ジャガイモは春と秋、年に二回とれる。春の始め、まだ寒い中凍える手で土を掘って植えたジャガイモは夏の始めに実り、その後夏の盛りに植え付けたものは秋の終わりに収穫できる。寒さ暑さに耐え忍んだ労働が、次の季節に実を結ぶんだ。
「姉ちゃん、見てみてー! わし、目ん玉がイモになった」
「うちもー!」
六歳の辰雄と国民学校二年生の三千代が、目のところにジャガイモを当ててはしゃいでいる。今夜はこの後、収穫祭だ。貴重な芋をもちろんひと晩で全部食べるわけにはいかないけれど、子ども達はお腹いっぱいにしてあげられるだろう。
「あんたらいかんよー、食べ物で遊んじゃあ」
姉の威厳を出して一応叱る。少し遠くで母さんが笑っていた。
山の稜線の向こうに太陽が沈みゆき、西の空が紫とオレンジを塗り重ねたように美しく染まっていた。
毎日米つぶが何かの滓みたいにぽちぽちと浮かんでいるだけのお粥じゃ、ひもじくて仕方ない。大人の私がしんどいんだから、食べ盛りの辰雄と三千代はたまらないはずだ。本当はきらきらの真っ白な白米をてんこ盛りにして食べたいけれど、ジャガイモだって構わない。終わりのない空腹を束の間でも満たせるのなら。
ジャガイモは春と秋、年に二回とれる。春の始め、まだ寒い中凍える手で土を掘って植えたジャガイモは夏の始めに実り、その後夏の盛りに植え付けたものは秋の終わりに収穫できる。寒さ暑さに耐え忍んだ労働が、次の季節に実を結ぶんだ。
「姉ちゃん、見てみてー! わし、目ん玉がイモになった」
「うちもー!」
六歳の辰雄と国民学校二年生の三千代が、目のところにジャガイモを当ててはしゃいでいる。今夜はこの後、収穫祭だ。貴重な芋をもちろんひと晩で全部食べるわけにはいかないけれど、子ども達はお腹いっぱいにしてあげられるだろう。
「あんたらいかんよー、食べ物で遊んじゃあ」
姉の威厳を出して一応叱る。少し遠くで母さんが笑っていた。
山の稜線の向こうに太陽が沈みゆき、西の空が紫とオレンジを塗り重ねたように美しく染まっていた。
毎日米つぶが何かの滓みたいにぽちぽちと浮かんでいるだけのお粥じゃ、ひもじくて仕方ない。大人の私がしんどいんだから、食べ盛りの辰雄と三千代はたまらないはずだ。本当はきらきらの真っ白な白米をてんこ盛りにして食べたいけれど、ジャガイモだって構わない。終わりのない空腹を束の間でも満たせるのなら。
「辰雄―、三千代―。あんたら、先帰ってなさい。もうすぐ暗くなるから」
母さんが畑仕事の手を動かしながら言う。このご時世ですっかり痩せてしまったけれど、四人もの子どもを生み育てた身体はがっしりと逞しい。
「あんた、この芋、ちょっと積み過ぎでないん?」
手押し車にいっぱいに積まれたジャガイモは今にもこぼれ落ちそうだ。辰雄が任せとけと胸を張る。
「姉ちゃん、わしがおるけ」
「あんたがおるから心配なんよ」
「姉ちゃん、うちもおるよ。辰雄がへばったら、うちが押すけ、大丈夫」
三千代が得意げに言う。八歳の三千代は二歳下の弟をすごく可愛がっていた。
「辰雄、三千代―! 車に気を付けるんよ。焦らんと、ゆっくり行きんさい」
「わかっとるけー、母ちゃん!」
辰雄が棒きれみたいに痩せた腕で手押し車を引き始める。三千代がその後ろをそっと見守るようについていく。
夕焼けの空にふたりの歌声が上っていった。とんとんとんからりと隣組、格子を開ければ顔なじみ、廻して頂戴回覧板……。
「母ちゃん、よかったね。ふたりともあんなに喜んで」
「本当よ。配給のもんだけじゃひもじいし、草を摘んできても腹は膨れんし。姉さんが分けてくれたこの土地があって、助かったわ」
時計職人の父さんの元に嫁入りした母さんの実家は農家で、既に母さんの父さん、すなわち私のおじいちゃんは他界している。女だけの三人姉妹の真ん中に生まれた母さんは、母さんの姉さん、つまり私の伯母さんが相続した土地を貸してもらって、畑にしていた。
