何年かぶりにきた中学校は、雨のなか黒いシルエットに包まれているように見えた。そんなふうに見えるのはきっと、ここで自分が平均点の人間だと思い知らされたから。
あの頃に戻れたとしても、今の私では同じあだ名をつけられるだけだろうな……。
——感傷に浸っている場合じゃない。
宿直の先生に気づかれないように玄関に向かったけれど、鍵がかかっていて入れない。再び傘をさして、入れる場所がないか急ぎ足で探す。
「おい、あそこ」
公志が指さしたのは一階にある教室の窓。近づくと、十センチほど開いているのがわかった。壁をすり抜けて入った公志が、
「濡れた足跡がある」
と、窓のすき間から報告してきた。考えていたことが確信に変わっていく。
彼はどんな気持ちでここまできたのだろう……。悲しみが乗り移ったみたいに苦しくなり、なんとか彼が死を選ぶのを止めたいと思った。
必死で窓枠に手をかけなかに入ると、足音を立てないように教室を横切り廊下へ出た。しんと静まり返った暗い廊下の先に、非常口のランプが光っている。
普段の私なら、夜の校舎なんて怖くて絶対にこないけれど、今はそんなこと言ってられない。
冷たい手すりに手を置いて階段をのぼっていると、
「なあ」
うしろをついてくる公志が言った。
「なに?」
「もしそいつに会ったとして、なんて言うんだ?」
「どういう意味?」
小声でも響いてしまいそうで、公志の横に並んだ。
「会ったとして、どうやって死のうとしているのを止めるつもり?」
「そんなのわからないけど、ふたりで説得すればなんとかなるかもしれないでしょ」
すると、公志は「やっぱりか」と足を止めた。早く行きたいのに、と焦る私に公志は首を振った。
「俺の姿はそいつからは見えないよ」
「あ……」
すっかり忘れていた。ということは、私ひとりで説得をしなくちゃいけないってこと?
急にまんなかまなかが顔を出し、風船がしぼむみたいにさっきまでの気持ちが小さくなっていく。
「私ひとりじゃムリだよ……。あ、隣で公志が言った内容を私が伝えるとか?」
「腹話術かよ。それに、自分の心から出ていない言葉は薄っぺらく聞こえるだけだ」
速攻で却下されたアイデアに一気に気持ちが重くなる。
「俺は行かないから、ひとりで行ってきて」
「ちょ……それはないでしょう?」
思わず声が大きくなってしまうけれど、ここでひとりにされてはかなわない。公志は階段に座り込むと、私を見上げた。
「さっきからなんだか嫌な予感がする。階段をのぼるたびに、ひどく気だるいんだよ。ここからはひとりで頼むわ」
「ムリだよ。私ひとりじゃムリ」
必死で首を横に振るけれど、公志はよほどつらいのか両手で顔を覆ってしまう。
「できるさ。こんな雨のなか、彼のために走ってきたんだから」
「なにを言えばいいの? もしも決心が揺るがなかったらどうすれば?」
ひとりで説得なんて不安しかない。けれど、もう公志はつらそうにうなだれるだけ。
……私ひとりで本当にできるの?
不安な気持ちのまま、しばらく真っ暗な階段の先を見つめた。
「……わかった。やってみる」
ようやく決心を言葉にすると、公志は片手をあげて私を見送ってくれた。
少し進むともう公志の姿は闇にまぎれてしまっている。非常灯だけを頼りに一歩ずつのぼり、大きな扉の前に出た。
この先に屋上がある……。普段は閉じられているはずだから、声の主が鍵を盗んでおいたのだろう。
ギイイイイ
悲鳴のような音を出して開くドアの向こうに、激しい雨が攻撃するかのように降り注いでいる。傘をさしてコンクリートに降り立つと、町の明かりのなかぼんやりと白い手すりが見えた。
怖くてたまらなかった。私なんかに、死に急ぐ人を救うことができるの?
公志のため、と自分に言い聞かせ、足を踏み出す。
雨のせいで視界は悪く、手すり沿いに歩いてみるしかなかった。目をこらして歩くこと十メートル、先のほうに誰かが立っているのが見えた。
いた……。
ゴクリとつばを飲み込んでさらに近づくと、懐かしい学ランを着た少年が雨に打たれていた。手すりに両手を乗せて校庭のほうを見ているみたい。
もう少しで表情が見えるという距離まで近づいた時、信じられないことが起きた。彼が手に力を込め、上半身を浮かせたのだ。思わず傘を投げ捨てて走った。
「待って!」
叫んでも雨にかき消されて届かない。
男の子は、手すりに左足をかけてゆっくりとその上に立った。両手を広げてバランスをとろうとしている身体が、横なぐりの風雨にあおられて大きく左右に揺れる。
——間に合って。
必死で走り、今まさに前かがみになろうとした彼の足を両手で抱きしめた。
「うわっ」
驚いた男の子の悲鳴とともに、私たちはコンクリートに転がった。鈍い音と、水しぶきが跳ねる音が重なる。右肩に痛みが走ったけれど、そんなのどうでもよかった。
倒れている身体に、雨が容赦なくたたきつけてくる。上半身を起こして、信じられないという顔の男の子が私を見た。濡れたコンクリートに両手をついて私も起きる。
生気がない男の子の髪から、雫が次々と落ちている。
ザーッと打ちつける雨のなか、言葉を選んでもなにも出てこない。
——なんて言えばいいの?
