ふう、とため息を落とすと、耳に雨の音が戻った。少し弱まった雨。駅のあたりにある雲の合間からは小さな空が見え出している。

昨日、あれから家に戻ると公志の姿はなかった。

——公志はラジオ局の前にくる。

昨日、寝ずに考えて出した私の結論。

消えてしまう前に、私には彼に言わなくてはいけないことがあった。ちゃんと伝えるために、その時がくるのを雨と一緒に待つ。

信じていれば、この時間さえも愛おしかった。

「会いにきたよ、公志」

静かにつぶやくと、スピーカーから流れるパーソナリティの声がぷつりと途切れた。不自然な切れ方に上を見ると、

ザザ ジジジ  ザザッ

あの雑音がした。灰色の世界のなか、左右のスピーカーにはランプのようにオレンジ色の光が宿っている。

ため息のような音がスピーカーから聴こえ、

《茉奈果》

私の名を呼ぶ声が続いた。低音のなかにやさしさを感じる大好きな声。

——公志……。

「うん、いるよ」

《思い出してくれてありがとう》

やさしく穏やかな声は、心にすっと入ってくる。

昔からそばにいて何度も耳にしていたはずの声。それなのに、会えば素直になれずに冗談でごまかし、お昼の放送さえも眠ったフリで密かに幸せを感じていただけだった。勇気を持てなかった私を襲った後悔は、公志と再会できた今も残っている。

