70年分の夏を君に捧ぐ

「よっし莉子、気分転換に楽しい話しよ! 夏休みになったら今年も行くからね、あたしんちの別荘! 今年は三人の彼氏も誘ってさぁ」

「あんなボロ屋を別荘なんて言わないでよ、本当の別荘を持ってる人に失礼だよ」

 まだむくれている莉子は言ってくれるねー、と沙有美に紙コップを奪われている。ていうかそれ、元はあたしのなんですけど。

 別荘と言えば聞こえはいいが、相続で沙有美のお父さんが受け継いだ、普段は使われていない古い3LDKをそう呼んでいるだけ。

 といっても、千葉の北側の海岸沿い、海まで歩いて二分の好ロケーション。去年は四泊五日で行って、バーベキューに花火にすいか割りに肝試し、思いつく限りの遊びを堪能したっけ。

「男の子と一緒に旅行なんてあたしの親が許すわけないし」

「百合香は真面目だねー、男子が一緒なんて言わなきゃいいだけじゃん! 去年と同じ、いつもの三人で行くって言っときゃいいの」
去年の夏休み直前、弘道にコクられて付き合い出して、あたしは仲良し三人組で唯一の彼氏持ちになった。だからって焦って恋活に精を出すほど、沙有美も莉子も単純じゃないけれど、その年の冬には沙有美は同じ中学だった先輩と、莉子は文化祭で知り合った他校の男の子と付き合い始めた。そして高校生の恋愛にありがちな、数日単位でのスピード破局を迎えたり、束縛が激しいバカ男やDV男、あるいは盛りのついたサル男に引っかかる事もなく、見事に三人とも平和な付き合いが続いてるんだ。

「実質、今年が高校生活最後の夏なんだよ? テストも終わったんだしさぁ、百合香も莉子も、もっとはしゃぎなって!」

「たしかに来年の今頃は、うちの親は両方とも鬼と化してるだろうなぁ……」

 テンションを上げようとした沙有美の隣で、莉子がうなだれている。

 そう、今年が実質高校生活最後の夏。進学校に通うあたし達の来年の夏は、受験戦争真っただ中だ。十七歳のあたし達はもう、子どもじゃない。大人ははしゃいだりふざけたり、未来に期待したりしない。受験を終えて大学生活という束の間のモラトリアムを得た後、今度は就職活動という新たな戦争が待っている。その後は、楽しい事なんてきっとひとつもない。

 実社会なんてしんどくてつまらないだけ。刑務所のような場所に決まってる。

 ぶるる、テーブルの上で猫のキャラクターのカバーに包んだあたしのスマホがアプリ着信を告げる。メッセージは弘道から。「ついた。いつもんとこ」。スタンプはおろか絵文字のひとつすらない。アプリで繋がった最初の頃はこの人本当にあたしの事好きなの? と疑うほどだったけど、今はこれが弘道らしさなのだとよく知っている。

 愛、だなんて十七歳だからまだよくわからないけれど。一年間付き合い続けて、あたしと弘道の間には何本もの糸できつく編んだような強い絆が芽生えている気がする。
「ごめん。あたし、もう行かなきゃ」

「おっ、弘道くんかー? いいなぁ、百合香が一番ラブラブじゃね?」

「ねぇねぇ、いっつもどこで弘道くんと会ってるの? いい加減教えてよー!」

「だーめ。秘密の穴場が秘密じゃなくなっちゃうから」

 けちー、と沙有美と莉子が声を合わせた。あたしはふたりに小さく手を振った後、一センチだけシェイクが残った紙コップをゴミ箱に捨てて外に出る。

 エアコンの効いた室内から一歩屋外に出ると、気温三十二度の熱がむわぁん、と容赦なく襲ってくる。明日は七夕。まだ七月の上旬で梅雨明け宣言も出されてないのに、こんなに暑いなんてこの先思いやられる。

『日本は今、戦争をする国になろうとしています。アメリカからの押し付け等ではありません。私たちは世界に誇れる、この平和憲法を絶対に守るべきなのです――』

 駅の改札を出てすぐのところ。『戦争法案絶対反対!!』『平和のために今こそ立ち上がれ』なんていうプラカードや垂れ幕が並んだ一団の中心で、メガホンを手に女の人がしゃべっている。というか、叫んでいる。前髪から覗いたおでこに浮かんだいくつもの汗の玉が、鬱陶しいアクセサリーに見えた。