必死で考えていると、さっきまでぽかんとしていた目の前にある表情がこわばっていく。
「なんで……」
発した声に、やはりあのラジオから聴こえてきたそれと同じものだと知る。
「なんで、死なせてくれなかったの……。あと少しだったのに」
私を射抜くように見る目には、怒りが浮かんでいた。
「あの……」
その先の言葉が続かない私に、
「どうして死なせてくれないんだよぉ!」
叫び声を上げて、彼は悔しそうに右手を握ってコンクリートを叩いた。
「お願い、話を聞いて」
「聞きたくなんかない! 僕は決めたんだ。ほっといてよ!」
素早く立ち上がった男の子が手すりにまた手を乗せたのを見て、腰のあたりにしがみついた。
「離せ。離せよっ」
「ダメだよ。絶対にダメ!」
必死でしがみつくしかできない私に、両手を激しく振り回して逃れようともがいている。
絶対に離さない。もしも離してしまったなら、一生後悔するから。
ふいに力が抜けたかと思うと、彼はその場にしゃがみ込んだ。泣いているのだろう、強い雨が震える肩を打ちつけている。
彼に死んでほしくない、そう思った。
「僕がなにをしたって言うんだよ……。生きるのもダメ、死ぬのもダメなんて……あんまりだよ」
嗚咽を漏らす男の子の背中はあまりに小さくて、今にも消えてしまいそうだった。
「少しだけでいいから話をさせて」
うしろから肩にそっと手を置くと、
「うるさいっ」
すぐに拒絶され払いのけられる。それでも、同じようにまた手を乗せた。
「じゃあ、私が勝手に話をするから聞いてください」
今度は振り払われることなく、男の子は顔をそむけてしまう。男の子のあごのあたりは小さく震えていて、今にも闇に溶けて消えてしまいそうに思えた。
死にたいほどの苦しさが彼にはあるのだろう。苦しみから逃れるためにこうするしかないと思ったのかもしれない。
「私も……苦しい時があったの」
雨の音に負けないように言葉にするけれど、男の子は無言のままだった。
「中学の時にね、ひどいあだ名をつけられて学校に行くのも嫌になった時期があったの。クラス全員が私をバカにしてる気がして……」
私の言葉に彼は視線をこっちに戻した。
「なにをやっても平均点しか取れなかった。テストも体重も身長すらも全部が平均だった」
「……」
さっきよりは穏やかになった瞳に、彼はきっと聞いてくれていると思った。
「だから『まんなかまなか』って呼ばれてた。きっと軽い冗談のつもりだったんだろうね。みんなは笑って私をそう呼んだ。でも、本当は嫌でたまらなかった。だけど、それさえも言えずにずっとずっと苦しんでた。それからずっと、今でも自分に自信が持てないでいるの」
あの日々を思い出すと、今でも胸が苦しくなる。
「でも、私はムリして笑っていたから、みんなは私が傷ついていることなんて知らなかったと思う。きっと、悪いとも思っていないままだろうね」
「……それでどうしたの?」
久しぶりに口にした男の子の声からはトゲは消えていた。
「言葉は形に残らないけど、言われたほうにはずっと残って消えない。私の心に突き刺さって、今も傷だらけだよ」
わざと明るく言うと、私の隣に並んでくれた男の子は不思議そうに首をかしげた。
「僕と……なんだか似ている」
「……そうなんだ」
「でも、生きていくんでしょう?」
「……うん」
うなずいた私に、彼は首を振った。
「僕にはムリ。死にたくてたまらないんだ」
彼の言葉全部が悲しみに包まれていると思った。
「あんな学校行きたくないけど、親には心配かけたくないし……」
そこで言葉を区切ってから、男の子はまた暗い目をした。
「だから死にたい。死んで、あいつらに復讐してやるんだ」
苦しんだ末の心の叫びのように聞こえた。気がつけば私は歯をくいしばっていた。それは、彼の悲しみが痛いほどに届いたから。
「だって……」
くぐもった声で男の子がうつむいたまま言った。
「みんな僕をバカにしているんだ。学校に行けば、朝から『ゴミ』って呼ばれて……。誰も……そう、先生だって助けてくれない。たったひとりわかってくれた人もいなくなった。それなのにどうやって戦えって言うの?」
悲痛な叫びのなか、男の子も大切な誰かを失ったことを知る。ひょっとしたら、かばってくれていた友達が転校してしまったのかもしれない。だとしたら、この世界にひとりぼっちになった気持ちになるのもうなずける。
だって、私も同じような気持ちでいたから。私たちは本当に似ているんだと思った。
「もう、こんな人生いらないよ」
小さな声なのに、強い意志が含まれていると感じた。
「その大切な人だけがわかってくれていたんだね。私も同じだよ。暗い世界に残されて、それでもその人がいたから生きてこられた気がする」
浮かぶのは公志の笑顔。この男の子と同じで、私も彼がいたから笑顔でいられたんだ。
