猫になったイモウト

 翠が私の妹である世界はなくなった。もう、翠を人間に戻す事は出来ない。
 絶望感に襲われる。
 浅はかな一言のために、私は妹の人生を粉々に壊してしまった。
 翠と過ごした何気ないあの日常が、限りない分岐の果てに巡り合った、掛け替えの
ない一瞬であったことを、私は今になって理解した。
「ごめんね。ごめんね。翠。お姉ちゃんが…お姉ちゃんが馬鹿だった」
 涙が流れはじめた。
 泣いたから何かが解決するわけでもない。けれど、溢れ泪を留める事が出来ない。

 三笠君が隣に腰を降ろして、私の肩を抱く。
「心配しないで…。皆で考えれば、きっと、解決策が在るはずだ」
 うん、うん。と頷いてみせる。
 三笠君、なんて優しくて、そして強いんだ。
 こんな状況になっても、私を励ましてくれる。
 でも、それが私を安心させるための方便であることを、私は理解している。
 もう、翠を人間に戻せない。翠が私の妹であった世界はなくなったのだから。

 翠と過ごした日々が、走馬灯のように頭の中を駆けめぐる。
 赤ちゃんの翠と初めて会った日のこと。おっかなビックリ翠を抱いた日のこと。
 私の顔を見て笑った翠の顔。スヤスヤと眠る翠の顔。
 ヨチヨチ歩きの翠。私をお姉ちゃんと呼んでくれた翠。
 翠と一緒に通った小学校。翠と一緒に遊んだ公園。全ての思い出が美しい。
 だけど、その思い出はもうすぐ消えてしまう。全てが、無かったことになる。
 私の愚かな一言が原因で……。
「翠は、必ず人間に戻す。たとえ、他の何に代えても…」
 さっき、猫の翠を私に返してくれた、女の子にそう誓った。
 それも、虚しい空約束になった。
 他の何に代えたとしても、もう、どうすることも出来ないんだ。
 何に代えても…。何に代えても……。

 ある考えが閃いた。
 そうだ、この方法なら…。翠を人間に戻せるかもしれない。
 早速、三笠君に相談しよう。立ち上がって、三笠君の方を向く。
 三笠君は、拳を額に押し当て、懸命に思案しながら、歩き回っている。
「ミカサく…」
 そこで、言葉を飲み込んだ。
 これは、私一人で決めねばならないことなんだ。

 三笠君に背を向け、ネコモリサマの所在を探す。
 居た。
 数メートル先の草の陰で、翠とカクレンボに興じている。
 きっと、ネコモリサマも翠を不憫に思って、気を紛らわせてくれているのだろう。
「ネコモリサマ、ネコモリサマ」と小声で話しかける。
「ん。なんじゃ?」
「あの…。二番目のお願いが決まりました…」
「そうか…。言うてみい」
「翠を人間にしてください、…」
「じゃから、それは出来ないと、さっきから…」
「続きがあるんです。聞いて下さい。翠を人間にする。その代わりに、私を猫にして
ください」
「美寿穂を……猫に……?」
「そうです。何処かしらにか、翠が一人っ子でいる世界がある筈でしょ。その世界と
翠が猫になった今の世界を繋いでくれれば良いです」
「それは可能じゃが、あまり賛成できんのう。元々、美寿穂への恩返しが目的なのに
美寿穂が猫になるのではのう…」
「良いんです。私の今の一番の望みは、翠が人間に戻ることなんですから」
「あっちの三笠という男は、今の話を知っておるのか?」
「いいえ、話してません。だって…、きっと反対されるから」
 三笠君の様子を伺う。まだ、私達の様子に気がついていないようだ。

「ネコモリサマ。善は急げです。早く、私の願いを叶えてください」
「…あんまり、気乗りせんがのう…」
「そんなこと言わないで、お願いします」
 やれやれ。
 私にせっつかれて、ネコモリサマが重い腰を上げる。
 ネコモリサマは、大儀そうな足取りで、先ほどの空中部屋の方に歩いていく。
「本当に、良いのかの?」
 部屋の前で、ネコモリサマが振り返り、私に念を押す。
「はい。お願いします」
 うむ。
 私の返事を聞いて、ネコモリサマが空中部屋に跳びあがる。
 ネコモリサマが、部屋の中のガラスパイプに、前足でタッチして廻る。
 タッチされたガラスパイプがグニャグニャと動き出す。
 それぞれのパイプは、元の接続先から離れ、伸縮屈折を繰り返しながら、それぞれ
新たな接続先へと繋がっていく。
 部屋の中の光の明滅が早くなる。部屋全体が唸り始めたように聞こえる。
 カーテンが閉まるように、仕切りが閉じて空中部屋が見えなくなった。
 部屋の唸り音だけが、微かに聞こえる。