猫の額ほどの小さな庭にも小松菜が栽培してある。他のどの家もそうであるように、私たち栗栖一家も本業の農家ではないのに自分たちが食べるためのものを自分たちで作り、にわか畑でぺったんこのお腹を少しでも満たそうとしていた。
「千寿、あんた泥まみれよ。帰ったらすぐ風呂に入らんとねぇ」
母さんに言われ、丸首シャツから突き出た腕で額をこすると、泥がいっぱいついてきた。ただそれだけの事で笑った。見ている母さんも笑っていた。
郊外にある畑から広島市中心部の家までは、歩いて三十分かかる。手押し車を引きながらだと、四十分。我が家が所有している手押し車は二台、辰雄たちの車にたっぷりイモを積んだお陰で、私と母さんと、交代しながら引いた車は少し軽かった。それでもまともなご飯を食べていない女の身には重労働で、汗だくになった。
あと二時間もすれば闇に包まれてしまう街はまだ明るく、多くの人が行き交っていた。東遊郭にほど近い広島の町中に、時計屋を兼ねた私の自宅はある。右隣は硝子屋さん、左隣は長い事空き家だったけれど一年前から、遊郭で下女として働いている女の人と、その息子が住んでいた。
家の前に立っている辰雄と三千代を見つけて手を振ろうとして、すぐ異変に気付いた。手押し車が横倒しになって、さっき収穫したばっかりのジャガイモがごろごろと道に転がっている。辰雄が睨み合っているのは高下のところの隆太で、隆太の後ろでは悪ガキがふたり、にやにやしていた。三千代はどうしていいのかわからないという様子で、今にも泣きそうな顔で佇んでいる。
すぐに母さんが手押し車を置いて走り出そうとするので、その肩を掴んで制した。
「母ちゃんはここで待っとって車を見てて。私が行ってくる」
「じゃけど、千寿……」
「私で無理なら、母ちゃんが行って」
不安そうに私を見る母さんに大丈夫だと念押しし、走り出す。私を見た途端三千代が溜めていた涙を溢れさせて抱きついてきた。小さな肩をぎゅっと抱きしめる。
「姉ちゃん、どうしよう」
「もう大丈夫よ。なぁあんたら、うちの弟と妹に何してくれんの」
「こいつら卑怯もんじゃ、集団で襲ってきよって。うちの手押し車倒しよった」
辰雄の声が怒りに震えている。ふん、と隆太が鼻で笑う。それが気に入らなかったのか掴みかかろうとする辰雄の腕を、私は慌てて握った。手を出して怪我でもさせたら、高下が黙っちゃいない。
「せっかくのイモをこんなにして……ひとつ残らず、あんたらで拾いんさい!!」
「阿呆か、誰がそんな事するか、非国民相手に」
非国民、という言葉にすぐ隣を通り過ぎていく大人たちが反応して、じろじろとこっちを見る。頬にカアッと、火かき棒を押し当てられたような熱を感じた。今にも鉄砲玉の勢いで飛び出していきそうな辰雄の肩を抱いて止めるけど、六歳児の必死の力は意外なほど強い。
「うちはあんちゃんが戦争に行っとるけ、非国民じゃのうて。馬鹿にする奴らは許さんぞ。しごうしたる」
「おぉ、やれるならやってみろや」
隆太の後ろで鼻の穴を膨らませた汚らしい悪ガキがふたり、騒ぎ出す。辰雄の顔が真っ赤になり、三千代がぽろぽろ涙をこぼした。
「非国民なんざ、ちっとも怖くねぇや」
「おどれなんざひとひねりじゃ」
「だからうちは非国民じゃのうけ!」
「辰雄、危ない!」
木炭バスが煙をまき散らしながら近づいてきて、私は急いで辰雄と三千代の手を引き、道の端へ走る。ズブズブズ、と嫌な音を立ててバスが走り去っていった後には、道の上に潰れたジャガイモが散らばっていた。あぁ、と三千代が泣き声を出す。
「おどれら、何してくれんじゃ!!」
怒りが頂点に達した辰雄が隆太たちに飛びかかろうとする。力が緩んでいた私の手は辰雄を離してしまう。どうしよう、と思った次の瞬間、辰雄を押しのけるようにして母さんが飛び出してきた。
「子どもの喧嘩は、もう終わりじゃ。大事な芋をこんなにされて、黙っておれるか」