公志の死を知って、ショックのあまり呼吸することしかできなかった日々を重ねた。
私にはまだ、幽霊になった公志がいてくれるけれど、彼にはもうその人は見えない。だとしたら、彼の悲しみに覆われた世界に私だってまだいたかもしれない。
「聞いてほしいの」
静かに発する声に、男の子は拒否するようにうつむいてしまう。だけど、彼に私は伝えたいと思った。この悲しみと絶望を。
「私もね……ひょっとしたらあなたと同じように死を選んでいたかもしれない」
その顔をのぞき込むと、まっすぐにコンクリートの地面をにらんでいる。
遠くで救急車のサイレンが聞こえている。雨が少し小降りになってきたみたいで、雨音がやさしくなっている。
「私も、ずっとそばにいてくれるって約束してくれた人がいたんだ。その言葉を信じてなんとかやってこられたのかもしれない。だけど、もういない。今でも信じられないけれど、いなくなってしまったの」
公志の顔を思いながら言うと、男の子は顔を上げてくれた。
「僕とおんなじだ……」
初めて男の子と目が合った気がした。さっきよりも少し表情がやわらかくて、ホッとした。男の子の目を見ながら、私は言葉を続ける。
「つらくて悲しいことが私にもあって、それから数日は、どうやって生きてたのか、よく覚えていないの」
私の独白に、男の子の瞳が揺れた。自分のつらい日々を思い出しているように思えた。
「たぶん死んでいるように生きていたんだと思う。変な言い方だけど、心だけ先に死んでしまったみたいだった。真っ暗な世界で、なんにも考えられずに呼吸だけを繰り返してたんだと思う」
あの日々は、空白のような絶望の時間だった。視界が戻ってきても、深い悲しみの海から出たフリで元気になろうとしていただけ。
「だから、なにかのきっかけで、あなたと同じように死を選んでいたかもしれない」
生きていることから逃げたくなる気持ち、よくわかるよ。私だって、公志がまたいなくなったなら、正常でいられるか自信ないもの。
今現れてくれた公志のために、私はなにができるんだろう? もしも彼の探し物を見つけたとして、その先はどうなっちゃうの?
公志への想いは、浄化されることなくこれから先もきっと、私を苦しめるだけなのかな……。
「だけど、私は生きていたい」
その言葉に男の子は眉をひそめた。
「どうしてそんなふうに思えるの?」
本当に不思議そうに尋ねる彼に、私が言えること。それは……。
「彼がそう願っている気がするから」
「なにそれ」
「もし私が死んだとして誰も悲しまなかったのなら、それなら死にたいと思う。けれど彼は私に言ったの。『いつも笑ってろよ』って。あなたの大切な人も、そう願っていると思う。だから生きてやるの。まだ不安で、きっとくじけることも多いと思う。だけど、死んだら彼が悲しむから……」
心の声が言葉になっていくと同時に、涙があふれた。そうだよね、きっと公志も男の子の大切な人も、そう思っていると信じられたんだ。
私につられるように、男の子もその顔をゆがませ涙をこぼした。
そして、私たちは声を上げて泣いた。泣いて泣いて泣いて、お互いの絶望を共有するように抱きしめ合って雨に濡れた。
この悲しみも雨に流れていけばいいのに。それならば、約束したとおり私は笑えるのに……。
やがて雨は小降りになり、涙まじりの雨の雫が髪を伝っていた。身体を解いた私たちは、なぜか気恥ずかしさに少し笑った。
「なんか、自分の話ばっかりしてごめんなさい」
頬の涙を両手でぬぐいながら謝る私に、男の子は首を横に振った。
「お姉さんもつらいんだね」
「あなたと同じくらいね」
少し笑った男の子が、「大橋」と言った。
「え?」
「大橋勇気、僕の名前」
ああ、彼は私に心を開いてくれたのかもしれない。うれしくなって私は大きくうなずいてみせた。
「私は高橋茉奈果」
うん、とうなずいた勇気くんが空を仰ぎ見るように顔を上げた。
雨がやんで、遠くの空にぼんやりと月の光がにじんでいる。
「僕はどうすればいいんだろう?」
慰めることは簡単にできる。けれど、深い悲しみを味わっている私だからこそ本当に思うことを伝えたかった。
「生きてやろうよ」
「なにそれ」
きょとんとした顔で尋ねる勇気くんに、私はニッと笑みを作ってみせた。
「だって、死んだら復讐もできないし。勇気くんの憎い相手がひるむくらい堂々と生きてやるの。それがいちばんの復讐だと思うな」
うーんとうなって、勇気くんは自信なさげに視線を落とした。
「でも、いじめられるもの。赤メガネだって見て見ぬフリだし」
「あの先生は気が弱いからね」
「え、知ってるの?」
驚いている勇気くんに、大きくうなずいた。
「私、この中学校の卒業生なの。しかも、安藤先生……赤メガネが一年生の時の担任だったんだ」