チャンスを与えてもらったのに、私は変わろうとしなかったんだね。

「公志の探し物は、ここにくれば見つかるの?」

《ああ、見つけたよ》

笑みを浮かべているんだろうな。やさしい声にうなずいた。

「それってなんだったの?」

《落ち込んでいる茉奈果を元気にしたかったんだ》

答えになっていない言葉に、スピーカーを意地悪く見る。

「自分が原因のくせに?」

《そう言うなよ》

いつもの調子で返す私に、クスクス笑う声がくすぐったくて心地よかった。

《ここは俺たちのパワースポットって言っただろう?》

「うん。そう言ってたよね」

中学生の時に連れてきてもらったんだ。あれから何度も誘われてのに、私は理由をつけて断っていた。あふれ出す気持ちがいつか公志にバレてしまいそうで怖かったから。

まんなかまなかでいることが嫌なくせに、正当化した言い訳の裏ではそんな自分を守っていただけ。

《ラジオのパーソナリティになるのが夢だった。声だけでみんなに元気を与えられる仕事なんて最高だろ?》

「うん」

《でもさ……もう俺の夢は叶わない。だから、せめて茉奈果ともう一度ここにきたかった。俺のいない世界でもちゃんと笑っていられるように、パワーをあげたかったんだ》

公志の夢はもう叶わないんだ、と初めて実感した。あんなにラジオの仕事をしたいと願っていたのに、もう公志に未来はない。

生きているだけですごいことなのに、落ち込んだり泣いたりしていた自分が、すごくちっぽけに思える。

——どんな時でも公志は私のことを気にしてくれていたのに、私は自分のことばかり……。

口を開けば泣いてしまいそうで、うなずくのが精いっぱいだった。

《俺の最後の放送を茉奈果に聴いてほしい》

「……え?」

《ここで昼の放送をするから聴いて。学校の茉奈果は寝てばっかりで、ろくに聴いてくれてなかっただろう?》

「それは違うよ」

《真梨がそう言ってたからバレてるぞ》

「寝たフリをしていたの。いつも……いつも聴いてたよ」

素直な気持ちを発した自分に驚きながらも、ごまかしのない言葉はあたたかくてやさしいことを知った。

心の温度が言葉に宿るものならば、どうしてもっと素直になれなかったのだろう。公志の放送がみんなに響くのは、きっと心がこもっていたからだったんだ。

《そっか……。なんかうれしいな》

安堵のため息と一緒にそう言うと公志は、《もうすぐ梅雨が明けるな……》と、さみしそうにつぶやいた。

私もさっきよりも近づいている青色の空を見た。

梅雨明けとともに公志が消えるのは、きっと本当のことなんだ。タイムリミットはそこまできている……。

公志の声をここで聴いていれば、彼は安らかに逝けるだろう。だけど、私の後悔はこの先もずっと残り続ける。何年経っても、今日のことを悔やむと思う。

人はどんなにがんばっても未来は見えない。だからこそ、今という時間を後悔なく生きなくちゃいけない。

全部、公志が教えてくれたこと。

「放送はしなくて大丈夫だよ」

《なんだよ。最後まで冷たいこと言うなよ》

不満そうな声を流すスピーカーを見上げた。

「公志。ここにきて。話をしたいの」

そう言うと、言葉に詰まったように沈黙する公志。

「話がしたいよ」 繰り返す私に、

《……それはやめておこう》

静かな声がした。

《できれば、顔を合わせずにさよならをしたいんだ》

「私は顔を見たいの」

《……見ないほうがいい》

「私が元気になれるのは公志の声だけじゃないんだよ。いつも元気で友達思いで、やさしい公志の姿に元気をもらってたの。だからお願い、ちゃんと顔を見せて」

じっとスピーカーを見つめる私に、

《……わかった》

そう言ったかと思うと、スピーカーはノイズを放ってから音を消した。ガラスを背に道路に向き直ると、すぐに左側に気配を感じた。

「こんなになっちまった」

まっすぐに雨を見つめる横顔の公志。その姿はもう、向こうの景色が透けるほど薄くなっている。私も同じように前に視線をやって、

「ありがとう」

そう言った。

徐々に弱くなる雨のなか、雲の合間から光が差し込み、景色が少しずつ色を取り戻していく。

「武田さんに話を聞いたよ。武田さんとは恋人同士じゃなかったって。公志がウソをつくように頼んだんだってね」

「知らないなあ」

そっぽを向く公志はごまかしている。長年のつき合いだから、ちょっとした仕草でもわかるんだよ。

「どうしてそんなウソついたの? 武田さんがかわいそうじゃん」

「ウソじゃないし」

とぼける公志は目を合わさない。

昨日、武田さんはつらい気持ちをお腹のなかから吐き出すように告白した。

『高橋さんを傷つけたことを、ずっと後悔していました。鬼塚くんが亡くなってしまって……本当のことを言うべきかもとも思いました。だけど、今さらウソだとどうしても言えなかったんです』

涙を流し後悔を口にしても、最後まで公志がウソをつくように依頼した理由だけは教えてくれなかった。知っているはずなのに最後まで躊躇している様子に、いじめている気分になった私も、それ以上追求をしないで別れた。

「公志の口から理由を聞かせてほしいの」

身体ごと左を向くと、少し驚いた顔をしてから公志はふてくされた顔になる。

「もういいんだよ」

「よくないよ。ちゃんと話さないと許さないから」

両腕を腰にやった私に、あきらめたように公志は笑った。イタズラが見つかった時によくしていた、恥ずかしそうな笑顔。

「最後に恥をかくのは嫌だから避けてたのにな」

肩をすくめた公志が、息をひとつ吐いて話し出す。

「茉奈果とは小さい頃から一緒だったよな。そばにいるのが当たり前だったのに、中学になってからはたまにしか会わなくなった」

「うん。そうだったね」

「だけどたまに会うと、ゲラゲラ笑ってさ……。高校が同じになったのも、今思えば、『茉奈果がそこ行くなら俺も』って当然のように決めたからなんだ

——え?