 新宿や渋谷ならわかるけど、都心から離れたこんなところまで、小規模とはいえデモが起こってるなんて。学校でも日本史の先生が長々と話してたし(退屈過ぎて途中から寝た)、今世間を賑わせている法案の事はあたしも小市民として一応知ってはいるが、自分とは関係ない事にここまでアツくなれる人間の気が知れない。

 こんな暑い日に情熱を振りまかれた他の人の事も考えてほしい。体感温度が二度は上がるっつぅの。暑さからくるイライラに任せて、無意識に『戦争法案絶対反対!!』のプラカードを睨んでいた。

夏は嫌いだ。暑さのせいで無駄にテンション上げた連中がウザいから。
弘道とあたしが週イチで「密会」する喫茶店は表通りからひとつ奥に入った小さな通り沿い、ライブハウスの隣にある。建物の二階に小さな音楽事務所が入っているところが、音楽や演劇、次世代のカルチャーを次から次へと生み出すこの街らしい。

 こんなおしゃれな街が地元なんて羨ましいー、と沙有美と莉子にはよく言われる。沙有美は都下から毎日一時間かけて通学してるし、莉子は高校進学と同時に神奈川から引っ越してきたから、住んではいても地元ではない。現実には、おしゃれな古着屋の服にはゼロがひとつ間違って書いてあるんじゃない? と疑いたくなるような値札が付いていて、パンケーキや凝ったラテアートつきのコーヒーを出す店は高校生の経済力じゃ入れない価格設定なんだけど、弘道が教えてくれたこの喫茶店は、コーヒー一杯四百円から。まぁそれでも、ファーストフードの四倍だけど。

 でも、わかりづらい場所にあるからか、ここで同じ高校の生徒に会った事は一度もないし、落ち着いた大人の空間、というキャッチコピーが似合う店内は、行った事はないけれど軽井沢あたりの、それこそ本物の別荘の一室みたい。

「お待たせー」

 弘道はテーブルが低いソファ席に座っていた。やってきたウエイトレスさんに弘道と同じホットコーヒーを頼む。テーブルの上には別に隠すほどのものでもないんで、って感じでひらりと置かれたテストの結果表。

「見ていいよ」

 弘道がぐいと顎を差し出して言う。頭の切れ具合を表しているような濃い眉毛と切れ長の目。正直そこまでイケメンじゃないし、十人中五人が「まぁ……恰好いいんじゃない?」って言うほどのレベルだけど、弘道はいい顔をしていると思う。少し太すぎる鼻筋も、行儀よく並んだ歯も、グレープフルーツみたいな感触の厚めの唇も、あたしは好き。
「何かもう、言うことなし。というか、あたしがコメントしちゃいけない気がする」

「俺は凹んでるよ。今夜これを親に見せるんだって思うと憂鬱になる」

「なんでよ」

「十番以内から落ちた」

「つっても十一位じゃん! あたしなんてやっと四十位台だっつーのに!!」

 コーヒーが運ばれてきて、ミルクを落としてかき混ぜる。墨色がクリーミーホワイトと溶け合って、ゆっくり回りながら焦がしたキャラメルの色に変わっていく。

「弘道はさぁ、絶対入るべき高校を間違えてるよ。もうひとつランク上のとこ狙えばよかったのに」

「だからその話は前もしただろ、本命は私立だったんだよ。でも受験直前になってオヤジが大阪に転勤になって、断ればたぶんクビで、単身赴任は嫌だからって自主退職してこっちで仕事探そうって話になったけど、今と同じ生活レベルは保証できないから私立はやめてくれって」

