何年かぶりにきた中学校は、雨のなか黒いシルエットに包まれているように見えた。そんなふうに見えるのはきっと、ここで自分が平均点の人間だと思い知らされたから。
あの頃に戻れたとしても、今の私では同じあだ名をつけられるだけだろうな……。
——感傷に浸っている場合じゃない。
宿直の先生に気づかれないように玄関に向かったけれど、鍵がかかっていて入れない。再び傘をさして、入れる場所がないか急ぎ足で探す。
「おい、あそこ」
公志が指さしたのは一階にある教室の窓。近づくと、十センチほど開いているのがわかった。壁をすり抜けて入った公志が、
「濡れた足跡がある」
と、窓のすき間から報告してきた。考えていたことが確信に変わっていく。
彼はどんな気持ちでここまできたのだろう……。悲しみが乗り移ったみたいに苦しくなり、なんとか彼が死を選ぶのを止めたいと思った。
必死で窓枠に手をかけなかに入ると、足音を立てないように教室を横切り廊下へ出た。しんと静まり返った暗い廊下の先に、非常口のランプが光っている。
普段の私なら、夜の校舎なんて怖くて絶対にこないけれど、今はそんなこと言ってられない。
冷たい手すりに手を置いて階段をのぼっていると、
「なあ」
うしろをついてくる公志が言った。
「なに?」
「もしそいつに会ったとして、なんて言うんだ?」
「どういう意味?」
小声でも響いてしまいそうで、公志の横に並んだ。
「会ったとして、どうやって死のうとしているのを止めるつもり?」
「そんなのわからないけど、ふたりで説得すればなんとかなるかもしれないでしょ」
すると、公志は「やっぱりか」と足を止めた。早く行きたいのに、と焦る私に公志は首を振った。
「俺の姿はそいつからは見えないよ」
「あ……」
すっかり忘れていた。ということは、私ひとりで説得をしなくちゃいけないってこと?
急にまんなかまなかが顔を出し、風船がしぼむみたいにさっきまでの気持ちが小さくなっていく。
「私ひとりじゃムリだよ……。あ、隣で公志が言った内容を私が伝えるとか?」
「腹話術かよ。それに、自分の心から出ていない言葉は薄っぺらく聞こえるだけだ」
速攻で却下されたアイデアに一気に気持ちが重くなる。
「俺は行かないから、ひとりで行ってきて」
「ちょ……それはないでしょう?」
思わず声が大きくなってしまうけれど、ここでひとりにされてはかなわない。公志は階段に座り込むと、私を見上げた。
「さっきからなんだか嫌な予感がする。階段をのぼるたびに、ひどく気だるいんだよ。ここからはひとりで頼むわ」
「ムリだよ。私ひとりじゃムリ」
必死で首を横に振るけれど、公志はよほどつらいのか両手で顔を覆ってしまう。
「できるさ。こんな雨のなか、彼のために走ってきたんだから」
「なにを言えばいいの? もしも決心が揺るがなかったらどうすれば?」
ひとりで説得なんて不安しかない。けれど、もう公志はつらそうにうなだれるだけ。
……私ひとりで本当にできるの?
不安な気持ちのまま、しばらく真っ暗な階段の先を見つめた。
「……わかった。やってみる」
ようやく決心を言葉にすると、公志は片手をあげて私を見送ってくれた。
少し進むともう公志の姿は闇にまぎれてしまっている。非常灯だけを頼りに一歩ずつのぼり、大きな扉の前に出た。
この先に屋上がある……。普段は閉じられているはずだから、声の主が鍵を盗んでおいたのだろう。
ギイイイイ
悲鳴のような音を出して開くドアの向こうに、激しい雨が攻撃するかのように降り注いでいる。傘をさしてコンクリートに降り立つと、町の明かりのなかぼんやりと白い手すりが見えた。
怖くてたまらなかった。私なんかに、死に急ぐ人を救うことができるの?
公志のため、と自分に言い聞かせ、足を踏み出す。
雨のせいで視界は悪く、手すり沿いに歩いてみるしかなかった。目をこらして歩くこと十メートル、先のほうに誰かが立っているのが見えた。
いた……。
ゴクリとつばを飲み込んでさらに近づくと、懐かしい学ランを着た少年が雨に打たれていた。手すりに両手を乗せて校庭のほうを見ているみたい。
もう少しで表情が見えるという距離まで近づいた時、信じられないことが起きた。彼が手に力を込め、上半身を浮かせたのだ。思わず傘を投げ捨てて走った。
「待って!」
叫んでも雨にかき消されて届かない。
男の子は、手すりに左足をかけてゆっくりとその上に立った。両手を広げてバランスをとろうとしている身体が、横なぐりの風雨にあおられて大きく左右に揺れる。
——間に合って。
必死で走り、今まさに前かがみになろうとした彼の足を両手で抱きしめた。
「うわっ」
驚いた男の子の悲鳴とともに、私たちはコンクリートに転がった。鈍い音と、水しぶきが跳ねる音が重なる。右肩に痛みが走ったけれど、そんなのどうでもよかった。
倒れている身体に、雨が容赦なくたたきつけてくる。上半身を起こして、信じられないという顔の男の子が私を見た。濡れたコンクリートに両手をついて私も起きる。
生気がない男の子の髪から、雫が次々と落ちている。
ザーッと打ちつける雨のなか、言葉を選んでもなにも出てこない。
——なんて言えばいいの?
必死で考えていると、さっきまでぽかんとしていた目の前にある表情がこわばっていく。
「なんで……」
発した声に、やはりあのラジオから聴こえてきたそれと同じものだと知る。
「なんで、死なせてくれなかったの……。あと少しだったのに」
私を射抜くように見る目には、怒りが浮かんでいた。
「あの……」
その先の言葉が続かない私に、
「どうして死なせてくれないんだよぉ!」
叫び声を上げて、彼は悔しそうに右手を握ってコンクリートを叩いた。
「お願い、話を聞いて」
「聞きたくなんかない! 僕は決めたんだ。ほっといてよ!」
素早く立ち上がった男の子が手すりにまた手を乗せたのを見て、腰のあたりにしがみついた。
「離せ。離せよっ」
「ダメだよ。絶対にダメ!」
必死でしがみつくしかできない私に、両手を激しく振り回して逃れようともがいている。
絶対に離さない。もしも離してしまったなら、一生後悔するから。
ふいに力が抜けたかと思うと、彼はその場にしゃがみ込んだ。泣いているのだろう、強い雨が震える肩を打ちつけている。
彼に死んでほしくない、そう思った。
「僕がなにをしたって言うんだよ……。生きるのもダメ、死ぬのもダメなんて……あんまりだよ」
嗚咽を漏らす男の子の背中はあまりに小さくて、今にも消えてしまいそうだった。
「少しだけでいいから話をさせて」
うしろから肩にそっと手を置くと、
「うるさいっ」
すぐに拒絶され払いのけられる。それでも、同じようにまた手を乗せた。
「じゃあ、私が勝手に話をするから聞いてください」
今度は振り払われることなく、男の子は顔をそむけてしまう。男の子のあごのあたりは小さく震えていて、今にも闇に溶けて消えてしまいそうに思えた。
死にたいほどの苦しさが彼にはあるのだろう。苦しみから逃れるためにこうするしかないと思ったのかもしれない。
「私も……苦しい時があったの」
雨の音に負けないように言葉にするけれど、男の子は無言のままだった。
「中学の時にね、ひどいあだ名をつけられて学校に行くのも嫌になった時期があったの。クラス全員が私をバカにしてる気がして……」
私の言葉に彼は視線をこっちに戻した。
「なにをやっても平均点しか取れなかった。テストも体重も身長すらも全部が平均だった」
「……」
さっきよりは穏やかになった瞳に、彼はきっと聞いてくれていると思った。
「だから『まんなかまなか』って呼ばれてた。きっと軽い冗談のつもりだったんだろうね。みんなは笑って私をそう呼んだ。でも、本当は嫌でたまらなかった。だけど、それさえも言えずにずっとずっと苦しんでた。それからずっと、今でも自分に自信が持てないでいるの」
あの日々を思い出すと、今でも胸が苦しくなる。
「でも、私はムリして笑っていたから、みんなは私が傷ついていることなんて知らなかったと思う。きっと、悪いとも思っていないままだろうね」
「……それでどうしたの?」
久しぶりに口にした男の子の声からはトゲは消えていた。
「言葉は形に残らないけど、言われたほうにはずっと残って消えない。私の心に突き刺さって、今も傷だらけだよ」
わざと明るく言うと、私の隣に並んでくれた男の子は不思議そうに首をかしげた。
「僕と……なんだか似ている」
「……そうなんだ」
「でも、生きていくんでしょう?」
「……うん」
うなずいた私に、彼は首を振った。
「僕にはムリ。死にたくてたまらないんだ」
彼の言葉全部が悲しみに包まれていると思った。
「あんな学校行きたくないけど、親には心配かけたくないし……」
そこで言葉を区切ってから、男の子はまた暗い目をした。