「へぇ……」
ぽかん、としている勇気くんを見てふと思い出す。
「ねぇ、赤メガネの夢って知ってる?」
「夢?」
中学時代に将来の夢を作文で書かされた時に、誰かが『先生の夢も教えてください〜』と冗談っぽく聞いた記憶がある。
「赤メガネの夢は、校長先生になること。だから、教頭先生や校長先生の評価にはすごく気を遣っているみたいよ」
「そうなんだ」
「それを利用しようよ。赤メガネに相談するの」
「何度も言ってる。だけど、『様子を見よう』とか言って逃げてばかり」
悔しそうに唇をとがらせた勇気くんに、あの先生なら言いそうなことだなと思った。
「じゃあ今度はこう言ってみて。『これ以上いじめが続くようならば、校長先生やPTAの方に相談します』って」
我ながらいいアイデアに思えた。安藤先生にとっては、校長先生やPTAに問題があると知られることほど恐ろしいものはないはず。きっと必死になって問題解決に乗り出すだろう。
顔を輝かせた勇気くんが、初めて明るい表情を見せてくれた。
「すごいね、お姉ちゃんすごいや」
それから、私は「でもね」と続けた。勇気くんのほうを身体ごと向いて、顔をまっすぐに見た。
「それでも悲しい毎日が続くなら、逃げてもいいよ。だけど、死ぬのはダメ。学校から逃げればいいの」
「学校から……?」
「死ぬくらいなら学校なんか行かなければいい。お母さんたちは心配するだろうけれど、あなたの親だもん、ちゃんと話せばわかってくれるから」
私の言葉を反芻するようにつぶやいてから、勇気くんはうなずいた。そして、歯を見せて笑った。
「あ、まだ泣いてる」
「ウソ!?」
恥ずかしさに両手で顔を覆うと、勇気くんが軽やかに声を上げて笑った。それは中学生らしい笑い方だった。
「じゃあ、帰ろうか」
私の提案に勇気くんは「うん」と立ち上がった。重い扉を開けて階段を降りていく。
「あれ?」
「ん?」
前をいく勇気くんが振り向いたので、首を横に振ってまた歩き出す。
さっきの場所に、公志の姿が見当たらなかった。どこに行ったんだろう……。不安になるのを勇気くんに知られないようにそっと探すけれど、公志はどこにもいない。
先生に見つからないように校門の外に出てから、私たちは笑い合った。
「ねぇ、お姉ちゃん。ひとつ聞いていい?」
「ん?」
まだ公志の姿を探しながら答える。
「どうして僕が屋上にいるってわかったの? 誰にも言わずにきたのに」
勇気くんの問いに、思わず息を呑みそうになるのを必死でこらえた。
「それはね……誰かが校舎に忍び込むのを見ちゃったから」
ウソをつくのは嫌だったけれど、まさか声を聴いたとも言えずにごまかした。
勇気くんは疑う様子もなく、
「そっか」
と納得した様子だったので安心した。
「さ、それより遅くなっちゃったから送っていくね」
そう言う私に、勇気くんは「いいよ」と走り出した。
「危ないよ」
「すぐ近くだから大丈夫!」
元気に答えてから振り返ると、軽く頭を下げた。
「ありがとう。僕はお姉ちゃんが『まんなかまなか』だなんて思わないよ」
「ふふ。ありがとう」
バイバイ、と手を振って勇気くんは角を曲がっていった。
明日からの勇気くんが、少しでも元気になってくれるように願いを込めて見送る。今度、赤メガネに電話をしてみるのもいいかもしれない。
手をおろして息を吐き出した私に、
「お疲れさん」
いつの間にいたのか、公志が左に立っていた。
「どこ行ってたのよ」
「懐かしくてさ、放送室見に行ってた。って、すげえびしょ濡れだな」
驚きながらもおかしそうに笑うのでムッとした。
「こっちは大変だったんだからね」
「まぁよかったじゃん。勇気もなんとか死ぬのを思いとどまったみたいだし」
「へ? なんで名前知ってるの?」
きょとんとして尋ねる私に、
「屋上で格闘してるのを見てたから」
あっさりと言う公志が信じられない。見てたなら助けてくれてもよかったのに。
そこまで考えて、公志は誰にも見えないし触れることもできないと思い出した。そばにいても、もう公志は遠い存在なんだ……。
ふう、と息を吐くと余計な考えを頭から追い出す。存在を信じないと、永遠に見えなくなってしまうんだった。
——今はここにいてくれるだけでいい。
「月が出てきたな」
公志がまぶしそうに目を細めた視線の先に、雲間から白い月が光をまとっている。梅雨もそろそろ終わりが近いのかもしれない。
「さぁ帰るか」
歩き出す公志の背中を見る。ひどくだるそうで、疲れている歩き方。
いつか、触れられる日がくるといいな……。
せめて一度だけでもいいから、彼に触れたい。
叶わぬ願いを胸に、私も帰ろう。
あの頃に戻れたとしても、今の私では同じあだ名をつけられるだけだろうな……。
——感傷に浸っている場合じゃない。