「でも結局お父さんの転勤の話はなくなって、クビにもならなくて、なのに、弘道はランクを落とした高校に通う事になったんでしょー? ちょっとした悲劇だよね」

「別に今の高校でいいよ。校則うるさくないし、授業の質も悪くないし、それに百合香にも会えたし」

 そんな事を照れもなく言うもんだから、言われたこっちが恥ずかしくなる。コーヒーを変な場所に入れてしまってむせて、弘道が驚いたように大丈夫か? と言った。

 弘道とは高一の時に同じクラスだった。二年から文理選択でクラスは分かれてしまったけれど、スマホも通話アプリもあるんだから学校の中でも外でもいつでも会える。違う学校の人と付き合っている莉子からすれば「百合香はほんと恵まれてるよ。、彼氏と壁一枚しか隔ててないなんて!」って、本当に羨ましい環境なんだそうだ。
りんりん。喫茶店の入り口にぶら下げられた、重そうな鉄製の風鈴が鳴る。音の行方を確かめるように顔を上げると、水彩画みたいな空がどーん、と視界に入ってきた。夏の空は神様という名の芸術家が作り上げた幻想的な色をしていて、ビルの壁面や空を走る電線のくっきりした輪郭と対照的だ。まるで絵に描いた空にカメラで写したビルや電線を切り取り、貼り付けたよう。

「ねぇ、弘道さ。覚えてる?」

「覚えてるよ」

「うっそー。絶対何の事だかわかってない!」

「わかってるって。一周年記念だろ」

 あたしのほうを見ないで、弘道が言う。ちょっと嬉しくなって、頬が火照る。

 去年の夏休み前、放課後の教室だった。HRの直前に「今日、放課後残ってて。誰もいなくなるまで」ってメッセがスマホに来たから、沙有美や莉子としゃべりながら時間が過ぎるのを待っていた。きっと沙有美も莉子も、弘道の友達も知ってたんだろう。みんな次々と教室を出て行って、思ったよりも早くあたし達は二人きりになった。

 廊下で沙有美達が耳をそばだてている気配をびんびん、感じたけど。

 さすがに誰にも聞かれたくなかったんだろう。弘道は困った顔で言った。

「ちょっと耳貸して。もっと、こっち来て」

 ふたりの身体がありえない距離まで近づく。あたしの心臓は少し触れたらぱつんとはじけそうで、バクバクうるさい鼓動が弘道に聞かれたら恥ずかしいな、とちょっと思った。耳たぶの先端に弘道の唇が一瞬、当たる。

「好きだから、付き合って」

 弘道らしい率直な言葉から、あたしたちの関係はスタートした。
 中学の時も付き合ってる人はいたけれど、はっきりした告白なんてなくて、同じグループでつるんでるうちにいつのまにかそうなっちゃったって感じで、手を繋いだ事すらなくて、別の高校に進学したと同時に自然消滅してしまった。

 だからコクられたのもデートしたのもキスしたのも、本当に何もかも、弘道が初めてだったんだ。

「今日、これからうち来る?」

 十九時の閉店と同時に弘道と肩を並べて喫茶店を出る。夏のこの時間は外はまだ明るく、大通りに出るといよいよ人通りが多くて、どの店も本格的に賑わっていた。

「んー。今日は、やめとく」

 弘道の家は各駅停車でここから二つ目が最寄り、駅から歩いて七分のデザイナーズマンション。会社勤めの両親は帰るのが遅く、ただひとりのきょうだいのお兄さんは京都の大学に進学していて、二年前から実質ひとりっ子みたいなものらしい。弘道の家には週に一度か二度、行っていた。大切なふたりきりの時間。

 だけど今日は、なんとなく気が向かない。

「そか。じゃあいいや」

 素っ気なく言われるとなんだか寂しくなって言い返そうとしたけれど、劇団員風の青年グループとすれ違って彼らの大声に臆してしまったように、言葉を飲み込んでしまう。代わりにシャツの端っこを何かを訴えるつもりで握りしめると、その手をそっと手を握ってくれた。
 同じクラスの子に見つかって次の日冷やかされたら恥ずかしいから、学校の近くで手は繋がない、て言い出したのは弘道だったのに。自分から約束、破るなんて。

「じゃあ」

 駅の改札前で握っていた手を解く。弘道は顔だけこっちに向けて、人波に埋もれそうな自動改札の方へ歩いていく。

 ふいにちょっと息苦しくなって、胸の奥がきゅっと狭くなって、弘道の誘いを断った事を今さら後悔していた。

「じゃあね」

 一瞬感じた寂しさを押し隠そうと、笑顔を作って手を振る。その後はくるりと背を向けて、家に近い北口へ続く小道を目指していた。

 あたしと弘道は、あと何度こんなデートを重ねられるだろう。

 ふたりはいつまで付き合っていられる? これからも一緒にいられるって保証はどこに? たぶん大学は別だ。弘道は大学こそ自分のレベルにあったところに行くだろうし、そこに受かるにはあたしの頭じゃとうてい無理。