 エアコンのスイッチを切ったように、急に風が凪いだ。
 辺りを見渡すと、遠くの景色の輪郭が段々と消えていくのが分る。
 さっき、隠れ家の水の流れの中に落ちたときの光景と逆だ。
 きっと、これから世界が繋ぎ変わろうとしているんだろう。

 私の足元でじゃれ遊んでいた翠を抱き上げる。
「良かったね、翠。もうすぐ、人間に戻れるよ」
 翠に頬ずりする。
「お姉ちゃんとは、これでお別れだよ。寂しくなるかも知れないけど、お母さん達を
大切にしてね」
 私の頬を涙が伝う。
「もしも翠が、猫になった私を見つけたら、飼ってくれると嬉しいな。そうすれば、
また少しの間だけ、家族でいられるね…」
 最後に、人間の翠を抱きしめられれば良かった。それだけが心残りだ。
「翠。大好きだよ。元気でね」
 翠を抱きしめると、翠が悲しそうな声で鳴いた。
「濱野さん。辺りの様子がおかしい。何かあったんじゃないか?」
 三笠君が、不安げな顔で小走りして来る。
 私は急いで顔をそむけ、気づかれぬように泪をぬぐう。
「急に風が止んで、遠くの景色が無くなってる。ネコモリサマも見当たらない」
「…そ、そうだね。どこ…行ったんだ…ろう」

 ん? と、私の反応を訝る三笠君。
 背を向けていても、三笠君が私の挙動を不審がっているのが分る。
「どうしたの。濱野さん」
「な、何でもないよ…」と答えてみるが、声が上ずってしまう。
「何でもなくないよ! 濱野さん、様子が変だ」
 三笠君が私の顔の前に回り込む。
「何でもないったら!」私は強く言って、三笠君から顔を背ける。
 三笠君が私の両肩を掴んで、私の正面に立つ。
 私の泪を見て三笠君が驚く。
「泣いてるじゃないか。何があったの」
「………」
「…話して…くれないかい?」三笠君の優しい瞳が私を見つめる。

 ああ、三笠君のことを考えるのを完全に忘れていた。
 三笠君のお陰で此処まで来れた。三笠君がいたネコモリサマにも会えた。
 それなのに、私はちゃんと御礼を言っていない。私の思いも…伝えていない。
 もう、二度と会えないというのに…。
 私は頬の泪を拭い、精一杯の笑顔をこしらえる。
「私、ネコモリサマにお願いをしたの……。翠を人間に戻せるお願い」
「えっ?! どんな?」
「……それは、後で話す……。……その前に大事なお話があるの」
「大事な話?」
「そう、とても大切な話。今まで、誰にも言えなかった。三笠くんにも……」
「ん? 僕に?」
「恥かしくて口に出せなかった。でも、ネコモリサマの願いが叶えば、私達の記憶は
消えてしまう。だから……、もう何を言っても恥ずかしくない……」

「……」
「私ね…、三笠君の事が好きでした。ずっと前から」
「……」
「今迄は、遠くから憧れてるだけだった。けど、今日は朝から一緒にいて、三笠君が
賢くて、行動力があって、そして……とっても優しいんだって、よく分った」
「……」
「三笠君は私の思った通りの素敵な人だった。私、三笠君の事を好きになって本当に
良かった」
「……ありがとう。濱野さん、とっても嬉しいよ。だけど……、どうして濱野さん、
そんなに悲しい顔をしてるの?」
「……それは……、これで……。三笠君とお別れだから……」
「お別れ? どうして?」
「私、ネコモリサマにお願いしたの。翠を人間に戻す代わりに、私を猫にしてって」
「そんな……、そんな……、そんなの駄目だよ。直ぐに中止して貰おう」
「ううん。いいの、このままで。翠を人間に戻す方法はこれしかないの。私は、翠を
人間に戻すのが一番の望み」
「でも、それじゃ、君が……」
「私は今まで充分幸せだった。次は翠が幸せになる番。それに、私は三笠君に思いを
伝える事ができた。三笠君。私、あなたの事を好きでいられて幸せだった。だから、
この幸せな気持ちのまま、お別れさせて」

