ちょっと補足
『あるクリスマスレター』の話は
本当にもらった手紙を許可を貰って訳したものです。
これは実話です。
今頃はきっと蛇と仲良く暮らしていると思います。
大人になってから、親友を見つけるのは難しいと日本人妻が言えば、アメリカン夫は反論した。
日本語はそこそこわかるが、日本人の妻とは考え方や習慣がやっぱり違う。
見知らぬ人とすぐに意気投合して、楽しく会話をするような国の人には、いつでもどこでも友達というものは見つけやすいものなのだろうか。
百歩譲って妻は考えてみたが、ネットで安易に知り合った人と色々と揉め事に巻き込まれた妻の経験上、納得できないものがあった。
そこで妻は、最近知り合った人でどんな仲のいい友達がいるか、夫に訊いてみた。
夫はすぐさま答える。
「ダブルデブ」
「はっ? ダブルでぶ?」
半信半疑に妻は夫に確かめる。
夫は自信たっぷりに頷いた。
ダブルでぶ──二重に太いということだろうか。
妻の頭では巨漢の人物が浮かんでいた。
アメリカ人は確かにでかい。
縦にも横にも。
体がふくよかだと性格も大らかになり、友達になりやすいのかもしれない。
妻はあれやこれやと考える。
ダブルでぶ。
言い方はなんかいただけないが、親しみを込めたニックネームだと考えたら、よほど親しい間柄になったと思えなくもない。
しかし『でぶ』はちょっと失礼な。
でも第二カ国語として覚えた日本語だと、アメリカンの耳には本来の意味として聞こえず、さほど悪い言葉に思えないのかもしれない。
でぶ、でぶ……
英語だとファット。
果たしてどれだけ太いのだろうか。
妻は思い切って訊いてみた。
「そのダブルでぶって、かなり大きいの?」
「まあ、大きいかな」
「相撲レスラーみたいな感じ?」
「相撲レスラー? そこまで大きくない」
「えっ、それじゃそんなに太ってないじゃない」
「そうだよ、彼らはでかいけど太ってないよ」
「彼ら?」
「そう、デブが二人」
「えっ、でぶが二人もってこと?」
妻の頭の中でもう一人デブが増えた。
「そっか二人のでぶなのね」
最初想像した相撲取りの大きさから、少し萎んだそれなりにちょっとふくよかな二人の人物を頭に浮かべて妻は呟いた。
その直後、夫は付け足した。
「そう、二人とも同じ名前だから」
「は? 同じ名前?」
「そう、ふたりともDaveだから」
妻の空耳だった。
Dave、でぶ。
妻の頭から二人のでぶが消えていった。
そして数年後、夫の側からも二人のデイブが消えてった。
小さな男の子が一人裏庭で遊んでいた。
雨上がりの晴れた青空には虹が出ている。
草木もフェンスもしっとりと濡れて、ひんやりとした風が男の子の頬をなでた。
足元を見れば、一匹のカタツムリが、雨の滴が残った芝生の上でのっそのそ動いていた。
「カタツムリだ!」
男の子は一目散にカタツムリの殻を掴んだ。
カタツムリは異変を感じ、体を強張らしたように縮こませた。
「怖いの? ごめんね」
男の子はそっとカタツムリをまた地面に置いてやった。
しゃがんで、じっとみていたが、カタツムリは警戒してなかなか動かない
心配して男の子は覗き込む。
その時、カタツムリの目がにゅっと突き出てきて、揺れ出した。
それが止まった時、男の子は自分が見られているような気がした。
「ファジー」
男の子はカタツムリに名前をつけてやった。
カタツムリは再び目を動かし、のそのそと体を動かし始めた。
男の子は「バイバイ」と手を振り、ファジーをそっとしてやった。
次の日、ファジーが気になって、男の子は再び裏庭を見に行った。
すぐに見当たらなかったので、どこかに行ってしまったのかと思ったその時、男の子は声を上げた。
「あっ、ファジー?」
でも昨日と様子がおかしい。
ファジーをつかんで持ち上げると、憐みの目を向けた。
空はまたどんよりと雲が広がり、今にも雨が降りそうになっていた。
雨が降っては大変だと、男の子はそれと一緒に家の中へと入って行った。
「お母さん、お母さん、ファジーが大変、太りすぎて家に入れない。ものすごく大きくなっちゃった」
「ファジー?」
母親は、何のことかわからない。
「雨が降りそうだし、家がないって可哀想だよね。しばらくここにおいていい?」
「友だちなの?」
「うん、いちおう」
家に入れない子がいると思った母親は、「連れておいで」と言った。
「ここにいるよ」
男の子が母親の目の前にファジーを差出すと、母親はとたんに悲鳴をあげた。
「それ、早く捨てて、手を洗いなさい」
それは大きなナメクジだった。
「でも家がなくなってかわいそう」
さらに母親に近づけると、母親は「キャーキャー」と騒ぎ立てた。
「お願い、早く捨てて」
空からはすでに雨が降っていた。
傘を持って男の子は裏庭に戻った。
優しく芝生の上にナメクジを置いてやった。
まだカタツムリとナメクジの区別のつかない男の子は、健気に語りかける。
「大きな家、早く見つかるといいね」
持っていた傘を広げたままそっとナメクジの側に置いて、男の子は家の中へと戻って行った。
大学卒業後、就職したものの、そこはその男の志望する会社ではなかった。
何社も受けたが、とことん落とされ、仕方なく条件の悪い所を受けざるを得なかった。