 そんな気持ち、沙有美にも莉子にも、もちろん弘道にも、絶対言えない。
広島のひいおじいちゃんが夕べ倒れたって話は、五人揃っての夕食の時に知った。今夜のおかずはハンバーグで、小三のあやめが小五の蓮斗にひときれミンチの塊を奪われて半ベソをかいていた、ちょうどその時。

「それが本人は元気で、家に帰る、支度するぞ、とか言い出すんですって。まぁ、元気って言っても、ボケてるんだけどね」

「それなのに危篤なのか?」

 お父さんが言う。お母さんとは六歳差、十九歳だったお母さんと出来ちゃった婚(その時お母さんのお腹に入ってたのはあたしなんだけど。だから百合香はお父さんとお母さんの愛のキューピットなのよ、なんて聞いてるこっちの耳が熱くなる事を今でもお母さんはたまに言う)したくらいだから、若い頃はイケメンだったらしいが、二重顎にビールっ腹、典型的な中年メタボ体型の今は残念ながらその面影はない。

「それなのに危篤なのよ。タイミングが悪いったらないわ。夏休みに入ってからだったらみんなで広島に行けたけど。とりあえずわたしだけでも帰らないと」

 イケメンから脱退したお父さんに比べると、こちらは今年まだ三十七歳、でもパッと見三十二、三、ひょっとしたら二十代でもイケるかも? という容姿のお母さん、今夜はちょっとだけ顔を曇らせている。

「お母さん、広島に行っちゃうのー? やだお兄ちゃん、またハンバーグ取ったぁ」

 甘えん坊のあやめが今にも涙腺を崩壊させそうにしているので、あたしは長女らしくそんな妹にお箸でちぎったハンバーグを分けてあげる。情けは人の為ならず。これはダイエットの一環。

「あやめがいい子にして、家の手伝いすればすぐ戻ってこれるよ。お母さんはひいおじいちゃんが危篤で大変なんだから、わがまま言っちゃ駄目だからね」

「きとく、って何―?」

「今にも死にそう、て事」

 ふーん、とあやめが小さな口にハンバーグを頬張りつつ首を傾げている。
母方のおばあちゃんとひいおじいちゃんが二人で暮らしている広島の家には、数回行った事がある。生まれてから数えるほどしか会った事のない人が危篤だなんて、いくら正直、何の感慨も湧かない。八歳のあやめだって同じだろう。

「ひいおじいちゃんって、東京で会社作ったんだろ? 何で広島に住んでんの?」

 お父さんに、あやめの分まで食べるなんてお前は食い意地が張り過ぎだと怒られながらも、まったく堪えていない蓮斗が言う。声変わりにはまだ遠いボーイソプラノ。

「蓮斗は知らなかったっけ。まだ百合香も蓮斗も、もちろんあやめも生まれる前に、ひいおばあちゃんの癌が発覚してね。勝大叔父さんがいるでしょ? 会社の経営権を大叔父さんに移して、ふたりで故郷の広島に移り住んだの。終の棲家は生まれ育った場所がいいって、ひいおばあちゃんが言ったみたい」

 あたしも初めて聞く話だった。お母さんの声の向こうに、子ども時代の夏を何度か過ごした家と庭を思い出す。中学に入ってからは自然と行かなくなっていた場所。ステテコ姿で縁側に腰かけるひいおじいちゃんの顔の上部で、べっ甲色のサングラスが日差しをきらりと跳ね返している。

「ひいおばあちゃんがきょうだいから相続した土地に家を建てて、ふたりで住んで。結局癌がわかってから五年でひいおばあちゃんが亡くなって、その次の年にはひいおじいちゃん、緑内障で失明して。その後はおばあちゃんが広島に移り住んでひいおじいちゃんの世話をしてるんだけど、そのおばあちゃんも二十歳年上のおじいちゃんと結婚して、三十代で死別しているからねぇ。その時お母さん、まだ七歳だったわよ」

「なんだかみんな、苦労多い人生だね」

 そう言うと、お母さんはにっこりあたしに笑いかけた。

「苦労は誰にでもあるし、幸せや不幸は秤にかけて比べられるものじゃない。おばあちゃんが、よく言ってたわ」