「だから死にたい。死んで、あいつらに復讐してやるんだ」
苦しんだ末の心の叫びのように聞こえた。気がつけば私は歯をくいしばっていた。それは、彼の悲しみが痛いほどに届いたから。
「だって……」
くぐもった声で男の子がうつむいたまま言った。
「みんな僕をバカにしているんだ。学校に行けば、朝から『ゴミ』って呼ばれて……。誰も……そう、先生だって助けてくれない。たったひとりわかってくれた人もいなくなった。それなのにどうやって戦えって言うの?」
悲痛な叫びのなか、男の子も大切な誰かを失ったことを知る。ひょっとしたら、かばってくれていた友達が転校してしまったのかもしれない。だとしたら、この世界にひとりぼっちになった気持ちになるのもうなずける。
だって、私も同じような気持ちでいたから。私たちは本当に似ているんだと思った。
「もう、こんな人生いらないよ」
小さな声なのに、強い意志が含まれていると感じた。
「その大切な人だけがわかってくれていたんだね。私も同じだよ。暗い世界に残されて、それでもその人がいたから生きてこられた気がする」
浮かぶのは公志の笑顔。この男の子と同じで、私も彼がいたから笑顔でいられたんだ。
公志の死を知って、ショックのあまり呼吸することしかできなかった日々を重ねた。
私にはまだ、幽霊になった公志がいてくれるけれど、彼にはもうその人は見えない。だとしたら、彼の悲しみに覆われた世界に私だってまだいたかもしれない。
「聞いてほしいの」
静かに発する声に、男の子は拒否するようにうつむいてしまう。だけど、彼に私は伝えたいと思った。この悲しみと絶望を。
「私もね……ひょっとしたらあなたと同じように死を選んでいたかもしれない」
その顔をのぞき込むと、まっすぐにコンクリートの地面をにらんでいる。
遠くで救急車のサイレンが聞こえている。雨が少し小降りになってきたみたいで、雨音がやさしくなっている。
「私も、ずっとそばにいてくれるって約束してくれた人がいたんだ。その言葉を信じてなんとかやってこられたのかもしれない。だけど、もういない。今でも信じられないけれど、いなくなってしまったの」
公志の顔を思いながら言うと、男の子は顔を上げてくれた。
「僕とおんなじだ……」
初めて男の子と目が合った気がした。さっきよりも少し表情がやわらかくて、ホッとした。男の子の目を見ながら、私は言葉を続ける。
「つらくて悲しいことが私にもあって、それから数日は、どうやって生きてたのか、よく覚えていないの」
私の独白に、男の子の瞳が揺れた。自分のつらい日々を思い出しているように思えた。
「たぶん死んでいるように生きていたんだと思う。変な言い方だけど、心だけ先に死んでしまったみたいだった。真っ暗な世界で、なんにも考えられずに呼吸だけを繰り返してたんだと思う」
あの日々は、空白のような絶望の時間だった。視界が戻ってきても、深い悲しみの海から出たフリで元気になろうとしていただけ。
「だから、なにかのきっかけで、あなたと同じように死を選んでいたかもしれない」
生きていることから逃げたくなる気持ち、よくわかるよ。私だって、公志がまたいなくなったなら、正常でいられるか自信ないもの。
今現れてくれた公志のために、私はなにができるんだろう? もしも彼の探し物を見つけたとして、その先はどうなっちゃうの?
公志への想いは、浄化されることなくこれから先もきっと、私を苦しめるだけなのかな……。
「だけど、私は生きていたい」
その言葉に男の子は眉をひそめた。
「どうしてそんなふうに思えるの?」
本当に不思議そうに尋ねる彼に、私が言えること。それは……。
「彼がそう願っている気がするから」
「なにそれ」
「もし私が死んだとして誰も悲しまなかったのなら、それなら死にたいと思う。けれど彼は私に言ったの。『いつも笑ってろよ』って。あなたの大切な人も、そう願っていると思う。だから生きてやるの。まだ不安で、きっとくじけることも多いと思う。だけど、死んだら彼が悲しむから……」
心の声が言葉になっていくと同時に、涙があふれた。そうだよね、きっと公志も男の子の大切な人も、そう思っていると信じられたんだ。
私につられるように、男の子もその顔をゆがませ涙をこぼした。
そして、私たちは声を上げて泣いた。泣いて泣いて泣いて、お互いの絶望を共有するように抱きしめ合って雨に濡れた。
この悲しみも雨に流れていけばいいのに。それならば、約束したとおり私は笑えるのに……。
やがて雨は小降りになり、涙まじりの雨の雫が髪を伝っていた。身体を解いた私たちは、なぜか気恥ずかしさに少し笑った。
「なんか、自分の話ばっかりしてごめんなさい」
頬の涙を両手でぬぐいながら謝る私に、男の子は首を横に振った。
「お姉さんもつらいんだね」
「あなたと同じくらいね」
少し笑った男の子が、「大橋」と言った。
「え?」
「大橋勇気、僕の名前」
ああ、彼は私に心を開いてくれたのかもしれない。うれしくなって私は大きくうなずいてみせた。
「私は高橋茉奈果」
うん、とうなずいた勇気くんが空を仰ぎ見るように顔を上げた。
雨がやんで、遠くの空にぼんやりと月の光がにじんでいる。
「僕はどうすればいいんだろう?」
慰めることは簡単にできる。けれど、深い悲しみを味わっている私だからこそ本当に思うことを伝えたかった。
「生きてやろうよ」
「なにそれ」
きょとんとした顔で尋ねる勇気くんに、私はニッと笑みを作ってみせた。
「だって、死んだら復讐もできないし。勇気くんの憎い相手がひるむくらい堂々と生きてやるの。それがいちばんの復讐だと思うな」
うーんとうなって、勇気くんは自信なさげに視線を落とした。
「でも、いじめられるもの。赤メガネだって見て見ぬフリだし」
「あの先生は気が弱いからね」
「え、知ってるの?」
驚いている勇気くんに、大きくうなずいた。
「私、この中学校の卒業生なの。しかも、安藤先生……赤メガネが一年生の時の担任だったんだ」
「へぇ……」
ぽかん、としている勇気くんを見てふと思い出す。
「ねぇ、赤メガネの夢って知ってる?」
「夢?」
中学時代に将来の夢を作文で書かされた時に、誰かが『先生の夢も教えてください〜』と冗談っぽく聞いた記憶がある。
「赤メガネの夢は、校長先生になること。だから、教頭先生や校長先生の評価にはすごく気を遣っているみたいよ」
「そうなんだ」
「それを利用しようよ。赤メガネに相談するの」
「何度も言ってる。だけど、『様子を見よう』とか言って逃げてばかり」
悔しそうに唇をとがらせた勇気くんに、あの先生なら言いそうなことだなと思った。
「じゃあ今度はこう言ってみて。『これ以上いじめが続くようならば、校長先生やPTAの方に相談します』って」
我ながらいいアイデアに思えた。安藤先生にとっては、校長先生やPTAに問題があると知られることほど恐ろしいものはないはず。きっと必死になって問題解決に乗り出すだろう。
顔を輝かせた勇気くんが、初めて明るい表情を見せてくれた。
「すごいね、お姉ちゃんすごいや」
それから、私は「でもね」と続けた。勇気くんのほうを身体ごと向いて、顔をまっすぐに見た。
「それでも悲しい毎日が続くなら、逃げてもいいよ。だけど、死ぬのはダメ。学校から逃げればいいの」
「学校から……?」
「死ぬくらいなら学校なんか行かなければいい。お母さんたちは心配するだろうけれど、あなたの親だもん、ちゃんと話せばわかってくれるから」
私の言葉を反芻するようにつぶやいてから、勇気くんはうなずいた。そして、歯を見せて笑った。
「あ、まだ泣いてる」
「ウソ!?」
恥ずかしさに両手で顔を覆うと、勇気くんが軽やかに声を上げて笑った。それは中学生らしい笑い方だった。
「じゃあ、帰ろうか」
私の提案に勇気くんは「うん」と立ち上がった。重い扉を開けて階段を降りていく。
「あれ?」
「ん?」
前をいく勇気くんが振り向いたので、首を横に振ってまた歩き出す。
さっきの場所に、公志の姿が見当たらなかった。どこに行ったんだろう……。不安になるのを勇気くんに知られないようにそっと探すけれど、公志はどこにもいない。
先生に見つからないように校門の外に出てから、私たちは笑い合った。
「ねぇ、お姉ちゃん。ひとつ聞いていい?」
「ん?」
まだ公志の姿を探しながら答える。
「どうして僕が屋上にいるってわかったの? 誰にも言わずにきたのに」
勇気くんの問いに、思わず息を呑みそうになるのを必死でこらえた。
「それはね……誰かが校舎に忍び込むのを見ちゃったから」
ウソをつくのは嫌だったけれど、まさか声を聴いたとも言えずにごまかした。
勇気くんは疑う様子もなく、
「そっか」
と納得した様子だったので安心した。
「さ、それより遅くなっちゃったから送っていくね」