絶対ブラックな所だと思っていたが、想像した以上の苦しさがその会社にはあった。
なぜこんなところしか受からなかったのか。
苦労するために来たとしか思えないほど、毎日辛い思いをして、男は働いていた。
辛いながらも、男には夢があった。
ある小説投稿サイトで男は今流行りのラノベを書いて、いつか自分の小説が人気を得て本になる事を夢見ていたのである。
そこそこの読者が付き、それなりに面白いと評価され、仲間もできた。
自分なりに上手くやっているつもりだった。
後はコンテストで賞を獲れば夢が叶う。
いつかきっと自分は選ばれると信じていた。
そう思ってすでに書き始めてから5年の歳月は経っていた。
そんな中で、次々に自分以外の小説が話題になって、男は取り残されていく。
コンテストに参加しても一向に注目を浴びずに選ばれない。
他の誰かの小説が目立ってランキングに入った時、男は虚しさと悔しさで嫉妬心がめらめらしてしまうのだった。
会社でもぱっとせず、自分の夢もままならない、嫌気がさす毎日。
上司に叱られ、同僚からもつま弾きされ、大学時代から付き合ってた彼女にも振られてしまい、あまりついてないと思い始めたその頃、偶然見つけた占いの館で、自分の運勢を見てもらう事にした。
藁にもすがる思いで、男は占い師の顔をじっと見つめた。
「うむ」
占い師は難しそうな顔をし、考え込んだ絞った声を出す。
男の不運を見極めた後、言い切った。
「確かに、あんたは現在、苦労する星の下にいる」
「どうすればいいんですか」
「謝ることだな」
「謝る? 誰に?」
「どこかで誰かが許さないと、あんたの事を恨んでおる」
「俺を恨んでる?」
「そのせいで、祟られて不運が舞い込んでおる。まあ早く言えば、生霊がついておる。何か心当たりはないかの?」
占い師に言われ、男は思い当たることはないか考えた。
もしかしたら別れた彼女かもしれない。
彼女は自分よりいいところに就職し、それが悔しくて八つ当りしていた。
それからギスギスし出して、彼女との関係が上手く行かなくなった。
最後は喧嘩別れしたようなものだった。
占い師は、恨まれてる人に謝って許してもらえば、運は向上すると言う。
男は早速、別れた彼女に電話した。
電話の先の彼女は、少しつっけんどんで、またそれが男をイラつかせたが、自分の運のためには仕方がない。
ふりだけでもと殊勝な態度をして、男は付き合っていた時に優しくできなくて悪かったと謝った。
「今頃気が付いたの。遅いわよ。今更復縁なんてないからね! 私、すでに新しい彼がいるんだから」
謝れば事が上手く行くと思ったが、彼女は図に乗って上から目線になっていた。
それは益々男の神経を逆なでした。
しかし、ここで喧嘩しては元の木阿弥。
男は必死に我慢した。
「違うんだ。君と離れてやっと気が付いたから、それできちんと謝っておこうと思って。そっか、新しい彼ができたんだ。どうか幸せになってくれよな」
必死にイラつく気持ちを飲み込んで言った言葉は、彼女の気持ちを少し動かした。
「えっ、あなたからそんな風に言われるなんて思わなかった。私も一方的だったかも。ごめん」
悪いと思ったのか、彼女も謝ってきた。
プライドが高い男だったが、ここは彼女に自ら折れたお陰で、かろうじて乗り越えた。
それでも男には屈辱が少し燻る。
だが、まだ彼女へ頭を下げられる多少の我慢が男には残っていた。
彼女から許されたと思った男は、目的が果たせたと喜ぶ。
これで運も向上するはずだ。
少し肩の荷が下りた。
それからしばらくして、男は上司のミスをなすりつけられた。
誰も味方してくれる同僚もいず、上司も謝ってこない。
幸い会社に損害はなかったので、なんとか切り抜けたが、まだ運は向上してなかった。
一体何がいけないのか。
もしかして、上司が原因だろうか。
確かに男は上司を嫌っているし、ばれないところで、上司の机を蹴ったりして鬱憤を晴らしている。
そういう態度が自然と出て、上司の反感を買っているのかもしれない。
だからミスをなすりつけられる。
男は昼休み、腹をくくって上司を食事に誘った。
上司は失敗をなすりつけた後ろめたい気持ちから、強く断れなかった。
二人は会社の近くの定食屋へと入った。
上司は落ち着かないまま顔だけは訝しげに、男とテーブルを囲んで向き合う。
二人が注文を済ませた後、男は真剣に上司に顔を向けた。
「私が至らないばかりにきっとイライラさせるんでしょうね。悪い所があれば直します。どうか今一度、チャンスを下さい」
「何を言ってるんだね」
上司は突然の事に戸惑った。
お茶を飲もうとしていた湯飲みが宙に浮いたままだった。
男は様子をみながら、自分のためだとここでも気持ちを押し殺して殊勝になった。
「その、ご迷惑をかけているんじゃないかと思いまして」
上司に嫌われているのはわかっている。
迷惑を掛けられているのは男の方だった。
しかし、それをグッと飲み込む。
とにかくここは嘘でも上司を立てて、へつらい、負の要因を取り除きたい。
いかにも上司を慕っている事をアピールしだした。
上司は下手な態度でこられると、まんざらでもなく、一層威張る態度になった。