宿直の先生に気づかれないように玄関に向かったけれど、鍵がかかっていて入れない。再び傘をさして、入れる場所がないか急ぎ足で探す。
「おい、あそこ」
公志が指さしたのは一階にある教室の窓。近づくと、十センチほど開いているのがわかった。壁をすり抜けて入った公志が、
「濡れた足跡がある」
と、窓のすき間から報告してきた。考えていたことが確信に変わっていく。
彼はどんな気持ちでここまできたのだろう……。悲しみが乗り移ったみたいに苦しくなり、なんとか彼が死を選ぶのを止めたいと思った。
必死で窓枠に手をかけなかに入ると、足音を立てないように教室を横切り廊下へ出た。しんと静まり返った暗い廊下の先に、非常口のランプが光っている。
普段の私なら、夜の校舎なんて怖くて絶対にこないけれど、今はそんなこと言ってられない。
冷たい手すりに手を置いて階段をのぼっていると、
「なあ」
うしろをついてくる公志が言った。
「なに?」
「もしそいつに会ったとして、なんて言うんだ?」
「どういう意味?」
小声でも響いてしまいそうで、公志の横に並んだ。
「会ったとして、どうやって死のうとしているのを止めるつもり?」
「そんなのわからないけど、ふたりで説得すればなんとかなるかもしれないでしょ」
すると、公志は「やっぱりか」と足を止めた。早く行きたいのに、と焦る私に公志は首を振った。
「俺の姿はそいつからは見えないよ」
「あ……」
すっかり忘れていた。ということは、私ひとりで説得をしなくちゃいけないってこと?
急にまんなかまなかが顔を出し、風船がしぼむみたいにさっきまでの気持ちが小さくなっていく。
「私ひとりじゃムリだよ……。あ、隣で公志が言った内容を私が伝えるとか?」
「腹話術かよ。それに、自分の心から出ていない言葉は薄っぺらく聞こえるだけだ」
速攻で却下されたアイデアに一気に気持ちが重くなる。
「俺は行かないから、ひとりで行ってきて」
「ちょ……それはないでしょう?」
思わず声が大きくなってしまうけれど、ここでひとりにされてはかなわない。公志は階段に座り込むと、私を見上げた。
「さっきからなんだか嫌な予感がする。階段をのぼるたびに、ひどく気だるいんだよ。ここからはひとりで頼むわ」
「ムリだよ。私ひとりじゃムリ」
必死で首を横に振るけれど、公志はよほどつらいのか両手で顔を覆ってしまう。
「できるさ。こんな雨のなか、彼のために走ってきたんだから」
「なにを言えばいいの? もしも決心が揺るがなかったらどうすれば?」
ひとりで説得なんて不安しかない。けれど、もう公志はつらそうにうなだれるだけ。
……私ひとりで本当にできるの?
不安な気持ちのまま、しばらく真っ暗な階段の先を見つめた。
「……わかった。やってみる」
ようやく決心を言葉にすると、公志は片手をあげて私を見送ってくれた。
少し進むともう公志の姿は闇にまぎれてしまっている。非常灯だけを頼りに一歩ずつのぼり、大きな扉の前に出た。
この先に屋上がある……。普段は閉じられているはずだから、声の主が鍵を盗んでおいたのだろう。
ギイイイイ
悲鳴のような音を出して開くドアの向こうに、激しい雨が攻撃するかのように降り注いでいる。傘をさしてコンクリートに降り立つと、町の明かりのなかぼんやりと白い手すりが見えた。
怖くてたまらなかった。私なんかに、死に急ぐ人を救うことができるの?
公志のため、と自分に言い聞かせ、足を踏み出す。
雨のせいで視界は悪く、手すり沿いに歩いてみるしかなかった。目をこらして歩くこと十メートル、先のほうに誰かが立っているのが見えた。
いた……。
ゴクリとつばを飲み込んでさらに近づくと、懐かしい学ランを着た少年が雨に打たれていた。手すりに両手を乗せて校庭のほうを見ているみたい。
もう少しで表情が見えるという距離まで近づいた時、信じられないことが起きた。彼が手に力を込め、上半身を浮かせたのだ。思わず傘を投げ捨てて走った。
「待って!」
叫んでも雨にかき消されて届かない。
男の子は、手すりに左足をかけてゆっくりとその上に立った。両手を広げてバランスをとろうとしている身体が、横なぐりの風雨にあおられて大きく左右に揺れる。
——間に合って。
必死で走り、今まさに前かがみになろうとした彼の足を両手で抱きしめた。
「うわっ」
驚いた男の子の悲鳴とともに、私たちはコンクリートに転がった。鈍い音と、水しぶきが跳ねる音が重なる。右肩に痛みが走ったけれど、そんなのどうでもよかった。
倒れている身体に、雨が容赦なくたたきつけてくる。上半身を起こして、信じられないという顔の男の子が私を見た。濡れたコンクリートに両手をついて私も起きる。
生気がない男の子の髪から、雫が次々と落ちている。
ザーッと打ちつける雨のなか、言葉を選んでもなにも出てこない。
——なんて言えばいいの?