そう言う私に、勇気くんは「いいよ」と走り出した。
「危ないよ」
「すぐ近くだから大丈夫!」
元気に答えてから振り返ると、軽く頭を下げた。
「ありがとう。僕はお姉ちゃんが『まんなかまなか』だなんて思わないよ」
「ふふ。ありがとう」
バイバイ、と手を振って勇気くんは角を曲がっていった。
明日からの勇気くんが、少しでも元気になってくれるように願いを込めて見送る。今度、赤メガネに電話をしてみるのもいいかもしれない。
手をおろして息を吐き出した私に、
「お疲れさん」
いつの間にいたのか、公志が左に立っていた。
「どこ行ってたのよ」
「懐かしくてさ、放送室見に行ってた。って、すげえびしょ濡れだな」
驚きながらもおかしそうに笑うのでムッとした。
「こっちは大変だったんだからね」
「まぁよかったじゃん。勇気もなんとか死ぬのを思いとどまったみたいだし」
「へ? なんで名前知ってるの?」
きょとんとして尋ねる私に、
「屋上で格闘してるのを見てたから」
あっさりと言う公志が信じられない。見てたなら助けてくれてもよかったのに。
そこまで考えて、公志は誰にも見えないし触れることもできないと思い出した。そばにいても、もう公志は遠い存在なんだ……。
ふう、と息を吐くと余計な考えを頭から追い出す。存在を信じないと、永遠に見えなくなってしまうんだった。
——今はここにいてくれるだけでいい。
「月が出てきたな」
公志がまぶしそうに目を細めた視線の先に、雲間から白い月が光をまとっている。梅雨もそろそろ終わりが近いのかもしれない。
「さぁ帰るか」
歩き出す公志の背中を見る。ひどくだるそうで、疲れている歩き方。
いつか、触れられる日がくるといいな……。
せめて一度だけでもいいから、彼に触れたい。
叶わぬ願いを胸に、私も帰ろう。
第四章 朝を待ちながら、夜に震える
「そんなこともあるさね」
新聞を眺めながら、この間と同じことを言う千恵ちゃんに頬を膨らませた。 千恵ちゃんは『ジャイロ磐田快勝』の見出しが躍る記事を、今日も穴が空くくらい見ている。
本格的な夏がきそうな暑さの夕暮れ。なのに、まだ窓から見える空には、この部屋の壁と同じくらい青い空が広がっている。
「でも、どうしてラジオから勇気くんの声が聴こえたんだろう?」
千恵ちゃんに尋ねてみる。
あの日からずっと考えている疑問の答えは見つからないまま。公志の声だけでなく、生きている勇気くんの声まで伝えたあのラジオ。不思議なラジオ、という結論で済ませていいのかな……。
ようやく老眼鏡を外した千恵ちゃんが、「まあ」と口を開いた。
「なにか意味はあるんだろうね」
「勇気くんの声が聴こえたことに?」
「そう考えるのが普通だろ? それ以来、声は聴こえてないのかい?」
あの豪雨の夜から一週間が過ぎようとしていた。毎晩公志とラジオの前で待機しているけれど、本体に電源が入ることはなかった。
最近では気づけば私は先に寝てしまっていて、眠気のこない公志が見張り番をしてくれているほど。初めはふたりきりでいることに緊張もしたけれど、慣れとはおそろしいもので、今では平気で熟睡できるようになっていた。
「公志は、例の探し物についてはなんと言っとる?」
「思い出せないみたい。勇気くんの声が聴こえたことにも心当たりがないって」
「ふーん」
鼻を鳴らして千恵ちゃんは少し考えるように目を閉じた。答えが出るのを待つ間、千恵ちゃんが読んでいた新聞を何気なく見る。
……あれ?
『ジャイロ磐田快勝』の見出しに違和感を覚えた。
くるたびに千恵ちゃんが眺めているけれど、毎回同じ見出しってことがあるのだろうか?
そういえばカラーの写真も、前に見たものと似ている。デジャヴかと錯覚しそうになり、紙面をじっと観察すると、
【五月一日】
右上に明朝体で書かれた文字が目に入って息を呑んだ。もうすぐ七月になるから、これは二カ月近く前の新聞だ。まだ目を閉じている千恵ちゃんを見て、ひとつの考えが浮かんだ。
——ひょっとして……認知症がはじまっている?
今日が何日かもわからなくなって、同じ新聞ばかりを見ているのかもしれない。
そう考えれば、二階にあったたくさんの古い本や家電も納得がいく。前に見たテレビで、ゴミ屋敷の住人が認知症だと診断されていたっけ……。
ああ、どうしよう。
ひとりでオロオロしていると、千恵ちゃんと目が合った。
「あ……」
短く声をあげた私に、千恵ちゃんは「言っておくけど」と私をまっすぐに指さす。
「最近のジャイロは負けてばかりだから、そんな試合結果が載った新聞なんて見たくないだけやて。最後に勝った日の新聞を次に勝つまで読む、それがあたしのポリシーだよ」
「あ、うん」
「どうせ、ボケたとか思ってたんだら? 残念ながら、あたしはまだまだしっかりしてるからね」
してやったり顔でにらんでくるので、両手を上げて降参のポーズをとった。なんて紛らわしいポリシーなのだろう。
気が済んだのか、千恵ちゃんはタバコを口にくわえた。
「次のラジオからの声を待つしかないと思うわ」
「やっぱそうかぁ」
話が戻りホッとしてうなずいた。
「まあ、次の声が生きている人からなのか、死んでいる人からなのかはわからんけれど、誰かに助けを求めているんだろうね。だからこそラジオが伝えてくれたんよ」
公志と勇気くんに共通しているのは、助けを求めていたってことだ。
なんとなく納得した私に、千恵ちゃんはほほ笑む。
「茉奈果が思ったようにやってみなさい」
「思ったように……」
繰り返す私に、千恵ちゃんは満足そうに白い煙を吐いた。煙が部屋を漂っていくのを見て思う。
——声が聴こえれば、公志との別れがまた一日早くなる。
悲しい予感が、部屋を包んでいるようだった。
暗い部屋でラジオの発信を待つ時間は幸せだった。
前に声が聴こえた時と同じ状況にしておいたほうがいい、と電気も消してベッドにもたれる。時々、どちらかが思い出話をポツリポツリと語ると、共有の過去の記憶にくすぐったくなった。
ふと冷静になると、語られている出来事は現在進行形ではないことに気づくこともある。
まだ未来が続く私と、あの事故を最後に時間が止まっている公志。
そんな時は急に寂しくなり、薄闇に浮かぶ公志の輪郭が薄くなってしまう。慌てて公志の存在を信じると、見透かしたように頭をコツンと叩く真似をされた。
もちろん、公志の手は私の身体には触れることはできないけれど。
——このままずっとそばにいてくれたなら。
そんな願いを口にしたなら、公志はきっと困るだろう。
触れられなくても誰にも見えなくても、一緒にいる時間を大切にしたい。
公志の探し物が見つかって本当にいなくなる日がきてしまったら、私は耐えられるのかな。
二度目のさよならを、今はまだ受け止める自信がなかった。
いつもなら眠くなってしまう午後十一時を過ぎても、漠然とした不安が部屋中に漂っているようで、一向に睡魔はやってこない。
隣の公志は、中学生の時にかかったインフルエンザの話をおもしろおかしく語っている。 ああ、そうかと気づく。
いつも眠くなってしまうのは、公志がいろんな話で安心させてくれているからなんだ。やさしいな……。
だけど、今日も公志は武田さんに会いに行ってたのか、さっき帰ってきたところだった。やがて私が眠りにつくと、しばらくラジオからの声を待ってから自分の家に帰っていく。
私だけのものじゃない公志。それを思うと切なさでお腹がモヤモヤする。
「なんか元気ないな」
顔をのぞき込んできた公志に、顔をそむけた。公志のせいだ、なんて八つ当たりもいいところ。
「眠くなっちゃって」
ごまかす私に、「あーあ」とため息をつく公志。
「俺の幼なじみは、なんてわかりやすいウソをつくのだろうか」
嘆くように天井に向かって両手を広げている。……やはりバレていたか。
「そりゃあ落ち込んじゃうよ。あれ以来、ラジオはうんともすんとも言わないし、全然公志の役に立ってないもん」
置き換えたウソを聞いて、公志は「ふ」と笑った。
「役に立つかどうかは、俺が決めることだろ? 茉奈果が俺の姿が見えるだけで、ずいぶん助かってるんだぜ」
「そういうものなの?」
「そういうもの」
言い切ってから公志は、パチンと両手を合わせた。
「そんな時こそ、パワースポットだな。明日、学校終わったらラジオ局に行かない?」
「行かない」
瞬時に断っておく。
「なんでだよ。明日は“ピンソバ”って番組のなかで、俺の好きな大喜利コーナーがあるのに」
「行かないって。それより、ちゃんと探し物を見つけないと」
中学の時に連れていかれたラジオ局の前で、私は公志に力をもらった。
だけど、今苦しんでいるのは公志への恋心。どんなに願っても叶わない恋は、パワースポットに行っても苦しくなるだけだよ。