上下関係がはっきりすると、王様になったようで悪くはないと思った。
男はそこを突くように、心にもないお世辞をどんどん並べ立てた。
これも屈辱だが、自分の運のためだと、病気を治す苦い薬を無理やり飲むように、必要な事だと考えた。
段々気分をよくした上司は、おだてに乗って、上機嫌になって行った。
それが功を奏して、男に昼食をごちそうするところまで成功を収めるのだった。
ミスをなすりつけられて謝られもせず、悔しい気持ちもあるが、これで上司とはなんとかうまくいきそうだと男は思った。
世の中は、多少の我慢も必要だ。
男は自分の気持ちを抑える事を学んで、少し大人になれたと自覚した。
こういう心構えによって、運が向上していくのだろうと思い始めた。
だがまた暫くして、男は会社の階段から落ち、軽い捻挫をしてしまう。
それが落ち着くと、次は食中毒、インフルエンザ、肺炎と続き、さらに、ぎっくり腰まで発症。
立て続けに怪我、病気など不調が続いた。
まだ誰かに恨まれているのだろうか。
一向によくならない不運から、男は小学生時代から、悪い事をしたと思う人物に片っ端から謝った。
これで謝る人がいないというくらい、男は知ってる人みんなに謝った。
そんな時、自分の書いた小説が一次審査に残り、これからいよいよ運が向いてきた予感を感じた。
謝ったかいがあったというものだった。
だが、それもつかの間の喜びで、それ以上には残れなかった。
あんなに謝っても、運は少ししか上昇しない。
溜息を吐きながら、自分が選ばれずに、賞を獲った作品を羨望の眼差してみていた。
その作者の事をネットで調べ、偶然作者のブログを見つけた。
一つ一つ遡って、目を通していく。
かなり年月を遡った記事を見てハッとした。
『以前偶然、ランキング上位になってしまい、その時、色々と陰でぼろくそに言われたんです。誹謗中傷ですね。その時、どこの人か知らないけど、絶対に許さないって思いました(笑)』
男は思い当たった。
自分も、顔が見えないからと、己の醜い心をさらけ出してネットの掲示板で悪口を書いた事がある。
もしかして、これが原因なのか。
しかし、誰だかわからないのにそんなことがあるはずないと、男は鼻で笑う。
嫉妬が湧き起こった男には、会った事もないこの人物が疎ましく、また、自分が選ばれずに、この人が選ばれたことが悔しくて、ただただ憎しみを抱きながらPC画面を睨んでいた。
それは押さえられず、鬱憤をはらすべく、賞に選ばれた小説にいちゃもんつけ、作者を隠れてある掲示板で貶した。
自分は誰だかわかるはずがない。
そしてその後、男は車にはねられた。
長期に入院して、挙句に会社から解雇された。
男の不運はどこまでも続いていく──
それでも男はネット上で自分の感情を押さえなかった。
『絶対に許さない!』
悪口を言われた人の心の叫びは、今もネット上のどこかで漂い続けている……
その女は子供の頃から、靴に泣かされてきた。
足の幅が広く、標準型で作られた普通にどこでも売ってる靴だと、自分本来のサイズでもきつくて履けない。
だからいつも自分の足のサイズよりも大きめを履いていた。
しかし、足にぴったりと合ってないので、よく踵に靴ずれや指などに水ぶくれを起こしていた。
少しでもそれを防ごうと、絆創膏を貼ったり、踵を潰したり、石鹸を塗ったりして、工夫して履いていた。
しかし、足のサイズが24.5cmまで大きくなったとき、女はさらに苦労した。
女性用の靴で、それ以上のサイズを置いている店が少なく、女は大きめの靴を買おうにも簡単に見つけられないでいた。
やっと見つけた大きいサイズ専門の靴屋は、他所では取り扱ってないと、靴屋だけに足下を見て、普通の靴より値段を高くしていた。
女はいつも自分の好みのデザインの靴が買えず、サイズを探すのにも苦労し、かろうじて見つけても費用の高さに悩んだ。
そしておしゃれな服を買っても、それに合う靴が安易に見つからないので、いつも簡素な格好になってしまっていた。
普段は、カジュアルな服を着て、スニーカーや歩きやすく作られた運動靴などを履くが、それも男性用のものを履いたりしていた。
フォーマルなスーツを買った時、女はハイヒールを探すのに苦労した。
やっと見つけた、自分が履けるハイヒールは赤色だった。
奇跡的にその赤いハイヒールは、ピッタリと足に合った。
値段も高かったが、こんな靴は滅多に出会えないと、思い切って買った。
ところが、その赤いハイヒールを履いて出かけた時、スーツの色と合ってないと言われて恥ずかしい思いをした。
スーツもまたそこそこ値の張る代物だったのに、赤いハイヒールの色のせいで台無しだった。
どうして、女性用のサイズに大きいものがないのだろう。
どうして、自分に合う靴がないのだろう。
女は、自分の足の大きさと形を呪った。
だが、女が旅行でアメリカにいった時、転機が起こった。
デパートの中にある靴屋に入った時、品数もさることながら、サイズが豊富にあったからだった。
ここでは自分の足のサイズの靴がより取り見取りだった。
「May I help you?」
若い男性の店員が、にこやかに女に微笑みかける。