必死で考えていると、さっきまでぽかんとしていた目の前にある表情がこわばっていく。
「なんで……」
発した声に、やはりあのラジオから聴こえてきたそれと同じものだと知る。
「なんで、死なせてくれなかったの……。あと少しだったのに」
私を射抜くように見る目には、怒りが浮かんでいた。
「あの……」
その先の言葉が続かない私に、
「どうして死なせてくれないんだよぉ!」
叫び声を上げて、彼は悔しそうに右手を握ってコンクリートを叩いた。
「お願い、話を聞いて」
「聞きたくなんかない! 僕は決めたんだ。ほっといてよ!」
素早く立ち上がった男の子が手すりにまた手を乗せたのを見て、腰のあたりにしがみついた。
「離せ。離せよっ」
「ダメだよ。絶対にダメ!」
必死でしがみつくしかできない私に、両手を激しく振り回して逃れようともがいている。
絶対に離さない。もしも離してしまったなら、一生後悔するから。
ふいに力が抜けたかと思うと、彼はその場にしゃがみ込んだ。泣いているのだろう、強い雨が震える肩を打ちつけている。
彼に死んでほしくない、そう思った。
「僕がなにをしたって言うんだよ……。生きるのもダメ、死ぬのもダメなんて……あんまりだよ」
嗚咽を漏らす男の子の背中はあまりに小さくて、今にも消えてしまいそうだった。
「少しだけでいいから話をさせて」
うしろから肩にそっと手を置くと、
「うるさいっ」
すぐに拒絶され払いのけられる。それでも、同じようにまた手を乗せた。
「じゃあ、私が勝手に話をするから聞いてください」
今度は振り払われることなく、男の子は顔をそむけてしまう。男の子のあごのあたりは小さく震えていて、今にも闇に溶けて消えてしまいそうに思えた。
死にたいほどの苦しさが彼にはあるのだろう。苦しみから逃れるためにこうするしかないと思ったのかもしれない。
「私も……苦しい時があったの」
雨の音に負けないように言葉にするけれど、男の子は無言のままだった。
「中学の時にね、ひどいあだ名をつけられて学校に行くのも嫌になった時期があったの。クラス全員が私をバカにしてる気がして……」
私の言葉に彼は視線をこっちに戻した。
「なにをやっても平均点しか取れなかった。テストも体重も身長すらも全部が平均だった」
「……」
さっきよりは穏やかになった瞳に、彼はきっと聞いてくれていると思った。
「だから『まんなかまなか』って呼ばれてた。きっと軽い冗談のつもりだったんだろうね。みんなは笑って私をそう呼んだ。でも、本当は嫌でたまらなかった。だけど、それさえも言えずにずっとずっと苦しんでた。それからずっと、今でも自分に自信が持てないでいるの」
あの日々を思い出すと、今でも胸が苦しくなる。
「でも、私はムリして笑っていたから、みんなは私が傷ついていることなんて知らなかったと思う。きっと、悪いとも思っていないままだろうね」
「……それでどうしたの?」
久しぶりに口にした男の子の声からはトゲは消えていた。
「言葉は形に残らないけど、言われたほうにはずっと残って消えない。私の心に突き刺さって、今も傷だらけだよ」
わざと明るく言うと、私の隣に並んでくれた男の子は不思議そうに首をかしげた。
「僕と……なんだか似ている」
「……そうなんだ」
「でも、生きていくんでしょう?」
「……うん」
うなずいた私に、彼は首を振った。
「僕にはムリ。死にたくてたまらないんだ」
彼の言葉全部が悲しみに包まれていると思った。
「あんな学校行きたくないけど、親には心配かけたくないし……」
そこで言葉を区切ってから、男の子はまた暗い目をした。
「だから死にたい。死んで、あいつらに復讐してやるんだ」
苦しんだ末の心の叫びのように聞こえた。気がつけば私は歯をくいしばっていた。それは、彼の悲しみが痛いほどに届いたから。
「だって……」
くぐもった声で男の子がうつむいたまま言った。
「みんな僕をバカにしているんだ。学校に行けば、朝から『ゴミ』って呼ばれて……。誰も……そう、先生だって助けてくれない。たったひとりわかってくれた人もいなくなった。それなのにどうやって戦えって言うの?」
悲痛な叫びのなか、男の子も大切な誰かを失ったことを知る。ひょっとしたら、かばってくれていた友達が転校してしまったのかもしれない。だとしたら、この世界にひとりぼっちになった気持ちになるのもうなずける。
だって、私も同じような気持ちでいたから。私たちは本当に似ているんだと思った。
「もう、こんな人生いらないよ」
小さな声なのに、強い意志が含まれていると感じた。
「その大切な人だけがわかってくれていたんだね。私も同じだよ。暗い世界に残されて、それでもその人がいたから生きてこられた気がする」