「つまんねぇの」
本当につまらなさそうな顔をした公志の頬にぽわっと光が当たった。
公志も気づいたようで、同じタイミングで正面を見ると、ラジオからほのかにオレンジの光が生まれたところだった。
「茉奈果」
「うん……」
ノイズが徐々に大きくなっていき、やがて声が混じりはじめる。ゴクリとつばを飲み込んで意識を集中させた。
《……たい》
最後の二文字が聴こえる。また『死にたい』というつぶやきかもしれない。
《……どうして……ジジッ……なの?》
か細い女の子の声は、泣いているのか震えている。目を閉じて耳に集中をすると、女の子が小さく言った。
《生きていたい。だけど……生きていてもこの先になにがあるの?》
それは、人生に絶望しているってこと? まだ若そうな声なのに、いったいどうしたんだろう?
《私にはもう、なにも……っく……うう……》
やがて泣き声に変わる言葉に、私も公志も言葉を発せずにいた。
また助けを求める声がしている。これが公志の探し物と、なにか関係があるのだろうか。
今度は背後の音に耳を澄ませるけれど、泣き声ばかりが気になってしまう。その時、戸を引くような音に続いて、
《どうしたの静佳ちゃん?》
女性の声がした。
声には出さずに「静佳ちゃん」と口を動かすと、公志も無言でうなずいた。
《なんでも……ないよ》
しゃくりあげながら答える女の子に、足音が近づいてきた。
《もうすぐ退院なのに、どうして悲しいの?》
近くなった女性の声は、ふんわりとやさしい。
退院ということは、彼女がいるのは病院だ。そして、声をかけたのは看護師さんなのかも。ヒントを頭にメモしていると、ノイズが女性の声を邪魔し出した。
《大丈夫だよ。だって……ジジジ……から……ザザザ》
波のような雑音がし、やがてラジオは音も光も消してしまった。しんとした暗闇が部屋に戻る。
「病院に入院している……ってことだよね」
部屋の明かりをつけて公志に確認すると、
「そうだろうな」
難しい顔をしている。
「じゃあ、すぐに行こう」
立ち上がった私に、なぜか公志は腕を組んで動かない。
「どうしたの? 行かないの?」
「こんな夜中に病院に行ったら不審者だと思われる」
「それでも助けを求めているのに、ムシできないよ」
抗議する私に公志は首を横に振った。
「名前だけわかってもどこの病院かもわからない。部屋番号だってどうやって調べる? どっちにしても調査してからにしたほうがいい」
「でも……」
「それに『生きたい』ってことは、すぐに死を選ぶこともなさそうだしな」
矢継ぎ早に言う公志に違和感を覚えながらもうなずく私。
「調べるのは俺にまかせて。それまで待機な」
そう言うと、公志は「おやすみ」とだけ告げて出ていってしまった。
なんだか、急に人が変わったかのような態度にきょとんとしてしまう。
どうしちゃったんだろう……。
ベッドにもぐり込んでからも、いろんなことが頭のなかを渦巻いてしまい、なかなか眠りは訪れなかった。
七月五日、晴れ。
期末テスト直前の今日は、クラスの話題もそのことばかり。実際、真梨からは、
「歴史のテストは、大河ドラマからも出るみたい」
と、疑わしい情報がまわってきている。
いつもならろくに勉強もせずテストに挑んでいる私だけれど、最近は学校から帰ると机に向かっていたりする。
理由は三つある。
ひとつは、ラジオの前で待機する日々のせいか、睡眠命だった私が以前に比べると夜型になっていること。
ふたつめは、あの夜以来、姿を見せなくなった公志のせいでやることがないから。
最初はヤキモキしていたけれど、結局大人しく待つしかないわけで……。きっと調査をしているのだろうけれど、状況報告くらいしてくれてもいいのに。
そして三つめは、あのラジオから続きの声が聴こえるかも、と部屋にいる時間が多くなったせいもある。
スマホを触っていても落ち着かず、どうせならと勉強にいそしんでいるのだ。やったことのない復習をしてみてわかったのは、自分が今までいかに逃げていたかということ。
『どうせ平均点しかとれないし』と、挑戦する前からあきらめていた。
わからないところが理解できる楽しみを初めて知り、退屈だった授業も信じられないほど集中力が上がったことを実感していた。自分でも単純だと思うけれど、気を紛らわせるにはちょうどよかった。
「ケンカでもしてるの?」
昼休み、今日は部活のない真梨とお弁当を食べている時にそう尋ねられた。
「……誰と?」
まさか公志のことじゃないよね、と慎重に聞き返すと真梨は顔を近づけて小声で言った。
「優子と」
ああ、武田さんのことかとホッとする反面、どう答えていいのかわからずに口をへの字にした。
「してないよ。もともと、あんまり話したことないし」
武田さんとは、初七日の後も何回か顔を合わせていた。
廊下で、トイレで、校庭で。が、あの日と同じように彼女は私の存在に気づくと、目を伏せてすれ違うだけ。
いくら平均点の私でも、自分が嫌われていることはわかった。
きっと、公志のことだよね……。
私の気持ちを知る由もない真梨は、「気のせいか」とお茶を飲むと違う話題に移った。
最前列に座る武田さんを見る。放送を聞くこともなく本も読まなくなった彼女は、昼休みの時間うつむいていることが多い。元気がないのは、公志の死が原因なのは明らかだ。
ふたりがつき合っていることは私しか知らないはずだから、彼女の悲しみが理解できるのも私しかいない。でも、避けられていると知っていて話しかけるなんてムリだった。
例えなんとか話ができたとしても、頭のいい彼女に心のなかを見透かされそうで怖かったのもある。
私の周りには鋭い人が多すぎるよ。
「今日は木曜日だね」
「あ、うん」
何気なく言った真梨にうなずくと、胸に痛みが走った。生きている公志を見た最後の日を思い出したから。
雨降る交差点にいたふたり。聞きたくない言葉を言う公志。
大きくため息をつくと、記憶を追い払った。
リピート再生はもうやめよう。何度思い返したとしても、過去は変わってくれないのだから。
「今日も武田さんは早く帰るんだろうね」
そう言って卵焼きを頬張る真梨に、
「そうだろうね」
と、同意した。
今も公志は、武田さんの様子を遠くから見ているのかな。それくらい想われるって幸せだよね……。
暗い気持ちになりそうで「寝る」と机に伏せると、真梨の笑う声が聞こえた。
「じゃああたしはトイレ行ってくる。おやすみ」
校内放送では、懐かしいアニメの主題歌が流れている。ヒーローものの主題歌の歌詞を頭のなかで反芻しながら目を閉じた。
『負けるな 今こそ立ち上がれ おまえの力がみんなを救う』
平均点の私に、そんな力はないよ。負けてばかりで、傷だらけ。
心のなかで歌詞に文句を言う。
『努力は無敵 逃げるな 逃げるな 立ち向かえ』
自分のことを言われているようでムッとしながら、顔を上げた。
努力すりゃあいいんでしょ、とふてくされて机をあさる。
トイレから戻ってきた真梨が、教科書を開いて復習している私を見て目を丸くしていた。
放課後も最近では昼間と変わらないくらい明るい。梅雨明け宣言はないものの、夏がきたことを教えているよう。
昇降口で靴を履き替えていると、武田さんが走ってくるのが見えた。
帰る間際になって、武田さんは先生に委員会の用事で呼ばれていた。遅くなってしまって焦っているみたい。
風紀委員の武田さんが廊下を走るなんて、よほどの用事なのだろう。
もどかしそうに靴を履き替えた武田さんが、その時初めて私に気づいた様子で動きを止めた。
視線が久しぶりに合う。が、やはりすぐに彼女は目を伏せてしまった。いつもなら黙って行き過ぎるのを待つだけなのに、無意識に私は武田さんの肩に手を置いていた。
「ヒッ」
短い悲鳴をあげた武田さんに驚きながらも、チャンスは今しかない、と決意する。前にまわり込むと、頭を下げた。
「ごめんなさい」
「え……?」
顔を上げると、彼女は戸惑いをいっぱいに浮かべている。
「私、なにか怒らせるようなことをしたんでしょう? だから、避けているんだよね?」
「あの、私……」
「だけど、クラスメイトに避けられているのってつらいんだよね。私、バカだからきっとすごい失敗とかしたんだろうね」
自嘲気味な笑いに、武田さんが小刻みに震え出した。違う、必死で小さく首を横に振っているのだ。
「わ、私が……私が悪いんです。高橋さんはなにも悪くないんです」
「え……」
そうつぶやいたのは、武田さんの目に涙がたまっていくのがわかったから。必死で唇をかんで耐えながら、武田さんは深く頭を下げる。
「私こそごめんなさい」
「それって……」
理由を聞こうとした私に、武田さんはもう一度「ごめんなさい」と小さな声で言うと走って玄関を出ていってしまった。
どういうこと……?