母さんの手がわなわな震えている。隆太たちは大人の迫力にほんの少しだけおののいたけれど、やがてフンと鼻を鳴らす。
「あんたら、謝りんさい。うちのイモに手を出した罪は重いけ」
「ハァ、知るか! おどれらが非国民なんが悪いんじゃ」
その時、私の後ろで、店の引き戸が開く音がした。
「父ちゃん……」
三千代の声が掠れていた。
父さんが不自由な右足を引きずりながら、ゆっくり、ゆっくり歩いてくる。
額には深い皺が何本も刻まれていた。隆太たちが色めき立つ。
「ついにかかし男の登場じゃ」
「やーい、この非国民めが」
私がまだ小さかった頃馬に轢かれ、今だに足が不自由な父さんは、悪ガキたちにあだ名をつけられていた。すかさず辰雄が怒りを表す。
「おどれら、父ちゃんを馬鹿にしやがって! もう許さんで」
「辰雄、お前は下がっとれ」
父さんの声は低く、凄みがある。隆太が思わず一歩後ずさった。
「おどれら、自分らが何をしたかわかっとるんか」
しぃん、と一瞬の沈黙。その後子ザルみたいにきぃきぃ子ども達は騒ぎ出す。
「やってみろや、非国民めが。こんな子どもに手出ししたら、憲兵が黙ってのうけ」
父さんの拳が揺れた。そのまま一歩、前に出る。反射的にその腕に飛びついた。
「父ちゃん、やめて!!」
喉が裂けて悲鳴みたいな声が出る。辰雄に拳固をくらわすのと隆太に手出しするのは、全然意味が違う。暴力沙汰が理由でこれ以上近所の評判が悪くなったら……。
「なんや隆太。そこで何しとるんか」
緊迫した場にそぐわないゆったりした声に、みんながそちらの方を向く。
頭の後ろで束ねたひっつめ髪に、藍色のもんぺ姿。高下だった。キツネのように尖った意地悪な目つきは、隆太とそっくりだ。
「うちらに謝ってくんさい」
母さんが高下を睨みつける。いつもよりも低い声に怒りが滲んでいた。
「隆太らがうちの手押し車を倒しよって、イモを駄目にしたんです。謝ってくんさい」
高下がほーぉ、と得意そうな声を出した。
「よくやったな隆太。非国民成敗じゃ」
「おぅ、わしらやったで! イモを粉々にしてやった」
「高下さん! それで済ますつもりか。わしら、警察に訴えてもええんぞ!?」
父さんが怒鳴るけど、高下はびくともしない。褒められてはしゃいでいる隆太の肩を抱きながら、余裕たっぷりに言う。
「行けばええ。もっとも、あんたらの言うことなんざ、警察は信じてくれるかねぇ」
私、父さん、母さん、もちろん三千代も辰雄も。みんなが唇をぎゅっと噛む。
五十歳以下の男性は、ほとんどみんなに赤紙が届き、戦地へ行っている。そんな中、足が悪くて戦争へ行けない父さんは軽んじられる。普段から戦争に反対する言動を取っているから、なおさらだ。
「母ちゃん、本当にこれっぽちなんか? わしはもう、腹が減って腹が減って、頭がおかしくなりそうじゃ」
辰雄が悲愴な声を出す。小さな米つぶが情けなく表面に浮いたお粥は、庭でとれた小松菜や食べられる雑草を入れて、幾分かはお腹が膨れるように工夫してあるけれど、そんなもでは食べ盛りの男の子のお腹を満たすことなんて、とうてい無理だ。
「どこの家の子もそうなんじゃ、我慢しんさい。辰雄は男の子じゃろ?」
「んだけど、姉ちゃん。隆太の奴にやられなければ、今頃腹いっぱい食えたんじゃろ」
辰雄に言われて胸に悔しさが湧き上がってくる。油断したら泣きそうだ。
「辰雄、母ちゃんの分けてあげるけ。食べんさい」
「ええんか!?」
自分の分をたいらげてしまった辰雄が、母さんのお粥をがつがつかき込む。
「母ちゃん、ええの? 自分は全然食べてないやんけ」
「ええんよ。あんたらがお腹いっぱい食べてる姿を見てるだけで、腹が膨れるわ」
とんとん、と控えめに勝手口を叩く音がした。この時間に勝手口からやってくる人といえば、ひとりしかいない。
「ゲイリーじゃねぇのけ?」
辰雄が走り出し、三千代が後に続く。こらあんたら、と叱る母さんが小走りになる。足が不自由な父さんもゆっくりと身体を起こす。