浮かぶのは公志の笑顔。この男の子と同じで、私も彼がいたから笑顔でいられたんだ。
公志の死を知って、ショックのあまり呼吸することしかできなかった日々を重ねた。
私にはまだ、幽霊になった公志がいてくれるけれど、彼にはもうその人は見えない。だとしたら、彼の悲しみに覆われた世界に私だってまだいたかもしれない。
「聞いてほしいの」
静かに発する声に、男の子は拒否するようにうつむいてしまう。だけど、彼に私は伝えたいと思った。この悲しみと絶望を。
「私もね……ひょっとしたらあなたと同じように死を選んでいたかもしれない」
その顔をのぞき込むと、まっすぐにコンクリートの地面をにらんでいる。
遠くで救急車のサイレンが聞こえている。雨が少し小降りになってきたみたいで、雨音がやさしくなっている。
「私も、ずっとそばにいてくれるって約束してくれた人がいたんだ。その言葉を信じてなんとかやってこられたのかもしれない。だけど、もういない。今でも信じられないけれど、いなくなってしまったの」
公志の顔を思いながら言うと、男の子は顔を上げてくれた。
「僕とおんなじだ……」
初めて男の子と目が合った気がした。さっきよりも少し表情がやわらかくて、ホッとした。男の子の目を見ながら、私は言葉を続ける。
「つらくて悲しいことが私にもあって、それから数日は、どうやって生きてたのか、よく覚えていないの」
私の独白に、男の子の瞳が揺れた。自分のつらい日々を思い出しているように思えた。
「たぶん死んでいるように生きていたんだと思う。変な言い方だけど、心だけ先に死んでしまったみたいだった。真っ暗な世界で、なんにも考えられずに呼吸だけを繰り返してたんだと思う」
あの日々は、空白のような絶望の時間だった。視界が戻ってきても、深い悲しみの海から出たフリで元気になろうとしていただけ。
「だから、なにかのきっかけで、あなたと同じように死を選んでいたかもしれない」
生きていることから逃げたくなる気持ち、よくわかるよ。私だって、公志がまたいなくなったなら、正常でいられるか自信ないもの。
今現れてくれた公志のために、私はなにができるんだろう? もしも彼の探し物を見つけたとして、その先はどうなっちゃうの?
公志への想いは、浄化されることなくこれから先もきっと、私を苦しめるだけなのかな……。
「だけど、私は生きていたい」
その言葉に男の子は眉をひそめた。
「どうしてそんなふうに思えるの?」
本当に不思議そうに尋ねる彼に、私が言えること。それは……。
「彼がそう願っている気がするから」
「なにそれ」
「もし私が死んだとして誰も悲しまなかったのなら、それなら死にたいと思う。けれど彼は私に言ったの。『いつも笑ってろよ』って。あなたの大切な人も、そう願っていると思う。だから生きてやるの。まだ不安で、きっとくじけることも多いと思う。だけど、死んだら彼が悲しむから……」
心の声が言葉になっていくと同時に、涙があふれた。そうだよね、きっと公志も男の子の大切な人も、そう思っていると信じられたんだ。
私につられるように、男の子もその顔をゆがませ涙をこぼした。
そして、私たちは声を上げて泣いた。泣いて泣いて泣いて、お互いの絶望を共有するように抱きしめ合って雨に濡れた。
この悲しみも雨に流れていけばいいのに。それならば、約束したとおり私は笑えるのに……。
やがて雨は小降りになり、涙まじりの雨の雫が髪を伝っていた。身体を解いた私たちは、なぜか気恥ずかしさに少し笑った。
「なんか、自分の話ばっかりしてごめんなさい」
頬の涙を両手でぬぐいながら謝る私に、男の子は首を横に振った。
「お姉さんもつらいんだね」
「あなたと同じくらいね」
少し笑った男の子が、「大橋」と言った。
「え?」
「大橋勇気、僕の名前」
ああ、彼は私に心を開いてくれたのかもしれない。うれしくなって私は大きくうなずいてみせた。
「私は高橋茉奈果」
うん、とうなずいた勇気くんが空を仰ぎ見るように顔を上げた。
雨がやんで、遠くの空にぼんやりと月の光がにじんでいる。
「僕はどうすればいいんだろう?」
慰めることは簡単にできる。けれど、深い悲しみを味わっている私だからこそ本当に思うことを伝えたかった。
「生きてやろうよ」
「なにそれ」
きょとんとした顔で尋ねる勇気くんに、私はニッと笑みを作ってみせた。
「だって、死んだら復讐もできないし。勇気くんの憎い相手がひるむくらい堂々と生きてやるの。それがいちばんの復讐だと思うな」
うーんとうなって、勇気くんは自信なさげに視線を落とした。
「でも、いじめられるもの。赤メガネだって見て見ぬフリだし」
「あの先生は気が弱いからね」
「え、知ってるの?」
驚いている勇気くんに、大きくうなずいた。