武田さんが私になにかしたってこと?
それは公志とつき合ったことを指しているのだろうか? 疑問ばかりが頭に浮かびフリーズしていると、
「お、ここにいたか」 右側から急に声が聞こえ、文字どおり飛び上がった。
「ビックリした! 急に声かけないでよ」
「茉奈果がぼんやりしてるからだろ」
制服姿の公志が呆れた顔を隠そうともせずに立っていた。数日ぶりに会えたことでうれしいけれど、今はそれどころじゃない。
「それより、今の見てた?」
校門へ急ぐ武田さんのうしろ姿を見て尋ねるが、
「なにを?」
と、公志はぽかんとしている。
「あのね、今ね——」
「お前、ひとりでしゃべってると思われるぞ」
小声の忠告に我に返る。幸い、近くにいた生徒たちは会話に夢中になっているみたいで安心した。
「行くぞ」
そう言って歩き出した公志は玄関の戸をすり抜けて外に出てしまう。急いで私もカバンを手に追いかける。
「行くってどこへ?」
隣に並んでヒソヒソと聞くけれど、公志はそ知らぬ顔で足を止めない。
「それよりどこにいたのよ。最近、ちっともこなかったじゃない」
チラッと私を見た公志がポケットに手を入れてさらに早足になる。まるで徒競走のように校門を出ると、公志はようやく足をゆるめてくれた。
「ふたつの質問に答えると、今から行くのは遠中病院だ。この数日、大きな病院をしらみつぶしに探していたんだ」
「え、静佳ちゃんを見つけたの?」
驚く私に公志は自慢げに胸をそらせた。
「俺を誰だと思っている」
「すごい!」
また大声を出してしまい、慌てて口を閉じた。
「聖蓮病院とか医学医療センターとか、遠いところばっかり探しちゃってたけど、いちばん近い病院だったとはなぁ」
学校から遠中病院は歩いて十分ほどの距離。“赤電”と呼ばれる電車の駅のそばに、遠中病院はある。
ビル型の高い建物で、思いっきり顔を上げないと上層階は見えないほど。春前に千恵ちゃんが少しの間入院していたので、何度かお見舞いに行ったことがある。
「静佳ちゃんは、どんな感じの子なの? やっぱり元気なかった?」
歩きながら尋ねると、公志はポケットに手を突っ込んで軽くうなずく。
「看護師にも心を閉ざしてる感じだったな。ほとんどご飯も手をつけないらしい」
「それは病気で?」
横断歩道の向こうに病院の正面玄関が見えてくる。
「いや、すっかり完治したらしい。看護師同士がしゃべっているのを聞いてたんだけど、『入院してきた時より元気がない。やっと退院できるのにどうしてだろう?』ってさ」
自動ドアが開くと、公志はさっさとエレベーターのほうへ進んでいく。
たくさんの人がロビーを行き交っている。点滴を押しながら歩いている人、花束を持って受付に向かう男性、松葉杖で歩きにくそうな女性。
病気とは無縁の私からすれば異世界のように思える。みんなどんな思いでここにいるのだろう
「八階」
エレベーターに乗ると公志がそう言ったのでボタンを押す。壁にもたれた公志が苦し気に目を閉じている。
「具合、悪いの?」
ふたりきりのエレベーターが動き出す。
「それもある」
「それも、って?」
上がっていく浮遊感のなか、公志は頭をボリボリとかいた。
「ここに運ばれた時のことを思い出すと苦しくなるんだ。最期の場所だからだろうな」
「この病院に運ばれたんだ……」
余計なことを言ったと後悔しても遅い。全然知らなかったけれど、今さら伝えても言い訳っぽくなるだろうし……。
「暗い顔するなよ。そんなんじゃ静佳って子を元気づけられないだろ」
ムリして少し笑うと公志はまた目を閉じた。
——彼にもし触れられたなら。
その身体を抱きしめて、一緒に悲しんであげたかった。
だけど、触れることができない私たちの距離。私には、自分で握り拳を作るしかできないのだ。
静かに開いたドアから降りると、右へ進む公志。その背中を見て歩く。
子供の泣き声やアナウンスの音がしていて、病院特有の消毒液の匂いがしている。いちばん奥にあるドアの前で公志は立ち止まった。
「ここだ」
「うん……」
部屋番号が書かれたプレートの下には、個人情報の観点からか名前は載っていない。軽く深呼吸してノックをしてからスライド式のドアを引いた。
「失礼……します」
部屋は個室らしく、トイレらしきドアが右側にあり奥にベッドが見えた。
窓辺に立っていた女の子が振り返った。小学校高学年くらいだろうか、ボブカットに厚底のメガネをかけている。第一印象は真面目な感じがした。
「静佳ちゃん……ですか?」
警戒されるかと思ったけれど、静佳ちゃんは、
「そうです」
と、丁寧な返事でうなずいた。この間聴いた声は涙まじりだったのでラジオの声と同じかは自信ないけれど、名前が一緒だったので少し安心した。
「あの……突然ごめんなさい」
オドオドと頭を下げる私に、両手をうしろに回し窓枠にもたれた静佳ちゃんは、
「お姉さん、誰ですか?」
と揃えた前髪を揺らせて首をかしげた。
隣の公志を見やると、腕を組んでパイプ椅子に腰かけたところ。
「俺の姿は見えてないから、助けてあげられない」
と、大きなあくびをして目を閉じてしまう。少しくらいアドバイスとかしてくれてもいいのに、頼りないんだから……
しょうがない、と心を決める。
「私、高橋茉奈果っていいます。少しお話できませんか?」
知らない人と話をしてはいけないと言われています」
メガネを持ち上げて言う静佳ちゃんは、優等生らしく答えてから不審そうな顔で続けた。
「そもそもどうして私の名前を知っているのですか?」
「えっと……まぁ、なんていうか……」
言い訳を考えようとしてから、隠してもしょうがないと開き直った。同じように窓辺に行き、腰を曲げて静佳ちゃんと目線の高さを合わせる。
「信じてもらえないかもしれないけれど、私は静佳ちゃんのことを知っているんです。この間の夜、静佳ちゃんの声を聴いたの」
「ちょっと意味がわかりませんね」
ふう、と大人びたため息を落としてから静佳ちゃんはベッドに腰かけた。
「ですよね」
ヘラッと笑う私と対照的に無表情のまま
「わかるように説明をしてください」
と促してくる。
「はい」
まるで先生に詰問されているように小さくなる私を、ベッドの向こうの椅子に座る公志がケタケタ笑っている。もう、他人事だと思って。
「実は、不思議なラジオを持っているんです。私のおばあちゃんがくれたものなのですが、たまに人の声が聴こえるんです」
「……私をからかっているのですか?」
いぶかしげな顔をする静佳ちゃんに、「いえ」と否定した。
「本当なんです。数日前の夜に、静佳ちゃんらしき女の子の声が聴こえました」
背筋を伸ばした静佳ちゃんは、品定めをするようにじっと私を見ている。
そりゃそうだろうな。いきなり現れた人が意味のわからないことを言っているのだから。
「その女の子は言っていました。『生きていたい。だけど……生きていてもこの先になにがあるの?』と」 私の言葉に、厚いレンズ越しの目が大きく開かれた。
「それって……」
「あとは泣き声で聞き取れませんでした。きっと悩んでいると思って、必死で病院を探してきたんです」
「ここを探しあてたのは俺だろうが」
ベッドの向こうからツッコミが入るけれどムシすることにした。
「たしかに、それは私が……言ったことです」
静佳ちゃんは、眉をひそめて混乱したように目線をせわしなく左右に振った。