辰雄が開けた裏口に、ゲイリーがいた。抱えてる竹籠からいい匂いが漂ってくる。長い睫毛に縁どられた優しげな灰色の瞳が、私を見た。
「ゲイリー、今日はなんじゃ? ものすごいええ匂いがするのぅ」
「レーズン入りのスコーンだよ。君たちはレーズン、食べられるかな」
「レーズンって何じゃ?」
「干したぶどうを甘く味付けしたやつさ」
ゲイリーから竹籠をもらった辰雄が、さっそく甘い塊にかぶりついている。
横から三千代も手を伸ばし、黒い粒がたくさん入ったいかにも甘そうな塊を頬張った。
「うまい! うま過ぎて舌がおかしくなりそうじゃ」
「辰雄、ゲイリーにちゃんとお礼を言わんと」
口いっぱいに食べ物を詰め込んだまま、辰雄が母さんに急かされて頭を下げる。
「いつもすまんのう。もらうばっかりで」
申し訳なさそうに言う母さんに、ゲイリーは軽やかに微笑んでみせた。
「辰雄くんたちに喜んでもらえたら、嬉しいし。僕が嬉しいから、やってるだけです」
「あんたは本当に、神さんみたいな人じゃのう」
「そんな、神様だなんて」
紙のように白い頬を少しだけ赤らめるゲイリー。私たちの前ではいつも明るくしてるけど、本当は人一倍重い悩みや苦しみをその華奢な背中に抱えている。
ゲイリーに初めて会ったのは去年の夏だった。その一か月ほど前に、空き家だった隣の家に静子さんが越してきていた。年齢はたぶん、四十前後。すぐに元遊女で、今も東遊郭のとある店で下働きをしている事を噂で知ったけど、隣に住んでいる私達はそれ以上に大きな秘密の存在を感じ取っていた。
一人暮らしのはずの隣の家から、時折話し声がする。誰もしゃべっていない時でないと聞こえない、押し殺したような声。あくまで隣近所には一人暮らしだと言い張ってるんだから、存在を隠したい人が一緒に住んでいるとしか思えない。
ある夜、ふわん、と優しく空気を揺るがす音がした。耳慣れない、でも温かくて、ずっと聞いていたい音だった。好奇心に抗えず、そっと布団を抜け出す。
音は裏庭のほうから聞こえていた。台所にある裏口から外に出ると、音はより輪郭をくっきりとさせて、耳に流れ込んでくる。
裏庭の、隣の家を隔てている塀の上。秋に甘い匂いを振りまく金木犀の傍で、音はしていた。ふわん、ふわん。やわらかい音が海の底のように静まった夜の空気を揺らす。幹の間に、真っ白くて長い脚が見えた。
音が止んで、濃い緑の茂みをかき分けてその人が顔を出した。満月の夜だった。青白い月の光に照らされ、くっきりと高い鼻や灰色の瞳が浮かび上がる。
思わず後ずさった。だって、明らかに日本人じゃない。
「君、千寿かい?」
きれいな日本語で言われて、少しだけ警戒心がとけた。こく、と戸惑いながら頷くと、その人はさっきの音と同じようにふわんと笑って、慣れた動きで木を下り、塀をつたって、とたん、と天使が空から降りてくるみたいに私の前に降り立った。
ものすごく高い位置に顔があり、寝間着から飛び出した腕と脚がひょろりと長い。月明りの中、金色の髪が輝いている。
美しい、と思った。今まで見た誰よりも、何よりも、美しいひとだった。
「なんで知っとるん? 私の名前」
勇気を出して発した声が掠れていた。その人はにこにこしながら言う。
「母さんが言ってたからさ。隣に千寿さんていう、僕よりひとつ年下の、可愛い女の子が住んでるよって」
「ひとつ年下……あなた、そんな歳なん? もっと大人に見える」
「日本人はアメリカ人を見ると、たいていそう思うみたいだね」
「あなた、アメリカ人なん?」
「母さんがあの通り日本人で、父さんがアメリカ人で武器商人をやってる。そして僕は『あなた』じゃない。ゲイリーっていうんだ」
「それは、何?」
右手に持っている小さな銀色の箱を指さすと、ゲイリーは私に箱を渡した。白くて細長い指が一瞬私の手に触れて、甘いときめきが心臓からこぼれる。
「ハーモニカっていうんだよ。見るの、初めて?」
