越えるだろう見上げるほどの体格に黒い羽。修験道の行者のような衣服。その顔は人間ではない。漆黒の羽毛とくちばしと目を持っていた。たとえるなら、烏――。

“あやかし”だ。

 それも、これまで見たもののなかで考えると、危険なあやかし。

 たぶん、烏天狗。友好的なものもいるが、いま私の前にいる烏天狗は違う。くちばしを大きく開けて私を威嚇していた。

 まずい。逃げなくては――。

 私はスマートフォンのライトで足下を照らしながら全力で駆け出した。

 しかし、烏天狗も私を追ってくる。

 知らない土地。知らない道。星明かり以外の光のない夜のなかを、ただ走るしかない。山のなかの温泉地だからとかかとの高くない靴を履いてきて良かった。

「はあ、はあ、はあ――」

 逃げても逃げても、烏天狗は一定の距離で追ってくる。

 まるで悪夢のなかを逃げているようだった。

 バス停からチラシに書いてあった「いざなぎ旅館」はすぐ近くのはずなのに。

 どこに行けばいいの――?

 すると、目の前にぼんやりオレンジ色に光るものが現れた。私は無意識にその明かりに頼った。

 息を切らせて走って行くと、そこには端正な作りなのにずいぶん物憂げな顔をした若い男の人が立っていた。たまたま居合わせたと言わんばかりのふらりとした立ち姿。なのに、不思議と様になっている。どういう仕組みかは分からないけど、全身がぼんやり光っている。あやかしのような、この世のものではない光とは違う。肩の辺りから、光がほのかに身体を包んでいるのだ。

 その男は明らかに私を見て、言った。

「助けようか」

 私は一瞬だけ迷った。本当に人間なのか。人間にあやかしの凶暴なあやかしができるのか。だけど、私はその〝光〟を信じて、告げた。

「助けてください」

 そのままその男の横に足をもつれさせて滑り込み、倒れ込む。走るのも限界だった。膝に冷たい草の感触がする。男が立っているところが草の上で良かった。心臓が激しく鼓動を打ち、息もままならない。大学二年生で体育の授業を終えてから運動していなかったツケだ。

 思い切り転んだ私には目もくれず、その男は懐から金色の細い棒を取り出した。目の前に烏天狗が迫る。男よりも烏天狗のほうが頭ひとつ大きかった。

 しかし、動じる様子はない。

 「本来は悪鬼(あっき)祓いの呪文だが、まあ効くだろう……天も感応、地も納受、御籤はさらさら」

 男は呪文を唱えると飛び上がった。金色の棒を逆手に構える。烏天狗の脳天をそのまま殴りつける。ゴンっと鈍い音がして「ぎぐえぇぇぇ」と、烏天狗が絶叫した。夜の闇が震える。脳天を押さえる。よろめいて膝をついた。

 強い――。

私が唖然としていると、男性は慇懃無礼(いんぎんぶれい)に烏天狗に言い放った。

「困りますね、お客さま。うちの宿で元気になったからって、帰りしなにさっそく人間に手を出されては。――去(い)ね」

 男が柏手(かしわで)を打つ。烏天狗が柏手の音にのけぞる。悔しそうにもう一度叫び、烏天狗は黒いつむじ風となって去って行った。

 烏天狗の気配がいなくなるのを待って、男が私を見た。

 天の川を背景に、山間を流れる雪解け水のような怜悧(れいり)で白皙(はくせき)の顔をしていた。月明かりのように白く冴え冴えとした肌、星を宿したように美しい瞳だけど、どこか心を閉ざした寂しそうな印象だ。作務衣というのだろうか、黒っぽい服を着ている。

「日没になっても来やしねえから、見てこいって大旦那が言うんで来てみれば、とんだぼんくらが来やがったな」

 澄んだきれいな声なのに、恐ろしく人を馬鹿にしたしゃべり方をしていた。もとが美形なぶん、よく切れるカミソリのように鋭利に耳を打つ。初対面の相手ながら、私はちょっとかちんときた。いいよね。あっちだって初対面の私に悪態をついたのだから。

 しかし、この無礼な美形は敵意を持った烏天狗をただの一撃で撃退してしまったのだ。当たり前だけど、私と同じであやかしが見えるのだ。私以外にそういう力を持った人に実際に会ったのも初めてだけど、それを打ち負かすことができる人なんて見たことがなかった。私はあやかしも霊も見えて話ができても、他には何もできたりしないのだから。

 いまこうしているときも、この男の身体はうっすらと光っている。

 まさかと思うけれど、やはり本当は彼もあやかしなのだろうか……。

「あ、あの……」

 スマートフォンのライトで足下を照らす。私がこの人との距離を測りかねていると、男性の方から舌打ちをしてきた。

「ちっ。助けてやったのに礼もなしか。まあいいけどな。『いざなぎ旅館』はこっちだ」