「やっぱりそうでしたか」
間違ってなかったんだ、と胸をなでおろす私をまだいぶかしげに見やってから、静佳ちゃんはゆるゆると首を振る。
「そこで立ち聞きしていたとかじゃないんですか?」
「いえ。あんな夜中に病院にはいません」
はっきりと答える私に、静佳ちゃんは再度眉をひそめ黙り込んだ。この上なく怪しいであろう私のことを、信じるかどうか決めかねている様子。公志を見ると目を細めて微動だにせず、まっすぐこちらを見ている。
どれくらい黙っただろう。
「ひとつだけ聞いてもいいですか?」
まっすぐに私を見て静佳ちゃんは尋ねた。
「はい」
うなずいた私に、少し迷ったそぶりをしてから、その口が開く。
「そのラジオは、聴きたい人の声は聴けるの? 『あの人の声が聴きたい』って願えば叶ったりする?」
丁寧な言葉遣いを封印した静佳ちゃんは、まるですがるような目をしていたので戸惑う。
「たぶん……そういうシステムではないように思います」
申し訳なさそうに言うと、静佳ちゃんは初めから答えがわかっていたかのように何度かうなずいて「やっぱりね」とこぼした。距離が縮まったのか、もう敬語じゃない話し方がさっきよりも幼く見せる。
「声を聴きたい人がいるの?」
くだけた口調の私を気にする様子もなく、静佳ちゃんはあいまいにうなずいた。
「聞いてみただけだから」
言葉と裏腹に残念そうな表情にウソをついているのが伝わってくる。なにか静佳ちゃんも胸に抱えているのかもしれない。それが静佳ちゃんを苦しめている原因なのかも……。
「でも、信じられない」
少し硬い言葉になった静佳ちゃんが言った。
「そうだよね、私も最初は信じられなかった。だけど、聴こえたの」
「違う。そのことじゃない」
軽く首をかしげた静佳ちゃんは、
「ラジオのことじゃなくて、茉奈果さん……だっけ? あなたを信じられないって言ったの」
と、挑むように私を見た。
さっきまでの子供っぽい顔ではなく、まるで怒っているみたいな表情に戸惑う。
「私のこと?」
「なんで私に会いにきたの? 声が聴こえたからって普通は探してまで会いにこないよ。他人なんだから放っておけばいいのに」
「それは……」
言いよどんだ私に、静佳ちゃんはなにかを悟ったみたいにうなずく。
「ひょっとしてお母さんとかお姉ちゃんに頼まれたんじゃないの? 『静佳を元気づけてほしい』って言われたとか。バイト代とかもらってるんじゃない?」
「そんなことありません」
「でも、誰かのためにここにきたのはたしかでしょう?」
やはり頭がいいらしく、ズバッと本質をついてくる静佳ちゃんに言葉を失った。すぐに理解したのか、静佳ちゃんは「そう」とうなずくとスッと目を細めた。
あたりの空気が急にとがったように思える。
「茉奈果さんは、私を心配しているんじゃなく、他の誰かのために会いにきたんだ」
「静佳ちゃん、聞いてほしいの。私は——」
「うわべだけの心配をするなんて、茉奈果さんは冷たい人なんですね」
私にかぶせられた言葉は、丁寧な言葉遣いとは裏腹に刃物のように突き刺さった。言葉に詰まりうつむいてしまう。やがて、彼女は静かに言った。
「もう話すことはありません。お帰りください」 それがその日聞いた、彼女の最後の言葉だった。
「最悪……」
机に突っ伏す私に、公志はなにも言わない。
病院そばにあるチェーン店の喫茶店で作戦会議。が、さっき言われた言葉にリピート攻撃されているほど打ちのめされている私からはため息しか出ない。
「あんなふうに言われるとは思わなかった」
つぶやくような声に、向かい側に座った公志はチラッと私を見てから肩をすくめた。
「公志だってなんか言ってくれればよかったのに」
そうだよ。ずっと黙ってるだけで、ちっとも助けてくれないんだから。
よくよく考えると腹が立ってきた。
「だいたい、ピンチになった時こそアドバイスくれなくちゃ」
手つかずのアイスコーヒーをストローで混ぜながら文句を言う私に、公志は「シッ」と口に手を当てた。
「なにが『シッ』よ。調査してきたんなら、例えば静佳ちゃんの好きな食べ物とかわからないの?」
そこまで言ってから、店内に漂う空気がおかしいことに気づいた。誰もが動きを止めて私をじっと見てくる。
そうだ、公志は周りの人からは見えないんだった……。
向こう側に座っているカップルがヒソヒソと私を見て話をしている。
やばい……。顔を伏せる私に、「アホか」と公志が言うのでギロッとにらんでしまう。これじゃあますますおかしな人だと思われちゃう。
「いい加減慣れろよな。スマホを耳に当てて会話しているフリでもしたら?」
それはいいアイデアと、カバンからスマホを取り出し、
「ごめんよく聞こえなかったぁ」
と、いかにも電話をずっとしていたフリをすると、ようやくカップルが『なんだ』という顔をしてくれたので安心した。
「ていうかさ、これからどうするのよ」
ヒソヒソ声でまだ会話しているフリで尋ねると、
「さあ」 やる気のない返事に笑顔のまま頭に血がのぼるのがわかった。
「さあ、じゃないでしょう?」
怒りを抑えながら楽しい会話をしているように言うと、公志は呆れた顔をした。
「失敗したのは茉奈果だろ。ちゃんと考えて行動してくれよ」
「え、私? 私のせいなの!?」
思わず立ち上がった私に周りがギョッとした顔をした。慌てて座って耳に当てたスマホはそのままに、公志をにらむ。
「なんで私のせいにするのさ。公志のためにやってることでしょう?」
「恩着せがましい言い方だな」
「それってどういう意味?」
「静佳と接触できるのは茉奈果だけ、って意味」
悪びれた様子もなく言う公志が信じられない。普段あまり怒りを表に出さないせいか、久しぶりに感情があふれ出している。
「私ひとりだけでできるわけないでしょ。平均点なんだからムリに決まってるもん」
「あのさぁ」
公志がおもしろくない時に出す口ぐせが出て、ハッとする。
「前から思ってたけどさ、“まんなかまなか”を言い訳にするのはやめろよ」
「なによ……公志になにがわかるのよ!」
怒りは言葉になって公志へと向かっていく。ひょいとかわすように立ち上がった公志が、鼻から息を吐き出した。
「ちょっとお互いに落ち着いたほうがいいな」
そう言い捨てて歩いていく公志に、「待ってよ」と、立ち上がる私。
振り返りもせず、公志は壁をすり抜けるといなくなった。
ふと視線を感じて周りを見渡すと、
「あ……」
もれなくすべてのお客さんが私を見ていた。冷たい視線に、頭にのぼった血が一気に下がる。
「すみません、あの……演劇部でして……」
モゴモゴと言い訳をして荷物を持ってレジへ行き、逃げるように外へ出た。
生暖かい空気にさらされながらトボトボと交差点を渡る。気持ちの重さが足にもきているようで、ちっとも前に進まない。さっきとおった駅の階段に、崩れるように座ると頭上に白い半月が浮かんでいた。
どれだけあたりを探しても、公志の姿はなかった。
千恵ちゃんに相談をすることを例えるならば、それは、痛みを伴う改革。辛辣な言葉に耐えさえすれば、帰り道は気持ちもラクになっている。
家に帰らずに立ち寄った私に、千恵ちゃんは開口一番、
「絶賛悩み中、って感じだね」
と言ってのけた。
表情だけで伝わっちゃうのはありがたいようでもあり、困ることでもある。