買い物するくらいの英語なら女にも問題はなかった。
靴を探していると言えば、店員はさらににこやかになって、女をソファーへと誘導する。
デパートの中の店とあって、その一帯は広い空間で解放され、おしゃれに展示されて気品があった。
所々に座り心地のいい腰を掛ける場所がいくつもあった。
その中の一つに、座れと言われたので、女は戸惑いながら腰掛けた。
店員は足を測る器具を持ち出して、女の足元に置いた
女は片方の靴を脱ぎ、その器具に足を乗せる。
少し、店員の手が自分の足に触れ、ドキッとする。
店員は慣れてるとばかりに、テキパキとサイズを測り、何かを言った。
良くわからないまま、適当に女が返事をすれば、店員はまるで家来のように「かしこまりました」と言っているような気がした。
一度奥に引っ込んだが、たくさんの箱を抱えて再び女の前に現れた。
箱を開け、片方の靴を取り出して、両手で履きやすいように幅を広げて、女の足に履かせる。
シンデレラのガラスの靴を履かされているように、女はその行為にのぼせ上ってしまう。
一つ試着するたびに、店員は様子を窺い、女はその店員の手に任されるまま、色んな靴を試していく。
自分で探さなくても、次から次へと靴を持ってきた。
店員の洗練されたプロフェッショナルな態度は世話を焼く執事のようでもあり、甘く囁く王子様のようでもあった。
靴選びが至福の時に変わる。
かつてこんな楽しい靴選びがあっただろうか。
それも全てが自分の足にぴったりと合い、デザインがどれも素敵。
値段も、お手頃価格の物ばかりで、予算も心配することはない。
そしてその店員が、亜麻色の髪にブルーの目をしている。
映画の世界にいるようだった。
やっと気にいるデザインのものが見つかり、女はそれを購入したいと言った。
店員も見つかった事を一緒に喜んでくれた。
その場でキャッシュカードを渡し、支払いの手続きをする。
女は最後までソファーに座ったまま買い物を済ませた。
店員が戻ってきて、クレジットカードを返しながらサインを求める。
女は緊張しながら、渡されたペンを手に取ってサインした。
手続きが全て終わると、店のロゴが入った紙袋を恭しくレシートと共に女に渡した。
店員から丁寧にお礼を言われるも、女の方が大変世話になり、こんなにもヘヴン状態にお姫様になったような買い物をしたことがない。
しかも、今まで買うのに苦労していた靴で──。
女は店員にありったけの感謝の気持ちを込めてお礼をいう。
手にした紙袋を抱いて、女は暫しふわふわとして歩いていた。
スーツケースに箱ごと靴を詰め、日本で履くのを楽しみにする。
帰りの飛行機の中でも靴屋の店員を思っては、ニヤニヤとしてしまっていた。
そうして、日本について靴の箱を開けてびっくりした。
そこにはどちらも右足用の靴が一足として入っていた。
「あほか、あの店員は!」
女は思わず罵ってしまった。
どちらも右足用で履けない靴が虚しく目に映る。
やっぱり靴にはいつも泣かされて──
その男はアメリカ旅行を終えて、これから日本に帰国しようとしていた。
911のテロがあってから空港は、荷物検査が厳しく、ゲートに入るまでかなり時間がかかった。
それを見込んで早めに空港に来ていたので、飛行機の搭乗までまだ時間がある。
男は時計を見つめた。
国際便は昼の出発。
機内食が出るが、量は少なくメニューも期待できないし、碌に朝食も食べてなかった男は腹をすかしながら、これでは長時間のフライトを乗り越えられないと感じた。
そこで目に付いた店に入り、食事をとる事にした。
男はカウンター付近の壁に貼ってあったメニューを見る。
空港内では何を買っても割高だ。
食べ物もこれと言って特別に美味しい訳でもない。
それでも、アメリカを発つ前にたらふく何かを食べてみたいという気持ちになった。
そこにはメキシカン料理があり、量も多くてなかなか食べ応えがあるように思えた。
それを注文し、いざ一口食べると、腹も空いていたこともあり、それがとても美味しく思えた。
見事に皿の上には何も残らないほど、平らげてしまった。
これなら、飛行機の中でも空腹にならない。
飛行機の中でお腹が空くと、自分で何かを持ち込まない限り食べる物がないので、結構辛い。
お腹が膨れてる方が男にはまだましだった。
空腹を満たされ気分も良く男は搭乗時間を待っていた。
ようやく、自分の乗り込めるときになり、男は搭乗口から飛行機へと進んでいく。
席はエコノミークラス。
ビジネスクラスの座席の間を羨ましいと思いながら通り、奥へと進めば、すでにたくさんの人たちが乗り込んでいた。
日本行きの飛行機とあって、日本人が多かった。
ちょうど真ん中の列、4人掛けの席になる通路側。
周りは見知らぬ、一人旅。
通路に接してる分、すぐに動けるので暫しの窮屈感も我慢ができた。
頭上に荷物を入れ、すでに座っていた隣の人に軽く頭をさげて、男は座席に着いた。
目の前には小さなスクリーン。
映画も選び放題で、長いフライト時間を潰すにはいい娯楽だった。
機内はスムーズに人が座り、時間通りに全てが進んでいる。
離陸するのに、そんなに時間がかからなかった。