「初めて」
「吹いてみてごらん。穴が空いている部分に、息を入れるんだ」
小さな穴がいっぱいに連なった部分に唇を当てるけど、もわあぁー、といっぺんにたくさんの音が鳴ってしまった。こつがいるんだよとゲイリーは笑う。
その次の日から静子さんは息子の存在を私達に隠すのをやめた。ほどなくして、私は彼らの辛い境遇を知る。ゲイリーの父親には本妻がいて、静子さんは使用人としてアメリカで暮らしていた事。でも戦争が始まって日本人が次から次へと収容所に入れられるようになって、ふたりで逃げて来た事。しかし今度は半分外国人の血を引いているゲイリーの立場が危ないから、近所の人に見つかる度に住まいを移っている事。
「千寿。みんなが寝たら、いつもの場所に来て。待ってるから」
お菓子の差し入れに来たゲイリーが私の耳に唇を寄せて言った。急に狭まる距離。
「わかった」
小さく頷くとゲイリーはいたずらに成功した子どもみたいな笑みを見せ、小さく手を振って「じゃあまたー」とみんなに声をかけ、裏口から出て行った。
差し入れのお陰でお腹がいっぱいになった辰雄と三千代はぐっすり寝ている。
裏口から出るには母さんが寝ている部屋と、父さんの仕事部屋を通り過ぎなきゃならない。忍者か泥棒みたいにそうっと、呼吸さえ控えめにして、廊下を歩いた。
七月にしては寒い夜で、一歩外に出るとひんやりした空気が寝間着の隙間から入り込んできて、さあっと鳥肌が立つ。下駄を履いた足を静かに、でも素早く動かした。
ゲイリーはいつもの通り、裏庭の端っこにいた。
「ごめん、待った?」
「僕も今来たとこだよ」
そう言って、新聞紙にくるんだ包みをくれる。
「これは千寿だけに、特別」
「ありがとう……」
特別、という響きに頬が熱くなって新聞紙を広げると、モダンな、ハートの形のケーキが出てきた。こんなもの、雑誌の中でしか見たことない。うんと小さな頃。
「本当にありがとう。でもなんかいつもいつも、悪い気がするわ」
「僕があげたくてあげてるんだよ。もらってくれてありがとう」
ゲイリーはいつもそうやって、惜しみなく愛に溢れた言葉をくれる。
こんな物のない時代になんで立派なお菓子が作れるかっていうと、ゲイリーの家の倉庫にはアメリカから持ち帰った小麦粉やお砂糖がどっさりあるからだ。闇市で売ればかなりのお金になるはずなのに、私や私の家族を喜ばせる事を選んだゲイリーは、本物の優しさを持ってる人だ。
ゲイリーとふたりで分け合って、ケーキを食べた。辰雄や三千代にも分けてあげたいと、ちょっとの後ろめたさが顔を出したけど、ゲイリーと時々触れ合う手の間から生まれる熱が、罪悪感をうち消してしまう。私はすごく悪い子なのかもしれない。
「あはは。千寿、ほっぺたにケーキの屑がついてるよ」
「え、どこ」
「そっちじゃなくてほら、こっち」
長い指が私の頬を撫でて屑を払い、そのまま静止する。ゲイリーの指先の固い感触が愛しくて、じっと私を見つめる灰色の瞳に胸が高鳴った。
「千寿。もうすぐこの戦争は終わる。父さんはお金を渡して僕達を捨てた憎い人だけど、戦争の事はよく知ってた。その父さんが言ってたから、本当だと思う」
「そう……なの?」
「そうだよ。そうなったら僕は東京に出て、洋菓子屋を始めようと思ってる」
「素敵な夢やね」
「千寿にも一緒に来てほしい」
えっ、と声にならない声が出た。ゲイリーは笑ってない。一点の曇りもない、正直でまっすぐな瞳が私を覗き込む。
「僕と結婚して、一緒に洋菓子屋をやってほしいんだ。嫌かい?」
「そんな、嫌なんて……!!」
頬に触れたままのゲイリーの手を、両手で握った。ふたりとも少し震えていた。
「私で、ええの?」
「ええよ」
「ゲイリーが広島弁使うと、変な感じ」
ゲイリーの手のひらが私の手を握りしめる。その力強さが嬉しくて愛しくて、これから先の人生には幸せしかないと、少しの疑いもなく信じられた。