今日あった出来事を話している間、いつものごとく新聞を見ている千恵ちゃん。ジャイロ磐田はまだ負け続けているらしく、五月一日の新聞のままだ。
ひととおり話が終わった私に千恵ちゃんは老眼鏡を取ると、
「情けないね」
と、言ってのけた。
「それって私が?」
「他に誰がおるんやて。今日の茉奈果の敗因は、視野が狭すぎること。これに尽きるわ」
「狭くなんかないもん」
全面支持はありえなくとも、少しくらいは慰めてくれると思っていただけに驚いてしまう。少しの反抗を試みるけど、
「そういうところが狭い」
と、一蹴されてしまいムスッと押し黙る。
初めから期待はしていなかったけれど、静佳ちゃん、公志ときてさらに千恵ちゃんにまで悪者扱いされているようで悲しくなる。
そう、普段の私ならば攻撃されると悲しみの感情に支配されるのに、今日は変だった。公志にあんなふうに怒ったのは初めてのことで、今頃になって自己嫌悪が顔を出している。
千恵ちゃんはタバコを口にくわえライターで火をつけると、大きく吸い込んでから煙を吐き出した。
「いいかい茉奈果。物事は近づきすぎると見えなくなるんだよ。公志の役に立ちたいと思うがあまり、全体像を見失っているのかもしれんね」
白い煙の向こうで話す声に首を振って否定する。
「全体像ってどういうこと? 私は公志のために——」
「そこだよ。公志のためだけに手伝っているという考えはやめたほうがいい」
意味がわからない忠告に返事ができずにいると、千恵ちゃんはまたおいしそうにタバコを吸った。
「“おこがましい”って言葉を覚えるといい。意味は、“差し出がましい”とか“身の程知らず”ってことさね」
「私がそうだって言うの?」
「話は最後まで聞きなさいっていつも言ってるだろう? この言葉は他人から言われる言葉じゃない。自分自身で思う時に使う言葉やて。茉奈果はね、誰かのためにやっていることを無意識で表に出しすぎてるんだよ。小学生でもわかるくらいだから、相当だろうね」
そう言った千恵ちゃんは、言葉とは逆にやさしい目になった。
「公志のために必死になる気持ちはわかるよ。けれど、その思いにとらわれすぎて全体像が見えなくなっている。ちゃんと、その女の子のことも考えてあげないと」
たしかに……私は公志を助けたい一心で、静佳ちゃんの気持ちを考えていなかったのかも。ううん、考えるフリをしていたんだ。
落ち込む私に、千恵ちゃんは軽くうなずいた。
「ひょっとしたら不思議なラジオとの出会い、死んだはずの公志との出会い、自殺願望のある中学生、生きるのに絶望している小学生……全部は、ひょっとしたら茉奈果が成長するための試練かもしれないよ」
声には出さずに「私が成長するため……」とつぶやいた。そうだというふうに大きくうなずく千恵ちゃん。
「茉奈果自身がなにか変わろうとしないと、せっかくの出会いもムダになるかもしれん。前に公志が言ってくれたんだろう? 『茉奈果は平均点なんかじゃない』って」
そうだ……。
ラジオ局を見学しに行った日、彼が私を慰めてくれた言葉。千恵ちゃんに話をしていないと思ってたけれど、あの頃はこの家にもよく通ってたし相談に乗ってもらっていたのかも。
「でも……」
「その言葉はダメ。『でも』とか『どうせ』に続くのはマイナスな内容を意味する言葉なんよ。『どうせまんなかまなかだし』と言うのは、自分を守っているだけ。本気で変わろうと思うなら、与えられた試練を自分のためだと思うんだよ。そう思えば、相手に対する言葉や態度も変わってくる」
「また静佳ちゃんを傷つけてしまったらどうすればいいの?」
「そうなったら自分に言い聞かせるのさ。『おこがましい』って。アップに寄りすぎてピントが合わなくなったなら、感情を一度ズームアウトして全体を見るようにすればいいだけやて」
「そんなこと、私にできるのかな……」
「茉奈果だからできるんだよ。公志だけじゃなく、その女の子だって同じように悩んでいるんだろう?
そっちにもピントを合わせてあげなさい」
吸い殻で満タンの灰皿にタバコを押しつけて、千恵ちゃんは「それにね」と続ける。
「あたしも公志と同じで、これまで一度だって茉奈果を平均点だなんて思っちゃいないさ。誰よりもそう思っているのは、茉奈果自身かもね」
カッカッと笑ってから千恵ちゃんは椅子から立った。
「さぁ、もう帰りな。蛍さんに心配かけちゃいけないよ」
「……うん」
玄関を出る時に、千恵ちゃんの声が聞こえた。
「自分の目的のためじゃなく、その女の子の心と向き合いなさい。そうすれば、茉奈果を含めたみんなのためになるはずだから」
「わかった」
戸を閉めて歩き出すと、やはり帰り道の足取りは軽くなっていた。
たしかに、千恵ちゃんの言うことも一理ある。知らずに恩着せがましく突っ走っていたと気づかされた。公志はそれを感じて、さっきはあんなふうに厳しい口調になったのかも。
「おこがましい」
口に出してみると、魔法のように感情の波がおさまったみたい。
それぞれの立場になって考えることができれば、自分自身を変えられるかもしれない。
明日、もう一度病院へ行ってみよう。それは誰のためでもない。私がそうしたいから。
ノックをして病室に入ると、昨日と同じように窓辺に立っていた静佳ちゃんは、私だとわかるとすぐに背を向けてしまった。
久しぶりの雨が朝から降っていた。冷たい言葉を覚悟してきたのに、私と話をする気はないらしく静佳ちゃんは黙ったまま雨を見ている。でも、追い出されないだけマシだろう。
「昨日はごめんなさい」
頭を下げて謝る私に反応はない。ただ雨の音が小さく聞こえる病室で、そのままの姿勢で靴の先を見る。
「静佳ちゃんの言うとおりです。私は、あなたを利用しようとしていました」
空気が動く気配に顔を上げると、静佳ちゃんは顔を少しだけこちらに向けていた。
「認めるってことですか?」
話をしてくれたことにホッとしたけれど、表情は硬いままで冷たさを浮かべている。心が痛むけれど、まずはちゃんと伝えなくちゃ。
「声が聴こえたのは本当です。理由を聞いて解決しようとしたのもウソじゃありません。そこに静佳ちゃんを助けたい、という思いがあったかどうかと言うと……正直わかりません」
「そうですか」
他人行儀な返しをした静佳ちゃんは、昨日と同じくベッドに座った。表情を見ながら話をしたくて、窓辺まで進む。
静佳ちゃんのメガネ越しの目には、まだ拒絶があるように見える。目の前の感情にピントを合わせなくてはと自分を律すると、強気に思えた彼女の瞳が不安に揺れているように思えた。
あの夜泣いていた、静佳ちゃんの声と重なる。
「ちゃんと考えます。静佳ちゃんの全部を理解できるかはわからないけれど、少しでも寄り添えるように改めます」
ひょっとしたら、助けてあげようというおこがましさがあったのかもしれない。多感な年頃の静佳ちゃんは、すぐに気づいて心を閉ざしたんだ……。
「もう一度チャンスをください」
重ねて口にする私に、
「誰かのために必死ですね」
と、シーツをなでながら静佳ちゃんは静かに言葉を落とした。
「違います」
「違わないよ。きれいごとを並べても、やり遂げたなら楽しい日々が待っているんでしょう?」
なんて表せばいいのだろう。
楽しい日々のイメージなんてもう遠くにかすれている今、私はなんのために走り回っているのだろう?