全ては順調に、飛行機も離陸後は揺れることなく安定し、すぐさまフライトアテンダントが忙しく働き出した。
飲み物が配られ、その後はすぐに機内食も配られた。
お腹が一杯ではあったが、興味がてらに貰えば、やはり量は少なく、味もイマイチで食べられたものではなかった。
乗る前に沢山食べていてよかったと男が思ったその時、下腹のあたりがグルグルと音を立てた。
飛行機のエンジン音が強く、自分にしかわからない音だった
気圧の変化で、高度が高い場所では、腸は膨らみ易い。
少し下腹部が張るくらいで、お腹を壊したとかそういうものではなかった。
もしもの時はすぐに立ってトイレに駆け込めばいい。
だが、そういう前兆もなかった。
体調はすこぶるいい。
気圧や空気の変動で腸がそれに対応しているだけだと男は思っていた。
食事が終われば機内は休みモードになり、窓も光を遮られ辺りは暗くなる。
大体の人は映画を観て過ごしていた。
男もその中の一人だった。
時々通路を人やフライトアテンダントが通って行くが、飛行機は常に安定して、落ち着きがあった。
このまま無事に日本について欲しい。
男が時計に目をやれば、まだ半分も時間を消費してなかった。
まだ先は長いと思ったその時、男の腸が動いてそれが尻の下あたりに力が溜まっていく。
一発ぶちかましたい欲求が現れ、こんなところでそうするわけにもいかず、我慢しようとしたが、それが最大級に力が強くて尻から出たがった。
※
我慢しようにも意識とは裏腹に、それはブワッと尻から放たれてしまった。
ヤバイと思った時、自分でもびっくりするくらい濃厚なガスが広がった。
やってしまった。
あまりにも臭い。
飛行機に乗る前に食べたメキシコ料理には、ピントビーンズと呼ばれる豆を潰したものがサイドに一杯ついて来ていた。
豆は繊維を含み、これまた腸で分解されると非常に臭いガスを放出する。
豆ほど、臭い屁を生み出す食べ物はない。
不覚にも食べる前は気が付かなかった。
臭いながらも、周りは文句も言えず、何かを感じてもぞもぞしながらも耐えていた。
狭い空間の中で放たれた濃厚の臭い屁。
もわーんと周りが霞んでみえるようだ。
臭いが消滅するまでどれほどの時間がかかるのだろうか。
濃厚過ぎて、空気の流れもなく、こもったままそれは中々消えてくれなかった。
座席にまで染みつくような臭さ。
かなりの長い時間、特に男の周りはその臭い屁で覆われていた。
男は気が気でなかった。
自分でも臭いとわかる屁。
他人にはもっと臭いことだろう。
特に隣の人、かなり動揺して手を鼻や口元に当てていた。
謝れるものなら謝りたい。
でも恥ずかし過ぎてカミングアウトできない。
臭くても臭いと言えず、周りの人はどうしようもなくひたすら他人の屁を帯びた空気の中で過ごさなければならない。
まさにガスチェンバーであろう。
男はここでマッチを擦りたくなる。
マッチを擦れば、一瞬で屁の匂いが消える。
しかし、マッチは機内に持ち込むことはできないし、もし荷物検査をかいくぐってそれをやったとしても、大事件に繋がってしまう。
過去に屁をして、それを誤魔化そうとマッチを擦った乗客がいたが、屁の匂いよりも、マッチの匂いがテロ事件に結びついて、大事になって飛行機が緊急着陸となってしまった出来事があった。
一体何が起こったか、乗務員、乗客もハラハラとして、その原因究明に躍起になって、着陸するまで緊張感が漂い恐怖を感じていただろう。
でもその時、屁をした乗客だけは原因を知ってるので、あまりにも馬鹿げた自分の行動のせいで、針のむしろだったに違いない。
哀れだが、気持ちはわからなくもない。
男はその乗客の葛藤が手に取るように感じられた。
臭い屁もテロといったらテロになってしまうが、殺傷能力がない分まだましだ。
気持ち悪くなる人はいるだろうが、我慢できない事もないだろう。
男は自分に言い聞かせ、起こってしまった事は仕方がないと開き直るしかなかった。
暫くは、男にとっても居心地が悪かったが、時間が経てば少しマイルドになり、そして鼻もなれてようやく気にならなくなるところまで来た。
ここまでくれば周りも許してくれるだろう。
本当に申し訳なかった。
『直接謝れないのが残念ですが、本人はいたく反省しております』
男は心の中で謝った。
男ははっーと息を吐く。
気持ちを和らげたその直後、安心しきって力が緩み、不意に第二弾をかましてしまった。
「嗚呼……」
また振り出しに戻る。
(※へ戻り リピート)
中学二年のある教室。
休み時間から戻ってきて席に着いた少女は、次の授業の教科書を机の上に出した。
先生が来るまで、教室はまだ騒がしい。
少女は何もすることなく、ぼんやりと回りを見ていた。
その少女が見た先に、数人の男子生徒たちが一人のある男子生徒の机を囲んで、お喋りしていた。
少女は何気にその光景を目に映していた。
取り囲まれた席についている男の子だけは、周りの生徒たちの話を気にせず、シャーペンを持って真剣に何かを記入していた。
取り囲んでいた数人の生徒たちは、時々笑いを交えてそれを冷やかす。
「何が書いてあるんだよ。はあ? 『好きな食べ物は何ですか?』だって?」