きょとんとした顔のまま、私は首を横に振った。

「私も同じだよ。公志と同じ高校にしたかったし」

「きっと俺たちにとっては、意識しなくとも自然な流れだったんだろうなあ」

白い歯を見せて笑った公志にホッとしたのもつかの間、すぐに苦しそうな表情に変わる。

しばらく口を開いては閉じてを繰り返した後、決心したように公志は口を開いた。

「高校生になって、茉奈果のそばにいる時間が増えてうれしかった。そして……知ったんだ。茉奈果のことがずっと好きだったんだ、って」

「え……」

「ずっと一緒だったのに、今さら気づくなんて自分でも笑ったよ。でも俺たちは幼なじみだし、こんな感情がバレたらきっと茉奈果は俺を避けてしまう。だから、これ以上気持ちが大きくならないように、武田さんにウソをついてもらったんだ」

思ってもいない展開に、時間が止まったように感じた。ただ、しびれたように身体の感覚がなくなって、公志が言った言葉を頭でリピートするだけ。

「私のことを……?」

「そんな顔するなよ。だから言いたくなかったのに」

鼻の頭をかいた公志に、どんどん頭が真っ白になっていくのがわかった。しっかりしなくちゃ、と自分に言い聞かせる。

もたれていたガラスから身体を離し、通り側に移動した公志の向こうにさっきまで見えていた雨の線は消えていた。

梅雨が今、終わったことを知る。

「公志……聞いて。私も、自分の気持ちに気づいた日から苦しくて、ごまかしてばかりいた」

「へ?」

きょとんとする公志に、私は一歩近づいた。

その大きな手、長い腕、やわらかい髪。触れたくても二度と叶わなくなるなんて、私たちは知らずにいたんだね。

「私、公志のことが好きです。昔も、今も、これからもずっと。私も絶対に口にしちゃダメだって思って……だけどモヤモヤしっぱなしだった」

込み上がってくる感情が視界をぼやけさせる。

——涙よ、止まれ。

もうすぐ消える公志の姿をちゃんと見たい。それなのに、悲しみがあふれて止まらない。ぽろぽろとこぼれる涙に負けて、消えゆく姿を見ることができないよ。

「俺たちは……本当に似ているな」

「幼なじみだもん」

嗚咽の合間に言うと、公志は目じりを下げた。

「ウソをついてごめんな。あんなことしなければ、なにか変わっていたのかもしれないのに」

「ううん、きっと変わらなかったよ。だって私たちは、似すぎているから」

磁石のプラスとプラス同士が離れていくように、そっくりな私たちはいちばん近い存在だからこそ苦しかったんだよね?

お互い求め合っていたのに、今の幸せを壊したくなくて臆病になりすぎたんだ……。

「そうかもな」 軽くうなずいた公志も私に近づく。

「でも、最後にちゃんと伝えられてよかった」

低音の低い声に、また涙があふれる。悲しくて切なくてうれしい涙は、なんてあたたかいのだろう。 遠回りばかりした私たちだけれど、公志の言うように伝えられた幸せで心が満たされるのを感じた。

その時だった。

雲間から一本の光がこっちに向かって差してくるのを見た。太陽の光とは違うオレンジ色は、まるでスポットライトのように公志を包み込む。

「時間みたいだ」

薄かった公志の身体が光のなかで輪郭をくっきりと際立たせた。

彼が去る時、笑顔で見送ろうって誓った。まんなかまなかは卒業して、強くなった私を見て安心してほしかった。

だけど、だけど……できなかった。

「お願い、行かないで。私を置いて、ひとりで行かないでよ……」

さっき感じたはずの幸せな気持ちは一瞬で姿をひそめてしまう。

こんなに悲しいことがあるの? 公志のいない世界を本当に私は歩いていけるの?

耐え切れずうつむいてしまう私の身体が、ふいにあたたかい温度に包まれた。

「え……?」

驚いて顔を上げると公志が私を抱きしめていた。

「すごいな。最後に茉奈果に触れられるなんて」

「どうして……?」

信じられずに尋ねる私。

「たぶん、全部の探し物が見つかったからかも」

公志は、私の肩にあごを乗せて言った。くぐもった声、背中の大きさ、彼のにおいも温度も、幻ではなかった。やっと現実の公志に触れられたのに、どこか夢のようで、信じることができない。