こんなに毎日が悲しくて、だけど必死になるしかなくて……。
悲しみに膨れてゆく心に負けるように、私はその場にしゃがんでいた。
「楽しい日々なんて、もう……ないんです」
「え?」
いぶかしげな声に涙が出ないように肩で大きく息をついても、どんどん視界がぼやけていく。泣き落としなんて使いたくないのに、悲しみが波のように私を包んで離してくれない。
「私はこれまでずっと『毎日が楽しくない』って思っていたのかもしれません」
自分で口にして改めて、そうだったんだと気づかされた。
「だけどある日、大切な人を失ったんです。昨日までいたのに消えてしまった存在に、今も海の底にいるみたいなんです。失ってからわかったことは、その人が自分にとってあまりにも大きかったこと……」
言葉を区切って声が震えないように、何度も深呼吸をした。黙って私を見つめている静佳ちゃんに言葉を続けた。
「楽しくなかったはずの毎日は、今になって思えば幸せだった。それは、その人がいたからこそだったんです。だけど、もういない。その人がいない毎日は……もう二度と楽しくなることはないんです」
ポロポロとこぼれる涙で静佳ちゃんの顔がぼやけている。だけど、ちゃんと伝えたかった。
「ここへきたのも、初めはその人のためと思ってきました。静佳ちゃんのことなんて考えていませんでした。本当にごめんなさい」
心から頭を下げる私に、静佳ちゃんはしばらく無言のままだったけれど、やがて、
「そっか」
と、つぶやくほどの小声が聞こえた。
「静佳ちゃんの気持ちも考えずに、自己満足で失礼なことをしてしまって……」
最後は言葉にならずに嗚咽が漏れてしまう私に、
「同じだ」
そう、静佳ちゃんは口にした。
顔を上げると、唇をギュッとかんでいる静佳ちゃんはなにか考え込んでいるよう。やがて、ゆるゆると首を振ってから彼女は言う。
「私も茉奈果さんと似ているかもしれない。悲しくて、どうしていいかわからないの」
不安気に口にした静佳ちゃんを助けたい。おこがましい考えだとしても、目の前の彼女の悩みを少しでも聴きたい、そう思った。
「お願いします。私に、静佳ちゃんの心のなかを少しでも聴かせてください」
チラッと私を見た静佳ちゃんは、キュッと口を結んだ。
大人びた口調をしていても、まだ小学生。きっと、ひとりで抱えた悩みが大きくなりすぎて、心の叫びとなってラジオから聴こえたんだ……。
「私たちが似ているのなら、きっとわかり合えます。だから、静佳ちゃんの心を聴かせてください」
必死だった。彼女の力になりたいと本気で思っている私がいた。
「……わかった」
ぽつりと口にした静佳ちゃんが、少しの間口をつぐんだ。
遠くでナースコールが鳴っている。誰かが話をしながら廊下を歩く声が聞こえるなか、やがて静佳ちゃんはため息とともに話し出す。
「親友が……死んじゃったんだ」
短い言葉のすべての単語が、悲しい音色を奏でているよう。耳に届いた言葉が胸に迫り、相槌すら打てない。
「ずっと一緒だって約束したのに、ある日、目が覚めたらもういなかった。昨日までいたのに……もういないの」
ギュッと唇をかみしめて、静佳ちゃんは小さな身体で耐えている。
それは、小児病棟でできた友達のことを言っているのかもしれない。いろんな病気で入院している子供たち。仲よくなったのに、突然断ち切られた絆にどうしていいのかわからないのかもしれない。
そうだったんだ、というショックに似た感覚に息が苦しくなる。あの夜聴こえた声は、自分の退院よりも、友を失くした喪失感に打ちひしがれていたんだね。
「私と……同じなんだね」
頬にあたたかい涙がこぼれる。泣いちゃダメ、と言い聞かせても次々にあふれる涙に両手で顔を覆った。だって、痛いほどに静佳ちゃんの気持ちがわかるから。
「どうすればいいの? 『その分まであなたが生きるのよ』ってお母さんやお姉ちゃん、看護師さんまでも言ってくる。だけど……そんなの考えられないよ。いないんだもん。もう、いないんだもん……」
顔をくしゃくしゃにして涙を流す静佳ちゃん。理屈めいた励ましなんて、なんの役にも立たないことは、私がいちばんわかっている。
『明けない夜はない』と言われても、今、暗いことが悲しいのだ。いつかくる朝よりも、この暗闇を照らしてほしい。だって悲しい人は、先を見る力すらも奪われてしまったのだから。
泣きじゃくりながら私は想いを言葉にしようとする。でも、
「ごめん。ごめんね……」
感情のすべてはその言葉だった。
「なん……で、謝る……の?」
嗚咽の合間に声を絞り出す静佳ちゃん。
「だって、わかるから。わかりすぎるほどわかるの。だって、私も今同じ悲しみのなかにいるの。だから、あなたを助けたいのに、どうしていいのかわからないよ。だから、ごめ……なさい」
「うん。うん……」
ぼやけた視界の向こうの静佳ちゃんがこらえきれないように顔をゆがませ、大きな口を開けて泣いた。悲しみを全身で表すような叫び声にも似た泣き声に、私は無意識に両手を広げていた。
迷うそぶりもなく私の胸に飛び込んでくる静佳ちゃん。そのあまりに小さな背中を抱きしめる。言葉にならない悲しみは、ふたつの泣き声になる。
「助けて。お願い……助けてよぉ」
くぐもった声ですがりつく静佳ちゃん。
「うん、悲しいよね。苦しいよね」
「助けて……こんなに悲しいことをどうやって乗り越えればいいの? お願い……教えてよ」
ずっと、ひとりで悩んでいたんだね。まだ子供なのに、どれだけつらかったのだろう……。
「どうして大切な人がいなくなるんだろうね。私たち、なにか悪いことしたのかな。神様からのバツなのかな……」
蛍光灯を見上げながら私は言った。
悲しみも、煙のように空にのぼっていけばいいのに。それならこんなに苦しくないのに。はがれて宙に浮かぶ悲しみを見送ることができたなら……。
ふいに千恵ちゃんの言葉を思い出す。私に課せられた試練だと、千恵ちゃんは言っていた。
そうかもしれない。勇気くんや静佳ちゃんの心の叫びが聴こえたのは、私が同じように悲しいから。それならば、一緒に泣いているだけじゃ先へ進めない。
——この暗闇を抜け出すために、私ができること……。
そっと身体を離して、まだ泣きじゃくる静佳ちゃんの両手を握った。
「一緒に歩こう」
「……え?」
鼻を真っ赤に染めた静佳ちゃんが不思議そうな顔をしているので、うなずいてみせた。
「私も暗い道にひとりぼっちなの。だから、一緒に手を取り合って歩いてみようよ。いつか、暗闇から抜け出せるかもしれない」
「意味がわかんないよ」
首を横に振る静佳ちゃん。私は握った手に願いを込めるように力を入れる。
「つまり、友達になろうってこと。親友には長い道のりかもしれないけれど、もうひとりの親友になれるようにがんばるから」
ぽかん、と口を開いた静佳ちゃんはやはり首を横に振ったので、「大丈夫」と、うなずいてみせた。
手さぐりでも同じ悲しみを背負って歩いていける人がいれば、一歩ずつでも前に進めるはず。どちらかが進めなくなったら、一緒に休めばいい。いつか、明るくなる空を信じて歩いていこう。
静佳ちゃんは何度もしゃくりをあげながら、
「私にできるかな……できるのかなぁ」
また顔を上に向けて声を出して泣きそうになっている。私は、その頬に流れる涙を指先でぬぐった。
「静佳ちゃんが悲しみに泣く日には、私が励ますの。私が泣いたら、静佳ちゃんが励ましてくれるの」
「……ふたりが悲しい日には?」
「気が済むまで一緒に泣こうよ」
顔をのぞき込む私に、ようやく泣き声は止まる。そして、何度も深呼吸をして乱れた息を整えてからこくりとうなずいてくれた。
「よかった……」
安堵の声に、涙を拭いて静佳ちゃんはベッドにまた座った。
「でも、私の親友はひとりだけだよ」
大切な人を思っての言葉に、そうだろうな、と思った。
「じゃあ、親友の補欠でいいよ」
そう言うと静佳ちゃんは表情をやわらげてうなずいてくれた。
「そうと決まったら、売店に行こう」
勢いよく立ち上がる私に静佳ちゃんはきょとんとしている。
「売店?」
「親友……あっ、〝親友の補欠候補〟になるにはまずはお茶でも飲まなきゃね」
ニッと笑ってみせる私に小さくうなずいた静佳ちゃんが、渋々というふうに立った。
「少しだけだからね」
子供っぽい笑顔を少し浮かべている。
今はまだムリした笑顔でもいいよ。いつかきっと本当の笑顔になれるから。
差し出した手を握る小さな手。自分自身が助けられたみたいで、なんだかうれしかった。
第五章 やがて、梅雨が終わる