鼻で笑う者、馬鹿にする者、傍観してる者と様々だが、それでも周りは少年が机の上で記入していたものに非常に興味を抱いていた。
「お前ら、うるさいんだよ」
記入していた少年は邪険にあしらった。
「ちょっとくらいいいじゃないか。それ女の子からもらう『質問レター』だろ。何が書いてあるか気になるじゃないか」
質問レター。
出す方もドキドキ、貰ってもドキドキと、少年少女たちの恋の遊び。
気になる人、好きな人への、ちょっとした質問を紙に書いて、それを友達に頼んで匿名で渡す。
ラブレターよりは手軽で、質問したら大抵本人から返事が返ってくる仕組み。
質問レターを貰うという事は誰かに気にいられているという証拠。
まだ告白まで勇気がないけども、好きな人の情報を得たり、直筆で返事が返ってくるだけで嬉しい。
少年もまた、律儀に返事を書いているところを見ると、内心嬉しいのかもしれない。
少女は遠い目でそれを見ていた。
先生が教室に入ってきて、みんな席についても、少年はまだシャーペンを動かしていた。
授業が始まっても暫くその作業をしていた。
少女も気になりながらチラチラその様子を見ていた。
授業が終わると、質問レターを貰った少年は友達に冷やかされないように、それを手にしていそいそとクラスの女の子に渡していた。
その質問レターを渡された女の子はクラスでも目立つグループにいる子だった。
あの子が出したのだろうか。
でも事務的にそっけなく受け取り、少年も何事もなかったかのようにすぐさま離れる。
その一部始終を目で追っていた少女は、その質問レターがその後どうなるのか気になって、暫く成り行きを見ていた。
質問レターは渡された女の子の手の中だ。
その女の子は周りを気にしながら、そっと教室を出て行く。
どこへいくのか、少女も追いかけてさりげなく廊下に出てみれば、女の子は隣のクラスへ入って行くところだった。
質問レターを出したのは、どうやら隣のクラスの女の子のようだ。
直接やり取りするところは見られなかったが、きっと質問レターを出した子は返事が貰えて喜んでいるに違いない。
それ以上追及する気になれずに、少女はまた教室へと戻った。
一度そういう行為が目に付くと、少女の周りで質問レターが飛び交っている事に気が付いた。
出す相手もいない、自分には縁がない。
少女は遠い世界の事のように思っていた。
まだ恋に目覚めていない少女は、男の子を意識することなく、気さくに喋る。
隣の席になった男の子は特に、身近なのでふざけ合ったりしていた。
少女の隣の席の男の子は最初、物静かで恥ずかしがり屋だったが、気さくに少女から話しかけられ、偶然好きな漫画やアニメが同じで、少女に親近感が湧いた。
それ以来、よく話すようになった。
「その漫画なら全巻もってる」
少し得意げに男の子は少女に言った。
「へぇ、すごい」
「もういらないから捨てようと思ってたけど、欲しいならやるよ」
つい気が大きくなって男の子は言ってしまった。
「えっ、そんなのもらえないよ。だったら貸して」
「ああ、いいよ。学校に持ってくるの大変だから、家まで取りにこいよ」
男の子の家は、どこにあるか少女も知っていた。
自分の家に帰る途中、回り道をするだけで簡単に行ける。
でも、家まで取りに来いは少し躊躇ってしまう。
少女は適当に返事した。
男の子は律儀に「早く取りに来い」と何度も言ってくるが、その時は女の子も感謝の気持ちを込めて乗り気なのだが、やはりいつ行っていいものかわからなかった。
そんな中、席替えの日にちが迫っていた。
席が変われば、その男の子とは話す機会もなくなって疎遠になってしまうだろう。
女の子はそれでも自分から男の子の家に行けそうもなかった。
その男の子はクラスでも目立つ訳でもなく、かっこいいという訳でもなかった。
でも優しく、勉強もそこそこできて、少女が先生にあてられてわからないときはいつも助けてくれた。
そんなある日の昼休み時間、その男の子が離れた場所で友達と一緒になって紙に何かを書いていた。
女の子はそれをちらっと目にした。
楽しそうに笑いながらそこで何かが起こっていた。
見てみぬふりをして、あまり気にしなかった。
ところが、その放課後、その隣の席の男の子の友達がいきなり少女の目の前にやってきて、折りたたんだ紙を突き出した。
「これ、隣のクラスから回ってきた質問レター」
「私に?」
少女は恐る恐るそれを手にした。
暫く紙を持ったまま突っ立っていた。
少女は昼休みに見た光景をふと思い出した。
紙を持ってきた男の子も隣の席の男の子も、その他の男の子たちも笑いながら紙を囲んで何かをしていた。
それが手にした紙と繋がった。
女の子はそれを書いたのが隣の席の男の子だと思った。
実際その男の子だけが、紙に向かってシャーペンを走らせていたからだった。
「これ、からかってるの?」
女の子はつい口から出てしまった。
そしてその後も続いた。
「私、書いてるところ見たよ」
少女はそういうのに慣れてなかった。
もらって嬉しいけども、もしかしたらからかわれてるかもしれない。
紙を渡しに来た男の子は、少女にそう言われるや否や、すぐさま少女の手にあった紙をひったくった。
「ごめん、間違い」
その男の子はすぐさま紙と一緒にどこかへ行ってしまった。