 駄目だ。
 三笠君が、私を抱きしめる。
「駄目だ。駄目だよ。君が居なくなるなんて。君を、君を失いたくない」
 三笠君の声が震えている。三笠君が私のために泣いてくれているんだ。
 と、思う間もなく三笠君が体を離す。
「ネコモリサマ! 今の濱野さんの願いはキャンセルだ。濱野さんを猫にする願いは
中止にしてください!」
 三笠君が、空中部屋のあった辺りの場所に向かって大声を張りあげる。
「ネコモリサマ! 今の願いはキャンセルだ。中止にしてくれ!!」
 返事はない。三笠君が、四方に向かって叫び続ける。
「ネコモリサマ! ネコモリサマ! やい! 髭猫。出てこい! 願いはキャンセル
だ。今すぐ、中止にしろ」

「私が呼ばないと、ネコモリサマは出て来てくれないと思う」
 と三笠君に告げる。
「じゃぁ、ネコモリサマを呼び出して……。そして、願いを中止にして」
「でも……」
「翠ちゃんを戻す方法なら他にあるんだよ。ネコモリサマを呼び出して、今の願いを
中止にしてくれ……。僕のために」
 僕のために。その言葉が、私の胸に響く。

「ネコモリサマ。ネコモリサマ。お話したいことがあります。出てきてください」
 返事がない。空中部屋からの唸り音だけが聞こえる。
「ネコモリサマ。ネコモリサマ」
「聞こえとるよ」
 風景の一部がめくれ上がり、目の前に空中部屋が出現する。
「全部聞いとったぞぉ。髭猫で悪かったのう!」
 ネコモリサマが三笠君を睨みつける。
「聞いてたんなら、話が早い。濱野さんが猫になる願いを、直ぐに中止して下さい」
 三笠君がネコモリサマの前に跪く。ネコモリサマが、私の顔を見る。
「美寿穂も、それでいいのかの?」
 三笠君が私の目を見て、強く頷く。
「わがまま言って済みません。出来るなら、キャンセルにして下さい」
「ふむ。キャンセルね。まぁ、儂も気乗りせんかったから、構わんよ。なあに、只、
準備しとっただけじゃから、別に気にすることはない」
 ネコモリサマがウインクしてみせる。
 きっと、私を猫にする気なんか、最初からなかったんだ。

 三笠君が、私をきつく抱きしめる。
「良かった。本当に…、良かった」
 三笠君が泣いている。
 こんなにも、私の事を案じてくれていたなんて。
 私も、三笠君の背中に腕を回し、力の限り抱きしめた。

 ウォッホン。
 ネコモリサマが咳払いえをした。
「取り込み中、恐縮じゃがのう。結果的にキャンセルしたが、美寿穂が願いを言った
事に変わりは無いからのう。叶えられる願いは、あと一つだけじゃぞ」

 私達は抱擁を解いて、お互いの顔を見合わせる。
 願いはあと一つだけ。
 残された最後の願いだけで、本当に翠を人間に戻せるだろうか?
 三笠君が、涙を拭いながら私の体を離す。
「僕に考えがあるんだ。ネコモリサマと話をさせてくれないか」
「うん」
 三笠君がネコモリサマを振り返る。
「ネコモリサマ。ネコモリサマに質問するのは、お願いの数には入りませんよね」
「ん? まあ、そういう事で構わんよ」
「それじゃ、早速。ネコモリサマはカモンさんの事を覚えていますか?」
「カモン? お主、どうしてカモンの事を知っとるんじゃ?」
「僕たちが最初にこの場所に来た時、ネコモリサマが話してくれたじゃないですか。
サシチさんの恩返しは願いの数が無制限だったけれど、次のカモンさんから、願いの
数を三つにしたって」
「儂、そんな話、したかのう?」
「してました。それで、そのカモンさんなんですが、フルネームを覚えてますか?」
「フルネーム?」
「えーと。人間には、二つ名前があるんです。個人の名前と家の名前。僕の場合は、
三笠が家の名前で、聖真が個人の名前。両方合わせてフルネームって言います」
「そんな物、聞いたかのう?」
「多分、聞いてると思いますけど……。思いだして貰えませんか」
 うーむ。と腕を組んで、じゃない、前足を組んでネコモリサマが考える。
 三笠君、なんだってまた、カモンって人の話を持ち出したんだろう。
 翠を人間に戻す話と何か関係があるんだろうか?