「私、この中学校の卒業生なの。しかも、安藤先生……赤メガネが一年生の時の担任だったんだ」
「へぇ……」
ぽかん、としている勇気くんを見てふと思い出す。
「ねぇ、赤メガネの夢って知ってる?」
「夢?」
中学時代に将来の夢を作文で書かされた時に、誰かが『先生の夢も教えてください〜』と冗談っぽく聞いた記憶がある。
「赤メガネの夢は、校長先生になること。だから、教頭先生や校長先生の評価にはすごく気を遣っているみたいよ」
「そうなんだ」
「それを利用しようよ。赤メガネに相談するの」
「何度も言ってる。だけど、『様子を見よう』とか言って逃げてばかり」
悔しそうに唇をとがらせた勇気くんに、あの先生なら言いそうなことだなと思った。
「じゃあ今度はこう言ってみて。『これ以上いじめが続くようならば、校長先生やPTAの方に相談します』って」
我ながらいいアイデアに思えた。安藤先生にとっては、校長先生やPTAに問題があると知られることほど恐ろしいものはないはず。きっと必死になって問題解決に乗り出すだろう。
顔を輝かせた勇気くんが、初めて明るい表情を見せてくれた。
「すごいね、お姉ちゃんすごいや」
それから、私は「でもね」と続けた。勇気くんのほうを身体ごと向いて、顔をまっすぐに見た。
「それでも悲しい毎日が続くなら、逃げてもいいよ。だけど、死ぬのはダメ。学校から逃げればいいの」
「学校から……?」
「死ぬくらいなら学校なんか行かなければいい。お母さんたちは心配するだろうけれど、あなたの親だもん、ちゃんと話せばわかってくれるから」
私の言葉を反芻するようにつぶやいてから、勇気くんはうなずいた。そして、歯を見せて笑った。
「あ、まだ泣いてる」
「ウソ!?」
恥ずかしさに両手で顔を覆うと、勇気くんが軽やかに声を上げて笑った。それは中学生らしい笑い方だった。
「じゃあ、帰ろうか」
私の提案に勇気くんは「うん」と立ち上がった。重い扉を開けて階段を降りていく。
「あれ?」
「ん?」
前をいく勇気くんが振り向いたので、首を横に振ってまた歩き出す。
さっきの場所に、公志の姿が見当たらなかった。どこに行ったんだろう……。不安になるのを勇気くんに知られないようにそっと探すけれど、公志はどこにもいない。
先生に見つからないように校門の外に出てから、私たちは笑い合った。
「ねぇ、お姉ちゃん。ひとつ聞いていい?」
「ん?」
まだ公志の姿を探しながら答える。
「どうして僕が屋上にいるってわかったの? 誰にも言わずにきたのに」
勇気くんの問いに、思わず息を呑みそうになるのを必死でこらえた。
「それはね……誰かが校舎に忍び込むのを見ちゃったから」
ウソをつくのは嫌だったけれど、まさか声を聴いたとも言えずにごまかした。
勇気くんは疑う様子もなく、
「そっか」
と納得した様子だったので安心した。
「さ、それより遅くなっちゃったから送っていくね」
そう言う私に、勇気くんは「いいよ」と走り出した。
「危ないよ」
「すぐ近くだから大丈夫!」
元気に答えてから振り返ると、軽く頭を下げた。
「ありがとう。僕はお姉ちゃんが『まんなかまなか』だなんて思わないよ」
「ふふ。ありがとう」
バイバイ、と手を振って勇気くんは角を曲がっていった。
明日からの勇気くんが、少しでも元気になってくれるように願いを込めて見送る。今度、赤メガネに電話をしてみるのもいいかもしれない。
手をおろして息を吐き出した私に、
「お疲れさん」
いつの間にいたのか、公志が左に立っていた。
「どこ行ってたのよ」
「懐かしくてさ、放送室見に行ってた。って、すげえびしょ濡れだな」
驚きながらもおかしそうに笑うのでムッとした。
「こっちは大変だったんだからね」
「まぁよかったじゃん。勇気もなんとか死ぬのを思いとどまったみたいだし」
「へ? なんで名前知ってるの?」
きょとんとして尋ねる私に、
「屋上で格闘してるのを見てたから」
あっさりと言う公志が信じられない。見てたなら助けてくれてもよかったのに。
そこまで考えて、公志は誰にも見えないし触れることもできないと思い出した。そばにいても、もう公志は遠い存在なんだ……。
ふう、と息を吐くと余計な考えを頭から追い出す。存在を信じないと、永遠に見えなくなってしまうんだった。
——今はここにいてくれるだけでいい。
「月が出てきたな」
公志がまぶしそうに目を細めた視線の先に、雲間から白い月が光をまとっている。梅雨もそろそろ終わりが近いのかもしれない。
「さぁ帰るか」
歩き出す公志の背中を見る。ひどくだるそうで、疲れている歩き方。
いつか、触れられる日がくるといいな……。
せめて一度だけでもいいから、彼に触れたい。
叶わぬ願いを胸に、私も帰ろう。