少女は暫く呆然としていた。
一体何が起こったのか。
もしかして、隣の席の男の子からの質問レターだったのだろうか。
書いてる所を見たと言ったら取り上げられた。
都合が悪くなったということは、やっぱり図星だったのだろう。
あの紙には何が書かれていたのか。
気になるのなら黙ってもらっておけばよかった。
今となっては遅すぎた。
それから席替えが行われ、あれだけ仲良くなった隣の席の男の子とは離れてしまい、その後一言も話さなかった。
漫画を貸してもらう約束もなかった事のように忘れられてしまった。
それから暫くした学校の帰り道。
用事があっていつもと違う道を通って帰宅していたとき、あの男の子の家の前に出くわした。
少女は男の子と同じ苗字の表札をじっと見つめてしまう。
「こんなに近くだったんだ」
今、インターフォンを押したらどうなるだろう。
『漫画借りにきたよ』
きっと何事もなかったように貸してくれることだろう。
でも少女は、その男の子の家の前を素通りしていく。
席が離れると、全てがリセットされてしまった。
男の子とは席が離れてから話す機会が全くなくなってしまった。
すれ違ってもどちらも見てみぬふり。
でもお互いぎこちない。
離れて初めて、少女は切なくなる。
それでもどうすることもできないまま、中学二年の日々は静かに思い出に変わろうとしていた──
質問レターを素直に受け取らなかったことを後悔して。
ドイツのデリカッセン。
そこはびっくりハム・ソーセージ博物館といいたくなるほどに、たくさんのハムやソーセージがショーケースの中でひしめき合っていた。
アメリカに住むドイツ人が経営する、限りなくドイツの味に近いハムとソーセージの店。
そこを訪れた、日本人妻とアメリカン夫。
その店の端から端まで広がった、ガラスのショーケースの中には様々な肉の塊やその加工品が乱雑に入り混じって入っているのを、ふたりは興味深く見つめる。
ハム、サラミ、ベーコン、ソーセージ、レバーペイスト、そして知らない種類もあり、店の天井からもドライなソーセージがぶら下がっていた。
塊ごとどさっと置いてあるそれらは、買う時その場で薄くスライスしてくれる。
変わった種類がいっぱいだと二人はどれを買うか迷っていた。
ドイツ語で書かれたハムやサラミの名前が、妻には読みにくい。
適当に指差して注文すれば、店員は最初にスライスした一枚を目の前で見せ、薄さの確認をする。
それでいいと言えば、それを惜しみなく試食として渡された。
スライスしたてのジャーマン仕様のハム──シンケン──を夫と半分こして妻は口にする。
文句なくおいしい。
「ドイツ語ではハムのこと『シンケン』っていうんだね。日本語みたい」
妻は夫に言った。
夫はショーケースを見つめながら適当に返事する。
サラミが気になって、いくつかの種類を見ていた。
サラミも、種類が豊富で、見た目だけでは何が何やらわからない。
夫は店の人と話し、お薦めを訊いていた。
そして後に妻にも説明する。
「これコンニャクで作ってるんだって」
「えっ、コンニャク?」
「うん」
「それ、食べたい。それ買って」
ドイツにもコンニャクがあることにびっくりした妻だが、それでサラミが作れることにも驚いた。
ショーケースの上を超えて差出された店員の手のひらに、紙を敷いて二枚にスライスされたサラミが乗ってあった。
また試食品を惜しげもなく与えられた。
「Is this made of コンニャク?」
コンニャクで作られているのか、はっきりと知りたかった妻は訊ねた。
ドイツ人っぽい店員は「イエス」と堂々と答える。
妻はコンニャクが英語で伝わる事にも驚いた。
トウフもシイタケもエダマメもミソも日本語で通じるようになったが、そこにコンニャクが加わってるとは思いもよらなかった。
カラオケとサケは有名どころだが、フトン、ヒバチ、ベント―、カイジュウ、ツナミなど、他にも多数の日本語が英語圏で通じる。
日本の物が、アメリカではそのまま英語でもその名前で使われるようになってきている。
そのコンニャクで作ったサラミ。
これも新しい日本の夜明けなのかもしれない。
見かけは普通のサラミだが、この中にコンニャクが隠れているのだろう。
妻は期待してそれを口に入れた。
それは普通に美味しかったが、コンニャクはあまり感じられなかった。
「コンニャクが入ってるって言われないとちょっとわからないね」
夫もそんな事をいう。
「でもカロリーが少なくなってるのかも」
コンニャクはカロリーがない。
それが入ってるのならきっと本来のサラミよりカロリーが少ないはず。
妻はウキウキして、コンニャクのサラミが気にいった様子だった。
「コンニャクか、ウフフ、こんにゃく」
あまりにもインパクトが強くて、しつこく妻がコンニャクと連呼した。
夫は不思議な顔をしていた。
「そんなにコンニャク好きなの? だったらリッカーショップに帰り寄ろうか?」
「えっ、リッカーショップ?」
「うん、コンニャク売ってるよ?」
妻は考えた。
何かが噛み合ってない。
リッカーショップはお酒が売ってる所だ。
コンニャク…… コンニャク……
あっ、もしかしてコニャック?