「正解はなんだったの?」

「それはこれから先、きっとわかるはず。だから、茉奈果は茉奈果らしく生きてほしい」

「……ひとりで生きられるのかな」

弱気な言葉に、公志は「違う」と言った。

「茉奈果はひとりじゃない。いつだってみんないるだろ?」

「だけど私の悲しみをわかってくれる人はいないよ。クラスのみんなも公志のことなんか忘れてしまったみたいで、私だけが悲しくて——」

「いや、それも違う」

言葉をかぶせた公志に、

「違うって?」

と尋ねると、少し笑う声が耳に届く。

「俺が死んだ時さ、あいつらすっげえ泣いてくれたんだよ。葬式でも教室でも、俺が心配するほどだった」

「え……?」

思い出してもそんな記憶がない

——そっか……私はしばらく学校を休んだんだっけ。

「茉奈果が登校しないことで、みんなはお前のことを心配し出した。『茉奈果に思い出させないようにしないと』ってみんなで話し合って、元気になるまでは俺の話題を出さないってルールを決めてた。全部、今井が言い出したことだよ」

「今井くんが? ありえないよ」

いつも私をからかってくる顔を思い浮かべて口にすると、

「鈍感だな」

なんて言ってくる。

「あいつ、茉奈果のことが好きだと思うぞ」

「……まさか」

「お前が毎日どんなふうに過ごしたか、茉奈果が帰った後でいつも話し合ってたし、真梨だって部活に行くフリをして戻ってきてた。もちろん今井がいちばん心配してたけどな」

全然知らなかった……

みんな私を心配してくれていたんだ。公志のことを忘れたわけじゃなく、同じ悲しみを感じてくれていたんだ。

それなのに私は、うわべだけの行動や会話だけを信じ、みんなが冷たいなんて思い込んでいて……

ああ、また涙が止まらない。

厚い胸に顔をうずめながら、歯をくいしばった。泣いていちゃダメだ。

——私は、強くなりたい。

もうすぐ訪れる最後の瞬間、公志のためだけじゃなく自分のためにも。

背中に回した手にもう一度だけ力を込めてから身体を離すと、公志のやさしい顔があった。彼もまた同じように、目を赤くして泣いている。

そう、私たちは似ているから。

「私、まんなかまなかを卒業してみせるから」

意外な言葉だったのか、公志が目を丸くする。

「何度も言ってるだろ? もともと茉奈果は茉奈果だよ」

「でも、私が心配で出てきてくれたのもあるのでしょう? クラスのみんなにも心配ばっかりかけているし」

いつまでも弱い自分を守るのはもう終わり。そうじゃないと、公志が安心して旅立てないもの。

それに私には、気づいたことがある。

「公志の探し物は、『私がちゃんと生きていける力』なんだと思う。やっぱりこの場所はパワースポットだね。その力を感じるよ。だから、がんばるからね」

まっすぐに公志を見つめて誓うと、安堵の表情を浮かべた公志が口角を上げた。

「なんか、もっと好きになってしまいそうだ」

「私はもう、これ以上ないくらい好きだよ」

それから、私たちはクスクス笑った。

幼なじみであり、世界でいちばん大切な人との最後。

涙をぬぐい、彼を見送ろう。

公志を包んでいるオレンジ色の光は、顔を出した太陽の光に存在を消していく。同時に、公志の姿もまた徐々に薄くなっていく。別れの瞬間が私たちに迫っている。

——もう、泣かないよ。

公志のいない毎日を、私は生きていくから。これからも悲しんだり苦しいことがあっても、公志と過ごした時間を思い出せば、きっと力になる。

「茉奈果、またいつか会おうな」

やさしく私を呼ぶ声を胸に刻んだ。

——絶対、忘れない。……忘れないよ!

「ありがとう、公志。またね!」

にっこり笑って言えた私に、公志も同じようにほほ笑んで片手を振った。

まるでまた明日も会えるみたいな、そんな別れ。

音もなく公志の姿は光に溶けていった。さっきまでの雨がウソみたいに、太陽の光が洗われた町を照らしている。音を消していたスピーカーから音楽が流れ出し、パーソナリティが夏の到来をうれしそうに告げていた。