サラミにはコニャックがアクセントに入っていただけだった。
オーマーイガッ!
女には恋人がいた。
飛行機に乗らないと会いに行けないほど遠い所に。
遠距離恋愛だった。
その時代はまだインターネットがなく、連絡の手段は手紙や電話のみだった。
しかし、手紙はやり取りに時間がかかり、電話は費用が高くなってしまう。
会いに行くにも遠すぎて、まとめて取れる休みもお金もなかった。
頻繁に出していた手紙も、どんどん回数が減っていく。
そのうち女の前に、新しい男が現れた。
遠くに彼がいるとわかっていても、色々と世話を焼いてくる男が側に来ると、女は気持ちの迷いがでてしまった。
その男に優しくされるとあまりにも心苦しく、二股をかけてるようで罪悪感が芽生える。
自分には遠距離恋愛で彼がいると説明するが、その男はアプローチをやめなかった。
その男も本気で女に好意を抱いていた。
女は遠距離恋愛の彼からの手紙を待つも、返事がなかなか来なくなり、どんどん二人の間が離れていってるように感じだした。
その間に身近にいる男はどんどんと距離を縮めてきた。
そのうち女はその男に心が傾いてしまった。
そしてとうとう、遠距離恋愛の彼と別れる決心をするのだった。
女は手紙を出す。
これ以上は続けられない。
他に好きな人ができてしまった。
まさに遠距離恋愛のよくあるなれの果て。
振られるか、振るか、自然消滅かの違いだけで、結局は別れてしまう。
遠距離恋愛の彼は、女からその手紙を読むや否やすぐに電話をかけてきた。
「どういうことだ」
「ごめんなさい」
女は謝る事しかできない。
「俺は諦めない。お前が好きだ。結婚したい」
「だったら、どうしてすぐにそういってくれなかったの? もっと早く言ってくれたら、私もそっちへ行く覚悟がついた。でもあなたはそれを避け、時には私がどんなに手紙を書いても数か月も連絡をくれなかったじゃない」
男は黙り込む。
男にとっても、空白のあの時期は自分から遠距離恋愛をやめようかと悩んでいた時でもあった。
しかし、それを思い直してそろそろ結婚の事を考えた時だった。
その間に女は新しい男と出会ってしまった。
全てはタイミングがそうさせてしまった。
「お願いだ。もう一度考えてくれ。俺はお前しか見えない。お前はきっと俺の元に戻ってくる」
男の強気なその発言を女は冷ややかに聞いていた。
「ごめん。無理」
「愛してるんだ。だから……」
それでも女は考え直さなかった。
今更、彼の元へなど戻れないし、気持ちはアプローチしてきた男へ完全に向いてしまった。
そのアプローチしてきた彼にはすでに結婚を前提に付き合って欲しいと言われている。
そこで女は気持ちが固まった。
電話は、結局どちらも反発し合うまま後味の悪さを残して切った。
すっきりした別れ方ではなかったが、女にはすでに終わった事になり、新しい男との付き合いが始まった。
その数日後、すぐさま遠距離恋愛だった彼からの手紙が届いた。
出会った頃の思い出、ずっと好きだと思いを綴っている。
新しい男とは絶対に上手く行くはずがないとまで書いてあった。
『俺はいつまでも君を思い続ける。この先もずっと君が戻ってくるのを待ってる。だから君は俺の事をずっとずっと考え続けるだろう。そして必ず俺の所に戻ってくるはずだ。愛してる。いつまでも待っている』
熱く思いを語られ、女は心苦しくなってしまう。
ここまで愛されたら、女の思いは複雑だった。
ただ自分が他に好きな人が出来てしまった事で、良心の呵責が強くなるだけだった。
でも最後の追伸の一言で女は「ん?!」となった。
『PS あまり長くも待てないから返事は早くな』
その矛盾した追伸に思わず突っ込みを入れてしまう。
いつまでも待つのか、待てないのか、どっちやねん!
女は、便箋と封筒を取り出し、さようならの返事をすぐさま送った。